旅立ち
「本当に? 本当に、一緒に来てくれるのね?」
瞳を輝かせて抱きつかれると、ヴァルは頷くしかない。
美しいリーゼロッテの仔猫のような甘え方は、十六歳にしてすでに男のツボを心得ている。彼女の質の悪いのは、その態度や仕草に下心や他意が一切ないことだ。誰にでもそうする。
「ほかでもないおまえの頼みだ」
「よかった。とっても心強い」
リーゼロッテは、準備万端の革袋、弓と矢筒を肩にかける。トレードマークの赤頭巾はないが、その代わりに赤いフード付きのポンチョを羽織っている。
「父さんも許してくれたの。その……男の人と二人で、一緒に旅をするわけじゃない? 反対されたらどうしようって思ってたんだけど」
「……よく許してもらえたな」
思わず感嘆の声が漏れた。ヴァルが父親ならば到底許さないところだ。
「ヴァルだったら大丈夫だって。……わたしのことを傷つけたりはしないだろうからって」
信頼を得ているということであれば喜ばしいが、先手を打って牽制されている気がしなくもない。
「じゃあ、一言くらいあいさつしていかなきゃいけないな」
「父さんに?」
「そうだよ。ほかに誰にするんだ?」
「あいさつとか……」
とたんに口をもごもごとさせてうつむくリーゼロッテ。うつむくと、頬の峰の線が普段よりもぷっくりと丸く幼く見えて可愛い。
「大事な子供を預かるんだから、あいさつくらいするのは礼儀だろ。おまえも、もう十六にもなるんだから、赤ん坊よりはお守りも簡単そうだ」
靴底のおぼつかないブーツに足を突っ込むヴァルの後ろで、微かにきしきしと弓の弦を引く音がした。
ただならぬ殺気に振り返る。
ひゅっ。
空気を裂く音がして、あばら屋の薄い壁に鏃が貫通する。
「リーゼロッテ!」
振り返って体をひねらなければ、側頭部に矢が刺さるところだった。至近距離から、殺意を否定できない場所を狙っている。
「射る前に躊躇しない度胸の良さを褒められるのは、射手の腕がいいときに限る。おまえはだめだ」
リーゼロッテは、ぷいとそっぽを向き、無視を決め込んでいる。
つかつかとヴァルに歩み寄り、その肩口に手を伸ばして壁から矢を引き抜くと、鏃の様子を見て、矢筒に戻した。
「今のは、わたしにしては上出来だったわ。褒められてもいいくらいよ」
きっと睨みつけてくるまなざしがヴァルを圧倒する。どうやら、相当機嫌を損ねたようだ。
リーゼロッテの弓矢の腕前はお世辞にも上手とは言えない。率直に言えば、下手である。
超ド級に。
そう構えてどうしてそこに矢がたどり着くのか、誰にもわからないほど、むしろ器用なのかとヴァルが疑うほど下手なのである。
「……命がいくつあっても足りないな」
「さぁ行きましょう、エインセール」
名を呼ばれた妖精は、くすくす笑いながら、ヴァルのあばら屋を出ていくリーゼロッテの後に続く。
相手が人間であろうとそうでなかろうと、心あるものとなら誰とでもすぐに仲良くなれるのは、気さくで人見知りをしないリーゼロッテの得意技だった。
* * *
ヴァルがルチコル村に入るのは、五年前、リーゼロッテの父親マーロンに娘の訪問をやめさせてほしいと頼みに来たとき以来だ。あのときとまったく変わらない、のどかな風景が広がっている。
風になびく緑の草原が波のように日を反射してまぶしい。あの羊飼いはさぼって昼寝をしている。羊が狼に襲われていたとしても気づかなさそうだ。
くすんだ青の屋根のパン屋が、リーゼロッテの家。
リーゼロッテの姿を見つけるなり、太めのしっぽをわさわさと振って走ってきた犬を、リーゼロッテが抱きとめる。
「ファニー!」
灰白色のつややかな毛並みは、日の光の加減で銀色にも見える。額にある十文字の白い毛が特徴的だ。
リーゼロッテと戯れるファニーは、犬ではなく、狼の魔物である。
リーゼロッテによると、彼女が幼いころ、撃たれて死んでいた母のすぐそばにうずくまっていた子供――ファニーを、保護したとのことだった。シュネーケンの貴族が森で狩りをしていたから、それでやられたのだろうと言っていた。
そんな危険な森の中に、その当時七つか八つだったリーゼロッテがひょいひょい入っていって遊んでいたというのだから、ヴァルは驚いたものだ。もっとも、肝を冷やした父親に、ファニーを飼ってもいいから、以後許可なく森に立ち入るなときつく叱られたらしい。
「ファニーは置いていってよね。お姉ちゃんのいない間は、ファニーがあたしの唯一の話し相手になるんだから」
リーゼロッテに背格好も雰囲気もよく似た少女が立っている。
わかりやすく違うのは、髪の色。
