後編
包帯でぐるぐる巻きにされた左手をかばいながら、陽子は悚然と家路を辿っていた。重い足を引きずって、ゆかりの家へと向かった、ほんの数時間前が、永遠に返ることのない遠い過去のことのように感じられた。
悪夢としか言いようのないできごとのあと、救急車で運ばれた病院で陽子は火傷の処置を受けた。
若い看護師は患部の醜状に反射的に顔をしかめた。もちろんそれは初めだけのことで、その後は職業人としての態度に不適切な点はなかったが、表情にこぼれ出た生身の女性としての率直な反応に陽子は深く傷つけられた。それは女性が最も忌避する災難、すなわち容姿を損なうこと、貞操を犯されること、への本能的な嫌忌に他ならなかったからだ。
医師は入院を勧めたが陽子は強硬に帰宅を主張した。付き添って来たゆかりの母が家まで送ると言ってくれたが、それを辞儀し、家の人に迎えに来てもらいましょうという提案さえも頑なに拒んで、なかば逃げ出すように病院をあとにした。慌てて追いついて来たゆかりの母には、せめて駅まで送ると言って陽子をタクシーに乗せることしかできなかった。
タクシーの中でゆかりの母は、ひたすら陽子に詫び、ご両親に申し訳ない、と謝罪を繰り返した。
愛娘を失ったうえ、焼香に来た娘の友人に大怪我をさせたとあっては、この人の立場としては、さぞかし肩身の狭い、やるかたない思いであっただろう。が、それを斟酌するだけの精神的余裕を失っていた陽子には、ただ煩わしいだけだった。
それを振りきるようにして、陽子は最寄りの駅でタクシーを降りた。必ずお詫びに伺うから、という、ゆかりの母の訴えを終わりまで聞かず、陽子は頭だけを下げて背中を返した。次第に足早になるにつれて、陽子は見る間に表情を崩し、涙が滂沱と頬を伝った。
ああ、私は泣きたかったのか。泣きたいのをこれまで我慢していたのかと、そのときになって分かった。夜も更けた郊外の駅は乗降客もまばらだった。陽子は人目を気にせずに、しばし涙に暮れるに任せた。
そこへ何が詰まっているのか、分厚いショルダーバッグを提げた中年のサラリーマンが改札へ向かって歩いてきた。男は車両感覚のつかめない大型車よろしく、荷物の縁にまで神経が届かないらしく、陽子の脇を通過する際、傷ついた左手にバッグの角をぶつけ、そのまま気づかず歩き去った。
悲鳴が出る前に気を失いそうな激痛だった。陽子は黒目をひっくり返して、うずくまった。感傷さえも許してくれない苛酷な展開に暗澹とした。
借り物の靴下とサンダルが目に留まった。あのときなら、まだやり直しが利いた。せめて、あの瞬間に帰りたい。こんな町に来るのではなかった。
陽子は心底、そう悔やんだ。尻を叩いて無理に来させた母を恨んだ。
でも、もう遅い。いまや自分の快活な性格と明るい未来は大きな力でねじ曲げられてしまった。陽子はそう感じずにはいられなかった。
ゆかりはなぜか自分を選んだ。最後の思いを伝える相手として自分を選び、否応なしに大きな荷物を託したのだ。
なぜ自分なのか。いったい何を望んでのことなのか。
その疑問を解く鍵は池浪高校の校章にある。この持ち主がゆかりの事件に大きく関わっていることは疑いないように思われた。この校章はすべてを知っているのだ。そして自分とゆかりの間に、この校章を置くことで照らし出される人物はいったい誰か。陽子はそれを考えたくなかった。
陽子は上着の腰のポケットから校章を取り出し、物問いたげにじっと見つめた。そして、はたと気がつき、ぞっとした。
なぜこれを持っているのだ。
陽子は校章を見つけたあとの自分の行動を思い返した。慌てふためく、ゆかりの母が瞼に甦る。救急隊員たちの機敏な動きがそれに重なる。だが記憶のどこを検証しても、校章をポケットに入れるシーンは収録されていなかった。
やがて陽子は記憶をたぐる無益さに気づいた。この校章はあるべくして、ここにあるのだ。与り知らぬ意志によって自分の体が操作されたことを陽子はもはや不思議とは思わなかった。
ただ恐ろしかったのは、こののち自分がどこまで連れて行かれるのか、そこでどんな運命が待ち受けているのか、そしてそれが想像もつかないということだった。
この手の傷は一生消えない。機能さえも元通りに回復するかどうか分からない。でさえ、これで終わるとは到底思えないのだ。
陽子は悲観でいっぱいになった。この傷は、いわば焼き印だ。ゆかりの恩讐の奴隷となった烙印なのだ。ゆかりは自分をいったい、どこへ誘おうとしているのか。それを思うと陽子は不安と恐怖で身が竦んだ。
ゆかり。あなたは私をどこに連れていく気なの。私に何をさせたいの。そのぐらい教えて。
そう心で訴えて、慌ててそれを打ち消した。呼びかけに応じて姿を現されでもしたら、たまらない。
ほとんど意識しないままに電車に乗り込み、地元の町に帰っていた。夜道をとぼとぼ歩きながら、たまらなく恋しいわが家が近づくにつれ、陽子の心は重くなった。ゆかりの母から連絡を受けて、自分の帰宅を待つ両親の、驚き嘆くであろう反応が負担に感じられた。すでに何度か母からの着信があった。が、心配を募らせることを承知で陽子はそれに応じずにいた。
知らない家の玄関先に置かれた小屋の中で丸まって寝ていた犬が陽子の足音に気づき、片目を開けて、すぐ閉じた。その安らかな寝顔がたまらなく羨ましくなり、犬なんかに羨望を覚える自分がたまらなく情けなくなった。
そのとき上着の内ポケットの中で籠もった電子音がメールの着信を知らせた。携帯電話を取り出してディスプレイに発信者の名を読み取ると、陽子は懐かしさのあまり、喉を詰まらせた。
『今、どこにいるの?どうしても会って話したいことがある。昼間のことも謝りたいし。何時でもいいから連絡を下さい。待ってます』
枯れた泉にこんこんと清水が湧き出るような心地がした。嫌悪も疑心も雲散し、理屈ではない温かい慕情が陽子の胸を満たしていった。
すぐに会いたい。どうしても会いたい。
陽子は聡の電話番号を呼び出し、迷わず発信キーを押した。気が急くあまり、電話を手から落としそうになった。呼び出し音が鼓動を煽った。
「留守番電話サービスにおつなぎします。こちらは090…」
機械の女声がそう言った。意外な肩すかしに、陽子は終了キーを押すのも忘れて、ディスプレイに目を落としたままになった。もう一度かけてみたが同じ女声を聞くことになった。
連絡をくれと言っておきながら、ケータイを身近に置いてもいないの?
甘えられる相手には、いつでも言うことを聞いてほしい。
抑圧されていた陽子本来のわがままな気質がほんの少し頭をもたげた。だが一寸先の未来さえ、はかなまずにはいられないこのときの陽子には、予想を裏切るわずかな異変にも不安を感じ取らずにいられなかった。心の内は、腹立ちが育つには適さない環境だった。
胸騒ぎがした。虫の知らせと言うのだろうか。陽子は聡の自宅へ電話を入れた。陽子が名乗るのと入れ替えに、聡の母の取り乱した声が跳ね返ってきた。不安の羽音が一気に増した。
「陽子ちゃん?陽子ちゃんなの?私にも何が何だか分からないのよ。あなた、何か知らない?」
「おばさん、どうしたんです。何があったんですか。落ち着いて下さい」
そう言う陽子も声がうわずっていた。聡に何かが起こったことは疑いようがなかった。
「聡がね、たったいま警察から連絡があって…」
おい、よしなさい!
電話の奥から野太い声が耳に届いた。聡の父が平静を失った妻をたしなめている様子が手に取るように伝わった。でも陽子は聞いてしまった。警察!
