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奇襲剣 豹爪

作者: 須亭分半太
掲載日:2026/10/03

 矢藤仁平が相手の足を払ったとき、道場の空気が止まった。


 相手は兄弟子だった。


 打ち込んできた木刀を受け流し、仁平は間を詰めた。相手が次の一撃に移ろうとしたところで右足を払う。


 兄弟子は見事に仰向けになった。


 その喉元に仁平の木刀が止まった。


「そこまで」


 三原弥左衛門の声が飛んだ。


 仁平は木刀を引いた。


 兄弟子が起き上がりながら、苦い顔をした。


「また足か」


「空いていたからな」


「剣で勝負せんか」


「したではないか」


「どこがだ」


「最後まで木刀を持っていた」


 道場の隅で何人かが吹き出した。


 開け放した障子から、夏の初めの風が入っていた。庭の若葉が日に照らされている。


 弥左衛門は笑わなかった。


「矢藤」


 仁平の顔から笑みが消えた。


「はい」


「前へ出ろ」


 仁平は弥左衛門の前に座った。


 海坂藩に伝わる斬岩流は、剛の剣である。


 正面から踏み込み、一撃で相手を斬り伏せる。


 小細工を嫌った。


 剣は正面から。


 それが斬岩流であった。


「何度言えば分かる」


 弥左衛門が言った。


「剣には剣の道がある」


「はい」


「足を払い、虚を衝く。それで勝って何になる」


 仁平は少し考えた。


「生き残ります」


 弥左衛門の眉が動いた。


「何?」


「斬られて死ぬよりは、その方がよろしいかと」


「稽古の話をしている」


「稽古は斬られぬためにするものではありませんか」


 道場が静まった。


 仁平は、しまった、また怒らせたかと思った。


 だが言ったものは仕方がない。


「生き残った者が勝ちでしょう」


 弥左衛門はしばらく仁平を見ていた。


「……下がれ」


「はい」


 仁平は頭を下げた。


 門弟の列へ戻ると、二つ年上の黒川庄之助が横目を向けた。


「お前は先生を怒らせるのが上手いな」


「やはり怒っておられたか」


「分からなかったのか」


「途中から、もしやとは思った」


 庄之助は呆れた顔をした。


「黙るという考えはないのか」


「ある」


「使え」


「次はそうする」


「前にも聞いた」


「そうだったか」


 庄之助は小さく息を吐いた。


 二人は仲が悪いわけではなかった。


 ただ、どうにも合わなかった。


     *


 黒川家は藩中でも相応の家柄である。


 庄之助自身も役を得ており、斬岩流では弥左衛門門下の筆頭と目されていた。


 仁平の矢藤家は、それよりずっと軽い。


 家禄も少なく、仁平自身にもこれといった役はなかった。


 そのことを仁平はあまり気にしていなかった。


 家禄が少ないと言われれば、少ないものは仕方がないと思った。


 家柄が軽いと言われれば、自分一人で重く出来るものでもない。


 ならば考えても腹が減るだけである。


 庄之助には、それが時折不思議だった。


 家名を汚すな。


 役目に恥じぬ振る舞いをせよ。


 庄之助は幼いころからそう教えられてきた。


 仁平には、そういうものがないように見える。


 斬岩流についても同じだった。


 仁平はよく稽古した。


 剛の打ち込みでは門弟の誰にも劣らず、庄之助も油断すれば一本を取られる。


 まだ仁平が道場へ通い始めて間もないころ、一度だけ弥左衛門に打ち込みを褒められたことがあった。


「今の一太刀はよい」


 それだけだった。


 仁平はその日、家へ帰ってからも木刀を振った。


 翌日の稽古では、同じようには出来なかった。


「昨日のはどうした」


 弥左衛門に言われた。


「どこかへ行きました」


「探してこい」


「はい」


 弥左衛門の口元が、わずかに動いた。


