奇襲剣 豹爪
矢藤仁平が相手の足を払ったとき、道場の空気が止まった。
相手は兄弟子だった。
打ち込んできた木刀を受け流し、仁平は間を詰めた。相手が次の一撃に移ろうとしたところで右足を払う。
兄弟子は見事に仰向けになった。
その喉元に仁平の木刀が止まった。
「そこまで」
三原弥左衛門の声が飛んだ。
仁平は木刀を引いた。
兄弟子が起き上がりながら、苦い顔をした。
「また足か」
「空いていたからな」
「剣で勝負せんか」
「したではないか」
「どこがだ」
「最後まで木刀を持っていた」
道場の隅で何人かが吹き出した。
開け放した障子から、夏の初めの風が入っていた。庭の若葉が日に照らされている。
弥左衛門は笑わなかった。
「矢藤」
仁平の顔から笑みが消えた。
「はい」
「前へ出ろ」
仁平は弥左衛門の前に座った。
海坂藩に伝わる斬岩流は、剛の剣である。
正面から踏み込み、一撃で相手を斬り伏せる。
小細工を嫌った。
剣は正面から。
それが斬岩流であった。
「何度言えば分かる」
弥左衛門が言った。
「剣には剣の道がある」
「はい」
「足を払い、虚を衝く。それで勝って何になる」
仁平は少し考えた。
「生き残ります」
弥左衛門の眉が動いた。
「何?」
「斬られて死ぬよりは、その方がよろしいかと」
「稽古の話をしている」
「稽古は斬られぬためにするものではありませんか」
道場が静まった。
仁平は、しまった、また怒らせたかと思った。
だが言ったものは仕方がない。
「生き残った者が勝ちでしょう」
弥左衛門はしばらく仁平を見ていた。
「……下がれ」
「はい」
仁平は頭を下げた。
門弟の列へ戻ると、二つ年上の黒川庄之助が横目を向けた。
「お前は先生を怒らせるのが上手いな」
「やはり怒っておられたか」
「分からなかったのか」
「途中から、もしやとは思った」
庄之助は呆れた顔をした。
「黙るという考えはないのか」
「ある」
「使え」
「次はそうする」
「前にも聞いた」
「そうだったか」
庄之助は小さく息を吐いた。
二人は仲が悪いわけではなかった。
ただ、どうにも合わなかった。
*
黒川家は藩中でも相応の家柄である。
庄之助自身も役を得ており、斬岩流では弥左衛門門下の筆頭と目されていた。
仁平の矢藤家は、それよりずっと軽い。
家禄も少なく、仁平自身にもこれといった役はなかった。
そのことを仁平はあまり気にしていなかった。
家禄が少ないと言われれば、少ないものは仕方がないと思った。
家柄が軽いと言われれば、自分一人で重く出来るものでもない。
ならば考えても腹が減るだけである。
庄之助には、それが時折不思議だった。
家名を汚すな。
役目に恥じぬ振る舞いをせよ。
庄之助は幼いころからそう教えられてきた。
仁平には、そういうものがないように見える。
斬岩流についても同じだった。
仁平はよく稽古した。
剛の打ち込みでは門弟の誰にも劣らず、庄之助も油断すれば一本を取られる。
まだ仁平が道場へ通い始めて間もないころ、一度だけ弥左衛門に打ち込みを褒められたことがあった。
「今の一太刀はよい」
それだけだった。
仁平はその日、家へ帰ってからも木刀を振った。
翌日の稽古では、同じようには出来なかった。
「昨日のはどうした」
弥左衛門に言われた。
「どこかへ行きました」
「探してこい」
「はい」
弥左衛門の口元が、わずかに動いた。
仁平はそのことを長く覚えていた。
それほどの腕がありながら、足を払う。
肩をぶつける。
時には木刀を持たぬ手で相手を押す。
「お前ほどの腕があれば、そんなことをせずとも勝てるだろう」
一度、庄之助が言ったことがある。
「勝てるな」
「なら、なぜする」
「楽だからだ」
「楽?」
「疲れん方がいい」
「道場の立合いだぞ」
「だから稽古している」
庄之助は眉をひそめた。
仁平は言った。
「一人斬ったあとで、もう一人出てくるかもしれん」
「二人目がいなければ?」
「帰る」
「……そういう話をしているのではない」