陽子の抱いたあらゆる不審は、この二文字と何としっくり融け合ったことだろう。どんな凶事も悪漢も懐深く迎え入れる、この二文字に。
もちろん現段階では容疑に過ぎまい。しかし癌病棟へ入ったと聞いて、諸症状から疑懼した病名を確信しない者がいようか。
最悪の結果が訪れた。そう考えて、陽子はそれを訂正した。正確には日常世界における最悪の事態だ、と。
体の芯から震えが来た。幽明双方からの挟み撃ちに遭って、陽子は絶望に押し潰されそうになった。
まだ続いていたのだ。ゆかりの魂魄は、いまだ自分を離してはいなかった。いったん幕が引かれたと思っていた今日の演目は、場面が変わったに過ぎなかったのだ。今日の自分にこの上、まだ何かが訪れるのか。運命はそれほど危急を告げているのか。
「さ、桜庭陽子さんですか?」
びくりとして振り返った陽子は、この拙劣な狂言回しに予期したものとは異質の緊張感を抱いた。それは社会での破滅とも魔界の無間とも明らかに馴染まない、身近な生活レベルの緊張だった。ナンパ男に、酔っぱらいに、変質者に漂うような胡散な臭いを、陽子はこの男に嗅ぎ分けた。陽子は直ちに警戒した。陽子はこの種の緊張には、経験から十分な免疫力を持っていた。この局面に自分を見失わせる何物もなかった。
「あ、あの、桜庭さんですよね」
重ねて問われ、陽子はまっすぐ目を向け、
「あんたは?」
と難詰口調で聞き返した。
男はガラス戸にぶつかったような顔をして、思わず一歩あとずさった。あからさまな拒絶の気味に早くも意気が挫けそうだった。
「ぼぼ、ぼく、伊勢上くんと同じ高校なんです」
「池浪の制服を着ているじゃない。見れば分かるわよ、そのぐらい」
切り口上な言い方に男の顔がひきつった。そのたじろいだ表情を見て、陽子はこの男の臆病を見抜いた。畳みかけて言った。
「名前は何て言うのよ」
「お、網田敬一です」
「オーダ?」
聡から聞いたことのない名前だった。どういう字を書くのかも想像できない。ひとつだけ確信したのは警戒を解いてはいけないということだった。
「私に何の用なの?」
「あのあのあの…」
ゆかりを連れ出したときとは勝手の違う陽子の邪険な対応に、網田はすっかり面食らった。女の子に嫌悪を示されるのは毎度のことだったが、ここまで露骨にけんつくを食わされるのは初めてだった。網田は動揺を隠せず、結果ますます陽子に怪しまれることになった。それでも健気に食い下がった。
「ぼ、ぼく、伊勢上くんから桜庭さんのことは、よく聞いていたんです」
「うそ!」
「ううう、」
一言のもとに否定され、網田は動転して息を詰まらせた。つばを飲み込み、
「うそじゃないです!」
と一気に吐き出し、荒く息をした。人心地がしなかった。本城の脅迫がなかったら、逃げ出したい心境だった。
「こ、この前の土曜日には桜庭さんと一緒にディズニーランドに行くんだって、伊勢上くん、話していました」
「その話はね、結局なしになったの。私の部活の都合で。そこまでは聞かなかったの?」
陽子は網田を睨んで言った。
「あんた、いったい何が言いたいわけ?何の目的で私に近づいてきたの?」
網田はことばを詰まらせて、いよいよ窮地に追いやられた。もはや切り札を出すしかない。そう意を決し、硬い表情を陽子に向けた。
「大西ゆかりさん…」
陽子の心臓は暴発しそうになった。この場でその名を聞こうとは予想もしないことだった。ノーガードだった陽子の意識は、この不意打ちに成す術もなかった。
「…の事件のことで伊勢上くんから何か聞いていますか?」
今度は陽子がことばに詰まる番だった。一番聞きたくない話の核心を突如突きつけられたのだ。急に胸が苦しくなってきた。鎧を外したところで刺された刃を、ぐいぐい押し込まれるようだった。
「伊勢上くん、警察に目をつけられていたんです。見張られているから、自分では身動きがとれない。だから、ぼくが頼まれたんです。もしも自分に何かあったときのために、桜庭さんに渡してもらいたい物があるって」
陽子は情報の整理に苦しんだ。自分でさえ、聡の自宅に偶然電話をかけて知ったばかりのことを、この男はもっと前から知っていた。自分は、この男を見くびっていたのだろうか。この男が自分に近づいて来たのには、もっと重大な理由があるのかも知れない。
そう思って、陽子は口を滑らせた。
「それで、…伊勢上くんが捕まったと聞いて、私のところに来たの?」
これは思わぬ吉報だった。筋書き通りに事が運びそうな予感に網田の胸は躍った。網田は自分が表情に乏しいことを幸運に思った。そうでなかったら、目尻に、口許に喜びが滲み出てしまっただろう。勢い込んで言った。
「も、も、もう連絡があったんですか?」
陽子は唇を噛んで頷いた。右手が傷ついた左手をかばうように自然に動いた。それを見て初めて、網田は陽子の左手の包帯に気づいた。
「て、手をどうしたんですか?」
それには答えず陽子は言った。
「ひとつだけ教えて」
改まった様子に網田は身構えた。
「伊勢上くんは、なぜそれをあなたに頼んだの?」
『あんた』が『あなた』に変わっていた。それに気を良くして、網田の思考は滑らかになった。
「ぼく、見たんですよ。あの日、伊勢上くんが大西さんと一緒にいたところを。北村山駅近くの喫茶店で偶然出くわしたんです。7時過ぎに伊勢上くんのケータイが鳴ったのをしおに二人とも席を立って別れたようでしたけど」
初めて聞く話だった。でも事実とも符合する。陽子が聡に電話をかけたのが7時過ぎ。ぴったりだ。そのとき聡は北村山にいると言っていた。
「そんな話、私、何にも聞いてない」
「大西さんと一緒にいたことを知られたくなかったんじゃないですか?」
当て推量で網田は言った。だがそれは聡のうそうそした態度の訳として、実にしっくりゆくものだった。陽子は苦渋を絞るように言った。
「それで…、私はどうすればいいの?」
「うちの高校まで来て下さい。伊勢上くんから預かった物を見せてあげます」
網田は分厚い顔の肉で笑いを押し殺した。成功を確信し、だめ押しのつもりで、ことばを継いだ。
「それがあれば、伊勢上くんの潔白を証すことができますよ」
「それなら、なぜあなたがそれを警察に言わないの?ううん、そんな証拠があるのなら、伊勢上くん本人が警察に言えばいいことじゃない」
「へ?」
網田は調子外れな声を出した。そしてそれが、もっともな反論であることは、さすがの網田にも合点がいった。いま一押しと踏んだはずが、とんだ形勢逆転となり、網田は周章狼狽した。
「本当に伊勢上くんから頼まれたの?あんた、いったい何を知っているのよ」
網田は陽子の詰問にたじたじになって、戦況を決定づける大失言をした。
「ほ、本当ですよ。ぼくは真犯人だって知っているんだから。あうっ…」
陽子の目が鋭く光った。真犯人を知っている!
いかにも卑屈な、この男がこの部分だけは迷いなく言った。この網田という男、人物そのものはまったく信用を置けないが、事件の真相について重大な何かを掴んでいるのは確実なように思われた。
ここでこの件を警察に委ねようとしなかったのは、陽子の生来の勝ち気と若さから来る浅慮、そして有無を言わさず託された、ゆかりの遺志の圧力によるものだった。網田の出現は、ゆかりの魂が何とか陽子に犯人を伝えようとした(現時点ではそうとしか解釈のしようがない)ことと流れを一にする展開に思われた。
ただ、このとき陽子にはある思いつきがあった。聡が警察に同行を求められたのなら、一か八か、それを逆手に取る手がある。陽子は意を決して、ひるむ網田に向き直った。
「分かった、行きましょ。伊勢上くんがあんたに預けた物を私に見せて」
※ ※ ※ ※ ※
時刻はすでに夜10時を大きく回っていた。家ではさぞかし両親が遅い帰宅に心配を募らせているだろう。ほかでもない、ゆかりの事件があったばかりだ。しかも大火傷を負って病院から帰ったと、ゆかりの母から連絡があったはずだ。それでも陽子は、あえて家との連絡を控えていた。それによって網田の行動に変化が起こるのを防ぐためだった。
池浪高校までは勝手知ったる道のりだった。網田に案内されるまでもなく、むしろ先導するようにすたすたと歩いた。
途中、陽子は網田とひとことも口をきかなかった。気詰まりに耐えかねた網田が何かを言いかけると、きっと睨んで黙らせた。
だが通用門をくぐり校内に入ると、空手部の部室までは網田の道案内が必要になった。陽子と舳艫を入れ替わり、網田は暗い校内を警備員に見つからないよう、きょろきょろと辺りを見回しながら、挙動不審者そのものの体で陽子を導いた。
陽子は緊張を高めていた。いまや敵陣に入ったのだ。網田の狙いが分からぬ以上、万一危険が迫った場合、どうやってそれを回避するかをつねに意識しなければならない。誰かに見咎められることになど、何の不安も感じなかった。むしろ都合が良いとさえ言えた。
見覚えのある木造の古風な道場のわきを抜けた。
「こ、ここが道場です」
「知ってるわよ。さっさと行って」
陽子は余計なことで注意を乱されたくなかった。要らぬ解説は、けんもほろろの扱いを受けた。陽子は網田を小突くようにして目的地への案内を急がせた。
間もなく、グラウンドのへりに沿うようにして建てられた平屋の細長い建物が見えてきた。それを見るのは陽子も初めてのことだった。長屋のような建物の奥へ奥へと網田は進んだ。並んだ扉に打ち付けられたプラスチックのプレートを見て、陽子はそれが運動部の部室棟であると知った。一番奥まで進んだところで、網田はおずおず顔を向け、
「こ、ここです。お待たせして、すみません」
おもねるように、そう言った。『空手部』と印字された、ひびの入ったプレートが辛うじて扉から落ちずに掛かっていた。
ここで聡は日々道着を纏い、気合を高め、汗を拭っている。その姿がどこからか運ばれてきて、陽子の視界に重なった。こんな機会でなかったら、さぞ感慨もあったろう。そう陽子は思った。
しばしの物思いから我に返ると、網田は次の行動をためらったまま、陽子の表情を窺っていた。陽子は今更ながら、この遅鈍な男に虫唾を走らせた。
「何してるの。私に見せたい物があるんでしょ。早く見せなさいよ!」
「は、はい」
網田はびくりと肩をすくめ、慌ててドアのノブを捻った。もはや誰の命令に従って行動しているのか、網田本人にも分からなくなっていた。
網田は扉を押し開けて、部室の奥まで踏み入ると、しばし所在なく立ち竦んだ。一挙一動が陽子を苛立たせ、それが陽子の注意を怠らせる結果になった。このあと網田が恐る恐る振り返った際、部屋の隅に視線を一瞬止めたことを、扉の外に待つ陽子は見落とした。網田を取るに足らないと見下したことが、不覚にもこの状況を甘く考えさせてしまった。
「ねえ、いつまで待たせておく気?そこに何があるの。早く見せてよ」
「あの、こっちへ来てもらえませんか」
「なんで行かなきゃならないの。こっちに持ってくればいいじゃないの」
困惑顔の網田を威嚇するつもりで右手を差し出し、
「早く持って来てよ!」
そう告げた瞬間…
陽子の右腕は常夜灯の明かりを受けて、扉の内側へ影を延ばしていた。そこにもう一本の影が延び、陽子の手首を鷲掴みにした。予期せぬ衝撃と、その握力の強さに陽子は悲鳴も飲み込み、身を硬くした。油断を悔いる暇もなかった。
肩が抜けそうな勢いで部室の中に引っ張り込まれると、陽子はそのまま床に投げ倒された。傷ついた左手を咄嗟にかばったため満足に受け身をとれず、パイプ椅子に額をぶつけ、椅子ごとその場に横転した。陽子は痛みに涙を滲ませ、呻吟した。そこへ扉の閉まる音に続いて、冷たく嘲る声が聞こえた。
「おいおい、またこの間みたいな鈍い女じゃないだろうな」
まだ目が慣れぬ暗い室内に、陽子は明らかに網田とは別のもうひとつの人影を認めた。人影は腰を屈めて、陽子に顔を近づけて言った。
「お前の名前を言え」
「あんたこそ誰よ」
痛みに震える声で陽子は気丈に言い返した。その反応に人影は愉快そうに笑みを漏らした。
「俺の名前は本城義彦。伊勢上から聞いたことはないか」
聞いたことがあった。陽子は、はっと息を飲んだ。自分の名に思い当たった様子を見て、本城はこれが本物の桜庭陽子だと確信した。
「さあ言ったぞ。今度はお前の名前を言え」
「分かってて連れてきたんでしょ!」
陽子はそう言って、強気な視線で本城を射返した。窓から射し込むわずかな明かりが本城の満足げな表情を照らした。
「今度は本物のようだな」
そう言うと本城は腰を伸ばし、網田に向き直った。
「よし。おまえは外に出ていろ。何かあったら、ノックして知らせるんだ」
言われるままに網田は部室を出た。開けた扉から外の光が流れ込み、本城の姿を薄明かりの内に浮かび上がらせた。凶猛で酷薄な陰影を刻んだ表情が陽子を見下ろしていた。その残像が貼りつけたまま、本城の顔は再び闇に沈んだ。
陽子は寒気を覚えた。だが奈落の戦慄に慣れてしまった陽子の精神は、目前の危機に対する反応にむしろ鈍くなっていた。陽子はこの局面で普段とほとんど変わらぬテンションを保って本城に相対した。
「あんたがゆかりを…あんな目に遭わせたの?」
『殺した』いうことばの毒々しさに耐えかねて、こう訊いた。
「大西ゆかりか。別にあの女を殺そうとしたわけじゃない」
「ふざけないでよ。じゃあ何のために、あんなことをしたって言うの」
そのときになって、陽子の脳裏に本城の先のことばが甦った。
「本物の?」
禍々しい予感に震え、陽子は続けた。
「本物のって、どういう意味?」
わずかの間が緊張を溜めた。それが本城の声に実際以上の凄みを感じさせた。
「俺が殺してやりたかった女の名は、…桜庭陽子」
さすがの陽子もショックで口がきけなかった。自分が人から殺される?
