449, 最大「採掘」可能価値その二。もし、暗号に規則性が一つでも見つかれば、その瞬間に疑念が生まれ、解読の道があるのでは……そう思わせるだけで、信用は崩れるのです。
どうやらフィーさんは、サタンとルシファーの配置に釘付けでした。
「いいですか。暗号論的であるとは、本来、このような美しい配置の出現を絶対に許さないことを意味するのです。それにもかかわらず、現実は……この裂け目なのです。」
このとき、フィーさんの声は淡々としているのに、刃のような鋭さがある。
「数学の女神は、本来、美しいものを好むのです。幾何学的な対称性や、数の調和……。ですが……、暗号だけは、その美しさを完全に捨てねばならないのです。」
「それって……ああ、なんとなくわかる。幾何学的に美しい、とか?」
「はい、それなのです。」
「ああ……まあ、そういうこと……。」
一瞬、フィーさんの声のトーンが変わった。……。
「そうですね。そこに着眼できたということは……。」
フィーさんはゆっくりと顔を上げる。それで、俺をじっと見つめながら……。
「……、あの書物を、読破されたのですね?」
「えっ……!?」
おいおい、話が妙な方向に……。まさか「あの書物」って……俺がそっと閉じた、あれのことか?
「大精霊フィー様。あ、あの……わたしにも……その……書物を……。」
おや? 量子アリスの声は、どこか熱を帯びていた。フィーさんは、微かに笑みを浮かべる。
「はい、もちろんなのです。それに……量子アリスなら、わたしの『とっておき』を、お渡しするのです。」
ふう……危ない。量子アリスが割って入ったことで、話は別の方向に逸れた。だが……「とっておき」って、何だ? 俺なんかが、考えてはいけない類のものだろう。背筋に、微かな寒気が走った。
「とっておき、ですか?」
「はい、なのです。それで、量子アリスには、可逆変換など、もう退屈でしょう。そこで……わたしが少しだけ手を加えた、非可逆性を精緻に観察できる、おそらく他にはない一冊なのです。そうですね……、エンタングルメントの維持にも応用できるはず。……いかがですか?」
……その後は、ずいぶん話が弾んでいた。俺は完全に蚊帳の外だ。いや、問題文どころか、単語すら理解できない。まあいい、いつものことだ。慣れているさ。
「それにしても、この時代に『書物』とは……大精霊フィー様らしいですね。」
「量子アリス、よく聞くのです。大事な記録は……紙に残すのですよ。」
そのフィーさんの声。冷たく、それでいてどこか懐かしい響きを持っていた。……、懐かしい……か。
それで、話が弾んだおかげで、わだかまりは消えたらしい。ひざまずいていた量子アリスも、やっと席に腰を下ろした。
「それにしても大精霊フィー様、この者にも書物を与えたなんて……。量子艦アリスのとき、途中で寝ていたような気がしますけど?」
「あっ、それは……その……。」
「大精霊フィー様の書物は貴重です。それだけ、多くの者が欲しがるのに……。本当に心を許した者にしか渡さない……そう聞いていました。正直、今のわたしのお願いだって、ダメ元でした。でも……嬉しいです。」
「はい……。そうなのですね。それなら……、気になるのです。」
「えっ……? なんで、そこで俺……?」
「はい、なのです。そろそろ……感想を伺いたいのです。あれから、かなり時間が経ちましたから。そうです……多元宇宙の世界観、いかがでしたか?」
……。空気を戻すな、量子アリス。天然か? いや、俺もあの書物から逃げたクチだ。文句は言えないか。
「ああ……その……ちょっと、ああいうのは……。ははは……。」
「……そうですか。たしかに、あの書物は『概念の入り口』にすぎません。それでも、掴みどころは多いはずなのです。」
「えっ……、概念の入り口って……え?」
つまり、あれが初学向け……? 別世界……いや、異世界という表現が近いか。そんなものが存在することだけは、理解できた。そして……、長い話を何とかやり過ごし、ようやく解放された。
「あーそれで、何を話していたんだっけ? ははは。」
「……はい、そうでした。暗号だけは、その美しさを完全に捨てねばならない……、そこに戻るのです。」
「それそれ。暗号も『美しい』では、ダメなんだ?」
「はい、その理由は明確なのです。もし、暗号に規則性が一つでも見つかれば、その瞬間に疑念が生まれ、解読の道があるのでは……そう思わせるだけで、信用は崩れるのです。なぜなら……暗号は、絶対に解読されてはならないのです。つまり、信用を失った暗号は、ただの文字列なのです。」
……。たった一つでも許されない……、それが暗号という存在なのか。でも、それって……そもそも暗号を使う仕組み自体、もともとリスクが高いんじゃないのか? そう……俺は、ふとそう思った。




