↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

親友の「謎の彼女」が姿を見せない理由――その正体は、俺の彼女だった

作者: 熾星
掲載日:2026/09/16



高瀬拓海には、どうしても誰にも会わせようとしない彼女がいた。


 半信半疑だった俺に、「会ったことがある」と言ったのは、恋人の水野莉奈だった。


「本当にきれいな人だよ。悠人は会わないほうがいいかも。会ったあとで、やっぱり私よりあっちがいいとか言われたら嫌だし」


 冗談交じりの嫉妬だと思って、それ以上は聞かなかった。


 それからしばらくして、拓海がまたその彼女と喧嘩をしたらしく、居酒屋で潰れるまで酒を飲んだ。


 莉奈は相手に連絡してみると言い、俺は拓海のそばに残った。少し前まで使っていたせいか、拓海のスマートフォンはまだ画面が点いたままだった。


 LINEのトーク一覧を見ると、そのいちばん上にピン留めされていた相手の名前は『彼女』。


 そのままLINE通話をかけた。


 応答はなかったが、すぐに「今から行く」とメッセージが返ってきた。


 どうしても顔が見てみたくなった俺は、テーブルに突っ伏し、そのまま寝たふりをした。


 しばらくして、個室の扉が開いた。


 入ってきたのは莉奈だった。


 彼女は迷うことなく拓海のところへ行くと、屈み込んで頬に手を触れた。


「何でこんなに飲んだの?」


 拓海は顔を上げ、そのまま莉奈の唇にキスをした。


 それから、俺のほうをちらりと見る。


「先に悠人を帰そう。起きて見られたら面倒だし」


 テーブルに伏せたまま、少しも動けなかった。


 指先がすっと冷たくなる。


 拓海がずっと隠していた彼女は、今、目の前で彼の隣に立っていた。



1



 腕の間に顔を埋め、目を閉じたまま呼吸だけを整えた。体の芯は冷えていくのに、耳だけが妙に冴えていた。莉奈の靴音も、拓海が椅子にもたれた時の吐息も、嫌になるほどはっきり聞こえた。


 莉奈がこちらを確認する気配がした。


「よくこんなことできるね。普段は絶対に悠人にバレるなって言ってるくせに」


 拓海は笑いながら、莉奈の腰に腕を回した。


「できないなんて言ってないだろ。面倒になるのが嫌なだけ」


 莉奈はその手を軽く押したが、視線はまだ俺のほうに向いていた。


「声、少し抑えて。起きたらどうするの?」


「起きないって。あれだけ飲んでたら、家にどうやって帰ったかも覚えてないよ。さっき悠人が俺のスマホ取った時の顔、見せたかったな。前からずっと気にしてたんだよ。俺の『謎の彼女』がどれだけ美人なのかって」


 拓海の腕は離れなかった。むしろ少し強く莉奈を引き寄せる。


 莉奈は少し黙った。


 次に口を開いた時には、入ってきたばかりの柔らかい声は消えていた。


「拓海は面白いかもしれないけど、私は全然楽じゃないよ。家に戻ったら何もなかったみたいにしなきゃいけないし、LINEする時間だって選ばなきゃいけない。会う前には悠人がどこにいるか確認して」


 そこで一度、息を吐いた。


「ねえ、これ、いつまで続けるつもり?」


 拓海は深刻に受け止めている様子もなく、喉の奥で笑った。


「バレたら終わりって分かってるのに、こうして会ってるんだろ? それがいいんじゃん」


 テーブルの下で、爪を掌に食い込ませた。


 痛みのおかげで意識だけははっきりしていた。そして、今まで気にも留めなかったいくつもの場面が、次々と頭の中に浮かんできた。


 拓海は昔から、よく彼女の愚痴をこぼしていた。急に機嫌が悪くなった、また冷戦になった、女ってどうしてあんなに面倒なんだ――そんな電話が深夜にかかってきたこともある。


