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1, スマートコントラクト

「んっ!?」


 たしか、己の吐き出したものに溺れるようにうずくまって、頭を抱えて、これからの苦悩をうなっていたはず。……。どうみても、冷んやりとして、なぜか乾いた石の感触が顔の表面から伝わってくる。顔を上げるのが怖くなり、ためしに、ひたいを前後にこすってみた。うん、ゴツゴツとしています。間違いなく、俺のトレード室にあった安いテーブルではないな。そもそも、俺が吐き出したものは、どこに消えたのだ?


 ……。顔を上げる前に、少し落ち着いてみようと思う。どのみちさ、あの状況からの逆転は無理だったはず。そう考えると、未練はないな。こんな惨めな散り方では、誰にも顔を合わせられないし、正直、見たくもないです。こちらから願い下げだ! 仮に、ここがどんな場所であってもさ、俺にとってはプラスとなる訳です。そう、プラス! 今頃、あの場所にいたら、その場で卒倒しそうな催促の電話が鳴り止まないんだろうな。ははっ、そうだよな。やだやだ、破滅への電話なんか出たくないし。その場でスマホを折り曲げて処分してしまうね。どのみち電話に出たって、天国の番人に、地獄の底まで追われるってやつだよな。やだね。やだやだ。


 ……。こんな俺でも、適応への早さには自信があります。すべてを受け入れる覚悟を決め、顔を上げ、目をパッと開いた。


「お目覚めですか? はじめまして!」


 そうつぶやくと、青色に染まる瞳を輝かせ、腰下まで伸びた、光の当たる場所次第で銀色に染まる長い髪を左右に揺らしながら、満面の笑みを浮かべ、俺のことを、じっとみつめてくる。


「あ、あの、ちょっと状況を飲み込めないというか……。」


 本当の意味で、理解が追い付かない状況です。これって、追われるよりも厳しい現実が待っているのか。……。最後まで地獄なのか、俺は。


「驚かれるのは、無理もありません。でも、本当に強いお気持ちを感じ取って、ここにお連れいたしました。そして、そのお気持ちの中には……、すべてを捨てて、やり直したいという想いが大部分を占めておりました。それゆえに、契約もすんなりと進むとの見通しを立てております」

「け……、契約?」

「はい。契約を締結いたしますと、もう後戻りはできません。この地で、最後の瞬間まで、頑張っていただくことになります。もちろん、契約の前ならば、元の地に、お戻しいたします。もちろん『ブロックの巻き戻しとチェックポイント』は、わたしが責任を持って行いますので、ご安心ください。これで、同じ瞬間からの再開となります。また、元の地では、ここでの記憶は『夢の欠片』となるので、記憶の整合性が壊れるご心配はなく、大丈夫です。」


 うん、はい。彼女は、一体何を語り始めているんだ、です。そもそも、何の契約? まあでも、つまり、これは夢で、夢の中で夢だと気が付くと、こんなにも現実離れしてしまうとは、驚きだな、という事か。そもそも、ブロックの巻き戻しとか、チェックなんとか? とか、夢の欠片とか、理解を超えているものばかりが多くて、これは俺の夢なのか、不安になってきた。そんな小難しいもの、俺の空っぽな頭の中には絶対にないからな。存在しない記憶からは、夢は作れないでしょう。


 契約を締結しないならば元の地に戻れるのか、だったら、そうするか。早く目覚めて、うん、現実と向き合おう! 著名な投資家だって、みな口を揃えて、どん底がスタートと豪語していたよな! なんか、力が沸いてきた! どんな手を使ってでも、生き残ってやる! 戻ったら、酒はやめる! あんなものを浴びるように飲んでいたから、上手くいくわけないな!


「すみません。正直、困惑しているのですが、現実から逃げる訳にはいかないので、元の地に、戻してくださいますでしょうか?」


 その途端、彼女は、落胆の表情を浮かべる。


「そうですか……。本人様の希望では、仕方がありません。あの強いお気持ちなら是非、と、お誘いしたのですが、迷惑をかけてしまいましたね。そもそも、わたし自身も悪いのです。こんな便利なものに頼りすぎて、センスが薄れてきているのかもしれません。」


 こんな便利なもの? それは何? と突っ込みたくなりますね。


「あの……、『便利なもの』って?」

「あっ、そうですね。やっぱり、ご興味はあるのですね?」


 早いところ目を覚ましてさ、さっさと片付けたいのだが、彼女が告げた「便利なもの」が頭から離れない。なぜ、なんだろう。普通は、突然出くわした現実離れした人から「便利なもの」と告げられたところで、反射的にso what? と返したくなるだけなんだが。


「便利のもの……、そうです、物事がシンプルになる仕組みができたんです。それまでは、休む時間など一切なく、動き回っているのが普通でした。」

「えっ? 休む時間すら一切ない生活が続いていたのですか?」

「はい。それが、わたしの使命だったので、これで力尽きようとも、悔いはありません。そして、この新しい仕組みに救われました。しかしながら、それに頼りすぎて、ご迷惑をおかけしてしまうとは……。今、わたし自身の心の弱さに足元をすくわれた気持ちでいっぱいです。」