「では何の話だ」
庄之助には、やはり分からなかった。
*
佐伯美津が矢藤仁平と出会ったのは、その年の初夏だった。
二十になった美津は、城下でも器量よしと知られていた。
色白で細面の顔立ちが整い、笑うと目尻がわずかに下がった。
佐伯家は黒川家と家格も釣り合い、庄之助と美津との縁談は両家の間ですでにまとまりつつあった。
美津にも異存はなかった。
黒川庄之助の人柄は、美津も聞いていた。
実直で、剣にも役目にも真面目な男だという。
夫になるのなら、こういう人なのだろう。
美津はそう思っていた。
その日は朝からよく晴れていた。
城下を流れる川の水は日に光り、軒先には青葉の影が揺れていた。
美津は年老いた下男を一人連れ、城下を歩いていた。
酒を飲んだ帰りらしい若い職人が四人、道を塞いだ。
最初は戯れだった。
一人が美津の顔を覗き込み、何か言った。
美津が避けると、別の男が回り込んだ。
下男が咎めた。
「無礼であろう」
男が下男を突き飛ばした。
少し離れたところを歩いていた仁平は、それを見た。
四人か。
面倒だな。
足元に乾いた土があった。
歩みを止めずに身を屈め、一握りの砂を取った。
「やめておけ」
四人が振り向いた。
「なんだ、お侍さん」
一人が笑った。
「その娘から離れろ」
「嫌だと言ったら?」
「困るな」
仁平は言った。
そして砂を投げた。
二人が顔を覆った。
その瞬間には、仁平はもう懐に入っていた。
一人の腹を蹴った。
身体が折れたところへ肩を入れ、後ろの男ごと転がした。
残った二人が一瞬、動きを止めた。
仁平はその一人の腕を取り、地面に伏せた。
最後の一人は拳を振り上げたが、その拳が届く前に足を払われ、背中から落ちた。
四人とも立たなかった。
仁平は息を乱していなかった。
刀にも触れていない。
「怪我は」
仁平は倒された下男に聞いた。
「だ、大丈夫でございます」
「ならよかった」
仁平は四人を見た。
「酔いが醒めれば帰るでしょう」
美津が呼び止めた。
「あの」
仁平が振り返った。
「お名前をお聞かせくださいませ」
「矢藤仁平です」
「矢藤様……」
仁平は軽く頭を下げ、歩き出した。
十歩ほど行ったところで、ふと振り返った。
先ほどの娘が、青葉の下でまだこちらを見ていた。
なるほど器量のよい娘だったな、と、そのとき初めて思った。
だが、それだけだった。
*
数日後、道場で庄之助が言った。
「お前、町人四人に砂を浴びせたそうだな」
仁平は木刀を拭いていた。
「二人だ」
「何?」
「砂をかけたのは二人だ」
「そこではない」
「四人にかけたように聞こえたからな」
「どうでもいい」
「なら最初から二人と言え」
庄之助は額を押さえた。
「侍が町人相手に砂を投げたと噂になっている」
「勝手に言わせておけばいい」
「お前なら四人でも勝てただろう」
仁平は手を止めた。
「たぶんな」
「なら、なぜ――」
「なぜ四人を相手にする」
庄之助が黙った。
「二人を先に潰せるなら、二人で済む。四人まとめて斬り合って、運悪く一太刀もらったら馬鹿らしい」
「……お前とは話が合わん」
「俺もそう思う」
仁平は笑った。
庄之助も仕方なく口元を緩めた。
「ところで、その娘だが」
「娘?」
「お前が助けた娘だ」
「ああ。器量のいい」
庄之助の顔が止まった。
「……見ていたのか」
「顔ぐらい見るだろう」
「佐伯美津殿だ」
「知らんな」
「俺の許嫁になる人だ」
仁平は一瞬、庄之助を見た。
「そうだったか」
「ああ」
「それは……」
庄之助が待った。
「砂をかけなくてよかった」
「美津殿にか?」
「間違えてな」
庄之助は仁平を睨んだ。
「冗談だ」
「お前の冗談は分かりにくい」
「よく言われる」
「礼を言う」
庄之助は頭を下げた。
仁平は少し困った。
こういう真っ直ぐな礼は苦手だった。
*
そのころから、仁平に役目が回ってくるようになった。
最初は小さなものだった。
町方との揉め事を収める。
逃げた奉公人を連れ戻す。