 あまりに何度も聞かされるので、俺も一度は聞いた。


「そんなに合わないなら、別れればいいだろ」


 拓海はその時、あっさり笑った。


「でも、めちゃくちゃ美人なんだよ。簡単に別れられるかって」


 そこまで言われれば、どんな人なのか気になるのも当然だった。


 何度目かの飲み会で、「今度連れてこいよ」と冗談半分に言ったことがある。


 止めたのは拓海ではなく、莉奈だった。


「やめといたほうがいいよ。悠人は会わないほうがいい」


 その時は、単にからかっているのだと思った。


「何で?」


 莉奈は俺の腕に抱きつき、わざとらしく頬を膨らませた。


「だって私、会ったことあるもん。本当にきれいなの。会ってみたら私よりいいって思うかもしれないでしょ」


「そんなわけないだろ」


 笑ってそう返した。


 それ以降、拓海の彼女に会わせろとは言わなくなった。


 あの時、俺の腕にしがみついていた莉奈の顔を思い出し、掌に食い込んだ指先へさらに力が入った。


 しばらくして、莉奈が先に話を切り上げた。


「もういいでしょ。先に悠人を帰そう。このまま居酒屋で寝かせておくわけにもいかないし」


 拓海が返事をし、二人で俺を立たせた。俺は全身の力を抜き、ほとんどの体重を預ける。


 二人は完全に、俺が意識を失っていると思っていた。


 莉奈が店の前でタクシーを呼び、二人がかりで俺を後部座席へ乗せる。拓海は乗らず、歩道に立ったまま莉奈と短く言葉を交わした。


 車が走り出してからも、目を閉じ続けた。


 頭の中だけは、少しも静かにならなかった。


 莉奈とは三年付き合っている。


 俺の前ではいつも穏やかで、気遣いができて、時々ちょっとしたわがままを言う程度だった。一緒にいて、しんどいと思ったことはなかった。


 その莉奈が、つい十数分前には俺の親友のそばに立ち、「いつまでこんな関係を続けるの」と口にしていた。


 タクシーが、俺たちの暮らすマンションの前に止まった。


 料金を支払った莉奈が、こちらへ体を向けて肩に触れる。拓海と話していた時の疲れた声は消え、聞き慣れた優しい声に戻っていた。


「悠人、着いたよ。起きて。家、上がろう」


 ゆっくり目を開けた。


 莉奈は俺を支えて車から降ろし、ドアまで閉めてくれる。腕に添えられた手も、普段と何ひとつ変わらなかった。


 唇の端に残った、少し擦れた口紅さえなければ。


 さっきまでの出来事は、酔った頭が見せた悪い夢だったのかもしれない。


 そう思えたかもしれなかった。



2



 寝たふりをしているうちに、本当に眠ってしまったらしい。


 翌朝目を覚ますと、隣は空いていた。布団にはもうぬくもりもない。時刻は七時四十分で、枕元にメモはなく、LINEにも莉奈から何も届いていなかった。


 まず電話をかけたが、出なかった。


 二度目も同じだった。


 ベッドの縁に座ったまま数秒待ち、今度は拓海に電話した。


 こちらはすぐに繋がった。


「朝から何だよ。昨日、莉奈に連れて帰ってもらったんだろ?」


 いかにも起こされたばかりのような、不機嫌そうな声だった。


 スマートフォンを握る手に力が入った。


「莉奈、そっちにいる?」


 向こうが一瞬黙った。


 すぐに、拓海が笑う。


「まだ酔ってんの? 彼女探しに俺んちまで来るつもり? 知らないよ。俺に聞くなって」


 その時、電話の奥で小さな咳が聞こえた。


 ほんの一瞬だった。


 それでも、聞き間違えるはずがない。


 莉奈は喉が乾いた時や、少し風邪気味の時、いつもあんな咳をする。


「誰かいる?」


 衣擦れのような音がした。


 拓海は声を低くする。


「彼女に決まってるだろ。朝っぱらから何してたかくらい、察しろよ」


 目を閉じた。


「今から行く」


 返事も待たずに電話を切った。


 十数分後には、拓海のマンションにいた。


 インターホンを何度か鳴らして、ようやく扉が開く。


 拓海は部屋着の短パン姿で、髪もかなり乱れていた。けれど顔には、寝起き特有のぼんやりした感じがない。


 玄関に寄りかかりながら、俺を見る。


「本当に来たのかよ」


 何も答えなかった。


 拓海は呆れたように息を吐き、玄関を開けたまま身を引く。


「そんなに気になるなら、勝手に見れば」


 リビングまで入り、スマートフォンを出した。その拍子にポケットのキーケースも一緒に取り出し、ローテーブルの端へ置いた。


 拓海の部屋は1LDKで、リビングはきれいに片付いていた。莉奈のバッグも、昨夜着ていた上着もない。いつも使っている香水の匂いさえしなかった。


 ただ、ソファの肘掛けに薄い色のスカーフが掛かっていた。


 色も柄も、莉奈が先週買ったものによく似ていた。


