37 憂鬱
新藤を目指すための第一歩として、一希は工業高校を志望した。母は女の子が行くようなところじゃないと言って当初は反対したが、一希が粘るうちに徐々に態度が軟化した。自分も苦労してきたから、女の子が手に職をつけるのも悪くないと思ったのかもしれない。あるいは、毎年女子の人数が一割にも満たないと知り、同窓生同士で結婚させるのに有利だとでも期待したか。
しかし、一希が見事合格した時、母はすでに全身を病に侵されていた。医者にはあと一年と言われていたが、春風邪をこじらせて亡くなった。一希の入学式に出るのだと最期まで望みをかけながら……。
一希の高校時代は、勉強とアルバイトと家事に追われる日々だった。青春と呼ばれるものの色や香りは記憶にない。やもめとなった父は、同級生の父親たちと比べるとはるかに老けて見えた。生涯を通じて世の偏見に悩まされ、働くことが難しかった父は家にこもりがちだったが、かといって家事ができるわけでもない。母がアルバイトを掛け持ちして家計を支えながら全てを引き受けていたのだ。
いわば大黒柱だった母が亡くなり、一希がその後を継ぐしかなかった。世話をすべき弟や妹がいないことと、父が国から終身給付を受けていた戦災孤児補償金が救いだった。父は元より娘の将来をさほど気にかけてはいなかったから、技術訓練校への進学にも反対しなかった。
受験を一年後に控えた冬、一希が帰宅すると、父がトイレで倒れていた。すでに息はなかった。とにかくショックだったし、各所への連絡に手一杯だった。病院で清められた遺体と二人きりになった時、ようやく涙が出た。父を失った悲しみ以上に、これで少し生活が楽になるという安堵と、そんな思いを抱いてしまう自分に対する嫌悪感で泣いた。
今日、埜岩基地を訪れたのは、新藤から預かった書類を提出するためだった。担当の軍曹に挨拶して渡すべきものを渡せば終わりのはずだったが、軍曹はジャージ姿の一希を小馬鹿にしたように眺め回して言った。
「ここは女子供が出入りする場所じゃない。早くいい人を見付けて立派に子供を産むことだ。それが一番の親孝行だと思うがね」
そういう心無い反応には慣れたつもりだった。しかし、一体何が一希の感情を揺さぶったのだろう。「親孝行」という言葉だろうか。あるいは、「立派に子供を産む」と改めて言われてみて、自分がいよいよその選択肢を諦めようとしていることを突きつけられたのか。
水平線に沈む夕日を見送ってから、思いがけず時間が経ってしまっていた。このままでは体も冷え切ってしまう。憂鬱な心を引きずるようにして何とか自転車にまたがり、車道の右側をのろのろと走った。交通量はあまり多くないから、ぽつりぽつりとある街灯の光と、自転車に付けた弱々しいライトだけが頼りだ。
途中すれ違った車が一台。追い抜いていったのが一台。そして今、新たに一台が背後から近付いてきている。と、その車がはっきりと減速したのが音でわかった。警戒して振り向くと、見慣れた軽トラックよりも先に、開いた窓から突き出した新藤の険しい顔が目に留まった。
「あ、先生……」
新藤は車を申し訳程度に端に寄せて停めた。
「随分と長旅だな。何やってんだ、こんな遅くまで」
「……すみません」
「謝れと言ってるんじゃない。何やってんだと聞いてるんだ」
「今、帰るところです」
「奇遇だな、俺もだ。今までどこにいた?」
「埜岩基地に行って……」
「四時半頃電話したら、とっくに出たと言われたぞ」
「すみません、その後、寄り道してました」
「なるほど。しかし買い物にしちゃ随分身軽だな」
「そう、ですね」
身軽どころか、手ぶらだ。
「何があった?」
「何も……気分転換してただけです。自転車乗ってたら、もう少し走りたくなっちゃって」
「サイクリングを楽しむのは自由だが、時間を考えろ。真っ暗だぞ」
「大丈夫です、子供じゃありませんから」
そう言いながら、軍曹に言われた「女子供」という言葉が一希の脳裏をよぎり、涙が込み上げそうになる。嫌だ。先生に泣きつくなんて絶対に嫌だ。他の誰かならともかく、先生にだけは……。




