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 彼女はいつも屋根の上にいた。

 この国の屋根といえば、ドーム型のような、なだらかな球形をしている事が多い。だから、特段乗りにくいというわけではないものの、中には魔術師の塔のように急な傾斜をした円錐状の屋根もあり、彼女はその上にいる事もあった。上に乗っているというよりも、むしろ端に足を掛けて辛うじて掴まっているという感じだったが、その場合でも、彼女は涼しい顔をして、遠くの景色を見ているのが常だった。

 昼でも夜でも、夏でも冬でも、物思いに耽るような、どこか寂しげな表情をしていた彼女。

 屋根の上という場所が案外死角なのか、それとも、そんな表情をしている彼女に声をかけるのが躊躇われるのか、町の人が彼女を注意する事は稀だった。従って、屋根の上にいる彼女に最初に声をかけるのは、大抵が自分の役割だった。

 簡単に名前を呼ぶと、彼女はこちらを見てバツが悪そうに微笑む。いつから見ていたのかと最初の頃は恥ずかしそうに聞いてきたが、それもそのうちなくなった。つまり、慣れてしまうくらいの長い間、その関係が続いたという事だ。

 屋根の上から遠くを眺める彼女と、地上に呼び戻す自分。

 それが自分と彼女。

 2人の関係。

 だから、ある日彼女がいなくなったのに気付いた時、屋根より低い場所は探さなかった。

 月明かりの空を魔術で飛ぶ。

 いつもの彼女よりも高い位置。だが、自分の視野は惨めな程低かったのだろう。彼女を見つけるのにかなり時間がかかった。仮に逆の立場だったら、彼女は数分で自分を捜し当てただろう。

 それでも、結局彼女を見つけたのは自分が最初だった。

 頼りない光がうっすらとオレンジ色を示している屋根の上を、彼女はゆっくりと歩いているところだった。

 その彼女の少し後ろに、自分も静かに下り立った。思えば、彼女と一緒に屋根の上に立ったのは、その日が初めてだった。

「どこに行くんだ?」

 立ち止まった彼女は、しばらくしてこちらを振り返る。長い栗色の髪が柔らかくなびいていたが、その髪を少し煩わしそうに手で払いのけて、彼女は答えた。

「外」

 当然だと言わんばかりの微笑みを見せながら、ただ一言だけ、彼女は告げた。

 こちらは沈黙するしかない。

 その言葉が示す意味に驚かずにはいられなかったが、心のどこかではそんな予感がしていたのかもしれない。完全に想定外というのとは、確かに違う感触だった。

 彼女が言う外とは、この国の、いや、この世界の外の事。

 この国を空間ごと爪弾きにした、かつてこの国と共にあった世界。

 そして、あくまで想像上の話でしかないが、魔術が存在しないと言われている世界。

 いわば、魔術師を否定した世界。

「何故?」

 しばらく後に、ほとんど必然的に口をついて出たその言葉に、彼女は視線を逸らしてから小さな声で答えた。

「分からないけど・・・・・・幸せになりたいからかな」

 今度はすぐに尋ねていた。

「幸せじゃなかったのか?」

 彼女程幸せな人間はいないと思っていた。魔術の才能が最も重視されるこの世界において、彼女は天才なんてものではない程の才を持って生まれたのだ。仮に1000年待ったとしても、彼女に代わる人材は現れないだろうとさえ言われている。まだ10歳の彼女だが、もはや正面から彼女を打ち負かせる人間はいない。その上頭も良くて、心優しくて、誰からも愛されている。

 その彼女が幸せじゃないとは、にわかには信じられなかった。

 そもそも、幸せがどういうものなのか、17歳の自分でもよく分からないというのに。

 まるで答えを用意していたかのように、彼女はすぐに返事をした。後から思えば、子供には少し酷な質問だったかもしれないが、彼女の言葉は淀みない。仕草は年相応でも、こういったところに毛色の違いが垣間見られる。

「みんな優しいし、毎日楽しいし、もちろん幸せ。だけど、もしかしたら、私1人が幸せなだけかもしれないって、そう思ったの。このまま私が大人になって、それがみんなにとって本当にいい事なのかなって」