 しばらく見つめてから聞いた。


「彼女は?」


 拓海は肩をすくめた。


「今日は朝から会社だって。八時半までには着かないといけないって言って、さっき出たよ」


 平然とした顔だった。


「悠人、今日どうしたんだよ。朝から人の家まで来て」


 返事はせず、もう一度莉奈へ電話をかけた。


 部屋の中は静かなままだった。


 着信音も、振動音もない。


 数回の呼び出し音のあと、莉奈が出た。


「悠人? どうしたの、朝から何回も」


 いつも通りの柔らかい声だった。


 向こうでは、キーボードを叩く音や人の話し声らしきものが聞こえた。


 拓海の背後にある、閉まった寝室の扉を見たまま聞く。


「今どこ?」


「会社だよ。朝いきなり打ち合わせが入って、先に出てきたの。悠人、昨日かなり飲んでたから、起こさなかった」


「ビデオ通話にして」


 一瞬、沈黙が落ちた。


「今?」


「うん」


「もう会議始まるし、みんな集まってるから、ちょっと難しいかな。何か急ぎ? 本当に急ぎなら、あとで外に出てかけ直すけど」


 ちょうどその時、パソコンの通知音らしきものと、椅子が動く音が聞こえた。


「ビデオにして」


 もう一度言った。


 莉奈は二秒ほど黙った。


「悠人、もう始まるって。上司もいるし、あとじゃ駄目?」


「今、外に出てかけ直せるって言ったよな」


 また少し間が空いた。


 遠くで誰かが名前を呼んだような声がする。


 莉奈の声が小さくなった。


「ごめん、始まるから切るね。あとで連絡する」


 通話はそのまま切れた。


 しばらくスマートフォンを見つめてから、手を下ろした。


 拓海は玄関脇に寄りかかり、腕を組んでいた。


「これで気が済んだ? まだ見たいなら見れば。クローゼットでも、ベッドの下でも好きにどうぞ」


 大きく伸びをする。


「悠人、最近仕事きついのか? 前のお前なら、こんな勘ぐり方しなかっただろ」


 拓海の顔を見た。


 しばらくして、どうにか笑う。


「まだ酒が残ってるのかも。頭が回ってない」


 拓海は昔と同じように、俺の肩を軽く叩いた。


「帰って寝ろって。夜また飯でも行こうぜ。莉奈も呼んでさ」


 何も返さず、部屋を出た。


 ローテーブルの端にキーケースを置いたままだったことには、その時は気づかなかった。


 エレベーターの扉が閉まった瞬間、無理に浮かべていた笑いも消えた。


 胃の奥から吐き気がせり上がってきた。



3



 家には帰らなかった。


 昨夜、個室で聞いた会話。莉奈が拓海の頬に触れた手。さっき電話越しに聞こえた咳。


 もう十分すぎるほど答えは出ていた。


 それでも、自分の目で最後まで確かめたかった。


 駅前の店で、テイクアウトのおかゆを買った。


 莉奈は昔から胃が弱い。仕事が立て込むと食事を抜くことも多く、休日出勤になった時には、消化のいいものを差し入れたこともあった。


 三十分ほどで、莉奈の勤めるオフィスビルに着いた。


 一階の受付で用件を伝え、部署へ連絡してもらう。少しして、佐藤真由が来客スペースまで来てくれた。


 以前、莉奈を迎えに来た時に何度か会っている。


 俺の手にある袋を見ると、真由は少し驚いた。


「神谷さん? こんな朝早くにどうしたんですか?」


「莉奈が今朝、急に打ち合わせが入ったって言ってたので。胃も弱いですし、朝ごはんを持ってきたんです」


 真由の表情が変わった。


「莉奈?」


 オフィスのほうを一度振り返る。


「今日、来てないですよ」


 袋を持つ手が止まった。


「来てない?」


「はい。昨日の時点で、今日は有休の予定になってました。それに、莉奈さんが出る会議も入ってないです」


 何も言えなかった。


 真由も何かを察したらしく、少し言いにくそうに続ける。


「少なくとも、うちの部署で緊急の打ち合わせはないですね。体調でも悪いんですか? 私から連絡しましょうか?」


 首を振った。


「部署の電話、借りてもいいですか?」


 真由が頷き、固定電話から莉奈の携帯へかけてくれた。


 繋がると、そのまま受話器を渡される。


「今日は休みって伝えてたよね? 何かあった?」


 少し不機嫌そうな莉奈の声が聞こえた。


 受話器を握り直した。


「俺だよ」


 向こうが黙った。


「朝飯、持ってきた」


 来客スペースの向こうにあるガラス扉を見つめる。


「でも会社にいない」


 電話口から、かすかな呼吸音だけが聞こえた。


 やがて莉奈が言う。


「悠人、急に用事ができたの。言う暇なくて」


「何の用事?」


「友達が今日引っ越しで、急に人手が足りなくなったって言われて。ちょっと手伝いに来てる」


 言葉が早かった。


