妖精エインセール
朝のすがすがしい陽射しが、ヴァルを目覚めさせる。
寝ぼけ眼でベッドを降りると、あばら屋の外に出て、太陽を浴びて伸びをする。川の水で顔を洗い口をゆすぎ、水を汲んできて畑にまく。ヴァルの日課だ。
あばら屋の中で、昨日リーゼロッテが持ってきてくれたパンをかじった。小麦の風味の豊かな、あごが鍛えられそうに堅いパン。
リーゼロッテは美しく成長した。若くして亡くなった母親がよほど美形だったのか、職人かたぎで強面の父親からは想像もつかないほど美しい。
ただ、父親に似てめっぽう気が強く、口より先に手が出るタイプ。まっすぐな性格で正義感もあり、間違っていると思うことは誰にも臆さず間違っていると疑問を呈する。そこがヴァルには危なっかしく映りもするが、だからこそルチコル村で“姫”というあだ名が定着するほど皆に信頼され、愛されているのだとも思う。
その姫の成長を、図らずも間近で見守ってきた。十年も。
ヴァルはもう三十歳にもなる、しかもくたびれた男で、彼女は可愛い妹も同然だ。
腕に覚えがないこともない。アルトグレンツェへの道中が不安だというのならば用心棒になってやるのもやぶさかではない。
だが――昨夜の夢は、それだけでは済まない、もっと大きな使命へとヴァルを導こうとしている気がしてならなかった。
(冗談じゃない)
ヴァルは葡萄酒でパンを流し込む。面倒なことは嫌いだ。
愛する人を自分の腕の中で死なせてしまった日から、ヴァルは孤独を愛した。彼を癒すのも苦しめるのも孤独だけ。
リーゼロッテは、ヴァルにとって唯一の騒音だった。
世にも美しく、彼の心を乱す、騒音。
「きゃああああああああああああっ」
甲高い悲鳴が、静かな森の梢を揺らした。
ヴァルがあばら屋の扉を開ける。大きな影が空を悠然と旋回していた。
影は、鷹だった。広げて羽ばたく翼は二メートルを優に越すだろう。その鷹に猛スピードで追われ、あわや喰われそうになっている黄金色の光。
(くそ面倒だ)
どうやらヴァルの鼓膜をつんざく悲鳴を上げ続けているのは、あの光らしい。
ヴァルは耳の穴をほじった。
「ちょっとヴァル! ぼんやり見てないで助けなさいよおぉぉ」
光がヴァルの態度に抗議している。
仕方なくヴァルは指笛を鳴らす。澄んだその音色に反応して、鷹は飛ぶ方向をぐるりと変えた。
「いい子だね、そんなの喰うと腹壊すよ。こっちにしときな」
鷹はヴァルの腕に留まって翼を閉じた。パンを差し出すと、鷹はおとなしくそれをついばんでいる。
「腹壊すって、それどういう意味っ!?」
虹色にきらめく蝶に似た羽を軽やかにはためかせて、光はヴァルの目の前にやってくる。
「ごめん、そのままの意味だ」
「謝ってない! いいですか、わたしはね、妖精の中でも頑張り屋さんで表彰されるくらいなんですからね」
「それでそんなにしつこいわけね」
「あなたがわたしをしつこくさせてるわけ」
ヴァルは「はいはい」と生返事をし、パンを鷹に持たせて飛び立たせた。
「しつこいお誘いにも応じない俺に業を煮やして、とうとう変な夢を見させたのは君の雇い主かな、エインセール?」
名前を呼ばれた妖精は眉を下げて、困った顔をしてみせた。
「それは……言えないの」
* * *
スプーンから水をすくって飲んで一息ついたらしく、妖精エインセールはテーブルの縁に座って足をぶらぶらさせていた。
「夢、見たの?」
と妖精は尋ねた。ツインテールに結んだ亜麻色の髪がふわふわっと踊る。
「昨夜ね。アルトグレンツェへ来いと呼ばれた」
「来てくれる?」
「リーゼロッテにも同じ夢を見せるのは卑怯だ」
ヴァルが睨むと、エインセールは首を横に振った。
「それはわたしのせいじゃありません。ただ、あなたに来てもらわなきゃならなくて、いろんな方面から手を尽くされてるのかも」
「……それは、ありがたいことだね」
「ヴァル――」
「助けるんじゃなかったよ、君のことも、リーゼロッテのことも」
三日前、川べりで魔物に出くわした。
肉が腐り、ところどころに白骨が覗く生ける屍が五体も、白昼堂々現れ、鋭い爪でエインセールの羽を掻きむしろうとしていた。その魔物たちに読み取れる心はなく、ヴァルはエインセールを助けるべく、情け容赦なく剣を振るったのだった。
