15.日常の異変
翌朝、目覚めると何かがおかしかった。
身体が不調というわけではない。家の中の雰囲気が何か妙なのだ。
警戒しつつ二階にある自室を出て、一階に下りてみる。
ダイニングには母がいて、朝食の準備をしていた。特に変わった様子はない。
「ふんふんふーん……ららららー」
鼻歌など歌って、機嫌が良さそうだな。何かいい事でもあったのか。
改めて家の中の気配を探ってみたが、侵入者などはおらず、異常は認められなかった。
妙な感じがしたのは気のせいか。それにしても、なんだか香水くさいな。母が何かまいたのだろうか。
「あら、おはよう。うふふふ」
「おはよう。ご機嫌だね、母さん」
「まーねー。今日の朝ご飯はステーキよー」
見ると母は分厚い肉をフライパンで焼いていた。朝食は軽めに済ませるものだと思っていたのだが、この世界では違うのか。
それにしても、うちはあまり裕福な家庭ではないはずなのに、高そうな肉を焼いているな。誰かからもらったのだろうか。
「これね、最高級国産黒毛和牛なんだって。五千円もしちゃったー」
「ご、五千円だって? 馬鹿な、いつもはスーパーで二割引以上のバラ肉しか買わないのに……!」
さしもの私も驚きを隠せなかった。庶民中の庶民とも言えるうちの母がそんな無駄遣いを……どうかしているとしか思えない。
詐欺か、あるいは催眠術にでもかかって無理矢理買わされたか。くそ、どこの業者だ? すぐに突き止めて頭を吹き飛ばしてやらねば。
「やーね、心配しないで。たまには贅沢してみようと思って買っただけだから」
「そ、そうなの? ならいいけど……」
気のせいか、妙にハイになってないか? まるで酒にでも酔っているような……。
アルコールの匂いはしないし、考えすぎか。誰にだってテンションが高い日ぐらいある。母の場合、たまたま今日がそうだったというだけなのだろう。
「さあ、肉を食べなさい肉を! あなたは少し筋肉を付けないと! 男の子なんだから!」
焼きたての分厚いステーキ肉を勧められ、私はぎこちなく微笑んだ。
うちの母は「肉」ではなく「お肉」と言うはずだが……どうも変だな。
偽者というわけでもなさそうだし、彼女に何があったのだろうか。
どこかから大金でも転がり込んできたのなら喜ばしい事だが、そんな気配はないな。
「どう、高い肉は? 美味しい? 美味しいでしょ?」
「う、うん、美味しいけど……ところで母さん、何か変な匂いしない?」
「変なじゃなくて、いい匂いでしょ? とってもいい香りの芳香剤を買ったの」
「芳香剤?」
テーブルの片隅に、小さな瓶が置いてあった。匂いの元はあれらしい。
「天然のハーブエキスが配合してあって、リラックスできるのよ」
「へえ。ハーブでリラックスか……」
どこかで聞いたような単語の組み合わせだな。
……思い出したぞ。確か、赤井さんの姉がハーブエキス入りの香水を買ってきて、それがひどい匂いだったと……。
そこまでひどい匂いとは思わないが、別の商品だろうか。一体、どこの……。
「ん?」
芳香剤の瓶にものすごく小さい文字が印刷されているのに気付き、よく見てみる。
『EEP』か。はて、どこかで見たような……。
……んん? EEPだと?
エコロジーエスケープの略称……邪神教団の隠れ蓑じゃないか!
つまり、この芳香剤は邪教徒どもが販売しているのか?
