2、お姉さんと紫陽花と私
それから二人で会話を交わす。
楽しい筈の時間だが、いけない私は途中途中で何度も他に気を取られていた。
私の座ったソファーがしっとりと濡れている。
私の部屋の開かれた扉から、ふわりと風に揺れるように紫陽花の花が現れ、こちらに茎を伸ばす。
いつしか部屋全体がしとしと雨に打たれたようにじめっと濡れ、私の近くからポツ、ポツと紫色の小さな花が咲く、ざらざらした緑の茎と葉が生える。
幸せな時間を過ごす私を祝うのか忌み嫌うのか、いつしか部屋は紫色の紫陽花に覆われてた。ソファーはふかふかのベッドのように、こんもりとした紫色の紫陽花に覆われる。机もスタンドハンガーも、壁も窓も見えるもの全てに紫陽花が咲き乱れる。
私たちは紫陽花に包まれ、紫陽花に見守られて、紫陽花の中で抱擁する。私の大好きな、私が生まれた梅雨の紫陽花。
きっと私はおかしい、日常にこのような異変が起きる筈はない。
だけど、だけど……私が小さな部屋に隠れると、紫陽花はいつの間にか消えるのに、今日はお姉さんが消える前の紫陽花に気づいてくれた。
一番大きくて、今日の女王と勝手に名前を付けていた紫陽花が床に咲いているのを、普段はあまりにも一面に咲き乱れるので、見えているのか気にしているのか分からないまま踏んでいたお姉さんが、一瞬だけ躊躇って避けた。
もしかして、そこに踏んではいけない物があったのかもしれない、ただそれだけの、何の変哲もない下らない理由かもしれない。
だけど、だけど……私はお姉さんにも、これだけ美しく荘厳な景色が見せられるかもしれないと思って、少しだけ嬉しかった。
お姉さんは少し焦った様子で私を部屋に連れて入り、外から扉を閉める。様子から察するに、もしかして私に構う時間を使い過ぎて、お仕事に遅れそうなのかもしれない。
私は何度も謝り、素直に小さな部屋に入る。
「帰るまでいい子にしてね」
閉じつつある扉越しにお姉さんはそう言い残し、部屋を出て行く足音が小さくなり消えた。
お姉さんは焦っていたのだろう、閉める際に足で山盛りの消臭剤を蹴って崩してしまった。しかも、普段はきっちり閉める扉が少し開いている。
いい子にと言われたが、私はお姉さんが紫陽花を見た、そう思ったので興奮してどうにかしていた。
普段はお姉さんの言いつけを守る。
自分が卑下すべき立場なのも充分に理解している。
外にぶざまな姿を晒し、綺麗で聡明なお姉さんの評判を下げかねないのも自覚している。
だけど、だけど……今日なら、今なら、きっと紫陽花の花を咲かせられる。
私の好きな、お姉さんと紫陽花。
私は動きの悪い体に無理をして、扉を内から押した。
キューイ――扉が風に吹かれて煽られるように揺れ、蝶番が軋む音が聞こえた。私は音を聞きながら、何かに追われるように追いかけるように、苦しく焼けるような感情と気分の悪さを打ち捨てて、禁断の一歩を踏み出した。
ずっと小さな部屋にいた私の体は脆い。
お姉さんの部屋は二階にある。
私は出るときに、やはりどこか心細かったのか、紫色の紫陽花を一つだけ千切って胸に抱いて出た。密集して生えていた紫陽花を取る際に絡まった花を幾つか引きずって、階段の上で立ちすくむ。
普通の人なら何ともないであろう、一段が数十センチの高低差。さらにそれが続く奈落の底のような階段の下を見て眩暈を起こす。
ただでさえやせ細って生白い、自分の体重を支えるのがやっとの足で降りられるとは思えなかった。
階段の端に恐る恐る座り、足を次の段に下ろし、憎むべき敵のように自分の足と階段を睨みつける。少し座っただけで、私の周囲は霧雨のような淡い水滴が漂い、水で艶を帯びた階段に紫陽花が咲き始めた。
しばらく眺めていたが、階段が紫陽花で多い尽くされ壁も天井も様々な濃淡を帯びたおびただしい量の紫陽花が埋め尽くす。これで落下してもある程度は痛くないだろうと思い、腰をずらして一段降りると、曲げて力を加えるだけで辛い足を一段づつ慎重に下ろし、ゆっくりと確実に降りる。
一階の廊下に下りた時には、やれば出来ると自分を褒めつつも、精も根も使い果たし、床に座り込んで休むしかできなかった。
床に女の子座りをしている私の周囲は、当然のように濡れて冷たさと熱気が同居した空気に包まれている。
ああ、梅雨だ、紫陽花の咲く季節。
紫陽花は水の器、世界が水で覆われるほどに満ち溢れ美しく咲く。
どうして私はこんなに紫陽花に拘るのだろう。きっとお姉さんが好きと同類な感情なのだろうか。
そんな考えに浸っていると、どこからか湿った土の匂いが漂い、階段下の廊下がいつしか紫色の紫陽花に覆われる。周りのどこを見ても紫陽花、紫陽花、紫陽花、紫陽花……紫色のバリエーションをこれでもかと尽くして表した美しい世界。
紫陽花によって階段を下りるだけで挫けて折れかけた心を取り戻した私は、家族に気づかれないように廊下を静かに這って進む。紫陽花が敷き詰められた床を這う私、まるで体が小さくなって虫にでもなった気分だ。
慎重を期したお陰で、誰にも気づかれずに玄関までたどり着いた。
玄関の扉の前に座り、手を伸ばす。そこで私は電流に打たれた、いや、見えない何かに手を殴られたような衝撃を覚え、頭を抱えて紫陽花の中に倒れる。
私は出てはいけない。出てはいけない。
何かが頭の中で暴れて叫ぶ、出るなと警告する。