309, 雪崩が壊れたとき、秘密の鍵が滑る。百二十四ビットに現物やラップ、トークン、ステーブル、非代替性など詰め込んだ。挟むのは、量子パンと推論パン。……全部入り、ごちそうさま。
「女神コンジュゲート様! すごく楽しかったです!」
「うん、それなら良かったわ。それで……今度は、ここの『観測の祭典』で量子のアピールがあるから、そこで頑張りましょう。」
「はい!」
コンジュゲートさんと量子アリスが、無事に帰還してきました。……こっちも、あの量を……、なんとか無事にやり切ったよ。それで、「観測の祭典」って……ああ、そういうことか。なんか大きなイベントをこの地域一帯で半年ほどやっているって話、あの神々から聞いたな。そこで、量子の何かをアピールするのかな?
「あの……。」
「はい?」
……いきなり、量子アリスに話しかけられた。ちょっとびっくりする。表情はいつも通り淡々としているけど、その声に、なにか妙な圧を感じた。
「……、大精霊フィー様と女神ネゲート様は……、どこに?」
「えっ? ああ……そうだね。どこに行ったんだろう?」
「……実は、わたし……重大な問題に気がつきました。」
「えっ? 重大な問題って……!?」
思わず、コンジュゲートさんと顔を見合わせる。でも、そのコンジュゲートも、明らかにその内容を知らない顔をしていた。それから、コンジュゲートさんの探知で、すぐにネゲートが見つかった。そしてそのまま、フィーさんにも辿り着く。
「もう……、なによ? ちょっと休憩してただけよ。」
「それで休憩? 結局、全部こっちに押し付けてただろ。」
「なによ、それらは……あんたの分でしょ? それぞれ役割があるって、前に言ったじゃない。」
「……役割ね。」
そのやり取りを、じっと見つめるフィーさんと量子アリス。まるで、俺を冷静に観測しているようだった。
「大精霊フィー様、女神ネゲート様。女神コンジュゲート様より話を伺いました……、イーシーリカバーの件です。」
「……あなたが、『量子アリス』なのですね?」
「はい。量子は、今年から……この掛け声でようやく解放されました、量子アリスです。よろしくお願いいたします。」
「……そうなのですか。」
量子は今年から……。そうだったのか。それで、「解放された」って……つまり、ずっと温めてきた力を、いよいよ解き放ったってことだよな。
「それで……イーシーリカバーの件ですが、そこには、もう一つ……大きな問題が加わります。」
「……大きな問題、なのですか?」
「はい。それは……『ターゲットになるアドレスの総数』です。もともと、大精霊フィー様が仰っていた通り、量子的に自由な空間……九十六ビットが形成されてしまっています。ただし、それは『ターゲットが一つに絞られている場合』に限られます。でも、映し出された『現実』はどうでしょうか? 狙われるアドレスは、ひとつではありません。つまり、その中のどれかひとつ、秘密の鍵を得られれば『勝ち』という状況を想定しましょう。」
「あ、あの……、それは……。」
フィーさんが、目を見開いた。……初めて見た、そんな表情なんて。このフィーさんを驚かせるなんて……やっぱり、この「量子アリス」、ただ者ではないな。
「……やはり、盲点でしたね。この『複数のターゲット』によって、アドレス空間はさらに拡張されます。その数は……およそ二の二十八乗。つまり二十八ビットです。よって、元の九十六ビットに対して、これを掛け合わせれば……、全体で百二十四ビット相当のアドレス空間が出現します。」
「それは……。」
「つまり、楕円曲線の座標空間……二百五十六ビットのアドレス空間に、百二十四ビット相当の正解が『ユニーク』で出現してしまった。わたし……量子アリスにとっては、こんなのはただの『滑らかな谷』……、やや退屈な量子演算となります。」