「か、母さん、これどこで買ったの?」
「駅前で売ってたの。今なら一つ分の値段で二つも買えるっていうから、つい」
つい、じゃない。よりによって邪教徒どもの資金源に協力するとは何事だ。
「それ、いつの話?」
「ええと、四日ぐらい前かしら。ほら、依緒が寝ぼけて変な話し方をしてた日の前の日」
私が前世の記憶に目覚める前の日か。
もしや、それからずっとこの芳香剤は家にあったのか? ……あったような気がするぞ。
「蓋を回すと四段階に匂いを調節できるの。今朝から最強の四にしてみたんだけど、いい匂いでしょ」
なんて事だ。私が連中の匂いに鈍感だったのは、既に慣らされていたからか。
たぶん、今現在の匂いも普通の人間が嗅げば耐えられない匂いに違いない。
母がおかしいのも芳香剤の匂いを吸い続けたせいだろう。この妙な香りをいい匂いなどと言っているのだからまともであるはずがない。
「母さん、これ、危ない団体が売ってる危険な商品らしいよ。ネットで見た」
「えっ、そうなの? こんなにいい匂いで気分もよくなるのに……」
「僕が返品して来るよ。もう一つも出して」
母はかなり渋っていたが、私が懸命に説得するとどうにか言う事を聞いてくれた。
二つの芳香剤の蓋をしっかりと閉め、念のためビニール袋に入れて口を結び、テープで留めて密閉しておく。
匂いの元を絶っておけば、母も元に戻るはずだ。治らないようなら医者に診せよう。
回収した芳香剤を通学用バッグに詰め込み、家を出る。
しかし、まさか接触する前から教団の被害を受けていたとは思わなかった。
連中はあんな物を売ってどうするつもりなんだ? 活動資金を稼ぐためというだけならいいが、あの芳香剤の人体への影響が気になるな。
気分がハイになるだけか、あるいは匂いに鈍感になるだけなのか。麻薬の類だとしたら危険だぞ。
とりあえず、ネットで警告しておくか。匿名掲示板にEEPに関する黒い噂を書き込み、ツイッターの捨て垢を使って連中が販売している芳香剤の危険性を訴えよう。
あとは……連中を捕まえて締め上げるか。向こうから仕掛けてくるのを待つだけでは駄目だな。こちらからも捜しに行ってみよう。
学校に到着後、昇降口のところで赤井さんを見掛けた。
彼女はニコニコしていて、無駄にさわやかだった。常に斜に構えている感じの彼女にしては変だと思い、尋ねてみる。
「赤井さん、どうしたんだい? 金でも掘り当てたような顔して」
「んー、別にぃ? あたしはいつもと変わらないよん、ヒャッハー」
やはり変だ。赤井さんがファンキーになっている。
もしや、原因はあれか?
「お姉さんが買ってきた香水はどうなった? もう捨てたのかな」
「あれを捨てる? 馬鹿言え、あんなご機嫌なもん手放せるかっての! 家中にまき散らしてるぜ、イエーイ!」
「それってEEPとかいうところの製品じゃないか?」
「さあ? 知らないなー」
ヘラヘラと笑い、スキップしながら赤井さんは去っていった。
彼女も教団の被害者のようだな。なんて事だ。
連中が街中で妙な商品を売りさばいているのだとしたら、被害は拡大する一方だぞ。早く手を打たなければ。
教室に入り、自分の席に着く。シーラさんはまだ来ていないらしく、右隣の席は空いていた。
彼女の手を借りようと思ったのだが……仕方ない、来るのを待つか。
「うふふ、おはよう、平賀君」
「ああ、おはよう」
声を掛けてきたのは白原さんだった。機嫌がいいのか、やたらとニコニコしている。
「お薦めの本を持ってきたの。見てくれる?」
「ああうん、見せてもらうよ」
白原さんは大きな紙袋を持参していて、その中から本を取り出して机の上に置いた。
五冊、十冊、二十冊、三十冊と、どんどん積み上げていく。
「ちょ、ちょっと白原さん? こんなに一度に貸してもらっても……」
「そう言わずに読んで読んで! とっても面白い本ばかりなんだよー?」
おかしい。白原さんはもっと大人しくて奥ゆかしい感じだったはず。これではまるで別人だ。
……別人? まさか……。
「もしかして、どこかでハーブエキス入りの商品を買った?」
「えっ、なんで知ってるの? ハーブエキス入りボディソープを買っちゃった。今なら一本分の値段で二本買えちゃうんだよー?」
