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 2人分のバターロールをオーブンで焼いて戻ってくると、水樹の隣の席の女学生は完全に突っ伏してしまっていた。明るめの髪が乱れたままテーブル垂れ下がっていて、制服も、これ以上着崩すと多分犯罪だろうという有様だった。まだ食堂に残っている学生達もさすがに気になるらしく、視線を独り占めにしていると言ってもいい。

 少し早足で自分の席まで駆け寄った水樹は、その女子の肩を揺する。

「ちょっと・・・・・・香菜」

 顔がほんの少しだけ持ち上がったものの、全然身体に力がこもっていない事が水樹には分かった。中高一貫のこの学校に入学して以来の付き合いで、しかもずっと寮の同じ部屋で過ごしているから、校内では水樹よりも彼女に詳しい人間はいない。

 香菜と呼ばれた学生、立花香菜絵はテーブルに突っ伏したまま、冬眠中の熊みたいなくぐもった声をあげる。

「眠い・・・・・・もうダメ」

 実際に何かがダメだった事は、もちろん一度もない。テーブルの上にパンを載せた皿を置きながら、水樹はいつも通りに答えた。

「ほら、コーヒー持ってきてあげるから」

「うう・・・・・・」

「もうちょっとだから。頑張って」

「う・・・・・・」

 声がだんだん遠くなっているような気がして、水樹はまた肩を揺する。

「もう・・・・・・ほら!起きて」

 変な間があったものの、香菜絵はようやく目が開いたようだった。

「・・・・・・大丈夫。それより、コーヒープリーズ」

 まだ突っ伏した姿勢のままだったものの、ここまでくれば大丈夫かなと、水樹は軽く返事をする。

「はいはい」

 その言葉を残して、水樹はコーヒーを取りにもう一度食堂の奥へと歩いていった。

 この学生寮の食事は全てセルフサービス。用意されたもののなかから好きなものを選ぶビュッフェ形式だ。ただ、朝の香菜絵にはそんな気力はないので、メニューを考えるのも用意するのも水樹の役目だ。

 今日はパンとベーコンエッグにサラダ。そして、カップのヨーグルトとコーヒー。大抵朝にパンを食べるのは、パンが好きというよりも、コーヒーが外せないからという理由が大きい。香菜絵にとって、朝のコーヒーはなくてはならない存在だ。

 そのコーヒーを一口飲んだ途端に、さっきまでの低血圧ぶりはなんだったのかと思えるくらいに香菜絵の口調がはっきりしてくる。芯が通ったように背筋も伸びている。

「ああ・・・・・・スッキリした」

 隣で幸せそうな溜息を吐きながら言う香菜絵を見て、つい水樹も笑ってしまう。

「変なの」

「何が?」

 瞳を大きくしながら聞いてくる香菜絵。その大きい印象的な瞳と向かい合うと、つい水樹でも少し見入ってしまう。

 朝はこんな感じでも、それ以外の香菜絵は生粋のお嬢様として有名だ。校内の人気者と言ってもいい。生まれも育ちもいいし、スポーツも勉強も出来る才色兼備。そして、お嬢様なのに人当たりがいいというか、少し面白い性格をしているので、人気が出るのも当然かもしれない。

 どんな偶然か運命なのかは分からないものの、水樹はそんな香菜絵と寮の同室という事になった。クラスも一緒で、どういうわけか息もあった。ぐいぐいと引っ張ってくれる、一緒にいて楽しい友人。掛け替えのない大切な人だ。

 いろいろな思い出が頭の中に浮かんでくる。そうなると、水樹は微笑むしかない。

「何でもない」

 その返事に、香菜絵は微妙に首を傾けて少し目を細める。どことなく上品というか、雰囲気のある仕草。思わず真似してみたくなるような、大人っぽさを感じる。こういった動作が自然に出来てしまう事が、彼女の魅力のひとつかもしれない。

「意味深じゃない?気になるなあ」

「いいの。それよりほら、早く食べないと」

 いつまでも優雅に食事していられる程、朝は常に余裕がない。

「そうね。えっと・・・・・・一限目って何だっけ?」

 水樹はサラダをしっかりと飲み込んでから答えた。

「日本史」

「あ、そう・・・・・・それなら、なんとかなるかな」

 そう呟いてから、香菜絵はパンを千切って口に入れた。

 心中で少し溜息を吐いてから、水樹は何気ない口調で言う。

「凄いね。香菜は」

 あまり普段勉強しているように見えないのに、香菜絵はいつもいい成績を残している。きっと要領がいいのだろう。水樹の場合、10歳まで別世界の教育を受けていたというハンデはあるものの、仮に香菜絵と同じ条件だったとしても、彼女のように要領よく勉強出来るとは思えない。

