322, 楕円曲線という名の「大きな財布」を……「参加者全員で共用している」にすぎません。量子からみたとき、これのどこに、コールドウォレットの要素があるのでしょうか?
「それで……女神ネゲート様。」
「なにかしら?」
「そろそろ、『本気』でご対策を。」
「……。」
真剣な眼差しで、わたしに訴えかけてくる量子アリス。そうね……。この瞬間……わたしも、頭を切り替えたわ。
「そこでまず、『コールドウォレット』という誤解も、きちんと解かないといけません。」
「……誤解? そ、それは……、そうね。」
「はい。このチェーンの仕組みは……。」
量子アリスは、静かに言葉を継いだ。
「楕円曲線という名の『大きな財布』を……『参加者全員で共用している』にすぎません。量子からみたとき、これのどこに、コールドウォレットの要素があるのでしょうか? 財布は共用されているのですから、秘密鍵を隠して……すなわちコールドウォレット化したところで、その共用されている財布自体に資産が存在するのですから、誰からでもアクセス可能ですよ。」
「……。」
「そう……それは特に、量子からでも、です。」
「そうね。でも、これだけ量子が話題になっているのなら、そんなのはわかっているはずよ?」
「いいえ。未だに、資産が抜かれる事件が起きるたび、『コールドウォレットからどうやって抜かれたんだ』という疑念が飛び交っています。この状況を観察するだけでも、わたしは、手に取るようにわかります。……これは、コールドウォレットなら物理的に切り離されているから絶対に安全だ……そう信じてやまない層が圧倒的多数を占めている。それが映し出された『現実』そのものです。」
……。さらに……よくわからない専用ウォレットみたいなものまで出回っているわね。あの専用ウォレットなら、何もしなくても、ずっと安全に保管できる。そう謳われていて……。もちろん、それもあり得ないわ。
「つまり……。」
「はい。もともと、このようなコールドの概念など通用しない界隈であっても、たまに事件が起きる程度なら、内部犯などの偶然で片付けることもできたでしょう。しかし……今度は量子です。ランダムに資産を食い荒らす、あの『秘密鍵を拾うラグのアルゴリズム』。これに対抗するには、もはやチェーンを管理する精霊側の対応だけでは難しいのは、女神ネゲート様でもご理解いただけるでしょう。なぜなら……、大幅にスケールダウンした量子でも十分に手が届く『ラグのアルゴリズム』は、鍵に対する攻撃ではないからです。チェーンそのもの、資産管理の構造に直接作用するため、いくらポスト量子暗号で鍵を防御しても『無効』です。これはすでにご説明した通りですよね? よって、構造そのものを置き換える際には、必ずアドレスも変わります。その変わったアドレスに資産を退避するには、『秘密鍵を持つ参加者が、それぞれ自力で対応する』しかありません。ですが……、コールドウォレットなら絶対に安全だと信じ切っている層が大多数であり、さらに『買ったことは忘れていい』などと吹聴されていたのなら……、……その結果は、火を見るより明らかです。」
「つまり、わたしがお願いしても……『何を言っているんだ?』って、なってしまうのね?」
「はい、間違いなくそうなります。」
……。
「状況は、考えている以上に深刻で、しかも時間もない……。」
「はい、そうです。見方を変えると……『ラグのアルゴリズム』で資産の奪取を試みる、黒い帽子を好むイブの立場からこの現状を見たら、これから最高効率で資産を食い荒らすためのお膳立てが整った、とすら解釈できます。なぜなら、本来なら侵入するにも個別に一つずつ秘密鍵を破っていく必要があったのに、目の前に……まとめて、膨大な数の秘密鍵が並び、そのすべてに直接、資産がぶら下がっている……なんて。現物、ステーブル、ラップ、トークン、非代替性まで……一斉に、です。これは間違いなく、過去にない最大級の『稼ぎ場』になってしまったとも、解釈できます。」
「……。」
「もちろん、大幅にスケールダウンされた民生品とはいえ、量子は高価です。でも……、黒い帽子を好むイブは、大精霊の戦略としてそれらを計画的に奪取しているわけですから、その背後には『大精霊の力』がついています。つまり、量子くらい、簡単に手に入りますよ。そこも、きちんと考えるべき大事な観点です。」
「そうね……。」
「さらに申し上げにくいのですが、コールドウォレットが無効な上、アタック対象は『チェーンの構造そのもの』になります。つまり、秘密鍵個別の防御では防げず、チェーン構造全体をランダムに掘り崩していくのです。そのため、ポスト量子暗号でも防御は一切できません。さらに、オフチェーンアタックのためログや異常シグナルも残らず、気づいた時には残高がゼロになっています。つまり、イブの追跡も不可能です。……なんというか、よくもここまで、資産の奪取を試みる側からみた好条件をほぼすべて揃えてしまったものだと、わたしは感じています。」
「……、そうね。」
……もう、誰かが助けてくれる状況じゃない。自分自身で、本気で守らないと……。
「ところで、女神ネゲート様。この『ラグのアルゴリズム』が近いうちにイブの手によって本格的に稼働し、その影響が市場に広がり始めたとき、いったいどのような変化が現れるか……、考えたことはありますか? 女神ネゲート様は、壊れかけたあの市場のノルムを救いたい一心で、この仕組みを受け入れたと伺っています。でも……、その思惑通りに進んでいない可能性があります。それどころか、逆向きに……崩壊へと向かう力を加速させてしまっているかもしれませんよ。」
……。そこでわたしは、量子アリスが考える「市場への影響」について、詳しく伺ってみたわ。