「本当に急だったの。ごめんね、せっかく来てくれたのに。終わったら連絡しようと思ってた」


「誰の引っ越し?」


 今度は、すぐに答えなかった。


「悠人は知らない人。前の仕事で知り合った人だよ」


 間を埋めるように続ける。


「今ちょっと手が離せないから、あとで連絡してもいい?」


 それ以上は聞かなかった。


「分かった」


 通話を切り、まだ温かい朝食は真由に渡した。


 何か聞きたそうな顔をしていたが、彼女は何も言わなかった。


 オフィスビルを出た。


 歩きながら、朝からの出来事を一つずつ思い返した。


 拓海の部屋には莉奈の姿がなかった。電話も普通に繋がった。向こうからは、オフィスにいるような環境音まで聞こえた。


 それなのに、莉奈は最初から会社へ来ていなかった。


 しばらく歩き、家の鍵を出そうとポケットへ手を入れたところで足が止まった。


 キーケースがない。


 すぐに、拓海の部屋でスマートフォンを出した時のことを思い出した。


 ローテーブルに置いた。


 そのまま忘れてきたらしい。


 来た道を戻り、もう一度拓海のマンションへ向かった。


 玄関前まで行き、インターホンを押そうとした時だった。


 内側から鍵の開く音がした。


 反射的に廊下の曲がり角まで下がる。


 扉が開き、拓海と莉奈が出てきた。


 拓海は外出着に着替え、帽子を被り、車のキーを指先で回している。莉奈も昨夜とは違う服に着替えていた。


 二人はまだこちらに気づいていなかった。


 扉を閉めながら、莉奈が声を潜める。


「悠人、会社まで来たんだよ。このままだと絶対疑われる」


 拓海は気にした様子もなく、エレベーターのボタンを押した。


「疑われたっていいだろ。昨日あれだけ飲んでたんだぞ。今日は頭も回ってない。実際に何か見たわけでもないし」


「私、さっきもう言い訳ぎりぎりだった。会社にも行ってないってバレたし。もしまた戻ってきたらどうするの?」


「部屋には入れないだろ」


 拓海が笑った。


「そんなに怖いなら、このまま外で会えばいい」


「どこ行くの?」


「車」


 莉奈はすぐに返した。


「この前、駐車場で人に見られそうになったじゃん」


「だからいいんだろ。そういうの」


 拓海の笑い声が聞こえた。


 莉奈は返事をしなかった。


 エレベーターが到着し、二人が乗り込む。


 扉が閉じてから、廊下へ出た。


 階数表示が地下へ下がっていく。


 数秒待ってから、俺もボタンを押した。



4



 昼間の地下駐車場は静かだった。


 拓海の車は奥まった場所に停まっていた。


 近づきすぎず、数台分離れた柱の陰に立った。


 窓が少しだけ開いていた。


 中から、抑えた笑い声と衣擦れの音が時々聞こえた。


 何をしているのか、もう考える必要もなかった。


 しばらくして、拓海の声が聞こえる。


「なあ、正直に言って。俺と悠人、どっちがいい?」


 莉奈はすぐには答えなかった。


「何で今そんなこと聞くの?」


「聞きたいだけ」


 数秒の沈黙。


 莉奈が小さく答えた。


「少なくとも、拓海といる時のほうが……楽」


 拓海は納得していないらしい。


「楽なだけ?」


 莉奈が笑ったような気配がした。


「そこまで言わせたいの?」


 拓海も笑う。


「じゃ、俺のほうがいいってことじゃん」


 柱の陰に立ったまま、動けなかった。


 胸の奥に、重たいものが沈んでいく。


 長い時間が過ぎて、ようやく車内が静かになった。


 先に助手席のドアが開く。


 莉奈が降りて、服を整え、窓を鏡代わりにして髪を直した。スカートにはまだ、完全には伸びきっていない皺が残っていた。


 反対側から拓海も降りた。


 莉奈は周囲を確認すると、腕を伸ばして拓海の首に回した。


 自分から唇を重ねる。


 俺はただ、二人を見ていた。


 最後まで残っていた僅かな期待も、そこで消えた。


 キスを終えた莉奈が、駐車場の出口へ向かおうとする。


 顔を上げた瞬間、俺を見た。


 笑顔が止まった。


 体も、その場で固まったように動かなかった。


 拓海はまだ気づいていない。


 車のドアを閉め、服を軽く整えながら言う。


「何びびってんだよ。昼間は元々そんなに人――」


 途中で声が切れた。


 莉奈の視線を辿って、こちらを見る。


 拓海の顔からも笑みが消えた。


 地下駐車場には、換気設備の低い音だけが残った。


 三人とも数メートルの距離を挟んで立ったまま、誰も動かなかった。



5



 莉奈の顔から、見る間に血の気が引いていった。


 まさか俺がここにいるとは思っていなかったのだろう。