 仁平はそのことを長く覚えていた。


 それほどの腕がありながら、足を払う。


 肩をぶつける。


 時には木刀を持たぬ手で相手を押す。


「お前ほどの腕があれば、そんなことをせずとも勝てるだろう」


 一度、庄之助が言ったことがある。


「勝てるな」


「なら、なぜする」


「楽だからだ」


「楽?」


「疲れん方がいい」


「道場の立合いだぞ」


「だから稽古している」


 庄之助は眉をひそめた。


 仁平は言った。


「一人斬ったあとで、もう一人出てくるかもしれん」


「二人目がいなければ?」


「帰る」


「……そういう話をしているのではない」


「では何の話だ」


 庄之助には、やはり分からなかった。


     *


 佐伯美津が矢藤仁平と出会ったのは、その年の初夏だった。


 二十になった美津は、城下でも器量よしと知られていた。


 色白で細面の顔立ちが整い、笑うと目尻がわずかに下がった。


 佐伯家は黒川家と家格も釣り合い、庄之助と美津との縁談は両家の間ですでにまとまりつつあった。


 美津にも異存はなかった。


 黒川庄之助の人柄は、美津も聞いていた。


 実直で、剣にも役目にも真面目な男だという。


 夫になるのなら、こういう人なのだろう。


 美津はそう思っていた。


 その日は朝からよく晴れていた。


 城下を流れる川の水は日に光り、軒先には青葉の影が揺れていた。


 美津は年老いた下男を一人連れ、城下を歩いていた。


 酒を飲んだ帰りらしい若い職人が四人、道を塞いだ。


 最初は戯れだった。


 一人が美津の顔を覗き込み、何か言った。


 美津が避けると、別の男が回り込んだ。


 下男が咎めた。


「無礼であろう」


 男が下男を突き飛ばした。


 少し離れたところを歩いていた仁平は、それを見た。


 四人か。


 面倒だな。


 足元に乾いた土があった。


 歩みを止めずに身を屈め、一握りの砂を取った。


「やめておけ」


 四人が振り向いた。


「なんだ、お侍さん」


 一人が笑った。


「その娘から離れろ」


「嫌だと言ったら?」


「困るな」


 仁平は言った。


 そして砂を投げた。


 二人が顔を覆った。


 その瞬間には、仁平はもう懐に入っていた。


 一人の腹を蹴った。


 身体が折れたところへ肩を入れ、後ろの男ごと転がした。


 残った二人が一瞬、動きを止めた。


 仁平はその一人の腕を取り、地面に伏せた。


 最後の一人は拳を振り上げたが、その拳が届く前に足を払われ、背中から落ちた。


 四人とも立たなかった。


 仁平は息を乱していなかった。


 刀にも触れていない。


「怪我は」


 仁平は倒された下男に聞いた。


「だ、大丈夫でございます」


「ならよかった」


 仁平は四人を見た。


「酔いが醒めれば帰るでしょう」


 美津が呼び止めた。


「あの」


 仁平が振り返った。


「お名前をお聞かせくださいませ」


「矢藤仁平です」


「矢藤様……」


 仁平は軽く頭を下げ、歩き出した。


 十歩ほど行ったところで、ふと振り返った。


 先ほどの娘が、青葉の下でまだこちらを見ていた。


 なるほど器量のよい娘だったな、と、そのとき初めて思った。


 だが、それだけだった。


     *


 数日後、道場で庄之助が言った。


「お前、町人四人に砂を浴びせたそうだな」


 仁平は木刀を拭いていた。


「二人だ」


「何?」


「砂をかけたのは二人だ」


「そこではない」


「四人にかけたように聞こえたからな」


「どうでもいい」


「なら最初から二人と言え」


 庄之助は額を押さえた。


「侍が町人相手に砂を投げたと噂になっている」


「勝手に言わせておけばいい」


「お前なら四人でも勝てただろう」


 仁平は手を止めた。


「たぶんな」


「なら、なぜ――」


