2, 大切な犬を、お預かりいたしました
「フィーさんで良いのかな? 俺は……。」
あれ? 自分の名前が思い出せない。なぜだ?
「元の地で呼ばれていた名前が、思い出せないのですね?」
「えっ! まあ、そうです……。なぜなんだ、です。」
「ご安心ください。すでに、元の地のジェネシスから離れ、こちらにつながれたので、記憶の鎖が途切れただけです。名は、これから考えましょう。」
うん。フィーさんが言い放つ言葉の意味が全くわからないため、もうこれは、成り行きに任せるしかないかな。狂った銘柄を勢いにまかせて全力で高値掴みのち、何の論拠もなく上がることを祈り続ける、あの状況に似ています。
「自分の名前を、自分で付けるのか。なかなか、難しいね。」
「あっ、それであれば、わたしがお名前を考えてもよろしいでしょうか?」
自分で考えるのは難しいため、お任せしましょう。
「では、よろしくお願いします。」
「あっ、ありがとうございます。では、そうです……、『ディグ』なんて、どうでしょうか? 素敵なお名前だとつくづく思うのですが……、いかがかしら?」
「えっ、ディグ?」
どうしましょう。衝撃的な名前です。いや、なんですか、これ? でも、フィーさんの表情をうかがう限り、本気だぞ、これ。
……。ディグか。悪くない! そうだよな、適応の早さが俺の売りの一つだった。今日から俺はディグ、そう、ディグとして、生きていきます! 決定です。
「あっ、……、やはり厳しいでしょうか? わたしは、お気に入りなのです。」
「いえいえ、素敵な名前だと思います! 俺は、今日から『ディグ』として生きていきます!」
「ほんとに! この瞬間ほど、喜びに満ちあふれた事はありません! ありがとうございます!」
フィーさんが、綺麗な鼻歌交じりで、舞うように踊り始めてしまいました。喜んでいただけたのなら、俺、嬉しいですよ! 適応の早さが、役に立ちました!
「あっ、あの……。」
「あっ、すみません! ついつい、舞ってしまいました。嬉しさのあまりなのです。」
ここで、少し落ち着いてきて、改めて、この名前について考えてみる。そう……、ニュアンスから考えてみると、……、正直、かなりきつい。でも、もっと落ち着け、俺! もう決定したんだ。こういうのは、割り切ってもよいね? 悩むなんて、俺らしくない。こうなったら、強制的に何度もこの名で自分自身を呼ぶことで、脳を慣れさせるしかない。慣れれば、こんなの怖くない! そうそう、あの追加の証拠金! あんなものに比べたら、こんな出来事、誤差です、誤差。さて、勢いにまかせて、自己紹介です。
「この瞬間から俺は、ディグです。相場で、中央からハシゴを外されて転落した元投機家です。よろしく! この名前、馴染んできました!」
「では、改めまして、ディグさん。わたしは、フィーと申します。これからあなたが、その手腕を思い切り発揮できる、大切な使命を、わたしの『大切な犬』を託して、お願いしたいのです。これが、契約の概要です。」
なるほど、……って、何もわかっていません。「大切な使命」までは、モチベーションを保つ躍動感があるのですが、「大切な犬」って……。なんだろうね。
「すみません。さっきからよく出てくる『犬』って、何でしょうか?」
先ほどまで浮かれ気味だったフィーさんの表情が、一気に引き締まった。間違いなく、ここからは重要な内容になるのだろう。
「この地で『犬』は、天の存在に匹敵いたします。そこでまず、驚かないでしっかり聞いていただきたいのです。それは、ディグさんが先ほどまでおりました、元の地にあるような『中央に匹敵する存在』が、なんと、この地には存在いたしません。まず、この点をご理解ください。」
えっ? 中央が存在しないだと? 実は、その手の話には少々詳しくて、たしか、すべてを自然に委ねる形式に移行すれば、中央みたいな存在は必要なく、自由に暮らせるだっけ? ただこれ、現実的には話が飛び過ぎていて、実際には民を煽るために作られた理論で、ほめられた内容ではないという否定的な意見も多かったはずです。と、かったるい前置きよりも、それよりも、です。
「中央が存在しない点、それには確かに驚きですが、何よりも犬……、犬が、天の存在に匹敵という、何ともいえない衝動が強すぎて、そこで思考が止まっています。まず、そこを詳しくお願いします!」