エインセールは、自分がまだ新米の妖精であること、初めての任務はヴァルをアルトグレンツェまで案内することだと話した。
「そんなこと言わないで。あなたのご加護をお約束します」
胸の前で手指を祈りの形に組む妖精。彼女をいじめても詮無いこととヴァルはため息をつく。
「俺と、リーゼロッテの加護を頼む」
ヴァルが言うと、エインセールは心底ほっとしたように微笑んだ。
「じゃあ行くのね?」
「行くしかないでしょ。リーゼロッテがそう望んでいるし、彼女をひとりで行かせるわけにもいかないよ」
十六歳の少女が村の代表など、本来はとんでもないことだが、シュネーケンの王女アンネローゼに名指しで指名されたとあっては、誰も――リーゼロッテ本人も、それを無視することはできまい。
アンネローゼにとって、リーゼロッテは大事な親友であり理解者なのだということを、リーゼロッテは承知している。ほぼ唯一の、と言っても過言ではないかもしれない。
その肌の抜けるような白さから、“白雪姫”のあだ名を持つ絶世の美女、アンネローゼ。
緑なす黒髪と気品のある凛とした目鼻立ち。
一度見たら老いも若きも男女も問わず虜にするという彼女は、次期国王として帝王学を教え込まされただけあって、人の上に立つことに何らためらいがない。聡明でカリスマ性に富み、それでいて頭でっかちになることもなく柔軟に物事を捉える力がある。
しかし、腹違いの姉のこととなると、話は別だ。
アンネローゼは、義姉ルクレティアに執着ともいうべき強烈なコンプレックスを抱いている。
ヴァルは、リーゼロッテから聞いたことがあった。リーゼロッテがまだ幼いころ、教師から逃げて城を抜け出したアンネローゼと、彼女が王女と知らずに遊んだという思い出話。
『自分を苦しめてるのは自分なんじゃないの、アンネローゼ』
そんなようなことを言っちゃったのよね、とリーゼロッテは頭を掻いていた。
王女とは知らなかったと力説するリーゼロッテだが、知っていようといまいと、歯に衣着せぬ物言いをするのがリーゼロッテの長所であり短所だ。
アンネローゼは怒ったが、リーゼロッテの言葉を素直に認めたという。それ以来、身分差を超えた親友として、二人の関係は続いている。
リーゼロッテを招く手紙を書いたということは、アンネローゼもまた、城塞都市シュネーケンの代表者として、アルトグレンツェに赴くということだろう。
王女が、小さなルチコル村の代表者まで集めるからには、ほかの都市の代表者も顔をそろえるに違いない。世界に関わる重大な議題が協議にかけられるのは火を見るよりも明らかだ。
それに――ヴァルには気にかかることがある。
『今、世界は何だかおかしいわ。わたし、感じるの』
憂えるリーゼロッテ。
そして、夜の闇にまぎれるはずの魔物が白昼に現れる異常事態。
何かがあべこべになっている。ボタンのかけ違いのような違和感がぬぐえない。
いったい、世界に何が起きているのか。
「そうと決まれば、荷造り、荷造り♪」
若草色の透きとおるような服をまとうエインセールが、ひらひらと飛ぶたびにヴァルの視界に光が散らばる。
「このあばら屋にも、当分は帰ってこられないな」
「鞄って、これ?」
「……はいはい」
「なんか埃まみれですね」
「ずっと使ってないから」
鞄と思しき布の袋の紐を引っ張ろうとする。その力では無理だ。
案の定、埃が舞っただけで、エインセールはくちゅっと可愛い音を立ててくしゃみをしている。
「ヴァル、まともな旅支度はできそうにありませんね。第一、物がなさすぎるわ、この家。よく暮らせてましたね」
「生きていくだけなら、このくらいで十分なの」
「そのブーツだと、アルトグレンツェまでの道のりも厳しいんじゃないかしら」
「靴底がすれて薄くなってるか」
ヴァルはよれよれの革のブーツの底を眺め、あっけらかんと言う。
「やっぱり旅費を少しでもオズヴァルトから受け取っておくべきだったわ。まさかこんな状態だったなんて」
「へぇ、オズヴァルトからねぇ」
「あ」
くりくりっとした眼をもっと大きく見開いたエインセール。
失敗を取り繕うことも忘れたその表情に、ヴァルは毒気を抜かれて吹き出す。
旧い馴染みの男がやれやれと肩をすくめている様子が、ヴァルのまぶたの裏に浮かんだ。