57 過去
自転車を停め、入口から覗くも姿が見えない。中に入ると、陳列棚の裏から声がした。
「よう、建坊」
「菊乃さん、こんにちは」
「おお、一希じゃったか」
「ごめんなさい、今日は先生は一緒じゃなくて……」
「あんたもいっちょ前に爆弾臭くなってきよったわい」
そう言って、いっひっひと肩で笑う。
「えっ? あ……すみません」
先ほど処理室で新藤のオルダ解体を手伝っていたからか。作業服のままではなく一応着替えてきたのだが、風呂にはまだ入っていなかった。
「なーんも、すまんことがあるもんかい。汗水垂らして働いとる証拠じゃあ」
「お陰様で、何とか仕事にありついてます」
「そりゃあめでたいこっちゃ」
「あの……菊乃さん、新藤先生のことなんですけど」
「んー?」
「ずっとお一人なんですか? その……離婚されたとかじゃなくて」
「んー、ずーっと」
「あの、余計なお世話だとはわかってるんですけど、先生がご結婚なさらないのは、その……何か事情があるんでしょうか?」
「事情!」
菊乃は嬉々として膝を打つ。
「事情っちゅったらまあ、さぞかしご立派な言い訳でもあるっちゅう感じじゃなあ」
かっかっかっとひとしきり笑い、一希に耳打ちするような仕草で言う。
「むかーし、好きな人はおったんじゃけどねえ」
(先生に、好きな人……)
一希は身を乗り出す。
「結構ええとこのお嬢さんでねえ、どーんな顔して口説いたんだか。あたしゃぜーったい実らんちゅーてたんじゃけど、なーんかうまくいきよって」
(お嬢さん、か)
内心ほっとしつつ、一希は「へえ」、と極力さりげなく相槌を打った。
「うちに呼んでこいちゅーたら建坊のやつ、相手の親にまず会ってくるちゅーて」
「それってもう……婚約、みたいな?」
「その気じゃったんじゃろねえ。ほんで会ってきたんね」
「それで?」
「ほんで、おしまい」
「……えっ?」
「早い話が反対されたんじゃね。ほんで本人にもぜーんぜん会わせてもらえんくなって」
「そんな……それって、職業のせいですか?」
娘の夫が不発弾処理という危険な仕事に就いているような状況は、どんな親にとっても好ましくはないだろう。いつ未亡人にさせられるかとひやひやしなければいけないのだから。
「そうかもしれんし、まあ別のことかもしれん。それこそ事情じゃわね」
もしかしたら、母親がいないことや兄弟姉妹がいないことも懸念材料になったのかもしれない。あるいは愛想の悪さのせいで性格まで悪いと誤解されたか。
「ほんで、娘の方も駆け落ちまでするほどじゃなかったんじゃろねえ」
「それで、先生は……?」
「そりゃあもう荒れた荒れた。仕事もせんで、酒には溺れるわ、郷賀には入り浸るわ」
(郷賀……?)
古峨江随一の遊郭だ。女を買う以外にすることはない。
「ろくに金もねえくせにそんなんじゃったから、いよいよスッテンテンなって泣きついて来よって、へそくりからなんぼか貸したんよ。なっさけねえったらありゃせん」
誰か別の人物の話としか思えなかった。一希が普段見ている新藤像とはかけ離れている。
「んでもって、そんなこんなしよる時に隆之介が倒れてな」
「あ、先生のお父様……」
「しばらく出たり入ったりになっちまったもんで、さすがに建坊も心を入れ替えたわけ。そっから狂ったように働き出したんよ。ほんでそのうち見合いの話も受けるようんなって」
(お見合い……)
「親父がいよいよ危なそうじゃから、その前に身固めてやろうと思ったんじゃろね。でも、どーれも進まんうちに親父は死んでもーた。ほんで、あいつは見合いもやめてもーた」
そこから仕事一色の生活に突入し、現在に至るというわけか。とりあえず独身の謎だけは解けたが、そんな悲しい種明かしであってほしくはなかった。
「気になるかあ? あいつの過去の女が」
「あ、いえ、そういうわけじゃなくて……」
もちろん気になる。この上なく。しかしそんな印象を与えたら、菊乃は喜んで新藤本人に話してしまうかもしれない。
一希はやむを得ず、こんな話題を持ち出した直接のきっかけを説明した。食堂を営む永井という男に会ったこと。そして、新藤の不可解な言動。菊乃は意外にも神妙な面持ちで聞き入り、一希に断言した。
「ほんとの男色っちゅうもんは生まれつきじゃ。ある日突然ぺかっと始まるもんでもなければ、本人が好き好んで選ぶ道でもないからのう。安心せえ。建坊は女党じゃ」
「安心って、私は別に……」
結局菊乃の勢いに押されたまま、一希は適当にお菓子を選び、梅昆布と柚子煎餅も忘れずに買って店を後にした。
(過去の女、か……)
今はどうなのだろう。まだ相手を探す気があるのか、それともすっかり諦めてしまったのか。その女性のことは今でも好きなのだろうか。