犬がそんなに素晴らしき世界なのかな? でも、犬に操られる生活とか勘弁なのですが……。
「その理由は簡素です。犬は……、かわいいのです。」
「はいっ?」
おいおい。フィーさん、それはないよ。もちろん、かわいいとは思うよ。でも、それが理由で天の存在に? なんだか、大丈夫なのかな、この地。不安を覚えてきました。
「どうかされました?」
「それが理由なの?」
「はい、そうですよ。かわいい、という理由だけです。これだけで、この地ではすぐに受け入れられ、広まっていきました。輝く価値を持ちます。その大切な犬を……、ディグさんに預けるという意味を、これからご説明いたします。」
無理にまともな方向へ話を持っていこうとする感じが拭えないが、もう、受け入れたんだ。いまさら後戻りできないし、あちらでは、あの恐ろしい追加の証……、あれ? なんだっけ。まあ、いいか。もう戻れないし。
「ディグさん? たった今、記憶の件で、とまどいを感じましたね?」
「あっ、わかるのですか?」
「わかります。元の地の記憶のうち、間接的なものについては、少しずつ失われていきます。例えるなら、夢の内容です。起きた直後は鮮明でも、少しずつ薄れていくと思います。あの流れと一緒です。ただそれでも、一部分は夢と同じくぼんやりと残ります。そしてその影響が、大きく前進させるか、それとも破滅させるか、いずれかになるのです。」
最後の方に気になる単語があったが、もともと破滅からのスタート、これ以下はないだろうね。なぜなら、こちらが現実になるというのに、寂しさはあまり感じないのだ。まあ、考え込んだってしょうがない! この地を満喫するぞ! もうチェンジです。グッド!
「では、大切な犬について、です。よろしいですか?」
「はい。」
「まず、お渡ししたカギは、ディグさんにしか行使できません。もう、わたしの手を離れて移動したので、わたしでも、もう、どうにもなりません。」
「はい? それはつまり、どういうこと?」
「ディグさんから、わたしに対し、強い意志でその犬を移動させない限り、わたしからは何もできないという意味になります。ディグさん以外の第三者から、移動させることができないという点を、まず覚えていただけると嬉しいです。」
なるほど。って、いやいや、第三者からは移動できないのは、当たり前だと思うのだが?
「すみません。第三者から移動させることができないというのは、別に珍しくもなく、そもそも勝手に取られるようでは……」
「そうくると思いました。では追加で、第三者からその移動を制限することもできない、とお伝えすれば、この『大切な犬』の存在価値を思う存分、おわかりいただけると考えております。」
「制限されることもない……?」
それって。俺に指図できる人がいないってことだよね? すべてが俺の思いのままか。なるほど。中央が存在しないという本当の意味が掴めてきたぞ。
中央……。そうだ、あれについて、まだ記憶に残っているぜ。強烈だからな。……。中央から、あり得ない高さのハシゴを外されたことをなっ!! 絶対に忘れるかよ。ふざけやがって!! 間違いなくこれについては、フィーさんが話されていた「ほんやりと残る」ものになるのは確実だね。うん、これが……、破滅のフラグにならなければ良いのですが。はい。
「ひらめいたようですね。そこに大いなる価値が見い出され、今に至っております。実際に、その大切な犬には、現在の価値を示す数値が刻まれておりまして……。」
「数値!?」
「あっ、はい。それが価値なのです。」
「いや……、それが価値になるということは、これ、まさか……、カネなのか? 犬が!?」
「はい、そうですよ。契約の前に、しっかり出すものは出しますとお約束いたしました。突然、このような地にお連れしてしまったのですから、これは、当然なのです。特典です。」
「いきなり野暮な質問ですみません、その価値って……、どれくらいなのですか?」
犬にそのような価値を付けてしまうなんて、この地は……、楽しそうです!! まさか、犬で生活することになるのかな。まあいいや。ところで……、気になるよね、その価値です。たしか……、契約前に、凄いことを話されていた気がするが、まさか、ね。まあ、「特典」程度じゃ、大した額ではないかな。
「……。それについては、正確性も大事なうえ、わかりやすくするため、ディグさんに残されている『元の地』の記憶から算出してもよろしいでしょうか?」
