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忌まわしくも聖なるかな

作者: あがり諾子

 今、街に戻って、治療所に顔を出したら、いくらふんだくられるだろう。少年がそんなことを考えてしまったのは、状況からの逃避以外の何物でもなかった。さきほどから、後頭部がひっぱられるような不気味な感覚がおさまらない。――そのままひっくり返れば、多分二度と目覚めることはないだろう。


 そんな不吉な予想(じじつ)など、現実にしてたまるか。


 血脂にすべる剣を握りなおし、標的を見据える気力をもたらしたのは、そんな一念(おもいこみ)であった。


 部屋の端から端までがどれくらいあるのかすらわからない。それは、明かりが頼りないためか、部屋が広すぎるためか。おそらくはその両方であろう。薄刃のナイフすら入り込めぬほどに精緻な石組みの部屋であった。日の光など差さぬはずなのに、その部屋は薄明かりに包まれていた。床には、精緻な模様が刻まれている。部屋の主を讃える何かが描かれているのか、現代の人間の知では及ばぬ用途の図形であるのか、それとも単なる装飾なのか。知るは主のみだ。どれであるにしろ、なまなかな人の手では消すことも描くこともできぬ代物だ。そんなひどく貴重なものは、先ほどから少年が作り出している血溜まりによって、ところどころ見えなくなっていた。少年は血を流しすぎている。先ほどから、不意に視界が暗くなったり、地面に吸い込まれていくみたいな心地がしたりするのは、そのせいだ。


 原因は、剣の間合いの二倍ほどの距離に佇んでいる。夜闇をそのまま切り取ってきたかのような印象を与える女性――この場所の主だった。


 女性は美しかった。射干玉の黒髪とドレスは、寸分たがいなく同じ色のように見える。対比なす肌は、氷を思わせる白だ。ほっそりとした今にも折れてしまいそうな体躯は、少年が持つような長剣と相対していいようなものではない。柔らかなクッションや、すべらかな絹のヴェールこそが相応しく、無骨な鉄の塊など同じ世界にあるべきものですらない。


 ほんの少しだけ、女性は眉を寄せた。天上の美姫を描く筆をもつ画家が、持てる技術と最高の幸運を存分に発揮して描いたかのような完璧な曲線(カーブ)が形を変化させる。

 それに気づいた少年の口元もまた、あるかなしかの微妙な曲線を描く。


「死ぬぞ」


 瀕死の老婆のごときかすれ声であった。うん、と、少年はただ頷いた。そして、大きく息を吸い、床を蹴った。

 彼は数歩の距離を詰める。勢いはあったものの、年に似合わぬほどの緻密さはなくなっていた。ただ力任せに、袈裟懸けに長剣を振り下ろす。何の手ごたえもない。だが、今までの経験から、少年はそれを予測している。勢いを殺さぬまま、剣の向きを変化させる。返す刀もまた、勢い良く彼女の姿をすりぬけた。


「殺されたいのか」


 女性の眉間にしわがよる。夜の女神の美しさを讃えた似姿が、苦悶というテーマの彫像に変化したかのようだった。

 少年は応えない。ただ、先ほどまでいまにも崩れ落ちそうになっていたとは思えぬほどの確かさで、剣を振るうのみであった。


 死にたいのならば、他へいけ。この場所を汚そうとするな。女性のそんな気持ちに応えたかのように、床の血溜まりが姿を消す。

 うん、と。女性の言葉に、少年はただ、小さな動作で頷くのみ。振るう剣の勢いはそのままだ。


 ほんの少し、女性はてのひらを移動させた。それは、切りかかってきた少年の剣の上におだやかに乗せられる。少年の動きが止まった。いや、止められた。

 白魚のごとき繊手が、無骨な両刃の剣の上にのっている。少年は、彼女のてのひらを傷つけるを恐れ剣をとめたのか? いや、そうではない。彼の腕の筋肉は膨れ上がり、食いしばった歯は微かな音を立てている。ぷつり、と、こめかみに汗の玉が浮いた。そう、彼女が止めているのだ。横薙ぎに薙ぐこともできず、押し込むことも、引くことも、手を離すことすらかなわない。あれほどに血をながしていたにもかかわらず、息を止めなんとか剣を振ろうとする少年の顔が上気する。