「なぜ四人を相手にする」


 庄之助が黙った。


「二人を先に潰せるなら、二人で済む。四人まとめて斬り合って、運悪く一太刀もらったら馬鹿らしい」


「……お前とは話が合わん」


「俺もそう思う」


 仁平は笑った。


 庄之助も仕方なく口元を緩めた。


「ところで、その娘だが」


「娘?」


「お前が助けた娘だ」


「ああ。器量のいい」


 庄之助の顔が止まった。


「……見ていたのか」


「顔ぐらい見るだろう」


「佐伯美津殿だ」


「知らんな」


「俺の許嫁になる人だ」


 仁平は一瞬、庄之助を見た。


「そうだったか」


「ああ」


「それは……」


 庄之助が待った。


「砂をかけなくてよかった」


「美津殿にか?」


「間違えてな」


 庄之助は仁平を睨んだ。


「冗談だ」


「お前の冗談は分かりにくい」


「よく言われる」


「礼を言う」


 庄之助は頭を下げた。


 仁平は少し困った。


 こういう真っ直ぐな礼は苦手だった。


     *


 そのころから、仁平に役目が回ってくるようになった。


 最初は小さなものだった。


 町方との揉め事を収める。


 逃げた奉公人を連れ戻す。


 道中で問題を起こした者を捕らえる。


 目立つ働きではない。


 だが、仁平に任せると早く片がついた。


 稲穂が色づき始めたころ、藩の金を持ったまま姿を消した小役人を追う役目が回ってきた。


 男は二人の浪人者とともに山中へ逃げ込み、古い炭焼き小屋に潜んでいた。


「三人か」


 同行する者が言った。


「三人だな」


「踏み込むか」


「嫌だ」


「嫌?」


「三人いるのに、なぜ三人いるところへ行く」


 同行の者はしばらく仁平を見た。


「……では、どうする」


「腹も減るし、水も飲む」


 半日待った。


 山にはまだ蝉の声が残っていたが、沢の水はもう冷たかった。


 一人が水を汲みに出た。


 仁平はそれを捕らえた。


 どこから逃げるつもりか。


 金は誰が持っているか。


 残る二人は何を考えているか。


 必要なことだけ聞いた。


 その夜、逃げ道の一つを塞いだ。


 夜半には虫の声が満ちた。


 夜明け前、もう一人が様子を見に出てきた。


 それも捕らえた。


 最後に残った男は、昼過ぎに一人で小屋を飛び出してきた。


 仁平が正面から斬り伏せた。


 藩金はすべて戻った。


 味方に怪我人はなかった。


 帰城してから、


「三人を一人ずつ捕らえただけではないか」


 と言った者がいた。


 仁平は、


「はい。楽でした」


 と答えた。


 上役は咳払いをした。


「もう少し言い方があるだろう」


「では、効率よく捕らえました」


「もういい」


 仁平は頭を下げた。


 この話は道場にも伝わった。


 稽古の後、門弟の一人が面白そうに話していた。


「矢藤殿は、また変わった手を使われたそうですな」


 以前なら、弥左衛門は剣士のすることではないと切り捨てただろう。


 だが、その日は違った。


「……それで、三人とも捕らえたのか」


「はい。藩金もすべて戻ったそうです」


「そうか」


 弥左衛門はそれだけ言った。


 仁平は気にも留めなかった。


 庄之助だけが、師の顔をちらりと見た。


     *


 冬が二度過ぎた。


 仁平の名は少しずつ知られるようになった。


 剣の腕ではない。


 矢藤に任せれば片がつく。


 そういう知られ方だった。


 庄之助もまた順当に役目を務めていた。


 何を任せても間違いがない。


 人をまとめるのも上手い。


 五人必要な仕事なら、五人を率いて確実に果たした。


 仁平は同じ仕事を、


「二人で足りる」


 と言った。


 そして本当に二人で済ませることがあった。


 どちらが正しいということでもない。