それは字面の意味こそ明瞭だが、実感するにはほど遠いことばだった。これほど普段の生活感覚と馴染みにくいことばもない。殺す、殺されるなどという物騒なできことは自分の暮らしと無縁なはずだ。
しかし事実はまさに起きた。ゆかりは自分と取り違えて殺されたのだ。それは本来ならば、自分の辿る運命だった。
遅れてきた理解は、陽子を死霊の呪縛から解き、直面する危局へ意識を向けさせた。
「ど、どうして私を…」
何とか声を振り絞って言った。
「これはあの女にも言ったことだが、俺はお前に何の恨みがあるわけでもない」
「それじゃあ、どうして…」
「伊勢上は、お前に俺のことをどう話した?」
急に話が切り替わった。その転換に陽子は困惑した。
「それが何の関係があるの?」
「どう話した?」
「…強い奴だって」
「そうか。皮肉なことだったな。それを聞いていれば、大西ゆかりも死なずに済んだものを」
「どういうこと?」
「伊勢上は俺を無視し続けた。俺の力も信念も、存在自体も眼中にないふりをした」
陽子は黙って、あとのことばを待った。
「だから俺は復讐した。あの女が死んだのは伊勢上のせいだ。おまえも恨むのなら伊勢上を恨め」
この身勝手な言い条に陽子はさすがに腹を立てた。
「最低!あんた最低の男よ。伊勢上くんが気に入らないなら、そう本人にぶつければいいことでしょ。それができないものだから女に手を出すなんて、あんた最低最悪よ」
「言っただろう。あいつは俺を取り合おうとしなかったんだ」
互いに感情が高ぶってきた。ゆかりのときとは打って変わって、殴り合いのような言い争いになった。
「それに、女を手にかけたのには別の理由もある。俺は鍛錬を中途にして、女といちゃついているような奴は絶対に許せねえんだ。女を殺したのは、それをあいつに思い知らせるためだ」
「時代錯誤よ。それにあんたは、その鍛錬を中途にしているような男に負けたんでしょ。たいそうな理由をつけたって、本当は負けた腹いせだったんでしょ!」
本城は怒りで目の前が霞んだ。自分のことを聡が陽子に話して聞かせていたことには満足した。しかし件の試合のことまでは話す必要のないことなのだ。怒りで目が眩んだ本城は、その矛盾から目を背けた。
来る。
陽子は身構えた。
どこからか揮発性の異臭がした。だがそれに気をとられている状況ではなかった。
陽子は聡から、男に襲われそうになったときのための簡単な護身の手ほどきを受けたことがある。手に噛みつき、上腕の裏側の柔らかい肉をつねり、股間を蹴り上げる、という単純なものだが、こうした古典的な攻撃の方が得てして高度な体術よりも有効であることが多い。
「でもこれは、あくまで逃げるための時間稼ぎだからね。勝とうなんて考えちゃいけないよ」
わが身をもって指導したのち、痛みに顔をしかめながら聡は言い添えた。陽子も無論そのつもりだった。網田ならともかく、聡をして強いと言わしむ本城と、まともにやりあう気などあるはずがない。
だが本城の攻め手は違った。こう問いかけた。
「その手の怪我はどうしたんだ」
「あんたには関係ないでしょ」
やや気をそがれて陽子は答えた。
「そうだな、確かに関係ない。そしてお前にとっても、すぐに関係なくなる」
そう言うなり、あっと思う間もなく右手を伸ばし、包帯に巻かれた陽子の左手を握り潰さんほどの力で掴んだ。
激痛が全身を走った。悲鳴を上げそうになった口を、間を置かず詰め寄った本城の左手が塞ぎ、そのまま壁に叩きつけた。後頭部を壁に打ちつけ、陽子の意識は一瞬飛んだ。
力の抜けた陽子の体から、本城はいったん手を離した。背中が壁をずり落ちて、陽子は床にしゃがみ込んだ。本城は部屋の隅からロープを取り上げ、陽子の首に巻きつけた。
「いいか、お前は首を吊るんだ。友だちを彼氏に犯されて殺されたことを悲観して、首を吊って死ぬんだ」
本城は左手で陽子の髪を掴んで立ち上がらせると、陽子の首を懸けたままのロープを右手で高く掲げ、壁に押しつけて固定した。そして爪先立ちで必死に耐える陽子を冷たく嘲笑い、その足を払った。支えを失った陽子の体は一瞬宙を泳ぎ、同時に全体重をロープに預けた。
ロープが重く軋み、それを掴む本城の右腕が大きく隆起した。本城は全力でロープを壁に押しつけて、陽子の体重を支えながら、苦し紛れにロープを掴もうとする陽子の手を冷徹に払い除けた。
陽子は血走った目で本城を見た。頸動脈を圧せられ、たちまち遠のいた意識の中で、無念と憎しみと哀訴のこもった視線で本城を見た。出し得る力で本城の胸を押し返そうとしたが、それは虚しい抵抗でしかなかった。
この程度の抵抗は物の数ではなかったが、最後まで失われない陽子の戦意に、本城の格闘家としての魂は、この場に似合わぬ敬意を抱いた。そして、この消えゆく生命を汚さぬよう、手抜きをせずに倒しにかかった。
本城は首尾を確かにするために、打撲の痕が残らない力加減で陽子のみぞおちを叩いた。唾液の飛沫が本城の顔にかかった。それを一矢に陽子の抗う力は失われた。
陽子は虚ろな悲しみをもって、生命力が儚く消えゆくのを悟った。もうだめだ。そう思ったのを最後に、今まさに意識が途切れようとしたそのとき…
霞んだ視界に紅蓮の舌が躍った。その色に切迫した記憶が呼び覚まされ、途切れゆく意識をぐいと引き戻した。
陽子はその色のする方向を見た。そして両目を大きく見開いた。
部室のグラウンド側にある窓が魔窟の入り口と化していた。窓の外は劫火に包まれ、そこにあの亡者の惨烈な姿があった。露わな双眸が、此岸に思い残したものを見るように陽子を見据え、両顎がこぼれ落ちる歯の隙間から臆念を伝えようと上下した。
声は耳には届かなかった。しかし視覚がそれを感知した。
「て、が、み…」
生々しい恐怖が意識とともに息を吹き返した。身に迫る死とは異質の恐怖に陽子は情操を逸し、どこから得た力か、釣り上げられた魚のように激しく身もだえた。その突然の蘇生は本城を驚かせた。
だがその直後、本城も異変に気づいた。
窓を染める赤い色を見て、本城は一瞬それを目の錯覚かと思った。だが陽子一点に絞られていた神経を広角的に開くと、それが錯覚などではないことがすぐに分かった。
窓の外は炎で真っ赤に燃え上がっていた。これには本城も動転した。思わずロープから手を離すと、陽子は垂直に崩れ落ち、荒い呼吸を繰り返して気を失った。だが差し当たり、それに構ってはいられなかった。
室内の温度は十分に体感できるほど上がっていた。建材の爆ぜる音がそこかしこから響いた。炎はいまや窓の外だけでなく、本城たちのいる部室全体を包んでいた。
本城は衝動的にドアのノブを掴み、その高温に驚いて手を離した。扉と壁の隙間からガソリンの燃える臭いがした。短時間での火の回り方から考えても、種火が燃え広がったわけでないのは明らかだった。
放火。
即座に網田の顔が浮かんだ。網田の仕業と以外考えられない。怯懦な男の思いもかけぬ逆襲に本城は絶句した。陽子の始末に集中していたとは言え、あまりにも迂闊だった。
だが不覚を悔いているときではない。まず何よりも脱出し、外の状況をあらためた上で逃げることを考えなければならなかった。
わずかの間に壁板の継ぎ目から徐々に煙が室内を侵し、火が爬虫類の舌のように壁の内側を舐め始めた。
まず、すべきことは何か。本城は頭を巡らせ、木製の棚やサンドバッグで、気絶している陽子の体を覆い隠した。筋書の変更を余儀なくされたが、陽子にはここで死んでもらわなくてはならない。そのためには自力での脱出も外部からの発見も、少しでも遅らせる必要があった。数分煙に巻かれていれば、その目的は果たせるだろう。空手部部室で変死体が見つかったとなれば、嫌疑の輪が狭まることは避けられないが、物証さえ残さなければ切り抜けることも不可能ではない。
今できるのは、ここまで。先のことは先のことだ。あとは自分がこの場を逃れなくてはならない。
本城は放ってあった誰かの道着で手の平を保護し、再びドアノブに手をかけた。だが押しても引いても、扉は開こうとしない。外側から針金で巻くなどして固定してあるに違いない。本城は唇を歪めた。
やってくれたな、網田。
そのときサイレンの近づく音が聞こえた。本城は、はっと意識を切り替えた。この音の距離なら、まだ間に合う。そう判断した。
だがこのとき本城は、状況からそれを消防車のサイレンと決めつけてしまい、緊急車両の正体を見誤っていた。
本城は渾身の横蹴り一発で扉を蹴破った。同時に、開いた入り口から猛火が押し入り、本城の体を押し返した。予想以上の火勢に瞬時怯んだが、本城は両腕で顔を覆い、身を低くして、躊躇せず炎のバリケードに突っ込んだ。
一瞬の焦熱をくぐり抜け、本城は地面にもんどり打った。髪が多少焼け縮れたが、どこにも火傷も燃え移りもない。速やかに起き上がり、サイレンと反対方向に駆けだそうとした。
そのとき校舎の陰から一つの人影が突進してきた。その姿に瞠目したと同時に、本城は人影が自分を呼び止める声を聞いた。
「本城、お前!」
その声と姿に、本城は射竦められたように動けなくなった。
聡だった。本城は炎に照らされた自分の顔が蒼白になっていくのを感じた。
まっしぐらに向かってくる聡を見て、本城は金縛りの呪縛を強引に解き、踵を返し、そして逃げた。
「待て、本城!」
本城は、その声に振り返りもせず全力で走った。足がもつれそうになるのも厭わず、ひた走りに逃げた。
聡はいっとき逡巡したのち、本城を追うことを諦めた。高く炎を上げる部室を前に、聡は暫時呆然と立ち竦んだが、ここに陽子がいるかも知れないと思い出して、前後も顧みず飛び込んで行った。
「伊勢上くん、無茶をしてはいけない」
あとから追いかけてきた背広姿の男が叫んだときには、聡の姿は炎の中に消えていた。
「おい、119番だ。消防車を呼べ。それと中に女子高校生が取り残されているかも知れん。救急隊の出動も要請しろ」