「――無理だ」


 今度も、少年は頷くかと思われた。だが。彼は腕が震えるほどの力をこめながら、口を開いた。


「イヤだ」


 顔を上げた。彼の目に宿るは、恐怖でなく殺意でなく、ただ純粋に思慕。美しく手が届かぬものをただ見上げ慕うそれに、混ざり合うあたりまえの欲望――かの存在を腕に抱き思いを分かち合いたいという、ただそれだけの思い。


 剣が揺れた。機を逃さず、少年は引き、彼女から距離をとる。


 あきらめて負けを認めれば、そのまま無事に帰すというのに。それは彼女の宣言であった。知識、力、そして名誉。彼女を得んと幾人もの勇者が挑んだ。彼女が膝をつく相手は、創世からの正しき知識と、森羅万象にすら意のままにできるという力を得る。そして、伝説を体現する彼女を得るということは、幾多の場所において、対抗する意見をねじ伏せるだけの説得力となりうる。ただし――。


「もう二度と会えなくなるんだろ」


 負けを認めたならば、二度と彼女に挑むことは許さない。外であれ内部であれ、彼女にまみえる距離へと近づけぬ制約が敗北者には課される。かつて、毎年のように沸いて出ていた連中――食いつめ者から、国に認められた勇者まで、彼らの挑戦を退けるためのものであった。飢饉の年や、政変の年は、特に増えた。彼女が外にいようと内部にいようと、彼らは押し寄せてくる。それらに閉口したが故の宣言であり、実際彼女にはそれを小指の先で実行する程度の力はあった。


 彼女に挑むを認めるは、北の高領にある彼女の巣においてのみ。星辰の位置正しき時刻のみ扉は開かれ、室へと至る迷宮が姿を表す。


 彼女は慈悲深い存在だった。彼女に挑みに来るくらいの人間だ。下界ではおそらく必要な存在ではないか? と。だから彼女は言う。負けを認めれば追いはしない。ただ、幾度も私を煩わせるな。そうして挑戦者の身体には刻印が刻まれる。二度と彼女に近づくことあたわぬ、と。失われた法則で刻まれたそれは正しく効果を発揮し、彼女の手を一度でも煩わせた存在は、二度と彼女とまみえることはない。


 ただ、彼女にも誤算はあった。彼女に挑むは、かならずしも未来を嘱望された存在ばかりではないのだ。この機会をのがしたとて、刃の露と消える定めは変わらぬ、と。死をもってして無謀な挑戦を終わらせた存在も少なからずいる。彼女に与えられた死の未来(リアル)すら追い払うことのできる恐怖というものも存在するのだ。


 だがそれでも、彼女がいちいち彼らを殺さなければいけなくなることは減った。大方の人間は、実際に死の(げんじつ)覗き込め(しれ)ば、現在の栄誉や富などをかなぐり捨ててでも生きようとしたものだ。そう、死刑の予定など逃げてしまえばいい。駄目だったといちいち正直に報告する義理など、自らの命に勝るものではないのだ。


 少年はごく一部の例外に属していた。自らの死以外に、この戦い(むぼう)を終わらせる気はないらしい。血を流し、あしらわれ、押しつぶされ、自らの技量など何の役にも立たないことを徹底的に叩き込まれる。一夜に万里をかけるという、人が持つ最も強き力をのみ支えに、彼は剣を振るい続けた。


「アンタに会えなくなって、それでアンタが誰かのものになって、そんなの許せるわけないだろ!」


 実際のところ、ここしばらく――人の尺度としては伝説になる程度の間、彼女が頭を垂れた人はいない。彼女の実在すらも疑われるほどの時だ。


 彼女は不機嫌に白いてのひらをふる。もういいとしもべを追い払う仕草だった。


「富か権力か」


 己の命を落としてしまえば、得るものなど何もないというのに。

 少年は、目で彼女に問う。彼女は何を言っている?