 だが、上役が仁平の名を口にすることは増えた。


     *


 三度目の春、藩の重役が領内を移動するにあたり、襲撃のおそれがあるという話が出た。


 護衛には仁平が加えられた。


 仁平は予定されていた道を見て、


「ここは通らぬ方がよろしい」


 と言った。


「公に定めた道だ」


「だから待ち伏せするなら、ここでしょう」


 道筋を変えた。


 囮の駕籠を先に出した。


 人数も二つに分けた。


 襲撃者は囮を追った。


 それでも三人が本隊へ回った。


 山桜の花が散り始めた狭い道だった。


 一人目を仁平が斬った。


 二人目の刀を受け、その身体を道脇へ押し落とした。


 三人目とは数合打ち合った。


 最後は斬岩流の一撃だった。


 重役には傷一つなかった。


 帰城した仁平に、弥左衛門が言った。


「聞いたぞ」


「何をでしょう」


「斬岩流を使ったそうだな」


「はい」


「お前にも斬岩流の剣が分かってきたか」


 仁平は少し考えた。


「もともと分かっております」


 弥左衛門の顔が曇った。


「ならば、なぜ邪道に走る」


「先生」


「何だ」


「斬岩流は強いです」


 弥左衛門は黙った。


「だから使います。砂も使えれば使います」


「砂と並べるな」


「これは失礼しました」


 仁平は頭を下げた。


 本当に失礼だったかもしれない、と少しだけ思った。


「下がれ」


 弥左衛門は言った。


 仁平はもう一度頭を下げ、道場を出た。


 弥左衛門はその背を見送った。


 庭先では、風に散った山桜の花びらが土の上を滑っていた。


     *


 梅雨の晴れ間のある日、稽古を終えた仁平を若い門弟が呼び止めた。


「矢藤殿」


「何だ」


「先ほどの足の運びを、もう一度教えていただけませんか」


「どれだ」


「相手の外へ回った、あれです」


「あれは斬岩流じゃないぞ」


「それでも構いません」


 仁平は若者を見た。


「先生に怒られても知らんぞ」


「はい」


「俺も怒られるか」


「おそらく」


「それは困るな」


 そう言いながら、仁平は木刀を取った。


「一度だけだぞ」


 二人が向かい合った。


 庭では雨を含んだ青葉が重そうに垂れていた。


 道場の奥に弥左衛門がいた。


 仁平は気づかなかった。


 若い門弟が何度か足を運び、仁平が直した。


 軒から、たまった雫が一つ落ちた。


 弥左衛門は何も言わなかった。


 やがて静かに道場を出た。


     *


 その夏、弥左衛門は庄之助に斬岩流の奥を授けた。


 仁平には授けなかった。


 理由を尋ねる者はいなかった。


 仁平も尋ねなかった。


 庄之助の方が気にした。


「何とも思わんのか」


「何をだ」


「奥を伝えられなかったことだ」


「少しは残念だ」


 庄之助は意外そうな顔をした。


「そうなのか」


「そりゃそうだ。知らん技があると言われれば見たい」


「なら先生に――」


「だが、教えぬと言うものを盗むわけにもいかん」


「お前なら気にしないと思っていた」


「俺を何だと思っている」


 庄之助は少し考えた。


「砂を投げる男」


「いつまで言う」


 庄之助は久しぶりに笑った。


 仁平も笑った。


 だがその夜、仁平は一人で木刀を振った。


 開けた障子の向こうから蛙の声が聞こえていた。


 風はなく、夜気は重かった。


 何度振っても、汗が乾かなかった。


 いつもより少し長く木刀を振り、仁平はようやくそれを置いた。


     *


 庄之助が奥を授けられてから、しばらくした日のことである。


 稽古の終わりに、弥左衛門が庄之助を呼んだ。


「一本、やるか」


「はい」


 二人が木刀を取った。


 門弟たちは壁際へ下がった。


 仁平もその中にいた。


 弥左衛門が構えた。


 庄之助も構えた。