背広の男は、駆けつけたもう一人の男にそう言うと、仁王のように入り口に立ち塞がる炎をくぐって、聡の援助と救助に向かった。
「陽子!陽子!」
部室の中では、聡が炎から身を避け、煙を掻き分け、半狂乱になって陽子の名を叫んでいた。煙を吸い込み、咳き込んだところを、あとから突っ込んできた背広の男に肩を掴まれ、腰の高さにまで身を屈めさせられた。
低い位置には煙はまだ蔓延しておらず、比較的良く部屋の様子を見渡すことができた。まだ部屋の内部はそれほど火に荒らされていないにもかかわらず、不自然に備品の崩れた箇所が目に入った。
「伊勢上くん、あそこだ」
倒れた木棚の下から、ソックスを履いた女の足が覗いていた。煙で涙の滲んだ聡がそれを確認できずにいるうちに、男は匍匐で前へ出ると手早く木棚を取り除いた。下敷きになっていた陽子の姿が現れた。
「陽子!」
ようやくそれを認めた聡が駆け寄ろうとするのを制して、背広の男は陽子を両手で抱き上げた。
「きみは先に出ろ。早く」
男は陽子を中腰で抱きかかえたまま、聡を突き飛ばすようにして、再び炎に巻かれた入り口をくぐった。
男と聡が転がり出ると、わずかの間に部室の外は緊張に包まれていた。待機していたもう一人の男のほかに、別の車に分乗して来た数人の制服警官も到着して、現場を検証したり、肩に着けた受令器で署と連絡を取ったりしていた。消防車のサイレンが間近で幾重にも響いていた。初老の警備員が拱手傍観の体で立ち竦んでいた。
二人とも全身に煙と煤を被っており、聡は手と顔に軽い火傷を負った。駆け寄ってきた制服警官の一人に陽子を託すと、背広の男は声を発した。
「被疑者はまだ近くにいる。校内と周辺の不審人物を捜せ。確保を急げ」
「陽子、しっかりしろ。陽子、陽子!」
聡は陽子に寄り添って、錯乱気味にその名を叫ぶばかりだった。
「大丈夫。脈もあるし呼吸も正常だ。煙もそれほど吸い込んでいないようだし。床に倒れていたのが幸いしたんだな」
背広の男に宥められても、聡は興奮を抑えきれず、吸い込んだ煙でときどき、むせ返った。
咳き込み、顔を背けた際に、陽子の左手に厚く巻かれた包帯に気づいた。聡はことばを失った。昼間会ったときには、なかったものだ。あのあと陽子に何が起こったのだ。自分と別れたあとの陽子に、自分の知らないどんな惨事が訪れたのだ。
「伊勢上くん、お願い。私と一緒に来て」
昼間に聞いた陽子のことばが耳に甦った。思い詰めた、その表情が瞼に浮かんだ。
痛烈な後悔が聡を襲った。なぜ着いて行ってやらなかったのだ。自分が一緒に行かなかったばかりに、陽子はたった一人でこんな目に遭うはめになった。どんなに怖かっただろう。どんなに苦しかっただろう。陽子が不憫でならなかった。聡は身を引き裂かれんばかりになった。
消防車が二台、校内に乗り入れて消火栓にホースを繋いだ。合わせて到着した救急隊が駆け足でストレッチャーを運んできた。このころには近所の野次馬も勝手に校内に入ってきて、遠巻きに近火を見物していた。
喧噪の高まる中、聡の乱れた心は急速にある感情を凝縮させていった。陽子の体がストレッチャーに横たえられ、この日二度目の救急車の内に消えると、聡は心配よりも憎しみに突き動かされ、蹶然と立ち上がった。
「陽子をお願いします」
涙声でそう言うと、聡は本城の走り去った方向へ全力で懸けだした。
「伊勢上くん、どこへ行く!?」
聡を警察官と病院へ同行させるつもりでいた背広の男は、聡の行動に驚いて声を上げた。男は、まだこの時点で被疑者の一人である聡をこのまま行かせるわけにはいかず、制服警官二人に追走を命じた。だが校内に不案内な警官は、校舎の隅を曲がったところで、俊足の聡を見失ってしまった。
「本城、許さんぞ」
校舎の脇を猛然と駆け抜けながら、聡は噛み締めた奥歯の隙間から荒い息と憎悪を漏らした。
理科室、音楽室、美術室などの入った実験棟から中庭を横断し、植え込みの陰に目をやりながら、向かいの講義棟の裏手へまわった。視界の奥で、日々汗を流す空手道場が輪郭を浮かべていた。そこからいったん外した視線を聡は急いで元へ戻した。
道場の陰で人影が動いた。目を凝らすと、それは静かに佇んで、明らかに聡へ視線を向けていた。
本城だった。
本城は身を潜めるでもなく、まるで聡を待ち受けていたかのように、じっとその場から視線を投げ続けていた。
聡は本城の意を悟った。一歩一歩と距離を詰め、踏み込めば蹴りの届く間合いを残して足を止めた。両者は無言で対峙した。眼光が先んじて、つば迫りの激闘を繰り広げていた。
本城の胸は悲壮な覚悟に満ちていた。
本城は聡を見て逃げた。事に臨んで沈着果断に行動してきた自分が、聡の姿を見た途端、頭の中が真っ白になり衝動的に逃げた。待てと言われて、それでも逃げた。それは天敵の姿を認めた草食動物の反応そのものだった。決して状況判断の末にとった行動ではない。聡に対する劣等感がそれほど深く意識に根を張っていたことを知り、本城は愕然とした。
敗北感がのしかかり、駆ける足を重くした。本城は足を止めた。膝に手をつき、肩で息をしながら、自分の心と格闘した。これで良いのか、負けたままで良いのか。
憎悪が意地の手を借りて、次第に劣等感を押し返していった。打ちのめされた精神は、そのぶん強靱に立ち上がった。
本城は腹を決めた。もたげた顔は、決戦に臨む鬼気迫る面持ちに変わっていた。追い詰められた気迫を胸に、本城は追って来るであろう聡を待った。
そしていま目の前にいる聡も、この決意に応じる気構えであることを本城は知った。あの試合のときとは別人のような険相で本城を見据えている。その目にあるのは憎しみだった。自分と同種の感情を読みとり、本城は戦意を昂揚させた。
聡が先に口を開いた。
「本城、なぜ陽子に手を出した」
本城は無言で聡を睨んだままだった。
「答えろ、本城。大西さんを殺したのもお前なのか」
「そんなことはもう関係ない」
「なんだと!」
「俺は最初から、これを望んでいたんだ。もっと早く、こうしていれば良かったんだ」
そう言うと聡に鋭い視線を向けたまま、道場の壁へ横様に拳を打ちつけた。
「俺たちの決着は、こんな道場の中でつけるべきではなかったんだ」
言い終わらないうちに本城は踏み込んで、鞭のような回し蹴りを放った。聡が素早く後退したため、蹴りは空を切ったが、これが陣触の鏑矢となった。
本城は、かわされた蹴り足を軸足に換え、返す刀で後回し蹴りを打った。聡はこれを手で払い、勢いは殺したものの腰に受けて、体重の軸を崩した。本城の両目が光った。機銃掃射のような攻勢がここから始まった。
聡は早くも防戦一方となった。休みなく繰り出される本城の攻撃に翻弄され、巻き返しのタイミングさえ掴めなかった。本城の組手は件の試合で身をもって体験していたが、寸止めの試合だったあのときとはまるで勝手が違い、それが聡を当惑させた。本気で当ててくる蹴りや突きは、捌いても流れて体のどこかに当たる。一発一発はこらえきれても、ダメージの積み重ねは、やがて聡の戦意を削いでいった。
やはり自分は本城には勝てない。
陽子の心身を苛まれたという怒りさえ、朦朧と彼方へ遠ざかっていった。
本城の鈎突きが聡の左肩に命中した。間髪置かずに放たれた左上段回し蹴りは、左肩に受けた打撃で聡がうしろに下がったのが幸いして、額をかするだけで済んだ。
だがこの瞬間、聡は上体を反り、腰を浮かせた死に体になっていた。次に満身の一打が来る。この体勢では、それを避けることはできない。聡は慄然とした。
時間の密度が高まり、『一瞬』が長く感じられた。聡は琥珀に閉じ込められた虫のように、身動きがとれないまま『一瞬』の中に封じ込められた。
だが、次の一撃は来なかった。本城はこの『一瞬』を一呼吸に充てた。そして自分の構えを直し、再び連打を繰り出した。
この一呼吸に聡も救われた。おかげでバランスを立て直し、本城の猛攻を辛くも凌ぐだけの動きが可能になったが、これは聡には意外なことだった。あの好機をみすみす逃すなど考えられないことだった。
疑問はほどなく明快に解けた。本城の攻撃は相変わらず途切れることがなかったが、一撃に込められた威力が次第に落ちていることに聡は気づいた。攻めのテンポも徐々に遅くなっている。気迫に体が付いていかなくなっているのが明らかだった。本城自身もそれを分かっているのか、表情に焦りの色を帯びてきている。
もはや答えは明白だった。勝負勘と基礎体力の衰え。以前の本城を知る聡には信じられないことだったが、しばらく稽古を離れたために、本城はそれらを鈍らせてしまったのだ。
それを裏づけるように、やがて連打のリズムが乱れ、みずから一歩下がって、攻撃に間を置くようになった。息が上がってきたのだ。本城が次に放った蹴りを、聡はスロービデオを見るように、はっきりと捉えた。
聡は本城の蹴りに合わせて、カウンターの蹴りを放った。それは鮮やかに本城の軸足の内腿を抉った。本城は苦痛の呻きを上げ、気の毒なほどによろめき、あとずさった。聡は勝機を見出した。
哀れ、本城。自棄して拳まで腐らせたか。銘刀も錆を帯びては何が斬れよう。
怒りが俄然、息を吹き返した。聡の巻き返しが始まった。
聡は本城の大腿に続けざまに下段蹴りを浴びせた。たまらず背中を返した本城に、今度は構わず背後から拳を打ちつけた。疲労で手足の重くなっていた本城は、聡の攻撃から身をかわすことさえできなかった。振り向きざまに苦し紛れの正拳突きを放ったが、適正な距離とタイミングを逸した攻撃は、そのまま受けても聡に何の痛みも感じさせなかった。切れの衰えは痛々しかったが、聡も容赦はしなかった、
聡の攻撃はおもしろいように当たった。本城は見る見る後退し、道場の壁に背をつけてサンドバッグ同然となった。
それでも聡は止まらなかった。初めて人を叩いた興奮が興奮を煽り、自分を見失ったように打ち続けた。実戦経験のなさは、手加減も矛の収め所も知らなかった。