「・・・・・・よく分からないな」

 なんとかそれだけ答えたが、内心は動揺せずにはいられなかった。

 それはつまり、この世界の為にここから出て行くという事なのか。

 ある種の犠牲とも言えるそんな行動を、子供が自分で決断する。

 確かにそれはさすが彼女とも言える発想だった。誰も見えないような事が、彼女の目には見えているのだろう。

 しかし、それは余りにも酷ではないか。

 いくら才能があるからといって、子供にそんな真似をさせるのか。世界が駄目になるからこの国から出て行けと、そんな事を誰が言えるのか。

 こちらの動揺まで包み込むように、彼女は優しく笑った。

「自分で言ってて、私もよく分からない。でも、外の世界も見てみたい。そこにあるものを見なくちゃいけないって思うの」

 その言葉を聞き終わると、口から自然と声が出ていた。正直動揺は隠せなかったが、頭の一部くらいは冷静さが残っていたのかもしれない。本当に咄嗟の反応だった。

 実力行使で彼女を止める事は出来ないのだ。だったら、言葉で対抗するしかない。

「世界の境界を越えたと言われる魔術師はいる。だが、向こうに行って帰ってきた人間はひとりもいない。それは恐らく、向こうでは魔術が機能しないからだと言われている」

 思い切って言ってみたが、彼女の表情に表面上の変化はなかった。大人びた微笑みを見せたままだ。

「知ってる。だから、これでお別れかもしれないね」

「俺はともかく、おじさんやおばさんが泣く事になる」

「悲しそうだったけど、2人とも、最後には行ってきなさいって言ってくれたから」

 これには黙るしかなかった。

 驚くべき事に、しっかりと両親には相談済みだったらしい。彼女はこういった類の嘘は吐かないから真実なのだろうが、にわかには信じられなかった。

 どうして両親は許可したのか。

 彼女にこんな辛いものを背負わせる気なのか。その上、最愛の一人娘にもう会えなくなるかもしれないというのに。

 そこで聞こえてきたのは、彼女の優しくて力強い声だった。

「それに、何の保証もないけど、私、絶対に帰ってくる。帰ってこられるって信じてる」

 少し色の薄い、彼女の瞳を見つめる。

「・・・・・・本気か?」

「大本気」

 胸を張って、自信たっぷりの笑みを見せる彼女。

 言い出したら聞かない。そして、何でも成し遂げてしまう彼女だが、さすがに今回だけは分が悪過ぎる。彼女が最強の天才魔術師だとしても、魔術がない世界では、普通の少女でしかない。

 こちらがまだ難しい顔をしていると、不意に彼女の表情が少し陰った。屋根の下から声をかけられた時のいつもの彼女の表情と、どこか似ているような気がした。

「ごめんなさい。ちゃんと言ってから行かなくちゃいけないと思ってたんだけど、でも、絶対に止められると思ったから・・・・・・結局見つかっちゃったけど」

 自分でも不思議だったが、その彼女の表情を見て覚悟が決まった。

 普通ならば、絶対に行かせないところだ。自分にとって彼女は、幼い頃から面倒を見てきた、ある意味妹のような存在だ。そんな危険な真似をさせられるわけがない。

 しかし彼女は、恐らく歴史上に名を残す程の魔術師でもある。この国の人々にとって、彼女は真の意味で特別な、歴史的な存在だ。彼女の一存がこの世界の将来を左右すると言ってもいい。彼女がこの国の事を想ってする行動ならば、それは何よりも優先されると考えてもいいのかもしれない。

 小さく息を吐いて呼吸を整える。次に口を開いた時には、静かな口調に戻っていた。

「勝負しないか?」

 二度ほど瞬く彼女。

「・・・・・・勝負って?」

「魔術で決闘をしよう。そちらが勝ったら、外に行ってくれていい」

「じゃあ、私が負けたら?」

「こちらに残って貰う。いや・・・・・・俺と一緒に皆を幸せにする。これでどうだ?皆が幸せになる案を俺が考える。こちらも何の保証もないが、その案に付き合って貰う。これなら公平だろ?」

 彼女はしばらく目をパチクリさせていた。突然の提案に驚いたのだろう。しかし、やがていつものように微笑んでくれた。

「うん・・・・・・それもいいね」

 左腕を優美に前へと翳す彼女。長袖の黒いジャケットが、彼女の華奢な腕を包んでいる。

 それは彼女が魔術を使う時に決まってする動作だ。彼女の癖と言ってもいい。魔術的な意味は全くと言っていいほどないが、なんとなく目を引くという効果はある。もちろん何度も見ているので、いつまでも見とれたりはしない。

