ある町
分厚い外壁に囲まれた、冷たい雨が降りしきる町を、真っ二つに分ける太い道路があった。
それはコンクリートで作られたモノではなく、国が決めた高級で頑丈な素材で出来ていた。その西側を人間が暮らすための『住居区』とし、反対の東側が食べ物などを売る『販売区』とされていた。
二つの区を行き来するには、太い道路のど真ん中にある役所へ足を運ばなければならなかった。そこはいつも混雑していたが、この町に暮らす人はそれがあたりまえだったから何とも思わなかった。
十七歳くらいの少女が、『住居区』にある住宅街の細い道を歩いていた。そこはコンクリートで作られていた。彼女は右手に財布を握りしめて、浮かない顔で太い道路の役所に向かっていた。
「もっと笑いなよ。せっかくの美人が台無しじゃないか」
耳につけているイヤホンからそんな声がした。手首の『425』と書かれたリスバンドが雨に濡れる。
「そういうの、あんまり嬉しくないです」
ぶっきらぼうに答えて、少女は顔をしかめた。本当に嬉しくなかったからだ。
それでも実際、彼女はかなりの美人だった。黒色のショートヘアの下にある顔はきれいに整っており、サファイアの瞳が美しいバランスを作っていた。
イヤホンから声がする。
「そうそう。そのまま左に曲がって」
「了解です」
イヤホンからの声の主は、少女をナビゲートしていた。この町はとても広いくせに、バスや車が走っていないから、たとえどれだけ遠くても歩いて目的地につくしかなかった。
簡素な住宅街を静かに進む。しとしと降る雨が、少女が唯一心を許す母親のコートをびっしょりと濡らして、とても気分が悪かった。
「んで、君は今日、何を買うつもりなんだい?」
少女は顔をしかめた。なによりも訊かれたくないことだった。
「......言いたくありません」
しかし、イヤホンから聞こえる声はこう言った。
「そりゃダメじゃない。ナビゲーターに訊かれたことは答えないと。それが規則だ、って、習ったでしょ」
むすっと少女がふくれる。どうしても言いたくなかった。
黙っているとまた、イヤホンから声がした。
「減点、しちゃうよ。これは君の将来に大切なことなんだから。ぼくは君のために、今日買うつもりのモノを訊いているんだ」
少し強めの口調だった。
「__すいません」
少女は歩きながら、肩を落とした。
「分かってくれたら良いんだよ。__で、何を買うつもりなんだい?」
言うことに、少女はやはり、少し躊躇した。
「えっと、明日、母の日じゃないですか」
「うんうん」
「だから、お母さんにあげるお花を手入れするための『ハサミ』を買おうと思っています」
するとイヤホンの向こう側で息を飲むのが聞こえた。こうなることを想像していたから、少女は言いたくなかったのだった。
「うーん。なるほど、そりゃちょっとヤバイな」
少女の買い物を制限する権利を、ナビゲーターの青年は持っていた。それを使えば、少女はすぐに家に帰らなければならなくなる。無視した場合、『減点』がされてしまうから、ちゃんと家に帰るだろう。
少し悩んで、青年は制限する必要はあまりないと思った。最近、少女は真面目に生活をしている。点数も高い。余計にストレスを与えて、このちょうど良い状態が壊れるのが、最も悪いことだと彼は判断した。
それでも、上司に許可を取らなければいけない。刃物を購入するとなれば、これは絶対だった。
「ダメですか......?」
少女が言った。
「君は真面目だし、ぼくは許可するよ。でも、上の人に訊いてみなきゃ、許可がおりるかは分からないな」
「ありがとうございます」
そう言った少女の歩幅は、小さくなっていた。なぜなら、太い道路の役所に行く必要がなくなったからだった。
ナビゲーターの青年の席を立つ音がイヤホンから聞こえた。わざわざ訊きに言ってくれるのは嬉しかったが、どうせ許可なんておりないだろうと少女は思っていた。
すると案の定、数分後にイヤホン越しにあやまる声がした。
「ごめん......。許可がおりなかった。いくら真面目だとは言え、やっぱり刃物は危険なんだってさ」
「そうですか。調子に乗りすぎました。すいません」
そして、少女はもと来た道をたどって家へ向かった。母親にきれいな花をあげられないことが、悔しくてしょうがなかった。