 ところが、そこで香菜絵は意外な事を言い出した。

「多分だけど、逆だと思う」

「・・・・・・何が?」

「何で水樹は出来ないのかなって思うけど。頭の回転も知識の飲み込みも速い。勉強が嫌いってわけでもないし、それどころか、何でも真面目にやるストイックなところもある。それでどうして出来ないのか、逆に不思議」

 つい水樹は食事をする手を止めてしまった。

 こちらを向いた香菜絵の口元は笑っていたが、目は笑っていない。

 論理的で、直感も鋭い。

 素直に感心しながらも、本当の事を話すわけにもいかない。話したところで、信じては貰えないのだから。

 しかし、表情こそ平静を装っていたものの、目を逸らす事は出来そうにもなかった。

 香奈絵の瞳は、髪と同じで少し薄い色をしている。水晶のような大きい瞳。何もかも見透かせてしまうと相手に信じさせるのには十分なほどの、神秘的な色合い。

 そのまま数秒間見つめ合っていた2人。

 ところが、やがて同時に吹き出した。

 朝からいったい何をやっているんだろう。水樹の気持ちを一言で説明するならそれだった。多分香菜絵も同じ事を考えているという感触が確かにあった。

 向こうの考えがなんとなく分かる、想像出来る。そういう印象を抱いたのは一度や二度ではない。思考が似ているという事なのかもしれない。2人の気があった理由は、きっとこういうところかもしれない。

 きっと今、相手もそう考えている。

 ひとしきり笑った後、香菜絵が背伸びしてから言った。

「さあって・・・・・・今日も頑張らいでか!」

 水樹はまた笑った。

「何?それ」

 香菜絵も微笑む。

「知らない?頑張るしかないっしょって感じの方言」

「全然知らない」

 少なくとも、水樹は聞いた事もない言葉だった。

「そっか・・・・・・やっぱり本物のお嬢様は違うね」

「自分の方がお嬢様のくせに」

 水樹を引き取ってくれた人も、もちろんそれなりに経済力のある人だ。しかし、立花家に比べたら十分庶民だと言える。

 その立花家の次女である香菜絵は、今度は優雅に微笑んだ。

「ええ。仰るとおりです」

 表情や仕草だけなら完璧にお嬢様に見える。

 しかし、水樹は笑うしかなかった。

「ちゃんと制服を着て、髪も整えてから言った方がいいかも」

 今の香菜絵は、髪も服も遭難した直後みたいに乱れている。どうやったら同じ制服をこんな風に着られるのか、確かに不思議ではある。

 やや開きすぎの胸元を見てから、香菜絵は苦笑する。急に恥ずかしくなったのか、顔が少し朱かった。

「じゃあ、早いとこ食べよっか」

「うん」

 本当にいい加減にしないと、遅刻しそうではある。

 そこで香菜絵が思い出したように聞いた。

「あ、そうだ。水樹、今度の土曜空いてるでしょ?」

「土曜?」

「そう。遊びにっていうか、ちょっといいところに連れて行ってあげる」

「外出許可は?」

 ここの寮で暮らす学生は、休みの日に外出する場合など、予め届け出が必要なのだ。

 香菜絵はそこでウインクをする。慣れた感じがして、水樹は鼓動が少しだけ大きくなった。

「どうせ基子さんのお手伝いに行くんでしょ?その届け出に便乗させて貰うから」

「またそういう事して・・・・・・ちゃんと出しておけばいいのに」

「いいの。一週間前までに出せなんて、そもそも無理なんだから」

 諌めるような表情を示す水樹。しかし、不敵に微笑む香菜絵を見ていると、どうにも勝ち目がないのは明らかだった。

「それに、私も基子さんに会いに行くから、100パーセント捏造ってわけでもないし」

 水樹は微笑む。心のままの、自然な表情の変化だった。

「分かった。じゃあ、土曜日ね」

 その言葉で水樹の予定も決まる。内心、どんなところに連れて行ってくれるのか、今から心が弾んで仕方なかった。



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