143, ネゲートが無事帰還し、チェーンに対する二つの逸話を持ち帰ってきました。
フィーさんにネゲートの件を誤解され……、あれから来てくれないんだ。……、あれは誤解だよ、誤解。それでもシィーさんの件がありますから、そろそろ俺の方から出向くしかない……と覚悟を決めた瞬間、ようやく来てくれました。ただ……俺から目をそらし、その表情は冴えません。
「おはよう……、なのです。」
「フィーさん、おはよう。それで……。ネゲートの件だよね?」
「はい、なのです……。」
「あいつもそれなりに不安に駆られてさ、それに伴う行動だったはずだ。そんなのは誰だってあるし、俺だって、爆損のときは、街中をあてもなくふらついたものだ。」
「爆損のとき……、なのですか?」
「そうだよ。トレーダーにとっての爆損は、損切りとは違うんだ。損切りはルール通りのトレードなので何とも感じない。ところが爆損は違う。それは相場の急変に巻き込まれルール通りに損切りできない状態なので……、魔物に喰われた感覚になるんだ。それでさ。ネゲートは何となく、部分準備の件で嫌な予感がしていたのだろう。それで、ちょっと行動が変だった。しょうがないよ。それが女神としてのプレッシャーだろう。そうだよね?」
「そうなのですね……。でもそれは、信用や先物、オプションなどに手を出さなければ……なのです?」
「ああ……、俺の痛い所を突いてくるね、フィーさん。でも、フィーさんだって『犬』を回転させていたよね?」
「そ、それは……、なのです。」
頬を赤く染め、うつむくフィーさん。「犬」回転の件には弱いです。君主であろうお方が「犬」を回転させていたなんて事実……、逆にかわいらしい。なんてね。それでも、こんな会話でわだかまりが解けた感じです。良かった。
「『犬』回転の件は誰にも言わないから、大丈夫です。」
「……、それでお願いしたいのです。」
機嫌を直してくれたようで、柔らかい優しい視線を向けてきました。
「わかった。もうこの先、『犬』回転の件には触れないと約束するよ。」
「はい、なのです。それで、わたしは特に怒ってなどないのです。ただ、気になっただけ。でも、もう水に流すのです。」
「そうなんだ……。」
「はい、そうなのです。」
……、それが怒っている状態なんだよ……。でも水に流してくれるなら、よしとします。
「それなら……。またネゲートの居場所なんだけど……。」
さて、あいつの居場所を聞かないと、ね。
「ネゲートの居場所、なのですか? それでしたら……、ネゲートは本日、戻ってくるのですよ。」
なんだ。……、良かった。
「そうなんだ! それなら安心したよ。シィーさんが演算用古典ビットを集め出しているという噂があって、それに珍しくも敏感に反応してから、俺に何も告げずに消え去ったので……。」
ネゲートの状況を伝えました。
「姉様が演算用古典ビットを集め始めているなんて……、驚きなのです。」
「ネゲートは、それは当てつけだろうと話していたよ。」
「それなら……、おそらく『精霊の推論』から得られたチェーンの見解を『大精霊の推論』の入力に投入した結果、何かをみつけたのです。未だ『仮想短冊の通貨』に対する具体的な方針を打ち出せず、演算用古典ビットを集めているなんて、不思議と腑に落ちるのです。」
「その方針って……。シィーさんの政敵は『仮想短冊の通貨』で頂を目指すと高々と宣言していた、あれらか。」
「はい、なのです。」
たしか推論の力を弱めて提供している「精霊の知恵」だっけ? それは民にも開放されていて、俺も暇つぶしで遊んでいます。それで、誰もが一度は悩む疑問……それは、本来なら自分で意思決定すべきところを「精霊の推論」によって得られる推論で物事を決定してしまう。それってもはや……自分の意思ではないよね? 「精霊の推論」の傀儡と言うべき状況で、見知らぬ他の者たちが構築した「精霊の推論」に自分の運命を置いてしまう。そんな感じだ。
「……。はい、なのです。ただそれは、わたしが反対する最大の理由ではないのです。」
「違う? それなら、何が理由なの?」
「これから話す内容は噂と前置きしますが、おそらく本当なのでしょう。『大精霊の推論』の完成版となる『女神の推論』の構築が計画されているのです。さらに、その『女神の推論』にはネゲートに似た名前が付与されていて、ネゲートからの交代を強く促すなんて……。そして姉様は、このままでは『大精霊の推論』に満足できなくなり、その……、『女神の推論』に手を出すのです。」
「……。申し訳ないけど、その『女神の推論』って……。寒気がするよ?」
「はい、なのです。その『女神の推論』では、もはや姉様は、姉様ではなくなるのです。それは自我を失い……『女神の推論』の推論通りに働くだけの何か、となってしまうのです。それが、姉様が提唱する『推論』の時代になってしまうのです。」