道中で問題を起こした者を捕らえる。
目立つ働きではない。
だが、仁平に任せると早く片がついた。
稲穂が色づき始めたころ、藩の金を持ったまま姿を消した小役人を追う役目が回ってきた。
男は二人の浪人者とともに山中へ逃げ込み、古い炭焼き小屋に潜んでいた。
「三人か」
同行する者が言った。
「三人だな」
「踏み込むか」
「嫌だ」
「嫌?」
「三人いるのに、なぜ三人いるところへ行く」
同行の者はしばらく仁平を見た。
「……では、どうする」
「腹も減るし、水も飲む」
半日待った。
山にはまだ蝉の声が残っていたが、沢の水はもう冷たかった。
一人が水を汲みに出た。
仁平はそれを捕らえた。
どこから逃げるつもりか。
金は誰が持っているか。
残る二人は何を考えているか。
必要なことだけ聞いた。
その夜、逃げ道の一つを塞いだ。
夜半には虫の声が満ちた。
夜明け前、もう一人が様子を見に出てきた。
それも捕らえた。
最後に残った男は、昼過ぎに一人で小屋を飛び出してきた。
仁平が正面から斬り伏せた。
藩金はすべて戻った。
味方に怪我人はなかった。
帰城してから、
「三人を一人ずつ捕らえただけではないか」
と言った者がいた。
仁平は、
「はい。楽でした」
と答えた。
上役は咳払いをした。
「もう少し言い方があるだろう」
「では、効率よく捕らえました」
「もういい」
仁平は頭を下げた。
この話は道場にも伝わった。
稽古の後、門弟の一人が面白そうに話していた。
「矢藤殿は、また変わった手を使われたそうですな」
以前なら、弥左衛門は剣士のすることではないと切り捨てただろう。
だが、その日は違った。
「……それで、三人とも捕らえたのか」
「はい。藩金もすべて戻ったそうです」
「そうか」
弥左衛門はそれだけ言った。
仁平は気にも留めなかった。
庄之助だけが、師の顔をちらりと見た。
*
冬が二度過ぎた。
仁平の名は少しずつ知られるようになった。
剣の腕ではない。
矢藤に任せれば片がつく。
そういう知られ方だった。
庄之助もまた順当に役目を務めていた。
何を任せても間違いがない。
人をまとめるのも上手い。
五人必要な仕事なら、五人を率いて確実に果たした。
仁平は同じ仕事を、
「二人で足りる」
と言った。
そして本当に二人で済ませることがあった。
どちらが正しいということでもない。
だが、上役が仁平の名を口にすることは増えた。
*
三度目の春、藩の重役が領内を移動するにあたり、襲撃のおそれがあるという話が出た。
護衛には仁平が加えられた。
仁平は予定されていた道を見て、
「ここは通らぬ方がよろしい」
と言った。
「公に定めた道だ」
「だから待ち伏せするなら、ここでしょう」
道筋を変えた。
囮の駕籠を先に出した。
人数も二つに分けた。
襲撃者は囮を追った。
それでも三人が本隊へ回った。
山桜の花が散り始めた狭い道だった。
一人目を仁平が斬った。
二人目の刀を受け、その身体を道脇へ押し落とした。
三人目とは数合打ち合った。
最後は斬岩流の一撃だった。
重役には傷一つなかった。
帰城した仁平に、弥左衛門が言った。
「聞いたぞ」
「何をでしょう」
「斬岩流を使ったそうだな」
「はい」
「お前にも斬岩流の剣が分かってきたか」
仁平は少し考えた。
「もともと分かっております」
弥左衛門の顔が曇った。
「ならば、なぜ邪道に走る」
「先生」
「何だ」
「斬岩流は強いです」
弥左衛門は黙った。
「だから使います。砂も使えれば使います」
「砂と並べるな」
「これは失礼しました」
仁平は頭を下げた。
本当に失礼だったかもしれない、と少しだけ思った。
「下がれ」
弥左衛門は言った。
仁平はもう一度頭を下げ、道場を出た。
弥左衛門はその背を見送った。
庭先では、風に散った山桜の花びらが土の上を滑っていた。
*
梅雨の晴れ間のある日、稽古を終えた仁平を若い門弟が呼び止めた。
「矢藤殿」
「何だ」
「先ほどの足の運びを、もう一度教えていただけませんか」