 数合ののち、庄之助が踏み込んだ。


 弥左衛門が受けた。


 木刀が激しく鳴った。


 弥左衛門が一歩退いた。


 道場が静まった。


 庄之助は追わなかった。


「続けろ」


 弥左衛門が言った。


「はい」


 再び木刀が鳴った。


 しばらくして、弥左衛門が木刀を下ろした。


「そこまで」


 庄之助が深く頭を下げた。


 仁平は黙って二人を見ていた。


     *


 夏の終わり、仁平が役目で道場を休んだ日のことだった。


 若い門弟二人が立ち合った。


 一人は、梅雨のころ仁平に足の運びを尋ねた若者だった。


 相手が正面から打ち込んだ。


 若者は受けなかった。


 身体を外へ逃がし、そのまま相手の横へ回った。


「そこまで」


 弥左衛門の声が飛んだ。


 二人が動きを止めた。


「今のは何だ」


「以前、矢藤殿に教わりました」


「斬岩流ではない」


「はい」


「なぜ使った」


 若者は答えに迷った。


「……その方が、打たれませんでしたので」


 弥左衛門は若者を見た。


「もう一度やれ」


 立合いが再開された。


 今度は別の門弟が、同じように打ち込みを外した。


「待て」


「お前も矢藤に習ったのか」


「いえ」


「では、なぜ今の動きをした」


「先ほど見て、使えると思いました」


 弥左衛門はしばらく黙っていた。


「……続けろ」


 稽古が再び始まった。


 弥左衛門は道場の端に座ったまま、それを見ていた。


     *


 美津は時折、庄之助に仁平のことを尋ねるようになっていた。


「矢藤様は、近頃もお役目でご活躍とか」


「ああ」


「先日の御護衛にも加わられたのでしょう」


「そうだ」


「ご無事でしたか」


「無事だ」


 最初のうちは、庄之助も気にしなかった。


 命を助けられたのだ。


 気になるのも当然だろう。


 だが、それが一度ではなかった。


 二度、三度と続いた。


「矢藤様は、いつもあのようなお方なのですか」


「あのような、とは」


「人にどう見られるかを、あまりお気になさらないような」


 庄之助は少し考えた。


「昔からだ」


 美津はわずかに笑った。


 庄之助はその顔を見た。


 ある日、美津がまた仁平の名を口にしたとき、庄之助は返事をしなかった。


 美津も黙った。


 庭では盛りを過ぎた蝉が鳴いていた。


 一匹が鳴き止むと、急に庭が広くなったように感じられた。


     *


 縁談がなくなったのは、その翌年だった。


 梅がほころび始めたころである。


 どちらの家から言い出したのか、仁平は知らなかった。


 知ろうともしなかった。


 ただ、庄之助が以前より口数の少ない男になったことだけは分かった。


 気にはなった。


 だが聞かなかった。


 聞いて話す男なら、庄之助の方から話すだろうと思った。


 春が過ぎ、夏になるころ、仁平に新しい役がついた。


 役目の上では、庄之助より上になった。


「おめでとう」


 庄之助は言った。


「ありがとう」


 仁平は答えた。


 少し間があった。


「……やりにくいな」


「何がだ」


「お前に命令することがあったらどうする」


「役目なら従う」


「そうだろうな」


「何が不満だ」


「お前、真面目だからな」


「意味が分からん」


「俺もよく分からん」


 庄之助は呆れた顔をした。


 その顔を見て、仁平は少し安心した。


     *


 佐伯家から矢藤家へ話が来たのは、秋に入ってからだった。


 美津との縁談だった。


 仁平はしばらく言葉が出なかった。


「……俺に?」


 使者はそうだと言った。


 仁平はもう一度聞いた。


「間違いではなく?」


 間違いではなかった。


 嬉しくないと言えば嘘になった。


 初めて会ったとき、美津を器量のよい娘だと思ったことも覚えている。