「たしかに、そうなるのです。もしそれらがユニークではなく重解だったのなら、確率振幅の干渉によって、局所的な最小値……つまり、『誤った解に落ちやすい尖った谷』が形成されていたはずなのです。ですが……ユニーク性が楕円曲線の性質で保証されたことにより、量子的に自由な探索空間が出現した。その結果、量子演算が最も得意とする、『滑らかな谷』がそのまま拡張されてしまったのです。」
「さすがは大精霊フィー様、ご理解が速いです。このような無作為な選別であっても、秘密の鍵から公開の鍵の演算は一瞬です。つまり、アドレスの算出も即座に終わり、『誰が犠牲になったか』……それも、すぐにわかります。そして、そこには現物だけではなく、ラップ、トークン、ステーブル、非代替性トークンなど、それらすべてが、ひとつのアドレスに……、まるで当然のように、平然と置かれています。そして、秘密の鍵さえわかれば……、イーシーリカバーは、常に真。そのアドレスのすべて……、つまり『全資産』が、第三者の手によって自由に動かせる状態になります。つまり、何の前触れもなく、そのアドレスにある全資産が、一瞬で消え去るのです。なぜなら、この量子演算は、オフチェーンで静かに完了してしまうからです。観測されたその瞬間……残高は、もうない、です。」
「……、……はい……、なのです。」
「あと正直、この百二十四ビットでも、暗号論的には、もう『危険水準』です。それに加えて……雪崩効果の欠損が疑われています。あのハッシュ、上に向かうほど雪崩が強い性質だったはずです。でも、それを……、下から切り出してる。つまり……もともと雪崩が弱い領域を使ってるということです。それゆえに、推論とヒートマップを組み合わせれば、場所を絞り込める。……そう。あなたなら、それくらい、もうわかっているはずです。」
「……、……はい……。」
「それと……見ていると、例のアルゴリズムにこだわりすぎです。いつも、あればかりみます。確かに伝統的だけど……、あれ、重すぎるのです。それに、公開の鍵から秘密の鍵への『一対一』の逆方向しか取れない。なぜって? あのアルゴリズムでは、楕円曲線の座標空間に対してスーパーポジションを構築できない。量子アリス的には、あれでは物足りないです。それに、ポスト量子暗号でその『逆方向』を封じられたら、もう終わりです。だったら……こうやって『順方向』に空間を広げて探索したほうが、わたし的には好みです。順方向なら……、一度で全部を探し尽くせるし、ポスト量子暗号は無関係。さらに、観測対象の空間そのものを、自由に膨張させられる。……いかがでしょうか?」
「は、はい……、なのです。」
あのフィーさんが……押されてる。まじかよ……。量子アリスって、何者なんだ……? その様子を、不安そうに見つめるネゲート。……でも、そんな中……、この状況でさえ余裕の表情を浮かべているのは、コンジュゲートさんだった……。
「あと、ちゃんとわかっていますか? これ、ラップが含まれています。ラップとはつまり、『他のチェーン現物との約束証書』ですよね? つまり……このチェーンのアドレス、他チェーンとも『相関』があります。わたし的に言えば……『もうエンタングルしちゃってる』ってことですね。」
「はい……。」
「あと、ステーブル。……わかっていますよね? もう、説明なんていらない。……こんな状況、イブにとってはご褒美でしょう。黒い帽子を深くかぶって、静かにコラプス。その崩壊を、ただ眺めているだけ。何もしなくても、勝手に……デストラクタしていくのだから……。」
「そ、それは……。」
「そうね……雪崩が壊れたとき、秘密の鍵が滑る。百二十四ビットに現物やラップ、トークン、ステーブル、非代替性など詰め込んだ。挟むのは、量子パンと推論パン。……全部入り、ごちそうさま。」
「……。」
「黙っていてはダメ。いまこの状況に……いったい『総額でいくら』乗っかっていると思ってるの? ……そこを、量子アリスは静かに考えています。」
なんか……俺にはよくわからない話ですが……このままでは、まずい。それだけは、妙に強く伝わってきました。