 しかし、彼女と勝負するのは久しぶりだった。

 もしかしたら、これが最後かもしれない。

 いつの間にか風が止んでいる。この少しだけ切ない勝負に、水を差さないように気を遣ってくれたのか。

 魔術勝負には、いろいろ種類がある。互いの論理を比べあうだけという地味なものもあれば、目標物をどれだけ破壊出来るか競う、見た目がかなり派手な勝負もある。

 その時提案したのは、魔術で決闘するというもの。恐らく最も危険度が高いと思われる勝負方法である。相手を倒したら勝ちというだけのシンプルなルールだが、あくまで決闘であって、殺し合いではない。身体を傷つけるような魔術は使わないという暗黙の了解がある。

 それでもこの勝負方法が危険だとされるのは、ひとえに、魔術の性質による。

 魔術の理論体系の中には、精神の概念も内包されているのだ。

 つまりどういう事かというと、魔術が影響を及ぼせるのは物質だけではないのである。人の精神に対してダイレクトに影響を及ぼす事が出来るのだ。

 決闘における攻撃対象も、当然精神の方という事になる。

 この勝負方法で決着がついた時、敗者が辿る末路というものは様々だ。勝者が手加減してくれれば、数分程で目が覚める場合もある。しかし、決闘というのは大抵実力が拮抗した者同士がやるので、そんな余裕があるパターンというのは稀だ。多くの場合、敗者は勝負後数日間は目覚めないし、稀にその期間が数週間に及ぶ場合もある。理論上では、相手を一生寝たきりにさせる事も出来るが、それは相手が完全に無防備だった場合であって、実際には人の精神は無意識に防御するように出来ているので、せいぜい1年が限界だ。

 そして、自分が目覚めた時には、あの日から1週間が経過していた。

 それを確認した時、不思議と満足出来た。彼女程の希有の実力者なら、相手を手加減して倒すのは朝飯前だ。逆に言えば、それをさせなかった程度には、彼女を追いつめたと言える。

 ただ、もちろん彼女はいなかった。

 その時は、自分なりのけじめがつけられたと思って納得した。何か大事なものが失われたような気がしたのだが、それは敢えて気にしないようにしていた。もうどうしようもない事だ。そう思うしかない。それ以上の事は考えないようにした。

 失ったものにようやく気付いたのは、20歳を過ぎてからだった。

 今だから言えるが、自分にとって、彼女は妹どころではない存在だった。それはどうやら間違いない。

 聡明で可憐だった彼女。

 彼女の事が好きだった。

 決闘の条件として出した提案は、その時は気付かなかったが、もしかしたらプロポーズのつもりだったのかもしれない。自分と一緒にいて欲しい。自分と一緒に幸せになろうと、無意識に提案していたのかもしれない。

 それこそ、もう今更、どうにもならない話だ。

 それでも、ふとした時に考えてしまう。

 彼女は今何をしているのだろうか。

 また屋根の上に立って、物思いに耽っていないだろうか。

 彼女は幸せになれただろうか。

 いや、きっとなっているだろう。彼女なら、どんな場所でも幸せになれる。その隣にいるのが自分ではないというのが、少し残念ではある。しかし、それは愚かだった自分の責任だ。彼女に好きだと言えなかった事も、屋根の上で物思いに耽る彼女の話を聞こうともしなかった事も、いずれも後悔しているが、その程度の不甲斐ない人間だったという事なのだろう。もう少し一緒にいられれば、彼女ともっと歳が近ければ、彼女が普通の少女だったなら、或いは言えたかもしれない。

 しかし、彼女はもういない。

 今あるのはこれだけ。

 だから、今はただ、彼女の幸せを願うのみ。

 そして、出来るなら彼女の代わりに、こちらの世界をより良くする事だけ。

 その程度の人間だ。

 たまにだが、自分も屋根の上に立ってみる事がある。

 オレンジ色の屋根と、緑色の木々が全てと言ってもいいこの世界。

 彼女はこの光景から何を感じ取ったのか。

 幸せなのは自分だけかもしれない。その言葉の意味を考える。

 ここで自分が大人になる事が、皆の為にならない。その真意を推測する。

 最初はどちらも分からなかった。

 しかし、最近になって、少しずつ理解し始めていた。ただ、彼女のように聡明になれたからというわけではなく、こちらの世界の情勢に変化があったからだった。この変化まで、彼女は予期していたという事かもしれない。

 いずれにしても、今はそれなりの要職に就いている自分は、その変化に対処する必要があると考えた。

 ただ、一筋縄ではいかない。

 多少なりとも、危険な賭をせざるを得ないようだ。

 彼女は言った。絶対に帰ってくると。

 情けない事だが、また彼女の言葉に頼る事になるかもしれない。

 それでも、留守を預かった身として。

 彼女が想った世界の為に。

 そして、過去の自分の愚かさを返上する為に。

 持てる力の全てを使って、やってみようと思う。



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