「どれだ」
「相手の外へ回った、あれです」
「あれは斬岩流じゃないぞ」
「それでも構いません」
仁平は若者を見た。
「先生に怒られても知らんぞ」
「はい」
「俺も怒られるか」
「おそらく」
「それは困るな」
そう言いながら、仁平は木刀を取った。
「一度だけだぞ」
二人が向かい合った。
庭では雨を含んだ青葉が重そうに垂れていた。
道場の奥に弥左衛門がいた。
仁平は気づかなかった。
若い門弟が何度か足を運び、仁平が直した。
軒から、たまった雫が一つ落ちた。
弥左衛門は何も言わなかった。
やがて静かに道場を出た。
*
その夏、弥左衛門は庄之助に斬岩流の奥を授けた。
仁平には授けなかった。
理由を尋ねる者はいなかった。
仁平も尋ねなかった。
庄之助の方が気にした。
「何とも思わんのか」
「何をだ」
「奥を伝えられなかったことだ」
「少しは残念だ」
庄之助は意外そうな顔をした。
「そうなのか」
「そりゃそうだ。知らん技があると言われれば見たい」
「なら先生に――」
「だが、教えぬと言うものを盗むわけにもいかん」
「お前なら気にしないと思っていた」
「俺を何だと思っている」
庄之助は少し考えた。
「砂を投げる男」
「いつまで言う」
庄之助は久しぶりに笑った。
仁平も笑った。
だがその夜、仁平は一人で木刀を振った。
開けた障子の向こうから蛙の声が聞こえていた。
風はなく、夜気は重かった。
何度振っても、汗が乾かなかった。
いつもより少し長く木刀を振り、仁平はようやくそれを置いた。
*
庄之助が奥を授けられてから、しばらくした日のことである。
稽古の終わりに、弥左衛門が庄之助を呼んだ。
「一本、やるか」
「はい」
二人が木刀を取った。
門弟たちは壁際へ下がった。
仁平もその中にいた。
弥左衛門が構えた。
庄之助も構えた。
数合ののち、庄之助が踏み込んだ。
弥左衛門が受けた。
木刀が激しく鳴った。
弥左衛門が一歩退いた。
道場が静まった。
庄之助は追わなかった。
「続けろ」
弥左衛門が言った。
「はい」
再び木刀が鳴った。
しばらくして、弥左衛門が木刀を下ろした。
「そこまで」
庄之助が深く頭を下げた。
仁平は黙って二人を見ていた。
*
夏の終わり、仁平が役目で道場を休んだ日のことだった。
若い門弟二人が立ち合った。
一人は、梅雨のころ仁平に足の運びを尋ねた若者だった。
相手が正面から打ち込んだ。
若者は受けなかった。
身体を外へ逃がし、そのまま相手の横へ回った。
「そこまで」
弥左衛門の声が飛んだ。
二人が動きを止めた。
「今のは何だ」
「以前、矢藤殿に教わりました」
「斬岩流ではない」
「はい」
「なぜ使った」
若者は答えに迷った。
「……その方が、打たれませんでしたので」
弥左衛門は若者を見た。
「もう一度やれ」
立合いが再開された。
今度は別の門弟が、同じように打ち込みを外した。
「待て」
「お前も矢藤に習ったのか」
「いえ」
「では、なぜ今の動きをした」
「先ほど見て、使えると思いました」
弥左衛門はしばらく黙っていた。
「……続けろ」
稽古が再び始まった。
弥左衛門は道場の端に座ったまま、それを見ていた。
*
美津は時折、庄之助に仁平のことを尋ねるようになっていた。
「矢藤様は、近頃もお役目でご活躍とか」
「ああ」
「先日の御護衛にも加わられたのでしょう」
「そうだ」
「ご無事でしたか」
「無事だ」
最初のうちは、庄之助も気にしなかった。
命を助けられたのだ。
気になるのも当然だろう。
だが、それが一度ではなかった。
二度、三度と続いた。
「矢藤様は、いつもあのようなお方なのですか」
「あのような、とは」
「人にどう見られるかを、あまりお気になさらないような」
庄之助は少し考えた。
「昔からだ」
美津はわずかに笑った。
庄之助はその顔を見た。
ある日、美津がまた仁平の名を口にしたとき、庄之助は返事をしなかった。
美津も黙った。
庭では盛りを過ぎた蝉が鳴いていた。