☆
少女の家は一軒家だった。建てられたのは二年ほど前で、少女がこの町に来るのと同時に出来たモノだった。
見た目は普通で、少し安っぽいだけだった。ところどころ塗装が剥がれていたりして、適当に作られたものだと分かる。
ドアをに手をかけ、開けて、少女は言った。
「ただいま」
誰の声も帰ってこなかった。それはあたりまえで、少女はここに一人で住んでいた。
靴を脱いでリビングに行った。台所の棚をあけてコーヒーの粉を手に取ると、ポットに水を入れて湯を沸かす。
イヤホンから声がした。
「300ミリリットルまでだよ。忘れないで」
少女は無言でうなずいた。コーヒーにはカフェインが多く含まれているから、この町では制限がかかっていた。
リビングの椅子に腰かけて、体の力を抜いた。少女はぼそっと呟いた。
「あなたのこと、嫌いではないです。いつも親身になってくれて、ありがとうございます」
それは本心だった。
「いやははは。おだてても点数はあげられないよ」
ナビゲーターはがらにもなく照れた。いくら観察対象とはいえ、美しい少女に言われたからだった。
「__私はいつ、この町を出られるんですか? ......あの、聞いてくれてますか」
「うん。聞いてるよ。そうだね。点数がもう少し増えて、それを二ヶ月維持できたら、可能性はあるかもね」
少女がため息をついた。
「まだ点数が足りないのですね」
「残念ながら、そうなんだよ」
ナビゲーターは悲しそうに言った。
「私には、何が不足しているんですか。他の人たちと、違うところがあるのですか」
ナビゲーターからすれば、違うところばかりだった。しかし、彼女がこの町から出られない理由になっているのは、その中のたったひとつだった。
「つらいことを言うけどごめんね。君はどうにも、無表情で無愛想すぎるんだ。そんなことでは、外の世界に出たときに浮いてしまうよ」
少女は目を見開いて、ナビゲーターに言った。
「本当ですか。あなたに対しては、出来る限り表情を豊かにしていたつもりです」
ナビゲーターは苦笑した。
「それでかい? まあ、初めてこの町に来たときよりはマシになったけれどね」
「ありがとうございます」
そう言って、少女は笑顔を作った。
モニター越しに彼女の笑顔が見えて、ナビゲーターはそのあまりの不自然さに再び苦笑した。
「ダメだね。口しか笑ってない。目つきをやわらかくしよう」
「......なら、こうですか」
「いや。目がやわらかくなったのは良いけれど、次は口が笑ってないなあ__まあ、そう焦ることないって。君なら後半年もすれば、出られると思うから」
ナビゲーターは少女に言った。少女はしかめっ面で立ち上がり、カップに湯を注ぎに台所へ近づいた。
「あ、その不機嫌そうな表情。すごく自然」
少女は何も言わなかった。代わりにそっぽをむいて、ふてくされたようにカップのコーヒーを覗きこんだ。
ほんのりとした良い香りがした。イヤホンから声がした。
「そのふてくされた顔、とっても良いね。プラス二点だ」
少女はため息をついた。喜ぶべきなのか、それとも怒ったふうに声をあげるべきなのか。彼女はどちらもしたくなった。
何故だか少しだけ、自分に人間味がついた気がした。その時の少女の表情は笑っていたが、あいにく、ナビゲーターはそれをくしゃみで見られなかった。
☆
「425番。改めて、おめでとうだな」
青色の上下ジャージを着た、いかつい顔の男が言った。
今日はからっとした、気分の良い晴天だった。
「ええ。お世話になりました」
高くそびえ立つ外壁の外側にある、小さな役所らしき場所の前で、425番__少女は頭を下げて礼を述べた。照りつけるまぶしい太陽が、少女の目を細くさせ、青色ジャージの男がしっかりと見えなかった。青色ジャージの男が豪快に笑ってから、言った。
「久しぶりだろう、シャバの空気は」
「思ってたよりおいしいです」
冗談を言った。少女は『久しぶり』と言われたが、実のところあまり、外側の世界を覚えていなかった。だから初めても同然だった。自分が何か悪い事をして、あの町に入れられていたのは知っていた。しかしやはり、自分が何をしたのかや、どういういきさつで、町で人間性の矯正を受けていたかは知らなかった。