 それ以上のことを考えぬようにしていただけだった。


 家同士の話だけで済ませることも出来たが、仁平は一度、美津と話した。


 佐伯家の庭では、萩の花が風に揺れていた。


「ありがたいお話です」


 仁平は言った。


「ですが、お受け出来ません」


 美津は静かに仁平を見た。


「理由を、お聞きしてもよろしゅうございますか」


「二つあります」


「はい」


「佐伯家と矢藤家では家格が違います」


 美津は黙って聞いていた。


「それに、あなたは黒川殿の許嫁だった」


「……はい」


「私には受けられません」


 しばらく沈黙があった。


 風が庭を渡った。


 萩の細い枝が揺れ、花が二つ三つ土へ落ちた。


「承知いたしました」


 美津は頭を下げた。


 仁平も頭を下げ、立った。


 部屋を出ようとしたときだった。


「矢藤様」


 仁平が振り返った。


 美津はまだ座っていた。


 それまで伏せていた顔を上げた。


「残念にございます」


 仁平は返す言葉を探した。


 見つからなかった。


 もう一度頭を下げて、部屋を出た。


 庭を通ると、先ほど散った萩の花が足元にあった。


 仁平はそれを踏まぬよう、少しだけ歩幅を変えた。


 何か言えばよかったな。


 と思った。


     *


 庄之助が果し合いを申し込んできたのは、それからほどなくしてである。


「断る」


 仁平は即座に言った。


「なぜだ」


「斬り合う理由がない」


「俺にはある」


「俺にはない」


「俺が勝つかもしれん」


「それは困る」


「怖いのか」


「死ぬのは嫌だ」


 庄之助は一瞬言葉を失った。


「……お前という男は」


「生き残った者が勝ちだと言っているだろう」


 仁平はそのまま立ち去った。


 だが、庄之助は再び申し込んだ。


 三度目に来たころには、城下の木々が色づき始めていた。


「一つ聞く」


 仁平が言った。


「何だ」


「先生から授かったものは、全部身につけたか」


 庄之助の目が細くなった。


「そのつもりだ」


「そうか」


 仁平は少し考えた。


「分かった」


「受けるのか」


「ああ」


     *


 果し合いは晩秋の午後に行われた。


 人の来ない河原だった。


 川面を渡る風は冷たかった。


 弥左衛門が立ち会った。


「私怨で命を捨てるな」


 それだけ言って離れた。


 二人が刀を抜いた。


 庄之助は正眼に構えた。


 仁平も同じだった。


 動かない。


 風が袴を鳴らした。


 庄之助が出た。


 仁平が受けた。


 刃が鳴った。


 二撃、三撃。


 庄之助の切っ先が仁平の袖を裂いた。


 二人が離れた。


 仁平は、こいつと斬り合うのはやはり嫌だったな、と思った。


 強い相手と戦うことを喜ぶ性分ではない。


 出来れば茶でも飲んでいたかった。


 だが受けた以上は仕方がない。


 庄之助が踏み込んだ。


 仁平が受け流し、返す。


 庄之助が受けた。


 また離れる。


 何合打ち合ったか分からなくなった。


 二人の息が白かった。


 庄之助が間を切った。


 仁平も追わない。


 庄之助は仁平を見た。


 足を使わない。


 誘いもない。


 最初から、斬岩流だけだった。


 ――斬岩流だけで、俺を斬るつもりか。


 庄之助の構えが変わった。


 切っ先がわずかに下がった。


 仁平の目が細くなった。


 庄之助が踏み込んだ。


 仁平は受けた。


 刃が沈んだ。


 肩口を熱いものが走った。


 仁平は二歩退いた。


 血が袂へ落ちた。


 庄之助は追わない。


 仁平は傷を見た。


 ――これか。


 顔を上げた。


 二人が構えた。


 また動かなくなった。


 風が川面を渡った。


 庄之助が先ほどと同じ構えを取った。