 髪はまだ少し乱れ、スカートには車の中でついた皺が残っていた。


 俺は近づかなかった。


 怒鳴りもしなかった。


 ただ二人を見ていた。


 先に耐えられなくなったのは莉奈だった。


「悠人……何でここにいるの?」


 声が震えていた。


「鍵を取りに戻った」


 口から出た声は、自分でも驚くほど静かだった。


 莉奈は何度か口を開きかけた。


「話、聞いて。今のは悠人が思ってるようなことじゃなくて、私たち……」


 自分でも続けられなかったらしい。


 拓海へ一度視線を向け、また莉奈を見た。


「話してただけ?」


 返事はない。


「車の中で話して、そのあと外でキスしただけ?」


 莉奈は俯いた。


 拓海が一歩出て、莉奈の少し前へ立った。


「ここまで見られたなら、もう隠すつもりはない」


 真っ直ぐ俺を見る。


「そうだよ。俺と莉奈は、前からこういう関係だった」


「前から?」


「ああ」


 拓海は普通に頷いた。


「前に俺が彼女の愚痴言ってただろ。機嫌悪いとか、冷戦したとか。あれ、全部本当」


 一度、莉奈を見る。


「相手がずっと莉奈だったってだけ」


 胸の中に何かが詰まった。


「じゃあ、お前が言ってた『彼女』って……」


「莉奈だよ。最初からずっと」


 しばらく拓海の顔を見た。


「何で?」


 拓海が笑った。


 そこに浮かんでいたのは、今まで何度も見てきた笑い方とは違った。


 押し隠す気もない、不満と妬みが混ざっていた。


「昔から、お前のこと嫌いだったんだよ」


 意味が分からず、眉を寄せた。


「何?」


「大学の時から。成績はお前のほうが上、ゼミの先生にも気に入られて、誰とでも上手くやってた」


 拓海は少し言葉を切った。


「卒業してからも仕事は順調。家だって安定してる」


 視線が莉奈へ向く。


「莉奈みたいな彼女までできた」


「それだけ?」


 拓海は口元を歪めた。


「お前はそう思うよな。最初から持ってるから」


 低い声だった。


「何もしなくても、欲しいものはいつもお前のところに転がり込んでくる」


 そのまま莉奈を見る。


「それに、莉奈だってお前といて、ずっと幸せだったわけじゃない」


 莉奈が顔を上げる。


「拓海、もうやめて」


 けれど拓海は続けた。


「お前、何でも予定どおりじゃん。仕事行って、帰って、休みの日は飯行ってさ」


 俺を見る。


「デートだって先に予定決めて、その通りに動く。莉奈が俺といる時は、そうじゃなかった」


「もうやめて」


 莉奈は泣いていた。


 それから、俺へ向き直る。


「悠人、ごめん。最初は、本当に一度だけのつもりだった」


 一度息を吸った。


「途中でやめようとも思った。何回も、もう会っちゃ駄目だって思った」


 唇を噛む。


「でも……やめられなかった」


「何を?」


 莉奈が黙った。


「拓海と別れられなかったのか、俺と別れられなかったのか。どっち?」


 答えは返ってこなかった。


「だから俺に会わせなかったんだろ。拓海の『彼女』に一度でも会えば、その場で全部バレるから」


 莉奈の目から涙が落ち続ける。


 近づいてきて、手首に触れようとした。


「悠人のこと、ちゃんと好きだった。今だって気持ちは残ってる」


 必死に言葉を続ける。


「すぐ許してなんて言える立場じゃないのも分かってる。でも、そんな目で見ないで」


 一歩下がった。


「触らないで」


 莉奈の手が止まる。


「今は、触られたくない」


 拓海が眉を寄せた。


「悠人、莉奈は謝ってるだろ。悪いのは俺たち二人なんだから、そこまで言わなくてもいいだろ」


 拓海を見る。


「お前が今、それを言うのか?」


 顔つきが険しくなった。


 もう十年近く付き合ってきた男の顔を見る。


「俺はずっと、お前を一番近い友達だと思ってた」


 拓海は黙っている。


「莉奈と一緒に住んでるのも知ってた。三年付き合ってることも、俺がこの先のことまで考えてたのも知ってたよな」


 一度言葉を切る。


「その上で莉奈と会いながら、俺には存在しない『彼女』の愚痴を言ってた」


 拓海の視線が少しずれた。


「俺、そのたびに真面目に相談乗ってたよな。喧嘩したなら話し合えって」


 拓海は何も言わず、目を逸らした。



6



 駐車場の空気が重かった。


 莉奈はまだ泣いている。


 拓海はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。


「でも、悠人が優しくしてれば、莉奈がずっとお前を好きでいなきゃいけないわけじゃないだろ」


「そんなこと言ってない」


 拓海を見る。