「伊勢上くん、何をしている!」
背後から声が響いた。だがそれは興奮状態の聡の耳に届かなかった。
膝蹴りを腹にめり込ませると、本城は胃液を吐いて、体をくの字に折り曲げた。実質これで決まりだったが、頭に血の上った聡は、本城の首の付け根を狙い、さらに一撃を加えんと拳を振り上げた。
数人の警官が飛びかかって、聡の振り上げた腕を掴み、体躯を押さえつけた。聡はその手を振りほどこうと全力でもがき、暴れた。
「頭を冷やせ!殺す気か!」
叱声が響いた。そのひとことで頭から血が引いた。
我に返り、呆然と見開いた目の前で、実戦空手の雄、本城は頭から地に沈んだ。
※ ※ ※ ※ ※
陽子は救急車で病院に搬送されたのち、救命処置中に目を覚ました。天井から煌々と照らす明かりに反射的に目を閉じたのち、恐る恐る開いた瞳に、自分を取り囲む複数の男女の影が映った。驚いて身を竦めた陽子に、そのうちの一人が優しく声をかけた。
「気がついた?大丈夫、大丈夫、ここは病院だからね、何も心配することはないよ」
その声は酸素マスクの反響音とともに耳に流れ込んだ。陽子は自分を囲む人影が医師と看護師であることが分かり、ほっと息をついた。
が、それも束の間、全裸で尿道カテーテルを挿入された自分の姿に気づき、激しい当惑を覚えた。年輩の女性看護師がそれを察し、陽子の右手を握って宥めようとしたが、深く傷ついた少女の羞恥心はそれで癒えるものではなかった。
そのとき、今日一日に出会った数々の災禍の光景が陽子の脳裏をぐるりと巡った。身震いがした。そして少なくとも、この場所なら、もうあの恐怖に苛まれることもないと分かると観念して羞恥に耐えた。それでも涙が目尻に浮かんだ。
容態は落ち着いていたが、その日は入院措置をとり、翌日以降は経過観察をすることになった。ストレッチャーに乗せられて処置室を出ると、すぐさま両親が駆け寄ってきた。心配と苦悩と疲労の浮かんだ両親の顔が仰向けの視界に飛び込んできた途端、陽子は張りつめていた糸がぷつんと切れる音を聞いた。安堵が胸を満たし、瞼から溢れた。
二人に手を握られて、小さな子供のように泣きじゃくったその胸には、久しく忘れていた大きな安心が満ちていた。その晩、陽子は個室に運ばれ、両親に付き添われて深い眠りに沈んだ。
陽子は左手の熱傷と頚部の捻挫を除き、目立った外傷はほとんどなかったが、酸欠状態で煙を吸い込んだことによる神経や呼吸器への影響、ロープでつり下げられたことによる頸椎の損傷、そして犯罪被害による心的後遺症などが懸念されたため、翌日はMRIや気管支鏡など一連の検査を受けることになった。
入院三日目の午後、私服の刑事が病室を訪れ、医師の立ち会いのもとで短時間の事情聴取を行った。陽子はベッドに起き上がってそれを受けたが、首を装具で固定されていたため、ベッド脇に腰掛けた刑事の顔を横目で見ながらの応対となった。
陽子は事件当日の夜、網田と会ってから池波高校に足を運んだ経緯から、本城とのやりとりまでを順序よく正確に語った。ただし、ひとつの作為を除いて。
愛娘を襲った奇禍の全容を初めて耳にして、両親は身を震わせ、驚きと怒りを新たにした。
陽子の落ち着いた態度と要を得た口述に刑事は感心した様子だった。陽子と両親を交互に見ながら、盛んにそれを誉めてくれたが、恐ろしい思いをした少女の心情を思いやってか、子供でもあやすような口ぶりだったため、陽子はいささか鼻白む思いでそれを聞いた。
本城に殺されかかったことは差し迫った脅威であったことに違いはない。いま思い出しても冷や汗が出るし、もちろん二度と味わいたくない。
だが陽子にしてみれば、本当に恐ろしいのは、とても警察の介入できるようなものではなかった。これを聞いても感心するなら聞かせてやりたい気がしたが、これこそ誰にも語ることのできないものだった。語ろうとしても、口にしようとした途端、恐怖が押し寄せ、喉を竦ませる。
陽子は急に押し黙った。誉めた途端の変わり様を刑事は怪訝に感じたが、これも昨晩の体験によるものと思いやりを持って解釈し、今日はこれでと暇を告げた。両親は揃って丁寧に頭を下げて刑事の退室を見送ったが、陽子はベッドの上から無表情に黙礼しただけだった。
ただ刑事はひとつだけ良い土産を置いていった。任意の事情聴取を受けていた聡の容疑がすべて晴れたという報せだった。本城との格闘には過剰防衛の嫌いはあったが、被疑者検挙への功績を考え合わせると起訴には到らないだろう、とのことだった。
聡が本城を倒した。
陽子はそれを自分のことのように誇らしく感じた。聡に会いたいと心の底から欲した。聡の顔を見て、抱擁に包まれたいと熱く願った。
解放されたのなら、すぐ来てくれればいいのに。
陽子はもどかしかった。おそらく聡は来たはずだ。しかし一般の面会はできないと聞いて、諦めたのに違いない。もちろん陽子の容態を気遣ってのこともあろう。聡には、おしなべて決まり事に対する律儀さと、他人に遠慮して気を使い過ぎる気質があり、それこそ陽子が信頼し甘えられる由縁なのだが、このような場合には強引に押し入ってでも会いに来てほしかった。
どうせ気を回すのなら、そこまで考えてくれればいいのに、と陽子は歯がゆく思った。
二人の再会は結局、検査の所見が出揃って退院となった、その日まで待つことになった。おずおずと病室に入ってきた聡の姿を横目に認めると、陽子は涙を溢れさせ、首の装具のせいでロボットのようにぎこちなく、しかし主人の帰宅を喜ぶ飼い犬のように躍り上がって、聡の肩に抱きついた。
感情にまかせた娘の行為に両親は唖然とし、衆目を顧みぬ恋人の振る舞いに聡は赤面した。壮年の主治医は目を丸くし、若い看護師は羨望の眼差しで見た。皆がことばを失った中、陽子だけが聡の名前を繰り返し呼び続けていた。
陽子の退院を迎えたのは、家族と聡、そして担任や同級生ら学校関係者だけではなかった。
一階のロビーに降りると、テレビ、新聞、雑誌などのマスコミ関係者が殺到し、陽子たちを驚かせた。彼らは病院職員から事前にあった取材自粛の申し入れを平然と破り、老人を含む多くの外来患者たちを押し退けるようにして陽子たちのまわりに群がると、フラッシュを焚き、テレビカメラを向け、マイクやICレコーダーを差し出して、われ先に質問を投げかけた。マスコミの取材は先の事件で経験済みだったが、ほかでもない自分一人に一斉に矛先を向けられて、陽子は動揺を隠せなかった。
ゆかりの事件のときにも学校に来た芸能レポーターがさもいたわるような顔で陽子に今の心境を尋ねるその横で、押すな、どけろ、の怒号が飛び交っていた。陽子の勇気をたたえるコメントが、割って入ろうとした病院職員に報道の自由を主張する声に掻き消された。
突き出されたマイクが陽子の頬に当たった。それに憤って身を乗り出そうとした聡を陽子の父がすばやく諫めた。一同は病院職員や陽子の担任らに助けられて、まずは脱出を優先した。この間、陽子はすべての質問に緘黙を守った。
タクシーに乗り込んだ陽子たちを取材陣は車で追った。さすがに走行中の取材はなかったが、やっとのことで逃げ帰った自宅には別働隊が待ちかまえており、追走してきた記者たちと挟み撃ちにされる形になった。
聡はとうとう腹に据えかね、報道陣を力任せに掻き分けて陽子たちに道を作り、家の中まで導くと、自身はしんがりを務めて報道陣に啖呵を切った。
「いい加減にして下さい。陽子は心も体もずたずたなんだ。これ以上続けると言うのなら、ぼくが相手になる!」
聡は陰陽が反転するほどのフラッシュを浴びた。
『彼女は俺が守り抜く。お手柄高校生、全力愛の現場』
このときの写真に、ある女性誌のつけた見出しである。
日本における犯罪被害は、その三重構造に特徴がある。すなわち加害者による直接の被害に、警察の捜査や事情聴取による心労が重なり、マスコミと世間の好奇と詮索が追い打ちをかけるのである。この第三の加害者に弱った心を踏みつけにされて犯罪被害は完成する。
陽子は自らに関する報道を見ようともしなかったが、本城の凶行は彼が陽子に横恋慕していたことが原因である旨、ワイドショーでコメントされていたと同級生から聞かされて唖然とした。この本城の名誉さえ気遣われてしまう誤報には、陽子も開いた口が塞がらなかった。陽子は今回の取材攻勢を通じて、大人の世界の良識がどの程度のものか知った気がした。
ただマスコミがこの事件に関心を示すのにも訳があった。
ただでさえ女子高生が乱暴されて殺されたうえに、自殺に見せかけて遺棄されるというショッキングな事件だった。
さらに被害者の同級生である陽子がみずから危険に身を晒して第二の犯行の場に赴いたこと。犯人が陽子の彼氏と同じ進学校の生徒であったこと。そして、その彼氏が危機一髪で陽子を救い、大格闘の末に犯人を取り押さえたこと。
この劇的な筋立ては大いに世間の耳目を喜ばせた。実際、ある民放局では早速ドラマ化に取りかかったほどだった。
さらにもうひとつ、世間の注目を引いたことがあった。
陽子は網田と接触してから池浪高校の空手部部室に辿り着くまでの動きを、聡にメールで逐一送信していたのである。
それは聡が警察官とともにいることを逆に利用する発想だったが、もちろん大きな賭けでもあった。網田の目の前で携帯電話を操作するわけにはいかなかったので、つねに右手を体の陰に置き、ディスプレイを見ず、親指の勘だけでメッセージを送り続けた。手練の運指が危機を救ったのである。
その機転と技術を警察も賛嘆した。先の女性誌では、GPS衛星と連動した携帯電話からのSOS信号や110番通報を一日も早く実用化するよう訴えて記事を締めくくっていた。
そして、これには逸話があった。
陽子はメールを送る際、文面を敢えて変換せず、仮名のまま送信していた。おかしな変換をされて意味が通じなくなることを恐れたからである。