一匹が鳴き止むと、急に庭が広くなったように感じられた。
*
縁談がなくなったのは、その翌年だった。
梅がほころび始めたころである。
どちらの家から言い出したのか、仁平は知らなかった。
知ろうともしなかった。
ただ、庄之助が以前より口数の少ない男になったことだけは分かった。
気にはなった。
だが聞かなかった。
聞いて話す男なら、庄之助の方から話すだろうと思った。
春が過ぎ、夏になるころ、仁平に新しい役がついた。
役目の上では、庄之助より上になった。
「おめでとう」
庄之助は言った。
「ありがとう」
仁平は答えた。
少し間があった。
「……やりにくいな」
「何がだ」
「お前に命令することがあったらどうする」
「役目なら従う」
「そうだろうな」
「何が不満だ」
「お前、真面目だからな」
「意味が分からん」
「俺もよく分からん」
庄之助は呆れた顔をした。
その顔を見て、仁平は少し安心した。
*
佐伯家から矢藤家へ話が来たのは、秋に入ってからだった。
美津との縁談だった。
仁平はしばらく言葉が出なかった。
「……俺に?」
使者はそうだと言った。
仁平はもう一度聞いた。
「間違いではなく?」
間違いではなかった。
嬉しくないと言えば嘘になった。
初めて会ったとき、美津を器量のよい娘だと思ったことも覚えている。
それ以上のことを考えぬようにしていただけだった。
家同士の話だけで済ませることも出来たが、仁平は一度、美津と話した。
佐伯家の庭では、萩の花が風に揺れていた。
「ありがたいお話です」
仁平は言った。
「ですが、お受け出来ません」
美津は静かに仁平を見た。
「理由を、お聞きしてもよろしゅうございますか」
「二つあります」
「はい」
「佐伯家と矢藤家では家格が違います」
美津は黙って聞いていた。
「それに、あなたは黒川殿の許嫁だった」
「……はい」
「私には受けられません」
しばらく沈黙があった。
風が庭を渡った。
萩の細い枝が揺れ、花が二つ三つ土へ落ちた。
「承知いたしました」
美津は頭を下げた。
仁平も頭を下げ、立った。
部屋を出ようとしたときだった。
「矢藤様」
仁平が振り返った。
美津はまだ座っていた。
それまで伏せていた顔を上げた。
「残念にございます」
仁平は返す言葉を探した。
見つからなかった。
もう一度頭を下げて、部屋を出た。
庭を通ると、先ほど散った萩の花が足元にあった。
仁平はそれを踏まぬよう、少しだけ歩幅を変えた。
何か言えばよかったな。
と思った。
*
庄之助が果し合いを申し込んできたのは、それからほどなくしてである。
「断る」
仁平は即座に言った。
「なぜだ」
「斬り合う理由がない」
「俺にはある」
「俺にはない」
「俺が勝つかもしれん」
「それは困る」
「怖いのか」
「死ぬのは嫌だ」
庄之助は一瞬言葉を失った。
「……お前という男は」
「生き残った者が勝ちだと言っているだろう」
仁平はそのまま立ち去った。
だが、庄之助は再び申し込んだ。
三度目に来たころには、城下の木々が色づき始めていた。
「一つ聞く」
仁平が言った。
「何だ」
「先生から授かったものは、全部身につけたか」
庄之助の目が細くなった。
「そのつもりだ」
「そうか」
仁平は少し考えた。
「分かった」
「受けるのか」
「ああ」
*
果し合いは晩秋の午後に行われた。
人の来ない河原だった。
川面を渡る風は冷たかった。
弥左衛門が立ち会った。
「私怨で命を捨てるな」
それだけ言って離れた。
二人が刀を抜いた。
庄之助は正眼に構えた。
仁平も同じだった。
動かない。
風が袴を鳴らした。
庄之助が出た。
仁平が受けた。
刃が鳴った。
二撃、三撃。
庄之助の切っ先が仁平の袖を裂いた。
二人が離れた。
仁平は、こいつと斬り合うのはやはり嫌だったな、と思った。
強い相手と戦うことを喜ぶ性分ではない。
出来れば茶でも飲んでいたかった。
だが受けた以上は仕方がない。
庄之助が踏み込んだ。