人間というのは一つ分で二つというのに弱いらしいな。それは絶対、最初から二本分の値段が一本分の定価になっていると思うのだが。
かすかだが、白原さんから例のハーブの匂いがする。あれのエキス入り商品を使ったために妙なテンションになっているのか。気の毒に。
「白原さん、そのボディソープは身体によくないから捨てた方がいいよ」
「えー、なんでー? お肌がツルツルになって、痩せるんだよー? 私、スリムになりたいのー」
「別に太ってないじゃないか。君には必要ないよ」
すると白原さんは子供みたいに頬をふくらませ、強い口調で訴えてきた。
「だってだって、私の胸、どんどん大きくなってるんだよ! このままじゃ着る服がなくなっちゃうよ!」
「へ、へえ、そんなに……育ち盛りでいいんじゃない?」
「よくないよ! 肩が凝るし、男子は変な目で見るし! 胸が大きくていい事なんてないよ!」
そういうものなのか。私には前世も現世も含めてサッパリ分からんが。
しかし、あまり胸がどうとか言わない方がよくないかな? 少年達はニヤニヤしながら見ているし、少女達は妙に冷たい目で見ているぞ。
中には胸を押さえて絶望したような顔の子もいるし……あれは白原さんの友人ではなかったか。友情にヒビが入らないか心配だ。
「平賀君だって、胸が大きすぎる子は嫌いだよね? 気持ち悪いでしょ?」
「えっ」
妙な事を訊かれ、返答に窮してしまう。
胸回りのサイズなどに興味はないが……ここでそれを言うと色々な方面から非難が殺到してきそうな気がするな。
仕方ない。ここは白原さんが傷付かないようにコメントしておこう。
「僕は別に嫌いじゃないかな。とても魅力的だと思うよ」
「ほ、本当に? 胸が大きい方が好きなの?」
「まあ、そうだね。たぶん、そんな感じかな」
白原さんは豊かな胸を押さえ、うれしそうにしていた。
なんだか女子達の視線が突き刺さってくるようでピリピリするが……気のせいだと思う事にしよう。
「ふううん、そうなんだ……」
「!?」
不意に傍らから聞き慣れた声が聞こえ、ギョッとする。
おそるおそる目を向けてみると、そこには栗色の髪をした少女、野々宮小晴さんが立っていた。
野々宮さんは私を見下ろし、ジッと見つめていた。その眼差しがいつもより冷たいような気がして、思わず寒気を覚えてしまう。
「平賀君、胸が大きい子が好きなんだ。知らなかったな……」
「い、いや、それは違うよ、野々宮さん。『胸が大きい子が好き』ではなくて、『胸は大きい方が好きかもしれない』というだけなんだ」
「同じだろ」
「同じじゃないよ。なんでそんな、感情を失った暗殺者みたいな目をしてるの?」
「ふん」
なぜか野々宮さんは不機嫌を通り越して殺伐としていた。何がそんなに気に入らないんだ。
野々宮さんの胸がそれほど大きくないからか? しかし、小さくもないと思うが……標準的なサイズではないかな。
いつも明るい野々宮さんらしくないな。もしや彼女も、例のハーブエキスに毒されているのでは……。
「野々宮さん、ハーブエキス入りの商品を購入してない?」
「ハーブエキス? どうして?」
「よくない商品が流通しているんだ。それのせいで白原さんがこんな風に……」
「胸が大きくなる商品なの? それを私に買えと……大きなお世話よ!」
「何の話をしてるんだ? 酔っ払ってるの、野々宮さん?」
「酔ってないわよ!」
どうやら野々宮さんは大丈夫のようだな。単に機嫌が悪いだけみたいだ。
それはそれで問題のような気もするが、怪しいハーブエキスの被害を受けていないようで何よりだ。
既に被害を受けている赤井さんや白原さんがどうなるのか不安ではあるが……命にかかわるような影響が出ないといいのだが。
「朝から騒がしいわね。痴話喧嘩ならよそでやって」
そこでシーラさんが現れた。野々宮さんはシーラさんをジッと見て、目尻に涙を溜めてうなっていた。シーラさんの胸元を凝視しているようだが……。
「むうう……」
「な、何よ? 仇でも見るような目をして……」
「別に。……勝ったと思わないで」
「えっ、何の話なの?」
「勝ったと……思わないで!」
「なぜ二回言うの? どうして泣きそうな顔をしているの? 意味が分からないわ」
シーラさんは怪訝そうに首をかしげていた。悪いが私にもサッパリだ。誰か解説してくれ。