ところが記事にはならなかったが、陽子も気づかぬうちに一度だけ誤って変換キーを押してしまったらしく、「もう池波の校門をくぐった」と送るつもりが、「猛威毛並みの肛門をくぐった」と変換されてしまい、これを受信した聡はしばらくの間、首を捻ったという。これは二人だけの爆笑の後日談となった。
本城は聡にやられたダメージから、皮肉にも陽子と同じ病院に搬送されて治療を受けた。だが骨にも内臓にも異常のないことが分かり、病室で一晩を過ごしたのち、打撲で痛む体を両脇から警官に支えられて所轄の警察署へ連行された。
本城は陽子に対する殺人未遂については現行犯であり、言い逃れのしようもなかったが、ゆかりの事件に関しては当初容疑を否認していた。
だがここで決定的な物証が見つかって形勢を覆した。
本城が拘束当時、身に着けていた制服の胸ポケットから、長い髪の毛の巻きついた、柄の折れた校章が発見されたのだ。これがゆかりの死体遺棄現場で発見された徽章の基部と切断面がぴたりと一致したほか、巻きついた髪の毛も鑑定の結果、ゆかりのものと断定された。
この揺るぎない証拠の発見は、本城にとって青天の霹靂だった。動揺の余り思わず、
「そんな馬鹿な。ここにはなかったはずだ」
と口走って、語るに落ちたほどだった。
このことを刑事から聞かされたとき、陽子は心の内で静かにほくそ笑んだ。これこそ陽子が唯一、警察に告げなかった作為の真相だった。
首を吊られて、苦し紛れに本城の胸を押し返した際、陽子は、ゆかりの部屋から持ち出した校章を秘かに本城の胸ポケットの中に落としたのだった。
ただし、これは機転と言うより、我が身をゆかりに操られてのことだろう、と陽子はもはや自然に受け止めた。
本城と網田が逮捕され、いくつかの謎が解け、いくつかの謎が残った。
メールのやりとりを網田にハッキングされていたとは思いもかけないことだった。陽子も聡も初めは驚いた。
だが中央省庁のホームページが落書きされたり、企業や銀行の顧客データ、ときには国家の軍事機密までが勝手に引き出されたりするご時世だ。侵入者が中学生だったという報道に陽子自身も驚いたことがある。携帯電話のメールの盗み見などハッカーにとって、まさに電話の盗聴程度のことなのだろう。事件のあった日も、陽子は一方的な待ち合わせの約束をメールで送った。それを見た網田が一足先に現場で待ち伏せていたという次第だ。
だが問題はなぜそこに、ゆかりが現れたのか、そしてなぜ陽子だと名乗ったのか、ということだ。これは当事者である本城や網田にとっても、甚だ不可解で不本意なことだった。
ただ、あのメールを打ったときの状況から、陽子にはいささか思い当たるところがあった。
あれは昼食を済ませたあとだった。昼休みのことで、教室に残っている同級生の姿は少なく、陽子も聡にメールを打ったら、部活の仲間のところへおしゃべりに行くつもりだった。自分の席で慣れた指先を操っていたとき、斜め後ろのゆかりの存在など、いつも通り頭になかった。
ほぼ文面を打ち終わり、送信しようとした矢先、同級生の一人が声をかけてきた。
「陽子、物理の実験道具、持ってこなくていいの?もう次の時間だよ」
「あれ、今週、私が当番だっけ?」
「そうだよ、だって私の次の次でしょ」
「やばい、忘れてた。ありがとう、言ってくれて」
こう言って、操作途中の携帯電話を机の上に置いたまま、次の授業に使う実験用教材を取りに理科教員室へ走った。中座したのは数分のことだった。席に戻り、再び携帯電話を手に取ると、文面をあらためもせず、すぐさま送信しポケットにしまった。聡の都合も聞かないうちに、4時の約束は陽子の内で既定のものとなった。
いま思い出しても、確かに『4時』と打った記憶がある。しかし『5時』と送信された。
5時に聡の前に現れたのは誰であったか…。
いまとなっては想像するしかないことだ。そんな大胆なことをする性格とは、とても信じられない。だが、こう推測するのがどう考えても自然なのだ。
陽子が席を外した間に、ゆかりが約束の時刻を『4時』から『5時』へと、たった一文字打ち変えた。そして、ゆかりは5時に北村山駅に姿を見せた。5時に聡がその場にいれば、陽子から新たな連絡はなかったということだ。ゆかりは偶然を装えばいい。陽子の性格なら、約束に遅れた相手に確認の電話などしないだろう。そういう読みもあったのかも知れない。
なぜそんなことをしたのだろう。
それを推知させる新たな発見が陽子たちに伝えられた。
初めは、ゆかりの事件に関知していないと主張していた本城もとうとう観念し、その供述に従って、ゆかりの通学鞄が下水口の中から発見された。死体を遺棄したあと、部室に戻って、その足で捨てに来たということだった。
鞄を開けると、汚水に浸った教科書やノートと一緒に一通の手紙が見つかった。
手紙、と聞いて陽子の肌は粟立った。だがそれは陽子が抱いたような呪われた印象とはかけ離れたものだった。手紙はゆかりの両親を介し、宛名の人物、伊勢上聡に届けられた。
それは聡への一途な想いを連綿と綴ったものだった。
そこには陽子が聡と出会ったあの文化祭の日、ゆかりの胸にも等しく宿りながら陽子と明暗を分け、それでも日陰で枯れないで陽を浴びようと懸命に、それだけに痛々しく成長した恋心が丁寧に丁寧に書き記されていた。純情を切々と訴える文面には、幼い心いっぱいに溢れた報われぬ恋の切なさが滲み出ていた。長い手紙は、こう結ばれていた。
「いつからか、私は自分を桜庭さんに重ねて見るようになっていました。自分が桜庭さんになったような錯覚の中で幸福の実感を得るようになっていました。そして、こんな私として愛されるより、むしろその方が幸せな気持ちになっている自分に気がつきました。
だから、もし叶うのなら、私は桜庭さんになりたい。桜庭さんとして伊勢上さんのそばにいて、桜庭さんとして伊勢上さんに愛される。それが私には一番の願いなのです」
傷口の疼きにも似た、思い詰めた感情が脈を打って伝わってきた。陽子は心底驚いた。この手紙を聡に見せられ、一度も表に見せなかった、ゆかりの秘めたる感情を初めて知ったのだった。いかに興味を引く人物でなかったとは言え、ずっと間近で接していながら、これまでついぞ気づかずにいた。
「ゆかりはね、桜庭さんはいいなあ、桜庭さんみたいになりたいなあって、口癖みたいに言っていたものだわ」
ゆかりの母から聞いた話が、今こそ陽子の心腹に落ちた。
文章にまとめたものとは言え、気弱な性格に似合わぬ強い感情表現も意外だった。ゆかりの母は、こうも言っていた。あの子は臆病なわりに思い込みの強い子だった、と。
それでも、ゆかりはなぜ自分の気持ちにもっと正直に行動できなかったのか。他者として愛されることが望みだなんて嘘だ。いくら自分に自信がなくても、本当は自分自身が愛されたいに決まっている。
陽子はゆかりの思慕する相手が自分の彼氏であることをいったん脇に置いて、それをもどかしく思った。
ゆかりはさぞや辛かったろう。求めても叶わぬ恋心の向かう先を見つけられずに思い悩んだ苦しみは十分に想像できるし、手紙からも読みとれる。陽子とて、いまでこそ聡がそばにいるが、片想いの苦しさに身を焦がした経験は何度となくある。溢れる涙は幼い視野をそれだけで満たし、身も世もなく泣き崩れたものだ。
振り向いてもらえなくとも、せめて想いを伝えたい。そんな女心ももちろん分かる。でも手紙なんかで陶然と語ったところで何の解決になると言うのだ。自分なら実らぬ想いに恋々としたりはしない。率直に気持ちを打ち明け、それで叶わぬものなら、泣いて泣いて泣き尽くして、未練を洗い流そうと努力する。実を結んでこそ、恋は花なのだ。実らぬと分かった花など、さっさと摘んでしまうに限る。剪定をためらえば、新たな開花の妨げになる。
想いに純粋であることを望むか、その先にある幸福を望むか。
こればかりは同性であっても通い合うことのない、性格の壁だった。むしろ聡の方が感動を持って、ゆかりの気持ちを受け止めた様子だった。
ただ、陽子になりたいという一歩下がった希望のあり方が、ある意味でゆかりらしいと陽子は思った。結局これがゆかりの限界だったのだろう。それだけに思い詰めた願いでもあったろうが。
ゆかりは、なぜ陽子だと名乗ったのか。このもうひとつの謎を解く鍵がここにある。
この長い手紙は、陽子のメールを改竄し、うまくすれば手渡すことができるかも知れないと期待した、その日になって急いで書かれたものとは思えない。国語の苦手な陽子でなくても、これを読めばそう思うだろう。とすれば、あの日のゆかりの行動は、手段は思いつきだとしても、決して衝動的なものではなかったことが分かる。それどころか、つねに鞄に忍ばせて、手渡す機会を待っていたのだろう。そうしてやっと機会を得たのだ。
しかし手紙は渡せなかった。きっかけがつかめなかったのか、勇気が足りなかったのか、それは分からない。何にせよ、目的は果たせず終わった。
ここから先は想像に過ぎない。
ずっと待ち望んでいた機会を生かすことができず、ゆかりはさぞかし暗然とした気持ちでいたことだろう。落胆と後悔と失望に打ちひしがれ、こう思い詰めていたに違いない。陽子になりたい、陽子になりたい、と。
そこへ思わぬ問いかけが耳に届いた。
「桜庭陽子さんですか?」
このひとことが臨界にあった、ゆかりの精神を一押しした。ゆかりの中で意識の転轍機ががちゃりと切り替わり、行ってはいけない方向にそのままゆるゆると加速していった。
陽子になりたい。
その願いは陽子の身代わりになるという最悪の形で実現した。少女の純粋な想いに与えられた、これ以下はない無惨な結末。だが最後の思いだけは、どぶの中で朽ち果てる寸前ですくい上げられた。
ゆかりが思い残したもの、ゆかりが伝えたかったことは、やはり『手紙』だったのだ。