「えっ! あっ……、そうだよね。まだ、この地の基準でいわれても、わからないからね。」
「では、はじめます!」
両目を閉じて、何やら集中しはじめました。犬の価値で、そこまで本気にならなくても……。
それから数分程度かな、算出を終えたみたいで、ゆっくりと少しずつ目を開け、つぶやきはじめました。
「……。わかりました。ハシゴを『外す』前に売り抜けて得た財の……七倍程度になりますね。」
「えっ!? ……って、大丈夫ですか? フィーさん!」
フラフラと前によろけそうになっていたので、とっさに立ち上がって、受け止めました。
「ちょっと疲れました。すみません。便利なものに頼りすぎてしまい、わたし自身の能力を少し利用しただけで、これです。ところで、どうでしたか、その価値について?」
すぐにいつもの笑顔に戻り、影響は無いみたいで、何よりだったのですが……。問題は、その算出の内容です。ピンときましたよ、そのおかしさに。やはり俺って、どうしようもなかったみたいです。
「フィーさん、俺……。ハシゴを『外される』前に売り抜けて、なら、俺が……元の地で憧れていた一流の方々なら、きっと決めてくれるので、納得です。でも、ハシゴを『外す』前って何だよ、です。それってさ……!! フィーさんがそこから算出できたという事実から、それを実行したやつらがいた、だよな?」
「ディグさん、落ち着いてください。みな、心は弱いのです。あなたも、わたしも、です!」
ここは、落ち着かないとな。フィーさんに当たっても仕方がないし、なにより情けない。
「たしかに、そうだった。俺の心も、楽な方に傾いていたな。」
「お気になさらないでください、それで普通ですから。本能なのですから。しかし、強い意志があれば、その弱さを隠して行動を起こすことができます。もちろん、そのような方は、とても少ないのです。だから、そのような事が起きてしまうのは、難しいかもしれませんが、寛大な気持ちで大目にみてあげてください。そしてこれが、中央の難点なのです。この仕組みでは、強い意志がないと、人が変異して、悪魔に化けてしまいます。」
「中央の難点……か。そして、俺も、その悪魔ってやつにならぬように、気をつけます。でも、この地には、その中央ってものが存在しないんですよね?」
「はい。存在しません。しかしです、ではなぜ、あなたをこの地にお連れしたのか、です。」
「あ……。」
そうだよな……、中央がなく平和なら、わざわざ俺みたいなやばそうな者を入れる必要がない。
「中央ではないこの地。そうですね、『非中央』と呼びましょうか。そして、どんなに弱い意志の者でも、おかしな気を起こさずに使える仕組みというものが、考えられました。その概念から生まれ、そのうちの一つが、実はその……、わたしが授けました『大切な犬』なのです。」
「おかしな気を起こさずに使える……?」
「はい。その『大切な犬』は、あなた以外に動かせません。もしこれが中央なら、何かと理由を後付けして、その全てを……あなたの意思を経由せずに一瞬で奪うことだって可能なはずです。そのような力を第三者が握れる中央では、それを抑制するための強い意志が求められます。そして、壊れていくのです。」
「だったら、なおさら、非中央のこの地ではそのようなことはなく、俺は……必要とされるのでしょうか?」
「はい。わたしが託しました『大切な犬』の価値を考えてみてください。お伝えいたしました通り、わかりきった天井の売り抜けで儲けた財の七倍程度なのですから、巨大! なのです。たしかに、おかしな気を起こさずに使える仕組みは確立されたのですが、それでも問題は出ます。それは……、富の分配です。」
「そんなに大事なものを、俺に……?」
ハシゴの件で我を見失い、肝心な部分を見落としていた。この犬……、俺が所有するのか? 間違いなく、見たことすらない額だぞ。このお犬様。
「この問題については、ディグさんなら、自然と解決に導けるものと、わたしは強く信じています。しっかり、お預かりいただけますか?」
「も、もちろんです!」
すごいものを託されたのか。それとも、破滅するものを押し付けられたのか。もちろん俺は、フィーさんを信じていますので、俺にしかできない使命があると、勝手に良い方向へ解釈しておきます。