「何を欲し、オマエは命を落とそうとする」

「アンタが欲しい」

「私を得た後の話だ」

「傍にいて」

「富か権力か」

「アンタに寄り添い生きる未来を」


 だから、ずっと言ってるだろ! と。少年は叫んだ。その勢いのままに床を蹴る。彼女の身体に対し、あまりにも重過ぎる長剣が襲いかかる。


「おれのお嫁さんになって、って」


 腕が飛んだ。少年は目を見開いた。彼女の細く白い腕が放物線を描き、部屋の隅へと飛ぶ。それを追うかのように、青い液体――おそらくは彼女の血らしきものが恐ろしい勢いでふきだす。


 あ、と。見る間に少年の顔が青ざめる。いや、青ざめそうになった。だが、次の瞬間。彼は、自らを襲った激痛に悲鳴をあげた。


 少年の首から、未だそれだけの血が残っていたものかというほどの血がふきだす。それを追うかのように、彼の身体が(かし)いだ。いくら勢いがあっても、血液で彼の身体は支えられない。


 少年は地に伏した。ひゅう、と。途切れそうになる呼吸が彼の喉を通るたび、血が流れる。青と赤、異なる色の血が混ざり、床の模様を覆い隠していく。


 彼女は無表情に少年の横にひざをついた。漆黒のドレスは、赤にも青にも染まらない。落とされていないほうの手が持ち上がる。少年の頬に触れた。つ、と。青が流れる。


 少年の唇が震える。あとほんのしばらくで光を失うであろう目が、じっと彼女の顔を見ていた。指が動く。頬から首へ。ぷつりと彼のまとう部分鎧が切れ、落ちる。続いて、服が切り裂かれた。

 彼女の描く青い紋様を、少年の血が覆う。

 少年の眦が光る。涙だった。少年は、手を動かそうとした。彼女を止めようとした。だが、動かない。もはやその力はない。

 むき出しになった肌を、彼女の指がたどる。


 少年が最後に見たものは、彼女の白い頬といつもの無表情だった。




   *




 穏やかな光があった。少年は目を開く。まぶしすぎる世界に、彼はてのひらで顔を覆った。土のにおい、植物のにおい、穏やかに肌を撫でる風。


 あれは夢だったのだろうか? 彼女の細い腕を切り落としたこと。そして、負けたこと。最初、彼女は手加減しつつ少年の技量が足りないことを教えてくれていたように思う。それは、彼女が少しでも少年に心を移してくれているからなのか、それとも万民にむけた優しさ(つよさ)を持つからか。だが。それでも嫌だと、彼女を手にしたいとだだをこねる自分に対し、ついに彼女は最後通牒を行った。それは、死であった。


 夢にちがいない。少年は、ゆっくりとてのひらをずらした。薄目をあけて明るさに目をなじませながら、切り裂かれた首に触れる。

 つながっている。痕もない。ならば夢なのだ。そうでなければ、彼が生きているはずはない。それこそ、眠り男たちが口にする来世なるものにいるのでなければ。


 ――急がなければ。少年は拳を握った。急がなければ。彼女は帰ってしまったのだ。悪夢を現実にしないためにも、急ぐしかない。彼女の時はあまりに長く、きっと少年があっというまにはかなくなることなど理解していない。


 脳裏に浮かぶは、満月に光る銀鱗。深い闇の中で輝く美貌。


 勢いをつけて立ち上がる。とても心地良い野原だとはいえ、なぜ自分は野外(こんなところ)で眠っていたのだろう? 急がなければいけないのに。そう考えたところで、目の隅を黒がよぎった。