ゆかりの性格を考えると、あるいはこんな形でないと自分の想いを伝えることはできずに終わったかも知れない。そう思うと、陽子は初めてゆかりを哀れに感じ、心の内で手を合わせた。夢も未来も幸福も儚く散らせた友人を悼み、同時に自身も静かな安堵と満足を得た。
ゆかりが自分に託したことを、とうとう果たしてやることができた。もうあの亡者の姿に苛まれることもないだろう。ようやくすべてが終わったのだ。
※ ※ ※ ※ ※
「そう、大変だったね。うん、うん、分かってる。私なら大丈夫。伊勢上くんも元気でね。早く前みたいに普通に会えるようになるといいね。それじゃあ、おやすみなさい」
受話器をそっと元に戻すと、陽子は深いため息をついた。本城に殺されかけたあの事件から、もう10日が経ち、周囲の喧噪はようやく収まりを見せ始めたが、陽子には聡と会えない長い日々が続いていた。
もちろん電話では話もできるし、むしろ以前より頻繁に連絡を取り合っているぐらいだが、信号に姿を変えた音声は生の姿を余計に偲ばせ、切ない気持ちを募らせるだけだった。
退院後の日々を陽子は自宅で静養して過ごしていた。左手の熱傷と頚部の捻挫以外は、これと言った外傷もなく、精密検査の結果、脳や内臓にも異常のないことは分かっていたが、あの一日の苛烈な体験は、やはり精神的な疲労を重く残していた。
しかし周囲が気遣うほどに心の傷は深くはなかった。カウンセリングを勧められたが陽子はそれを断った。そもそも陽子の精神を苛んだのは、周囲の人たちが考えるものとはまったく異質のものであり、その心配も消えた今、自宅での静養は落ち着いてものを考える良い機会となった。
今日は珍しく両親とも留守にしていた。父は陽子の退院後、可能な限り早く退社し帰宅していたが、そういつまでも会社の厚意に甘えてもおれず、今日は残業とのことだった。
母は、陽子を見舞いたいという親戚の申し出を拒み続けた付けで、叔母の家に近況報告に出かけている。時刻はまだ夜7時だが、陽子は一人で夕飯をとることになった。
それでも家で一人待つ陽子を案じ、父も母も二度ずつ電話をかけてきた。あと一時間もすれば母は帰ってくるようだ。
陽子は卵でも焼いてみようかと台所へ向かった。普段、料理などしない陽子は、食べたいものと作れるものの開きが極端に大きく、こういう場合の対処に苦しむ。それでも聡と営む家庭の夢では、自分は台所に立っているのである。
ガスに火をつけフライパンに油を敷くと、香ばしい匂いが立ちこめるまでの、ほんのわずかの間に、思いは幸せな未来から、通り過ぎたばかりの過去へと自然に遡っていった。
退院後2日ほどは、兵糧責めにでも遭うように自宅の周りを報道陣に囲まれていた。それで身動きがとれないばかりか、インターフォンでひっきりなしに問いかけられて、家族全員、神経を笹掻きにされたようだった。
「早く新しい大事件でも起きればいいのに」
母がこぼした不謹慎な本音に陽子は驚いた。娘がまさに大事件に巻き込まれ、その境遇や心情は誰よりも良く分かっているはずなのに。
ゆとりを欠いた心が言わせたひとこととは言え、他人なら良いと思ってしまう、そんな身勝手を優しい母に見出して、陽子は少なからずショックを受けた。
ただ、一ヶ月前なら聞き流していたに違いないひとことに過敏に反応してしまうのは、とりもなおさず陽子も気持ちのゆとりを失っていたからだ、ということにまで思いは到らなかった。
人の心は均した土地と同じで、ひとたび風雨に晒されると、石がごろごろ転がった荒れた地肌が暴かれる。本来、人が住めるようなところではない。それを何とか表に出さず、工夫しながら生きているのだ。身勝手に陥らないのも器量であるなら、身勝手を許すのも器量の業だ。
その後、世間の批判を浴びて(その批判を伝えたのもマスコミだったが)取材陣は退却を始めたが、しばらくは通りの角にカメラの望遠レンズが光り、家人の動静を窺っている様子だった。外出と言えば、母の運転する車で火傷の処置に病院に通うだけだった。陽子は中学生の頃、人並みに芸能界に憧れた時期もあったが、この騒動でマスコミは金輪際御免だと骨身にしみた。
学校も当然休んでいた。だが、こちらの方はあまり気にならなかった。まもなく3年生になるが、陽子は自分の学力で入れる短大にでも進むつもりでいたので、成績のことも受験のことも特に悩みの種ではない。秀才の聡と同じ大学に行こうなどとは端から考えてはいない。
「何も心配しないで、落ち着くまでゆっくり休んでいなさい」
担任教師が電話をくれたが、言われなくてもそうするつもりだった。
学校と言えば、聡の池浪高校は大変な騒ぎだったと聞いた。何しろ惨劇の舞台となったうえ、英雄も敵役も狂言回しも自校の生徒だったのだから、そのはずだろう。この開校以来の大不祥事に、学校側は警察やマスコミ、教育委員会や父兄への対応で上を下への大騒ぎだったらしい。
そんな混乱にも聡は一貫して冷静で適切な対処をしたようだった。もちろん学校側の保護の下でではあるが、事情聴取にも取材にも落ち着いた態度で臨み、明晰さを印象づける対応だったと聞かされた。陽子は聡の消息に触れ、その聡明で鷹揚な人柄を、会えない今こそ慕わしく感じた。
ただ、この文武両道に秀で、普段は穏和だが愛する女性のためには戦いも辞さない男性像をマスコミは放っておかなかった。テレビも雑誌も好意的に大きく取り上げたため、聡は一躍、スター顔負けの時の人となった。甲子園のアイドル張りに女子高生の追っかけが群がり、県外からもカメラ片手にファンが訪れ、池波高校の周辺は花壇のように華やかな制服に彩られた。
そんなことに浮ついて自分を見失ったりする聡ではないと信じていたが、自分だけの聡ではなくなってしまったようで、それが陽子には癪であり、また寂しくも感じられた。
改めてお詫びに来る、と言っていたゆかりの母は、その後、連絡さえも寄越さなかった。陽子の容態を気遣って、と言うわけではあるまい。事件の真相が明らかになり、娘が陽子の身代わりに殺されたと知っては、挨拶にも見舞いにも来る気になどなれないのは当然だろう。自分を恨んでさえいるのではないか。陽子はそう思った。
もちろん、ゆかりの事件に関し、陽子に何の責任があるわけでもない。凶行以外に恨むべきものがあるとすれば、それはほかでもない、ゆかりの軽慮と性向なのだ。であるなら、そこに親の責任がないはずはない。
でも親の情とは、いや人の感情とは、そんな分別顔をした聞き分けの良いものだろうか。意識的に、もしくは本能的に痛いところから目を逸らし、たとえ筋違いの恨みでも、それを誰かにぶつけなければ遣りきれない。そういうものではないだろうか。そうしなければ自分を責めるしかないのだから。
思いがけず子を亡くした親が、自分の不注意や軽率を棚に上げて、どこかの段階で子の死に関わった第三者を訴える。そんなニュースをたまに耳にすると、陽子の若い常識でも、「それは違うでしょ」と憤りを覚えるものだが、いまの状況に置かれてみると、ゆかりの母は自分を恨んでいるに違いない、と考える方が意外なほど自然でしっくりすることに陽子は気づいた。
燃え上がる情動を前に、四角張った道理などバケツ一杯の水でしかない。無理にもそれを消し止めるには、信仰の域に達するほどの理念によるか、さもなくば別の感情、たとえば愛、で中和を図る以外にない。それだけが激情という悪魔に抗する十字架となる。
ここまで考えて、陽子は、火、という連想に身震いした。もう火の災難はたくさんだった。何にせよ、ゆかりの母親に会わずに済むのは陽子としてもありがたいことだった。陽子は頭を強く振って、思い浮かべた炎を払った。
気がつくとフライパンに敷いた油が焦げた臭いをさせていた。自分がまさに火を扱っている最中だったことを思い出し、陽子は慌ててガスを閉じた。眼下から青い炎がふっと消えた。
ところが、ほっと息をついた瞬間、視界の隅に消えない炎が揺れた気がした。それは救急車の回転灯がカーテン越しに映るように、台所の窓を外から照らしていた。何だろう、と疑問に思い、陽子は窓辺に顔を寄せ、何の気なしにカーテンをめくった。
悽愴な眼差しが陽子を捉えた。一瞬で凍りついた体に、ひびが入るほどの衝撃が貫いた。
陽子は見た。窓越しに額をつき合わせるほど間近に、まるで鏡を覗くように自分を見つめる亡者の顔を。
それはあまりに不意のことだった。陽子は亡者の視線を避ける術なく、まともに受け止めてしまった。亡者の視線に全身を縛りつけられ、目を逸らすことも、まばたきさえもできず、屍が炎の中に朽ちていく陰惨な光景を眼前に突きつけられた。
外壁一面は炎に覆われていた。それは幻覚でも錯覚でもなかった。だが、なぜ家が燃えているのか、そんな疑問はどこかへ追いやられていた。頭を巡ることばは、ひとつだけだった。
どうしてなの…、ゆかり。どうして…、どうして…。
だが紫色の唇はそれを声に変えられず、ただおののくのみだった。代わりに亡者のただれた唇が、それに呼応するかのように上下に揺れた。
「…て、が、み…」
冷たい手で頬を撫で上げられたような戦慄が走った。絶頂の恐怖はかえって硬直した体を衝き動かした。
陽子は絶叫して、その場から飛び退こうとした。だが硬直から解き放たれたばかりの筋肉は意図したようには機敏に動かなかった。後ずさるつもりの上半身に足がついていかず、陽子の体はうしろに大きくバランスを崩した。
転ぶ…。
そう思った陽子は倒れる体を支えんと咄嗟にガス台に左手を伸ばした。傷ついた左手は激痛を呼び、一度置かれたガス台から滑り、ガスのスイッチを引っかけた。陽子はそのまま床に倒れ込んだ。
ガスは着火しないまま、勢いよく吹き出し始めた。だが窓辺から依然見下ろす亡者の姿に気を取られていた陽子は、そのことに気づくのが一歩遅れた。鼻孔を刺激する異臭から、ようやく事態に気づき、陽子は震撼した。
危ない。
そう認識しながらも、腰が抜けて体を起こすことができない。ガスの漏れる音と匂いが陽子の鼓動を速めていった。
早く、早くガスを止めなくては…。