「あっ、いや……」


 なんか、この契約を断ってしまって、気まずい雰囲気になってしまった。これは、彼女の本心なのか? それとも戦略なのか? ……、でもな、俺は甘いんだろうな。狂った銘柄の売買で散るなんて、ただの自己責任だよ。そう、自己責任! ところで俺って、これまで、休む時間すら一切なく弛まぬ努力を重ねたことはあるのだろうか。うん、ないね。よしっ! ちょっと話は聞いてみるか。


「迷惑をかけたなんて、とんでもないです。俺なんて、今まで惰性で過ごしてきた『クズ』ですよ? これは俺の夢で、その夢の中で、これからの現実と向き合う大きな勇気をいただきました。それだけで十分です。正直、この夢が無かったら、俺……、どうなっていただろうか。」

「……。これは、わたしから粘り強く交渉することになりそうです」


 粘り強く交渉って? あっ、俺をここに引き留めるってことか。しかも、儚げな表情を浮かべている。夢の中に引き留めるって、どうなるんだろ、俺。


「俺みたいな『クズ』と契約を締結する利点はあるのでしょうか?」


 彼女は、ゆっくりと首を横に振る。


「わたしのセンスに問題はなく、安堵しております。ところで、なぜあなたは、自分自身を『クズ』だと評価されているのでしょうか? 気になります。たとえば、叶わぬ夢があったとか? そういう類ですか?」

「そ、それは……。いや、全部、お話しいたします。まず、夢はありました。そして、叶ったんです。しかし、そこが頂点で、みるみる転落しました。」

「て……転落、ですか?」


 おっ! 興味あるという眼差しで、俺をみつめてきました。


「俺の夢なんて単純で、何でも良いので、でかいプロジェクトに関わりたかった、ただ、それだけです。」

「大きなプロジェクトですか? 野心的な計画に関わりたかった、ですね?」

「ま、まあ、そうですね。はは……。そのために、飼い犬になったつもりで、毎日、日付が変わるまで頑張っていました。そしたら、ついに、その日が来たんです。巨額の予算を組んでくださり、中央が威信をかけたプロジェクトに、リーダーとして行ってこいと!」

「中央が威信をかけたプロジェクトですか。つまり、中央が、存在しているのですね?」

「えっ!? まあ、はい……。」


 どこにだって、中央くらい、存在するでしょうが。ちょっとびっくりです。まあ、気にしたってしょうがいないね。続きです。


「踊る心を抑えながら、取り掛かり始めたのですが……。信じられないことに、まともな取引がほとんどないという状況でした。俺の良き同僚は『そんなのは割り切れ』と励ましてくれたのですが、俺は耐えられなくて、気が付いたら……、投げ出していました。」

「……。まともな取引がほとんどない、ですか? それらは、記録したら二度と消すことができない場所に、歴史として残したら、大変なことになる内容ですか?」

「えっ! さすがにそれは、あってはならない、です!」


 びっくりびっくり、です。あんなの、その辺に落ちている新聞紙にすら、書き込み禁止ですよ! 二度と消せない場所に記録? 恐ろしいことになりますね。


「そこから、どうなりました?」

「あっ、はい。そこは辞めまして、それから……、投資というか、毎日、買ったり売ったりして差益を抜く、というものを始めました!」


 夢の世界で俺に語りかける方に向かって、株取引といっても、わからないだろうな、と、機転を利かしたのですが……。


「投資、ですか? それは……、投資ではなく投機ですね?」

「えっ! 投機をご存じで?」

「もちろん、です。理論を超越した、狂ったものを狙うんですよね?」

「狂ったもの……、はははっ!」


 思わず笑ってしまいました。理論を超越って、あれらには理論すら存在しないよな。


「ようやく笑っていただけましたね! ここに来られてから、常に落ち込んでいたご様子だったので、良かったです! こちらも嬉しくなってきました!」

「そ、そうですね……、俺みたいなのは、そのうち勝手に自滅しますので、気配りは不要ですよ!」

「いえいえ。今のお話を伺い、さらに、引き留めたくなりました。」


 えっ、今の話で? あっ、そうか。それで成功していると勘違いされているのかな。とんでもない。それで自滅する寸前の「クズ」だということを、しっかり告げて元の地に戻りましょうか。ただ、やわらかく断らないとね。契約の内容すら知らずに「やめます!」では、感じが悪いので。


「あ、あの……」

「やはり、元の地に戻るという決意は変わりませんか?」

「いや、少しは協力したいという気持ちも出てきていまして、その契約って……、どういう内容なのですか? たしかここまで、いまだ内容が不明なままだったはずです。」

「それなのですが……、契約の内容を知ってしまったら、元の地には戻れないのです。」

「えっ?」

「すみません。内容を知らずに、わたしを信用してと哀願するのは、とんでもない不躾だということは、大いに心得ています。しかし、ここでの出来事は、夢の一部として残ってしまいます。そうなると、元の地には戻せなくなります。ごめんなさい。これでは、なんか、契約ではないですね。」