 泥かなにかでもついているのかと、てのひらを目前にもちあげた。そして、悟った。あれは夢などではなかったのだ、と。


 親指と人差し指の間から、肘へ、さらには肩へと絡み付く黒。植物の刺のようにも、外套に落ちた雪のかけらのようにも、はたまたガラスの向うに躍る光のようにも見える意匠がある。ブーツを脱ぎ、ズボンをまくりあげれば、そこにもただ絡みつく黒。鏡などなく、確かめることなどできないが、おそらくは頬にも同じように紋様がからみついているであろう。


 二度と彼女の前に現れることあたわず――おまえの顔など見たくはない、と。


 ああ、と。ゆっくりと少年は息をはいた。

 もう二度と自分は、あの美しい姿を見ることはできないのだ。あのしわがれてかすれた、だが優しい声を聞くことはないのだ。低い体温の柔らかな手足。まっすぐな黒髪。月の光を全身にまとい、大空を伸びやかに舞う姿。目を閉じなくとも、その姿は鮮やかに蘇ってくるのに。


「――」


 唇に乗せようとしたその名は未だ甘く、背に震えすら走る。


「……。……っ……」


 声にはならない。それは、彼女が応えないことを知っているからか。だが。


「――アージェ――」


 少年はそう呼んだ。まるで、言葉を発することを忘れてしまったかのような喉を動かし、身体の奥底から搾り出すかのような声で。

 視界が暗くなった。




   *




 頼りない光の中、その美貌は自ら光を放っているかのように見えた。

 白いてのひらか触れた。少年は、大急ぎでそれを捉えた。日常的な急激過ぎる動きに、身体中が悲鳴をあげる。思わずうめき声を漏らした。

 薄刃のナイフすら入らぬほどに精緻な石組の床。手が届くどころか、薄明かりのもとでは正確な距離すら測りかねるほどに遠くにある壁。かの存在が座す最後の部屋だった。そして、少年が命を落としたはずの場所であった。


 てのひらは消えなかった。夜の女神を再現した彫刻を思わせる顔が、ただ少年を見下ろしている。


「……な……」


 何故と問おうとしたか。何が起きたと尋ねようとしたか。言葉にならない音を受け、ゆっくりと、女性の口の端がもちあがる。白すぎる頬に、ほんの少し朱色がさす。


「――受け取れ。我は銀嶺――アルグロウシア」


 続いて、女性の唇が少年の名を呼んだ。じわじわと少年のうちに、現状に対する理解が広がっていく。唇が緩やかな弧を描く。女性のてのひらを捕らえる手に力をこめた。


「この力もて世界の王となるか、それとも――」


 女性の言葉に、少年は首を横にふった。


「アージェ――アルグロウシア……」


 うっとりと唇に乗せたその名に、女性はほんの少し首をかしげた。少年の言葉を待っているのだ。

 手を伸ばした。滑らかな頬に触れた。


「おれの?」


 尋ねた声は震えていたかもしれない。女性はしかと頷いた。


「キスしたい」


 少年の言葉に、再度彼女は首をかしげる。アルグロウシア、と。そう呼びかけ、少年は目を閉じてくれるようにと頼んだ。

 目が伏せられ、長い睫が頬に微かな影を作り出す。黒い瞳が白いまぶたで覆われていくさまに、少年は少しだけ寂しさを感じる。だが、それ以上に大事なことがあった。


 少年は、女性をそっと引き寄せた。落ちてきた黒髪が顔をくすぐる。薄い唇に、そっと触れた。柔らかなそれは、温かな体温と鼓動を伝えてくる。一度唇を離してから、少年は女性の身体をさらに引き寄せた。まるで骨がないかのように柔らかく、細い。そして、記憶にあるよりもずっと温かい。腕の中の確かな存在感に震えるような感動を覚えながら、再度その唇を求めた。


 そして、そうして彼女を手に入れた少年が、口付けに対する認識の差をはじめとした、数々のすれ違いに頭を抱える羽目になるのは、もう少しあとのことになる。

 そんな些細な問題はさておき。北の高領と同一視されることもある存在は、幾星霜の時を経て(ひさかたぶりに)主をもつこととなった。




fin.

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