……。
「自我を失うって……、深刻な事態でしょう。」
「はい、なのです。そのため、わたしは強く反対しているのです。それでも姉様には、祝辞を送っておいたのです。……。わたしが置かれた立場上、民の安泰も重要ですから、致し方ないのです。」
「……、そうなんだ。」
フィーさんも苦しい立場だった。君主としてのプレッシャーは凄まじく大きい。
「……。それでは、ネゲートをよろしくお願いするのです。私も同伴したいのですが……政があるのです。」
「わかった。任せておけ。まあ……消え去る直前までは元気だったので大丈夫だよ。」
「はい、なのです。」
それからフィーさんと別れた俺は、ネゲートがやたらと気に入っているソファが設置された部屋でネゲートの帰還を待つことにしました。あいつが戻ってくるのなら、ここだろう。
それまでの暇つぶしに「精霊の知恵」で遊んでやるさ。「精霊の知恵」に爆損を伺ってみました。えっと、リスク管理や将来に向けた投資管理を徹底せよ、だと? ……。お説教のような内容が返ってきました。これが「精霊の知恵」です。
そんな遊びをしているうちに……目の前にネゲートが現れました。帰ってきました。
「……。おかえり、女神ネゲート様。」
「な、なによ? どうしてあんたがここに?」
「……。安心した。いつものネゲートだった。」
「ちょっと、なによ……。」
落ち込んでいる様子は微塵も感じられず、いつものネゲートに戻っていました。
「俺はもちろん、フィーさんやあの神々までもが心配していたんだぞ。」
「……。そうだったの。……、この通り、私は元気よ。」
そう言いながら、俺の前で……信徒たちから投げ銭を貢がせるあの踊りを披露しました。
「……。もう、大丈夫だね。」
「この麗しい踊りを間近で観られるなんて。女神の担い手って、つくづく特権と感じるわね?」
「はいはい。」
「もっと褒めていいのよ。」
「おまえな……。」
それからネゲートより、積もる話を一方的に聞かされました。どうやら、チェーンにまつわる逸話を集め回っていたようです。それで、シィーさんが動き始めた要因を掴んだらしいのですが……。
「つまりシィーさんは……、『誤差ベクトル』を演算用古典ビットで特定してくる可能性があると?」
「そうよ。そして、その特定情報を物証として議場に叩き付けるのかしら? シィーの内心はやっぱり『伝統的な取引』を重視していて、若い民の票欲しさに『仮想短冊の通貨』を承認したが、『大精霊の推論』で女神になった瞬間、その推論によって気が気が変わってしまった。こんな感じかしら?」
「そうかな? そんなに複雑ではない気もするよ。シィーさんの政敵が『市場の精霊』を総入れ替えすると叫んだ事に反抗したのかもしれない。現職の『市場の精霊』だってさ、このまま黙ってはいないでしょうから。」
「そうね……、確かに叫んでいたわ。それにまんまと乗せられた、わたし……。」
「おまえな、調子に乗りやすいその性格は直しておけとあれだけ……。」
「もう、そんなの簡単には直らないわよ。」
まあ、無理か。無理だね。
「よしそれなら、俺が許可するまで仮想短冊のイベントへの出席は見合わせてもらう。それでいいね?」
「……。わかったわ。わたしにとって、女神の担い手が決めた事は絶対なのよ。」
初めて俺が役に立った気がしてきました。グッドです。
「ところでさ……、シィーさんが正式な女神……『自由と楽観の女神』になったこと、ネゲートも……。」
「そんなの、嫌でも耳に入ってくるわよ! もう……。」
「そうだよね、悪い……。」
「な、なによ? もう……。」
それから「誤差ベクトル」の概要に付き合わされ、この「誤差ベクトル」の特定であればアルゴリズム的に古典ビットで十分に対応可能、という内容でした。つまり、ネゲートの力は不要で、シィーさんの力のみで十分とのことです。
「なるほど。俺にはいまいちピンとも来ない。うん、そういうことで。」
「……、少し位は理解しようと試みてよ、もう……。そこに、チェーンにまつわる逸話が二点、絡んでくるのよ。」
その逸話とは、チェーンの仕組みを提唱した者が忽然と姿を消した件と、「時間」に触れて壊れたチェーンの存在、その二点でした。
「その、忽然と姿を消した点については美談にもなっているようだね?」
「そうよ。ただ、そうなると釈然としない。なぜ姿を消したのか。その理由が不明なままらしいの。」
「理由が不明なままって、本当に忽然といなくなったようだね。」
その様子だと円満に別れたのではなく、何かの拍子で消え去った。そんな感じかな?
「そして、『時間』に触れて壊れたチェーンの存在よ。……、『誤差ベクトル』は甘くないわ。」
壊れたということは、失敗したという事だね。……、そういうのってあるんだ。