「気持ちがなくなったなら、別れればいい」


 莉奈へ視線を戻す。


「でも、莉奈はそうしなかった」


「悠人……」


「俺と暮らし続けたよな。俺が買ったものを使って、俺が作った飯を食べて」


 莉奈の涙が増えた。


「胃が痛いって言えば病院も一緒に行った。残業だって言われれば迎えに行った」


 一度、息を吐いた。


「帰りが遅いから聞けば、忙しいだけだから心配しないでって言ってたよな」


 莉奈は何も言えなかった。


「もう俺と一緒にいたくなかったなら、何で別れなかった?」


 俯いたまま、しばらく黙り込んだ。


 やがて小さな声で答える。


「……手放したくなかったから」


「何を?」


 唇が震えた。


「悠人との生活を。ずっと優しくしてくれてたから」


 その顔を見たまま、何も返せなかった。


 莉奈は泣きながら顔を上げる。


「自分でも欲張りだったって分かってる。でも、私たち三年だよ」


 声が少し掠れた。


「三年一緒にいたのに、本当にこれで終わりにできるの?」


 すぐには答えなかった。


 三年が嘘だったわけじゃない。


 莉奈が好きなものも、嫌いなものも知っている。胃を壊しやすい時期も、冬になると手足が冷えることも知っている。


 一緒に部屋を見に行ったこともあった。


 莉奈の会社にもう少し近い場所へ引っ越すか、話し合ったこともある。


 結婚するなら、このまま凪浜市に残るか、俺の実家に少し近い街へ移るか。そこまで具体的に話したこともあった。


 簡単なはずがない。


 痛くないはずもなかった。


「簡単じゃないよ」


 莉奈が勢いよく顔を上げる。


 一瞬だけ、その目に期待が戻った。


「でも、別れる」


 その光が消えた。


「昨日、居酒屋で二人の話を聞いた時から、今日ここで莉奈が拓海の車から降りてくるのを見るまで、ずっと考えてた」


 少し間を置く。


「もしこのまま一緒に戻ったら、俺は莉奈のスマホを見るようになる。どこに行った、誰に会ったって、いちいち確認する」


 莉奈は黙っていた。


「十分遅れただけでも疑うと思う」


 首を横に振る。


「そんな関係、続けたくない」


 莉奈が口を押さえ、声を漏らして泣いた。


 拓海が肩を支える。


 しばらくして、俺のほうを見る。


「じゃあ、もういいだろ。全部分かったんだし」


 声が少し硬くなっていた。


「これ以上、お互いしんどいだけだ。莉奈はこれから俺といる」


 拓海を見る。


「本気で言ってる?」


 眉を寄せる。


「何が?」


「今日まで二人で俺を騙してたんだ」


 拓海の表情が止まる。


「次は、お互いを疑うことになるかもな」


 一度莉奈を見る。


「まあ、俺にはもう関係ないけど」


 拓海の顔がわずかに変わった。


 これ以上、二人と話す気にはなれなかった。


「家の鍵、拓海の部屋に置いたままなんだ」


 そう言って、エレベーターへ向かった。


 一度も振り返らなかった。


 後ろから莉奈の押し殺した泣き声と、拓海が何か宥めている声が聞こえた。


 距離は近いはずなのに、もう耳を傾ける気にはならなかった。



7



 地下駐車場からエレベーターに乗り、一階のボタンを押した。


 扉が閉まる。


 壁に背を預けた瞬間、手が震え始めた。最初は指先だけだったのに、すぐに掌全体まで止まらなくなった。


 俯くと、勝手に涙が落ちた。


 声は出なかった。


 大学時代、拓海とは何度も夜中までレポートを作った。試験が終われば一緒に飲みに行ったし、就活で落ち続けた時期も、お互いに愚痴を言い合った。


 拓海が失恋した時には、明け方まで付き合って飲んだ。


 俺が仕事で一番きつかった頃には、何も聞かずに家まで来て、夜中まで黙って一緒に座ってくれたこともある。


 そんな相手だった。


 その男が俺の恋人と裏で関係を続け、俺だけが何も知らなかった。


 エレベーターが一階に着いた。


 手の甲で涙を拭った。


 ロビーへ出たところで、ポケットに手を入れた。


 やはり家の鍵はない。


 スマートフォンを取り出し、拓海に電話した。


「家の鍵、お前の部屋に置いたまま。取りに戻る」


 しばらく間があった。


「……分かった。今から上がる」


 短く返事があり、電話は切れた。


 エレベーターで拓海の部屋がある階へ戻った。


 先に到着したらしく、拓海が廊下で待っていた。少し離れた場所には莉奈もいる。


 拓海は何も言わず、玄関の鍵を開けた。


 俺はその横を通り、部屋へ入る。


 朝とほとんど変わらないリビングだった。


 寝室のほうは見ず、ローテーブルへ向かう。


 キーケースはそこにあった。


 冷たい金属に触れたところで、小さく息が抜けた。


