1 対面
広々とした敷地を囲む道を、何周しただろう。靴底を通して伝わる土の感触が心地よくて、冴島一希は走り終えるタイミングを逸していた。
ザッ、ザッ、ザッ、という規則的な足音に混じって聞こえるのは、虫の羽音に鳥の声。今が盛りと生い茂る木々をそよ風が揺らし、青い香りを運ぶ。
待ち時間を潰すのにジョギングを選んだのは、決してダイエットのためではない。同年代の女子の中ではやや太めに見えるが、それは骨格や筋肉のせいだ。実際、「ぽっちゃり」よりは「がっしり」という形容の方がしっくりくる。
如何せん女の子らしさに欠けるこの体型を気にしていないわけでもないが、ほっそりした体になることはとうに諦めている。ひどい風邪で体重が減ろうとも、「がっしり」の印象は変わらないのだから。このところ運動に力を入れているのは、純粋に体力作りのためだ。
上下ジャージ姿に、足元はだいぶ傷んだスニーカー。手入れを怠って伸びきった髪は、黒いゴムで後ろ一本に束ねただけ。この格好で今日も技術訓練校の授業を受けた。
クラスで、いや、不発弾処理補助士養成科で、一希が紅一点であることは疑いようもないが、だからといって男子からちやほやされる柄でないのは一希自身が一番よくわかっている。今は特に、なりふり構っていられないからなおさらだ。
今日は放課後にバスを一本乗り換え、隣町のはずれで下車した。停留所から坂を上がった丘の上に、不発弾処理士、新藤建一郎の自宅はある。外見よりも機能性にこだわったらしき、殺風景なコンクリート造りの平屋。
(家っていうより、工場とか倉庫みたい……)
その印象は、周囲を延々と走るうちにますます強くなった。周りに草木しかないから余計にそう見える。丘を反対側に下りかけたところには廃屋が一軒あり、下り切ってしまえば普通の民家も何軒か見られたが、いずれも百メートル以上は先だった。
それはさておき、国内トップの実力を誇る処理士に、果たして話を聞いてもらえるだろうか。訓練学生ごときが、しかもこの業界では前例のない女子生徒が、相手にされるだろうか。それこそが問題だ。電話だと適当にあしらわれてそれっきりになりそうで、こうして足を運んだのだった。
住所は近所の電話ボックスに備えられた電話帳ですぐに調べがついた。一希はこの三日間毎日、学校が引けてから新藤宅を訪れ、時間の許す限り待ち伏せている。まだ対面は果たせていないが、今日はアルバイトが休みだから、夜まででも粘る覚悟だ。
(よし、もう一周したら休憩)
スパートをかけ始めた時、車の低い唸りが聞こえた。
(あっ、もしかして……)
慌てて足を止め、耳を澄ました。バスではなさそうだ。エンジン音が徐々に近付く。
(あ、上がってくる……ってことは、間違いない、よね?)
