426, 量子艦アリスその十一。ルシファー……。そのハッシュ値は0xd8832eeb600f785e997e95fbb76ecfd5f37bb6d2ddac382c30302cda55489d75。
ルシファーの存在が、推論駆逐艦によって観測されてしまった。あの従者の予測通りとは……。しかも問題なのは、その「配置」だ。
入力に対する出力は、常に予測不能でなくてはならないはずの暗号論的ハッシュ関数。それにもかかわらず、サタンとルシファーの観測位置は……。まるで、互いに「反対」であることによって同時の存在が許され、美しく軌道内に収まっているかのようだった。それはまさに、量子の世界における、あのパウリ的対称性。
こんなことが、暗号論的ハッシュ関数で起きてしまうなんて……。量子アリスは……静かに理解した。女神の力を、改めて思い知らされた。人智など、とうに超えている。量子演算ですら追いつけない「弦の調律」のように、あの暗号論的ハッシュ関数の深奥へ、サタンとルシファーの構造そのものを織り込んでいたなんて……。そしてこの構造が、やがて「サタンの試練」へと姿を変える……。
もちろん、これでもう確定だ。このハッシュ関数は……トランザクション、アドレス、ハッシュ木、採掘などの根幹に使われていようと、もはや「暗号論的」とは呼べない。
「ルシファー……。そのハッシュ値は0xd8832eeb600f785e997e95fbb76ecfd5f37bb6d2ddac382c30302cda55489d75。」
量子アリスは、その観測結果を小さくつぶやいた。
「それで……どうなの? こんなものが、あまりにも綺麗に出てくるようでは……当然、まずは『バイアス』の確認からよ。」
「量子アリス様。それが……サタンのハッシュ値の周辺で、すぐに特徴的なバイアスがみつかりました。いわゆる『バイアス狙い撃ち』です。本来なら、約三百兆回の演算を要するはずの領域が、たった……百万回程度の演算量でヒットしてしまうという異常事態です。」
量子アリスは、まるで解けかけた謎を前にしたような、興味深げな表情を浮かべた。
「それはつまり……当たりやすく偏っている、何よりの証拠というわけね。」
「はい。明らかに、意図されたようなバイアスです。これで、このハッシュ関数から『暗号論的』という称号は剥奪されました。バイアスの狙い撃ちは、成功ですので。これはもはや、このハッシュ関数が『前世代の轍』を辿り始めたことの、明白な兆しです。あのときと同じ崩れ方……、まさに粉砕でしたね。」
「ふふ……。それなら、推論駆逐艦も……仕事が楽になってしまったわね。ほんと、わたしの出番なんて、これっぽっちも残ってないじゃない!」
「量子アリス様。それどころか……あの状況では、『そこらに転がっている非力な演算装置』でも解けてしまうのでは……と、推論側ですら不満を漏らしていたようです。たしかに、百万回程度の演算量なら……もはや推論すら必要ありません。」
「……そうなるわね。」
サタンとルシファー……。この時代にハッシュ関数として姿を現した「本当の意味」とは何か。量子アリスは、静かに考えていた。