だが、募る危機感と裏腹に、ガスの漏れが増すにつれ、止めに近づく勇気は萎えていった。
焦りと恐怖が陽子の頭を混乱させた。ガスを止めた方が良いのか、この場を離れた方が良いのか。いや、何が危険で、何が怖いのか。陽子はそれさえ判断がつかなくなっていた。
噴出するガスはそんな逡巡につき合うはずもなく、陽子の頭上を見る間に満たしていった。空間が歪んで見え、それが陽子にめまいを感じさせた。臭気は悪心を起こさせた。
陽子は尻餅をついたまま、右手と両足の三肢で腰を引きずりながら後退を始めた。手の平が汗で滑り、床を蹴るつもりの踵は見当違いの空を蹴った。陽子は焦燥の蟻地獄にはまっていった。ガスを止めるという選択肢を陽子はいまや完全に放棄した。もはや逃げることしか頭になかった。だがそれは遅きに失する決断だった。
ものの数秒のちだった。サッシ窓の上部に開けられた小さな通気孔から、ガスが炎を呼び込んだ。炎は室内に滑り込むや、たちまち大きく膨らんで、陽子の目の前を埋め尽くした。恐怖で研ぎ澄まされた陽子の注意力は、その瞬間の有様をスロービデオを見るように、はっきりと捉えた。陽子にはそれが、吹き飛んだ窓ガラスから姿を消した亡者が悪魔に化身して襲い来るように感じられた。
一瞬遅れて轟音が耳をつんざき、爆圧が体を宙に浮かせた。陽子の体は、ひっくり返って、柱の角に叩きつけられた。
炎の捕り方は陽子の逃げ足を嘲笑うかのように難なく追いつき、網を打って陽子の体を包み込んだ。悲鳴を上げる間さえもなかった。
陽子は叫喚して、のたうち回った。柱に打ちつけられた際、腰の骨を折ったらしく、上半身と下半身が連携して動かず、体を起こすことも移動することもできない。だが、その激痛を感じさせないほど凄まじい炎に巻かれ、陽子は七転八倒した。
頭髪が瞬時に焼失した。口腔を焼かれた刺激で仰向けに吐いた胃液が顔にかかって、すぐさま炭になった。
炎は密室のレイプ魔のように、執拗に容赦なく陽子を襲った。逃れようとする陽子の抵抗に焚きつけられたかのように火勢を増し、手足を搦めて抱きついてきた。衣服を凶暴に焼き剥がし、はだけた箇所から侵入した。
焼けちぎれた血管から血液が吹き出し、一瞬で焦げた。焼けた脂肪が煙を上げて、赤い炎を黒く濁した。この世のこととは思えない惨苦に、陽子は嬲られ続けるしかなかった。
火は変幻自在に形を変えて、気管や消化管の奥にまで侵入し、その内壁を灼いた。凄絶な苦悶から、上半身が躍り上がり、腰を捻って俯せに倒れる刹那、陽子は流れ落ちる視線の先に驚嘆すべき光景を見た。それは塗炭の苦しみの内にあっても、衝撃に目を見張るほどの光景だった。
見つめる先には、壁に四角く口を開けた窓があった。そして窓の向こうには、小春日和の陽光に包まれて、焼け崩れていく今の自分を眺めている陽子自身の姿があった。
それと同時に陽子は気づいた。わが家の台所にいたはずの自分が、いつしか暗く狭い炉の中にいることに。
命も体も燃え尽きようとする、その際に陽子の意識は須臾の明晰を取り戻した。陽子は今こそ確かに悟った。ゆかりの真に願ったものが、いったい何であったのか。
ああ、なんて単純なこと。ゆかりの求めていたものは…。
あのとき、ゆかりは『窓』の中から、こう願っていたのだ。陽子になりたい、と。
ふいに視界が失われた。炎が瞼にこじ入って、眼球を溶かし眼窩から流した。視覚をなくした陽子の脳裏にひとつの姿が像を結んだ。その最期の想念を、形を失った唇が受けとめた。
「い、せ、が、み、くん…」
脳が膨張し、頭蓋骨を押し割って破裂した。それと一緒に、思い描いた聡も散った。
消防車のサイレンが遠くの空にこだました。だが陽子がそれを聞くことはなかった。炎は絶命した陽子の骸を、なおも獰猛に食い荒らしていた。
※ ※ ※ ※ ※
陽子の自宅が火災で全焼した翌日、ゆかりの母親が夫に付き添われて地元警察署に出頭し、放火の容疑で逮捕された。娘が陽子の身代わりに死に、陽子はいまも生きている。その理不尽に耐えきれず、怒りと悲しみと口惜しさから理性を失った末の衝動的な行動だったと自供した。
陽子の首を絞め、ナイフで胸を刺し、石で頭を打ち砕く。
恨みを晴らしたいあまり、寝ても醒めてもそんな想像を繰り返していたため、陽子の自宅に赴いて助燃剤を撒き、火を放ったときも、それが実際の自分の行動なのか、想像の中の姿なのか、それさえ区別がつかなかったという。
だが速やかに広がった炎を見て我に返り、急に恐ろしくなって、その場から逃げた。その後、様子がおかしいことに気づいた夫に問い詰められて、自首するに到った。そういうことだった。
当初、大それたことをしでかしたと青ざめ震えていた彼女は、陽子が無事であったと聞いて、安堵から泣き崩れ、娘に合わせる顔がないと嘆いた。
話題の家にまたも訪れた災厄は、世の視聴を大いに集めた。今回、犠牲者が零だったことはマスコミの論調にも影響した。一様にゆかりの母に同情的で、犯罪被害者の心のケアを訴える風潮を後押しする結果になった。
家人全員が無事であり、出火原因も特定されていることから、警察も消防も人身被害を想定せず、一通りの現場検証を済ませたのち、一件はすべて書類上のものとなった。こうして事件は迅速な決着を見た。
だが実際には陽子は死んでいたのである。家財道具や建材と区別のつかないほど焼け崩れた陽子の遺体は、建て替えが始まるまでの数週間、冷たい風や雨に晒されたのち、廃材と一緒に処分された。誰に知られることもなく。
※ ※ ※ ※ ※
激動、と呼ぶにふさわしい数週間が過ぎ、立て続けに起きた忌まわしい事件もようやくほとぼりが冷めたころ、二人は久しぶりに顔を合わせた。
いつしか冬も近づいて、そろそろコートやマフラーがほしい季節になっていたが、この日は朝から雲一つなく晴れ渡り、暖かい空気が再会を祝福するかのように久闊の二人を包んでいた。
待ち焦がれた再会。
久しぶりに同じ時間を過ごす二人は、この日の陽気と同じように温かい感情を通い合わせるはずだった。
だが聡は陽子の様子に以前と異なる何かを感じずにはいられなかった。
待ち合わせをした公園で、見つめ合う視線を先に外されたとき、初めは照れているだけかと思った。
だが街をしばらくそぞろ歩き、喫茶店で軽食をとり、こうして聡の部屋で二人だけになるまでに積み重なった小さな肩すかしや拍子抜けの数々は、いまや大きな疑問に形を成していた。
表面的には、以前より口数が少なく、おとなしく感じられるだけのことだ。あれだけのできごとがあったばかりなのだ。ショックがあって当然だし、いろいろ考えるところもあっただろう。そのぐらいは広い心で受け止めてやりたいという気持ちでいる。
だが、それだけではない何か、もっと本質的で決定的な何かが変わった、いや替わった気がする。
まるで聴き手からは見えないところで突然、奏者が交替したかのように。同じ楽譜を同じ楽器で演奏しても、奏者が違えば、曲はがらりと趣を変えるものだ。
見た目は、どこをどう見ても陽子に違いないのだが、目には見えない何かが違う。胸に広がる響きが違う。
不思議なことに、いまこうして陽子と一緒にいると、ある印象を思い出してならない。すべてのできごとの発端にあった、あの人の印象を。聡はそれを口にした。
まるで陽子の中に大西さんが生まれ変わったみたいに見える、と。
振り返った陽子の一方ならぬ驚きように、聡は逆に狼狽した。
「ごめん、気を悪くした?別に変な意味で言ったわけじゃないんだ」
「ううん」
陽子は聡から顔を背けるように俯いて首を振ると、
「こんな私は、いや?」
か細い声で、そう訊いた。
聡は当惑した。そんな弱気な問いかけが陽子のものとはとても信じられなかった。
放火にあった直前に電話で話をしたときには、特に様子に変わりはなかった。気丈さを頼もしく思ったほどだった。
それなのに、そのあといったい何が陽子の心に、これほど作用したのだろう。本城の逆恨みのみならず、友人の母親にまで恨まれていたという事実がよほど衝撃だったのだろうか。
だが、いくら考えたところで、いまの陽子から答えが返ってきそうにはなかった。自分が想像する以上に事件の傷跡は深かったのだろう。そう解釈する以外にない。聡は深く息を落とした。
聡はあらためて、自分たちを襲った不運を憎んだ。これほどまでに陽子を追い詰めた凶事の数々を呪った。
そして静かに心を決めた。結局のところ、自分は見守ってやるしかない。前の陽子に戻るのを待つか、今の陽子に慣れるのを待つか。いつか時間が解決してくれる。そう信じて。
聡は敢えて話題を変えた。
「火傷の具合はどう?」
「うん、大丈夫。あれぐらいの火」
「…あれぐらい?」
火事のことを言ったのだろうか。意味を解しかねた聡がそう聞こうとした矢先、何を思い出したのか、陽子はぶるりと身を震わせた。それで聡は疑問を飲み込んだ。
陽子は苦悩に耐えていた。聡が自分に物足りなさを感じていることは痛いほどよく分かっていた。『陽子』の音色を響かせることのできないもどかしさに居たたまれない心地がした。北村山の喫茶店で過ごしたときの、身の置き場もない寂しさが陽子の胸によみがえった。
当然のことなのだ。いかに憧れたかわいい服でも、自分の体に合わなければ、どうしたところで着こなせるものではない。陽子は『陽子』として生きていくことの困難と虚しさを今更ながら身に染みて感じ、先の見えない行く末を恐れた。
そのとき聡が陽子の肩に手をかけた。陽子の体に緊張が走った。これから起こることへの抗しがたい期待が不安とともに高まっていった。
陽子は聡に抱き寄せられた。甘い官能が全身に迸った。聡の肌の匂いを感じ、陽子は目が眩みそうになった。
聡の肩越しに暮色を透かす窓が見えた。そこに映った自分を眺め、陽子は願いが叶った喜びと苦しみを噛み締めた。
震える唇に聡の唇が重なった。陽子は頭の芯まで痺れるほどの陶酔に身を任せた。
(了)