仁平が受け流し、返す。
庄之助が受けた。
また離れる。
何合打ち合ったか分からなくなった。
二人の息が白かった。
庄之助が間を切った。
仁平も追わない。
庄之助は仁平を見た。
足を使わない。
誘いもない。
最初から、斬岩流だけだった。
――斬岩流だけで、俺を斬るつもりか。
庄之助の構えが変わった。
切っ先がわずかに下がった。
仁平の目が細くなった。
庄之助が踏み込んだ。
仁平は受けた。
刃が沈んだ。
肩口を熱いものが走った。
仁平は二歩退いた。
血が袂へ落ちた。
庄之助は追わない。
仁平は傷を見た。
――これか。
顔を上げた。
二人が構えた。
また動かなくなった。
風が川面を渡った。
庄之助が先ほどと同じ構えを取った。
仁平は正眼のままだった。
庄之助が出た。
仁平が受けた。
刃が沈む。
仁平の刀がわずかに傾いた。
刃が滑った。
身体が入れ替わった。
庄之助は動けなくなった。
仁平の刀が首筋にあった。
肩から血が落ちた。
しばらく、どちらも動かなかった。
「……俺の負けだ」
仁平は刀を引いた。
「危なかった」
庄之助が仁平を見た。
「今言うことか」
「終わったから言える」
庄之助は目を伏せた。
弥左衛門は庄之助を見ていた。
*
帰り際、庄之助が仁平を呼び止めた。
「矢藤」
仁平が振り返った。
「もし、まだ間に合うなら、美津殿の申し出を受けろ」
「……知っていたのか」
「ああ」
「断った理由も?」
「聞いた」
仁平は黙った。
「俺のことは、もう気にするな」
仁平は何か言おうとして、やめた。
「庄之助」
「何だ」
「……いや」
仁平は少し目を伏せた。
「……なんでもない……」
庄之助も、それ以上は聞かなかった。
仁平は歩き出した。
数歩行って振り返った。
「庄之助」
「何だ」
「強かったぞ」
庄之助は答えなかった。
仁平も返事を待たなかった。
少し離れたところに弥左衛門が立っていた。
仁平は一礼した。
「先生。ありがとうございました」
弥左衛門は答えなかった。
仁平はもう一度頭を下げ、その場を去った。
弥左衛門はその背を見送った。
*
仁平は一人で歩いた。
日はすでに西へ傾いていた。
晩秋の日暮れは早い。
風が吹くたび、道の端に積もった枯葉が乾いた音を立てた。
肩の傷が脈打っていた。
「強かったな」
仁平は小さく言った。
それから美津のことを考えた。
――残念にございます。
あの声が蘇った。
庄之助は、もう気にするなと言った。
ならば。
一度こちらから断っている。
今さら、
――やはりお願いします。
と言うのか。
「格好が悪いな」
誰も聞いていなかった。
だが、格好など気にして生きてきたか、と考えた。
あまり気にした覚えがない。
「困ったな」
仁平は笑った。
吐いた息がわずかに白かった。
美津の顔が浮かんだ。
――残念にございます。
もし話を戻しに行って、今度はこちらから断られたらどうする。
それはそれで、かなり格好が悪い。
仁平はまた笑った。
それでも。
会ってみようかと思った。
明日にでも。
佐伯家へ行ってみよう。
家格のことは、そのとき考えればいい。
自分の剣を教えてほしいという者も、近頃はいる。
斬岩流で学ぶものも、もうない。
これから先のことを考えるのも、悪くないかもしれない。
道はいつの間にか木立へ入っていた。
西日はもう届かない。
足元の枯葉を踏む音だけが続いた。
風が渡った。
枝が鳴った。
頭上で、別の音がした。
仁平が顔を上げた。
白刃が落ちてきた。
次の瞬間、仁平は地面に倒れていた。
息が出来なかった。
身体が動かない。
視界の端で枝が大きく揺れていた。
人が立っている。
三原弥左衛門だった。
弥左衛門の手には血に濡れた刀がある。
仁平は揺れる枝を見た。
――木の上とは。
痛みが遠のいていった。
弥左衛門は仁平を見下ろしていた。
仁平の意識が薄れていった。
「……お前の言うとおりだ」
風が吹いた。
枝が鳴った。
残っていた葉が、一枚、仁平の傍らに落ちた。