 仁平は正眼のままだった。


 庄之助が出た。


 仁平が受けた。


 刃が沈む。


 仁平の刀がわずかに傾いた。


 刃が滑った。


 身体が入れ替わった。


 庄之助は動けなくなった。


 仁平の刀が首筋にあった。


 肩から血が落ちた。


 しばらく、どちらも動かなかった。


「……俺の負けだ」


 仁平は刀を引いた。


「危なかった」


 庄之助が仁平を見た。


「今言うことか」


「終わったから言える」


 庄之助は目を伏せた。


 弥左衛門は庄之助を見ていた。


     *


 帰り際、庄之助が仁平を呼び止めた。


「矢藤」


 仁平が振り返った。


「もし、まだ間に合うなら、美津殿の申し出を受けろ」


「……知っていたのか」


「ああ」


「断った理由も?」


「聞いた」


 仁平は黙った。


「俺のことは、もう気にするな」


 仁平は何か言おうとして、やめた。


「庄之助」


「何だ」


「……いや」


 仁平は少し目を伏せた。


「……なんでもない……」


 庄之助も、それ以上は聞かなかった。


 仁平は歩き出した。


 数歩行って振り返った。


「庄之助」


「何だ」


「強かったぞ」


 庄之助は答えなかった。


 仁平も返事を待たなかった。


 少し離れたところに弥左衛門が立っていた。


 仁平は一礼した。


「先生。ありがとうございました」


 弥左衛門は答えなかった。


 仁平はもう一度頭を下げ、その場を去った。


 弥左衛門はその背を見送った。


     *


 仁平は一人で歩いた。


 日はすでに西へ傾いていた。


 晩秋の日暮れは早い。


 風が吹くたび、道の端に積もった枯葉が乾いた音を立てた。


 肩の傷が脈打っていた。


「強かったな」


 仁平は小さく言った。


 それから美津のことを考えた。


 ――残念にございます。


 あの声が蘇った。


 庄之助は、もう気にするなと言った。


 ならば。


 一度こちらから断っている。


 今さら、


 ――やはりお願いします。


 と言うのか。


「格好が悪いな」


 誰も聞いていなかった。


 だが、格好など気にして生きてきたか、と考えた。


 あまり気にした覚えがない。


「困ったな」


 仁平は笑った。


 吐いた息がわずかに白かった。


 美津の顔が浮かんだ。


 ――残念にございます。


 もし話を戻しに行って、今度はこちらから断られたらどうする。


 それはそれで、かなり格好が悪い。


 仁平はまた笑った。


 それでも。


 会ってみようかと思った。


 明日にでも。


 佐伯家へ行ってみよう。


 家格のことは、そのとき考えればいい。


 自分の剣を教えてほしいという者も、近頃はいる。


 斬岩流で学ぶものも、もうない。


 これから先のことを考えるのも、悪くないかもしれない。


 道はいつの間にか木立へ入っていた。


 西日はもう届かない。


 足元の枯葉を踏む音だけが続いた。


 風が渡った。


 枝が鳴った。


 頭上で、別の音がした。


 仁平が顔を上げた。


 白刃が落ちてきた。


 次の瞬間、仁平は地面に倒れていた。


 息が出来なかった。


 身体が動かない。


 視界の端で枝が大きく揺れていた。


 人が立っている。


 三原弥左衛門だった。


 弥左衛門の手には血に濡れた刀がある。


 仁平は揺れる枝を見た。


 ――木の上とは。


 痛みが遠のいていった。


 弥左衛門は仁平を見下ろしていた。


 仁平の意識が薄れていった。


「……お前の言うとおりだ」


 風が吹いた。


 枝が鳴った。


 残っていた葉が、一枚、仁平の傍らに落ちた。


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