一希は咄嗟に、手近な木の陰に身を隠した。わざわざ会いに来たのだから隠れる必要などないはずだが、いざとなってみると、万端だったはずの心の準備が一割ほど後退する。
間もなく、音の正体が姿を現した。本来は水色なのであろう軽トラック。土埃をしこたま被って無残な外観だ。西日を背にして車内は見えないが、荷台にはいかにもと言わんばかりの機材や工具箱が所狭しと積まれている。
その軽トラはやはり門柱の脇を折れ、庭へと乗り込んでいった。門柱といっても、何の色気もないコンクリートの塊。郵便受けが埋め込まれ、表札と呼び鈴のボタンが付いているだけの代物で、門に相当するものはない。
車は薄く敷かれた砂利の上を進み、車庫に入った。
エンジン音が止むと、運転席から降りてきたのは、オレンジ色の作業服を着た大柄な男。
(うわ……本物)
顔は写真の通り。専門書の寄稿者紹介欄などで何度か見かけた仏頂面だ。正確な年齢は知らないが、おそらく三十代前半。おじさんと呼ぶにはちょっと若いぐらいか。癖の強そうな黒髪が、日焼けのすっかり定着した額を縁取っている。
荷台に身を乗り出して道具をまとめる新藤の横顔を見つめ、一希は躊躇した。
(どうしよ……失礼のないようにしなきゃ)
雲の上の存在でもあるし、機嫌の良さそうな表情を見たことがないせいもあってか、何となく怖いイメージがある。しかも、今ここで嫌われたら、一希の職業人生には永久に傷が付くかもしれない。
電話もせずに訪ねてきたことを今さら悔やんだが、ようやく手に入れたチャンスを逃している場合ではない。そう、これが夢への第一歩になるのだから……。
へその辺りにぎゅっと力を入れて、ええい、と気合いを入れ直し、門柱のそばから思い切って声をかける。
「新藤さん……」
自分でも思いがけないほどか細い声にしかならなかったが、気付けば十メートルほどの距離を挟んで目が合っていた。汗の浮いた額の下で太い眉が中央に寄る。それを見るや、一希の声はますます上ずった。
「は、初めまして! 私、早川技術訓練校で不発弾処理を学んでおります、冴島一希と申します!」
何とか言い終えて深々と頭を下げる。数秒の沈黙を経て、一希のつむじに低く平坦な声が浴びせられた。
「何の用だ?」
顔を上げると、黒々とした二つの目がこちらを見ていた。わずかな異常をも見逃さず、どんな現場をも完璧に守る、あの新藤建一郎の目が。
一希は無意識に姿勢を正す。
「あ……お忙しいところすみません。私、新藤さんのご活躍をいつも専門誌などで……」
「お忙しいとわかってるんならさっさと用件を言え」
新藤はごつい体をくるりと返し、車庫のシャッターをガラガラと閉めた。大きな工具箱を手に提げ、大股でのっしのっしと母屋に向かう。その後ろ姿を一希は反射的に追いかけるが、用意してきた文言が思い出せない。
(えっと……)
夢中で言葉を繋ぐ。
「え……っとですね、あの、助手は要りませんか?」
しまった! 緊張の上に慌てたものだから、前置きがすっ飛んでしまった。
振り向いた新藤に見下ろされる。オレンジ色が眩しい。
「実習希望なら学校を通して申し入れるのが筋じゃないのか? いきなり押しかけてくるとは非常識も甚だしいな。担当教官は誰だ?」
「あ、いえ、違うんです。実習は秋頃に希望者を募るみたいなんですけど、私、先月入学したばかりでして……あ、そうだ、これ、履歴書お持ちしました」
しかし、新藤はその封書に目もくれなかった。
「四月入学か」
「はい。何か私にできることがあればお手伝いをと……」
「資格は?」
「まだ……これからです」
一希は精一杯の笑顔で答えたが、新藤は石のように固まっていた。その顔付きがますます険しくなる。
「私にできること?」
「はい」
思わず期待を込めて見つめるも、一流処理士の目は冷ややかだった。
「一体何ができると思ってるのか聞いていいか?」
「例えば……荷物持ちとか、機材の片付けとか、帳簿の管理とか」
「あいにくどれも間に合ってる」
「あと、お留守番とか、掃除、洗濯とか、お使いなんかでも……」
一希が皆まで言わぬうちに、目の前のオレンジ色はこちらに背を向けていた。
「家政婦の真似事なら他を当たってくれ」
新藤は、いい加減錆びついた鉄扉に鍵を差しながらきっぱりと言う。
「うちには余分な予算はない」
(予算?)
ゴロゴロと重たい音をさせて扉を開き、新藤は中へと姿を消していた。
「あ、いえ、そうじゃなくて、ちょっと待っ……」
一希の目の前で、ゴロゴロと戸が閉まる。
「新藤さん、違うんです。ちょっと聞いてください!」
古びた戸を叩くと、思いのほか大きな音がして恐縮する。しばらく聞き耳を立ててみたが、鉄扉の向こうに新藤の気配を感じ取ることはできなかった。