443, Sのラウンド25。ブロックチェーン殺しのパラドックス。
フィーさんは静かに語り始めた。そのテーマは……チェーン構造、すなわちブロックチェーンのパラドックス。
「さて……なぜ、ブロックチェーンに『真の量子耐性』を組み込むには、量子演算そのものが必要になるのか。その原因は……暗号論的ハッシュ関数にあります。」
俺ですら、思わず息を呑んだ。
「暗号論的ハッシュ関数……やはり、量子艦アリスの見立ては正しかったんですね?」
「はい。そして、そこに潜むもの……偏差、すなわち『バイアス』です。」
量子アリスが顔を上げる。
「大精霊フィー様……それです。量子艦アリスで語られたくだり……『ハッシュの全出力空間を見通せるのは、女神か、あるいは量子アリスだけ。それでも人間たちは、ほんの一部を見て、こう言った。『これで暗号論的だ』と。……ここですね?」
「はい、そこなのです。そして……そこがパラドックスの核心です。」
フィーさんの声が低く沈む。
「古典的な演算では、全出力空間を見渡すことは不可能なのです。よって、皮肉なことに、その『見えない構造』が安全性を支えていた。しかし……保証できない出力一様性を前提に、『暗号論的』という名を与えねばならなかった。」
言葉が重く落ちる。
「……つまり、こういうことなのです。ブロックチェーンの安全性を守るには、暗号論的ハッシュ関数が『絶対に安全……出力が一様』であると証明しなければならない。ところが、それを証明できるのは……ブロックチェーンを破壊しうる『量子演算』だけ……。古典的な演算で真の暗号論的ハッシュ関数を構築するなんて、絶対に無理なのです。」
「……。」
「その証拠に、暗号論的を名乗っていた『前世代ハッシュ関数』は、その出力にバイアスが見つかり、そして……破られたのです。これは、覆しようのない事実です。特定のビットが、ほとんど変化しない領域。そんなバイアスだったのです。安全だと謳われたその『前世代ハッシュ関数』は、わずか二の六十一乗から二の六十六乗の近傍、それで破られたのです。」
俺は震えた。そして……量子アリスは……。
「大精霊フィー様……。それは、『ブロックチェーン殺しのパラドックス』、そういうことですね?」
「はい、なのです。そして、ブロックチェーンで稼働する現世代ハッシュ関数にも、やはりバイアスが存在して……暗号論的を名乗ってはいますが……、古典的な演算で作られたハッシュ関数では、使い込むほどに……、こうなるのです。」
「……。」
「よろしいですか。そのバイアスの影響による最大の攻撃が、すでにブロックチェーンで始まっているのです。このようなバイアスは、一つでも見つかると連鎖し、本来なら、その『見えない構造』こそが安全性を支えていた。しかし、ハッシュ関数は決定論的な性質ゆえに、一度でもそんなのが見つかれば、繰り返し悪用され、終わりなのです。そして、その攻撃とは……そう、『採掘』なのです。その実態は、あり得ないほど低い演算量、つまり低予算機材と低い燃料代で……あの高難易度をソロで採掘に成功できるのです……。バイアスは、そんな形で静かに侵食を始めています。そして……これを、わたしはこう呼ぶことにしたのです。最大『採掘』可能価値と。」
「最大採掘可能価値か……。ああ、それ。量子艦アリスで語ろうとしていた内容ですね。その前に……女神ネゲート様が現れて、そこまでいけなかった。」
「……、そうだったのですか。」
「……あの、ちょっといいかな?」
「……、はい、なんでしょう?」
俺はふと疑問に思った。別に、それは「工夫して採掘した」で片づけられるんじゃないか、と。
「フィーさん、それって……工夫して採掘したってことじゃないの?」
フィーさんは即答した。
「いいえ。これを認めると、ブロックチェーンは終わりです。」
フィーさんの視線が鋭くなる。
「この現世代暗号論的ハッシュ関数のバイアスを知る者は、誰でも頑張れば払える程度の低予算機材と、格安の燃料代で、ピンポイントでソロの採掘ができてしまうのです。その一方、バイアスを知らない者は、事実上『総当たり』しか残されていないため……あの『採掘機材の山』を積み上げ、液浸冷却にまでして、この地全体の燃料消費の約一パーセントに相当する膨大な燃料代を食わせるしかないのです。そして、この現世代暗号論的ハッシュ関数は……もう、交換できないのです。あのブロックチェーンの構造上、それは、絶対に無理です。なぜなら……あまりにも強い相関で、この壊れかけた現世代暗号論的ハッシュ関数を、ブロックチェーンの心臓部に深く組み込んでしまったから、なのです。」
そこで、フィーさんは静かに言葉を区切った。
「現世代暗号論的ハッシュ関数のバイアスを知る者と、知らない者。その差が、ここまで広がる仕組みは……もはや、公平ではないのです。こんな状態では、近いうち、このモデル自体が崩壊します。そう、断言するのです。」
さらに、フィーさんは続ける。
「さらに……数の叡智、数学の女神は、嘘をつきません。この現世代暗号論的ハッシュ関数の壊れ方は……あの、破られた前世代ハッシュ関数と、驚くほど似ていたのです。やはり、そうなるのです。そして、これが……数学、なのです。」
……フィーさんの目が、静かに輝き始めた。ああ……いよいよ、計算が始まるのだ。でも、それを「数学」と呼ぶなら、数で示さなければならないよね。