青色ジャージの男としばらく会話を交わした後、少女は訊いた。
「私を担当していたナビゲーターの人、どこにいるか分かりませんか?」
会って最後に、礼を言いたかった。しかし青色ジャージの男は顔を困ったようにしかめた。
「425番、お前があいつに恨みを持ってないってのは分かってるんだけどよ......。すまん。教えられねえ。それに、あいつとはもう、会うなよ」
「どうしてですか?」
「そりゃあ__それがルールだからだよ。言わなかったか? 『町』から出たやつと、それを担当していたナビゲーターが顔を合わせるのは、法律違反なんだ。嫌な事を思い出してしまう可能性があるから__って、お国の偉いさんが決めた、お前らにとっては絶対に破っちゃいけねえ規則だな」
「人殺しの、私にとってですか」
「そういうこった」
少女はうつむいた。最後に礼を言うくらいのことも、許してもらえないのかと悲しくなった。
青色ジャージの男が申し訳なさそうに表情を暗くした。そして、励ましをの言葉を少女にかけた。
「まあ、あいつより良いやつなんて、この世界には五万といる。お前ならその中の誰かを見つけられるさ。__大丈夫。そのための『町』だったんだからよ」
「でも私は......。あの人に会いたいんです。いえ、あの人と__」
少女が何かを決意して、青色ジャージの男にそれを言おうとした瞬間だった。少女の足元で、カラン、という音がした。銀色に光るそれは、どこかの家の鍵だった。
上の方から声がする。
「先輩! そいつ、送ってやっといてもらえませんかね!」
青色ジャージの男にも、少女にも、それは聞きなれた声だった。外壁の窓から顔を出した青年ナビゲーターが、二人を見て、笑いながら手を振っていた。
「お前......自分が何をしたか分かっているのか?」
青色ジャージの男は唖然としたふうに言った。少女は何が起きているのか分からなかった。
「法律違反っすね! でも、バレなきゃ良いんですよ、こんなの!」
「..................」
しばらく開いた口がふさがらない青色ジャージの男だったが、急にふっと笑うと、それからさっきのように豪快な笑い声をあげた。
「上司をこきつかうってえのはどういうこった!? 罰として貴様には__」
青色ジャージの男は、驚いて地面に座り込んでいる少女をちらと見て、
「__こいつをもらってやれ!」
と、意気揚々に声を張り上げた。
「はい!」
青年ナビゲーターが嬉しそうに言う。少女は青色ジャージの男につれられて、外壁の近くにある駐車場につれていかれた。
「どうして__? こんなこと、ダメなんじゃないんですか?」
少女は泣きながら青色ジャージの男に訊いた。彼女はあまりの嬉しさに涙を流していた。
「どうしてって。こうするのが一番良いように思ったからに決まっているだろう。法律よりも大切なモノを見せてくれたのはお前らが初めてだよ」
「本当に、ありがとうございます」
「気にすんな。__それにこのことは、自分から警察にでも言わねえ限りバレないから、安心しろよ」
そして少女は青色ジャージの男の車に乗り、ある大きなマンションにつれていかれた。降りると、そこでさっきの鍵を手渡された。
「飯でも作って、先に待っといてやりな。しかしあいつ、よく家の鍵を他人に渡せたよなあ」
「もう他人じゃないです」
「あ、そうか。そうだったな」
いかにも忘れていたというふうに、へらへらと青色ジャージの男は笑った。
「あの人は、私がどういう反応をするか分かっていたから、鍵を投げてくれたんです」
少女は笑顔をつくりながらそう言った。
☆
青色ジャージの男が帰ってから、少女は台所の隣にある冷蔵庫の中を見てみた。すると予想通り、冷凍食品やコンビニで買ったような食べ物ばかりだった。
かろうじて夕食の作れそうな材料は、卵ぐらいしかみつからなかった。仕方なく、卵焼きを二つ作った。
味噌汁と白米を食卓に並べ、その二つの真ん中に卵焼きを置いて、そのあまりの質素さに笑った。
少女はふと時計に目をやる。
「あれ......。気が早すぎたな」
時計は四時二十五分をさしていた。舞い上がりすぎて、時間のことなど考えていなかったせいだった。