 これで、もうここへ来る理由はなくなる。


 鍵をポケットへ入れ、帰ろうとした時だった。


 後ろから足音がする。


「悠人」


 莉奈が部屋へ入ってきた。


 目は真っ赤で、化粧も崩れていた。髪も頬に張りつき、いつもきちんとしている莉奈とは別人のようだった。


 俺の手には触れず、後ろから服の裾だけを掴む。


「最後に、もう一回だけ話せない?」


 振り返らなかった。


「もう話すことないよ」


 それでも莉奈は裾を離さなかった。


「怒ってるのも分かってる。私が最低なことしたのも分かってる」


 声がずっと震えていた。


「でも、三年間の全部まで嘘だったわけじゃないよね?」


 そこで振り向いた。


 莉奈がこちらを見上げる。


「拓海とのことも、悠人に嘘ついてたことも、全部私が悪い」


 一度、息を整える。


「でも、一緒にいた時間まで嘘じゃない。悠人のこと、本当に好きだったし、このまま一緒にやっていこうって思ってた時期もあった」


「それで?」


 莉奈が詰まった。


「そのあと、俺を失うのが嫌で嘘を続けた」


 代わりに言う。


「拓海のことも切れなかった」


 莉奈が俯いた。


「自分が何してるかは、ずっと分かってたよな」


 服を掴んでいた手が、ゆっくり離れていく。


「俺にバレなければ、このまま両方続けられると思ってたんだろ」


 そこへ拓海も入ってきた。


 俺たちがリビングに立っているのを見ると、露骨に嫌そうな顔をした。


「もういいだろ」


 ドアのそばに立ったまま言う。


「もう起きたことは変えられない。今さら何言ったって同じだろ」


 俺を見る。


「別れるって決めたなら、もう終わりにしろよ。これ以上やっても、もっと面倒になるだけだ」


 拓海へ視線を向けた。


「俺がどんな立場になるか、一度でも考えたことあった?」


 拓海が黙る。


「『彼女がまた機嫌悪くなった』って、何度も俺に話してたよな」


 言葉を続ける。


「俺、毎回ちゃんと聞いてた。喧嘩したなら話したほうがいいって」


 拓海の表情が固くなった。


「あとで俺が全部知ったらどう思うか、考えたことあった?」


 返事はなかった。


 もう拓海を見るのをやめ、莉奈に向き直る。


「もう終わりにしよう」


 莉奈が勢いよく顔を上げた。


「悠人――」


「俺たちはもう終わりだ」


 ゆっくり言った。


「このあと拓海とどうするかは、二人で決めて」


 莉奈は何度も首を横に振る。


「嫌。今すぐ拓海と別れる。もう会わないし、連絡もしない」


 一歩、こちらへ近づく。


「悠人、もう一回だけチャンスちょうだい。絶対変わるから」


 拓海の顔色が変わった。


 けれど莉奈は、拓海のほうを見もしなかった。


 首を横に振る。


「もういい」


 涙がまた零れる。


「何で……?」


「今ここで拓海と終わっても、俺は戻らないから」


 莉奈は立ったまま、何も言えなくなった。


 そのまま部屋を出た。



8



 マンションを出ると、外の光がやけに眩しかった。


 しばらく道端に立ったあと、スマートフォンを取り出した。


 最初に開いたのは莉奈とのLINEだった。


 三年分のトーク履歴は、どこまで遡っても終わらない。何時に仕事が終わるとか、夕飯を何にするとか、帰り道で何を見たとか。


 莉奈が体調を崩した時の甘えたメッセージも、喧嘩したあとの謝罪も、旅行の計画を立てた時に送り合ったリンクも残っていた。


 もっと先のことを話したメッセージも、いくつもあった。


 以前なら消せなかったと思う。


 その日は、それ以上遡らなかった。


 莉奈をLINEでブロックし、トーク履歴を削除した。電話番号も着信拒否にする。


 次に拓海のトークを開いた。


 十年近い分、莉奈よりもさらに長かった。


 アイコンを数秒見つめる。


 同じようにブロックし、トークを削除した。


 タクシーを呼んで家へ向かった。


 車は凪浜市の街中を走る。


 窓の外の景色が流れていく間も、何度も昔の場面が頭に浮かんだ。


 拓海が「彼女がまた怒った」と言うたび、俺は真面目に理由を考えた。もしかしたらもっと構ってほしいだけじゃないか、と助言したこともある。


 俺が「一度会わせろよ」と言うたび、莉奈は笑って止めた。


 あれを、俺への嫉妬だと思っていた。


 帰りが遅くなった莉奈が、仕事で疲れたと言って俺に抱きついてくることもあった。


 そんな時、頼ってもらえていることが嬉しかった。


 記憶そのものがなくなったわけじゃない。


 けれど、もう以前と同じ意味では見られなかった。


 タクシーがマンションの前に止まった。