「いや、なんか……、俺……。」


 ちょっとこれは、断れなくなってきた。こういう雰囲気に弱いんです。うう……。


「契約の内容は出せませんが、これなら……良いかな。あなたは、元の地を捨て、見知らぬ契約を締結されるのですから、こちらも、その分ですね、出すものは出します。」

「出す?」

「はい。あなたに任せたいのは、間違いなく、その命が尽きるまで何も不自由なく過ごせる大きな価値があるのもです。これだけでも、悪い条件ではないと思いますよ?」


 なになに? 一生遊んで暮らせるカネを恵んでいただけるとか? なるほど。素晴らしい条件だね。そうだな、あの思い出したくもないドス黒い取引を顔色一つ変えずに対応できる奴なら、これだけで余計な事を言わずにサインかな。でもな、俺はそこまで落ちてはいない。


「その条件、素晴らしいと思います!」

「……、何か、大切な話があるみたいですね?」

「えっ、わかるのか……。そうです、これだけは話しておく必要があります。その大きな価値を、俺に預けるのは、避けてください。なぜなら、天まで伸びきったハシゴを、中央から思い切り外されて、すべてが終わったのが、ここにいる俺ですから。それでも相場は『自己責任』です。元の地に戻ったら、復活は難しいかもしれませんが、それでも死に物狂いで再起を図りたいと考えています。絶対に、決して諦めることはしません。それでも、それでも、もしここに来ていなかったら、俺、どうなっていたか、です。あっ、ちょっと涙です。これは見なかったことにしてください。」

「……。わかりました。では、手を差し出していただけますか?」


 いよいよ、現実……いや、地獄に戻るのか。追加で求められる証拠金、いくらだろう。うう……。でも、自己責任。何とかなるさ。


 差し出した手の平に、ぼんやりと文字と数字が交差するように浮かぶ。仕組みは全くわからないが、これで、元の地に戻れるのか。まあ、あの状態から目を覚ますだけか。あの状態……、惨めで、俺らしい目覚めだな。


 文字と数字が消えて、んっ? なんか、瞬時に頭の中に文字と数字の羅列が入り込んだな。なんだ、この今まで感じたことがない、つっかえた違和感が……、俺の思考から離れない。何が起きた!?


「はい。契約を締結いたしました。」

「契約を締結!? えっ!」 


 どういう事? さすがに混乱してきました!


「いや、俺は元の地を希望していたはずなのですが?」


 その瞬間、彼女の表情が引き締まった。


「たしかに、あなたの口から出た言葉は、そう表現されていましたね。しかし、わたしは心の声を伺います。そうです、あなたが涙を流された瞬間、あなたの心は、元の地から離れたいと強く熱望されていましたよ! ここまで素直な方は、わたしも初めてです。」

「な、なんと返したらよいのか……。」


 俺の心は、楽になりそうな方を選んでいたのか。でもそれって、素直なのか?


「心が訴えてくる言霊を、自分の意志で曲げられる方は、ほとんどおりません。やっとです、やっと見つかりました。そういう方にしか、託せない契約なのです。」


 うん。なんか、スッキリした。どのみち戻れないし、もう、適応しました。バイバイ、追加の証拠金。おっと、いつもの悪い自分が戻ってきてしまった。


「それで、俺はどうなるのですか? そもそも、契約ってこんなに簡単なんだ!」

「はい。スマートコントラクトですので。その場で、自動で、すぐにです、書き換えができない特別な場に、特別なカギで刻まれ、契約が締結するという仕組みです。」

「あっ、そのスマート何とかで、他には何もなくて問題ないと……、例えばサインとか?」

「……。懐かしいですね。サイン。もう、かれこれ二千年以上前の話になるかな。」

「二千年以上前……。」

「その頃は、休みなしとかで、大変だったのです。」

「そ、そうなのですか……。」


 これ以上は突っ込まないようにしましょう。


「ところで、俺は? この先……?」

「……。その前に、やっと名乗ることができます。いままで、名乗らずに申し訳ございません。」

「それについても、元の地に戻った時、夢の一部に残るとまずいっていう理由からかな?」

「はい、そうなりますね。」


 名乗ることすら許されないのか。なんか、緊張してきました。狂った銘柄に飛び付く前の緊張感に似ています。そうだ、もう戻れないので、あの狂った銘柄達とはお別れですね。


「では、改めて自己紹介いたします。わたしは『フィー』と申します。そして、わたしの大切な『犬』を、あなたに預けることになりました。あなたの思考に刻まれた情報が、この大切な『犬』の一部を自由に操ることができる特別なカギです。今後とも、よろしくお願いいたします。」


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