リーゼロッテは黄みの強い蜂蜜色の髪をしているが、もうひとりの少女の方は赤みがかった茶色をしている。
「ヴァル、妹のオランジュよ。オランジュ、こちらがわたしの用心棒をしてくれるヴァル。二人とも、会うの初めてだったっけ?」
リーゼロッテは、用心棒とヴァルを紹介する。
確かに、うら若き女性のお供の呼び名としてはそれがいちばん無難ではある。
「あぁ、初めましてだね、オランジュ」
ヴァルがルチコル村を訪れた五年前、姉妹はそろって学校に行っている時間だった。
「どうも……」
オランジュは浅くお辞儀をしてから、目だけを上げて、ヴァルの顔を下から覗き込んだ。
「へぇ……」
「オランジュ、ちゃんとあいさつくらいしてよ、恥ずかしいわね」
品定めをするようなぶしつけな妹の視線を、姉はとがめた。
「用心棒っていうから、もっとごつい、ゴリラみたいな人を想像してたんだけどな。お姉ちゃん、顔で選んだんじゃないでしょうね?」
オランジュは目を細めて、リーゼロッテを冷やかすように見た。
「すっごいイケメンじゃん。どうりでお姉ちゃんが楽しみにしてるわけだ」
「オランジュ!」
リーゼロッテは、耳朶まで真っ赤になっている。色が白いからごまかしようがない。
「ひとつ、あなたにご忠告よ、ヴァル」
オランジュはにやにや笑っている。
「お姉ちゃんは弓矢の腕と同じくらい寝相がひどいの。一緒のベッドで眠るときは蹴られないように気をつけてね」
「オランジュ!」
「バイト行ってきまーす」
湯気が出そうに真っ赤な顔の、リーゼロッテの小言を聞かぬうちに、早々に去ってしまうオランジュ。姉に負けず美しい顔立ちをしているが、妹の方が世間一般の例に漏れずこましゃくれているようだ。
「よく来たな、色男」
日に灼けた大柄な男がパン屋から出てきたところだった。緑色のバンダナを頭に巻きつけ、白いコックコートを着た彼が、リーゼロッテの父親マーロンである。
「ご無沙汰してます。その呼び方やめてくださいよ」
「色男を色男と呼んで何が悪い? リーゼロッテ、オランジュはバイトに行ったか?」
「……今、行った」
からかわれるだけからかわれて面白くなく、リーゼロッテは真っ赤な顔を持て余してうつむいている。
「バイトに行かせてるんですか?」
「すぐそこの果樹園でワインを作る手伝いをしてる。オランジュはどうも反抗期でな。うちの手伝いをせずに外にばかり出たがる。まぁ、いい社会勉強にはなるさ」
招き入れられたパン屋の中は、焼きたてのパンの香ばしくやわらかなにおいに満ちていた。
「座れ、ベルベーヌを淹れてやる」
ヴァルはマーロンに促されるままテーブルに着き、さわやかな風味のハーブティーをいただく。
別れを惜しんで、ファニーをぐりぐり抱きしめているリーゼロッテを横目に、マーロンは布の巾着袋をヴァルの前に置いた。袋の中でじゃらりと音がする。
「路銀が必要だろう。持っていくといい」
自給自足の孤独な生活を送ってきたヴァルに、まとまった蓄えがあるはずもなく、断ることはできなかった。
「……ありがとうございます」
「リーゼロッテをよろしく頼む」
「この命に代えても守ります」
「あんたみたいな色男にそこまで言われるんだ。うちの娘も捨てたもんじゃねぇな」
がっはっは、と豪快に笑う父親の傍らに、ファニーを抱きかかえたリーゼロッテがやってくる。何か言いたげな様子だが、さくらんぼのような唇は動かない。
「ごちそうさまでした」
「くれぐれも気をつけてな。リーゼロッテ、ちゃんと報告の手紙を書けよ」
マーロンは娘の額にキスして送り出す。
「そうだ、マーロンさん、これを受け取ってください」
ヴァルが差し出した小さな包みを、マーロンはてのひらに受けながら目顔で尋ねる。
「実はこれを売って路銀にしようとしていたんですが、たぶん大した価値はありません。足元を見られて、二束三文にしかならなかったでしょう。ですから、あなたのご厚意には心から感謝します。少なくて申し訳ありませんが、どこかで売り払って金に換えてください」
「気にするな。何か知らんが、こいつは預かっておいてやるよ」
「ありがとうございます。では、行ってまいります」
ヴァルが扉を閉めた。
包みの紐を開くと、中にあった指輪がごろりと向きを変えた。重厚な作りをしている。本物の銀だとすれば二束三文ということもなかろうが――
「これは……」
マーロンは、指輪の中央に彫られた飾りを見て目を瞠る。
両翼を左右に半円状に広げ、頭に冠を載せた鳥を意匠化した紋章。
マーロンの記憶が確かなら、これは―― 一昔前に滅亡した美景都市ミラ・カの国章であった。