 料金を払い、部屋へ戻った。


 ドアを開けると、部屋中に莉奈の生活の跡が残っていた。


 玄関には莉奈の靴。


 ソファにはお気に入りのクッションとぬいぐるみ。


 ダイニングにはいつも使っていたマグカップ。


 クローゼットの半分以上は莉奈の服だった。


 洗面所にはスキンケア用品や化粧品が並び、ベランダには長く育てていた鉢植えもある。


 しばらくリビングに立っていた。


 やがて段ボール箱を出した。


 服は一枚ずつ畳み、季節ごとに分けた。化粧品、スキンケア用品、アクセサリーは別の箱へ入れる。


 本やぬいぐるみ、細かな私物も分けて詰めた。


 大事そうな書類には中身を確認せず、そのままファイルケースへまとめる。


 三時間ほどかかった。


 部屋は少しずつ空いていった。


 どこにでもあった莉奈のものが、ひとつずつ段ボールの中へ消えていく。


 最後に、持ち主がはっきりしない細かなものを一つの箱へまとめ、玄関脇へ置いた。


 片付け終えてソファで少し休んだあと、管理会社へ連絡した。


 同居人が近く退去することになったと伝え、居住者情報を変更するために必要な手続きを確認した。登録していた緊急連絡先も、あわせて変更することにした。


 担当者に、俺自身も退去する予定があるか聞かれた。


 空いたリビングを見回す。


「いえ。このまま住みます」


 部屋が悪いわけじゃない。


 莉奈がいなくなるからといって、俺まで出ていく必要はなかった。


 電話を切ってしばらくすると、知らない番号からSMSが届いた。


『悠人。もう完全に失望させたのは分かってる』


 すぐに二通目が来る。


『拓海とは話をした。もう続けるつもりはない』


 さらにもう一通。


『今すぐ許してなんて言えない。ただ、完全に連絡を切らないでほしい。たまに悠人が元気かどうか分かるだけでもいいから』


 最後まで読んだ。


 返事はしなかった。


 メッセージを削除し、その番号も着信拒否にする。


 画面が暗くなった。



9



 夕方、外が少しずつ暗くなり始めた頃、インターホンが鳴った。


 ドアを開ける。


 莉奈が立っていた。


 目はまだ赤く、顔色も悪かった。手には小さなバッグだけを持っている。


 俺を見ると、わずかに緊張したようだった。


「悠人……」


 すぐには中へ入れなかった。


「何?」


 莉奈が足元を見る。


「まだ少し、ここに置いたままのものがあると思うの」


 声が小さい。


「取ったらすぐ帰るから」


 そこで体をずらした。


「玄関の横にある箱、全部莉奈のだよ」


 莉奈が中へ入る。


 リビングを見た瞬間、足が止まった。


 莉奈のものはすべて片付けてあった。


 壁に飾っていた写真は外した。ソファのクッションも位置を変え、キッチンには俺が普段使う食器とカップだけが残っている。


 洗面所に並んでいた莉奈のボトル類もなくなっていた。


 しばらく立ち尽くしていた莉奈の目から、また涙が落ちた。


「全部……片付けたの?」


「うん」


 玄関脇の箱まで歩いていき、しゃがみ込む。


 服は畳まれ、アクセサリーや化粧品も分けて入れてあった。


 莉奈は箱の上のほうから、探していたらしい小物をいくつか取り出す。


 それでも、すぐには帰らなかった。


 リビングの中央まで戻ってくる。


「悠人」


「うん」


 まっすぐこちらを見る。


「もう、本当に無理?」


 迷わなかった。


「無理」


 また目が赤くなった。


「拓海とは終わったよ」


「それは二人のことだから」


「もう同じことはしない」


 一歩だけ近づいてくる。


「今度こそちゃんとする。どこに行くかも言うし、ビデオ通話だってする。スマホ見たいなら見てもいい」


 首を振った。


「いらない」


 莉奈が止まる。


「スマホを確認しないと続けられない関係なんて、俺はいらない」


 涙が落ちる。


「でも、本当に後悔してる」


 莉奈を見る。


「分かってる」


 少し驚いたように目を上げた。


「後悔してることと、俺がやり直すことは別だよ」


 一度言葉を切る。


「俺は、莉奈が変わるのを待ってるわけじゃない」


 静かに続けた。


「埋め合わせしてもらいたいわけでもない」


 莉奈は涙を拭った。


 最後に、少しだけ苦く笑った。


「分かった」


 バッグを持ち直す。


「私が自分でこうしたんだよね」


 玄関まで行ったところで、箱を振り返った。


「残りの荷物、明日じゃなくてもいい?」


「いいよ」


「友達に車を出してもらえる日を確認する。決まったら、その時間だけ連絡してもいい?」


「荷物のことだけなら」


 莉奈は小さく頷いた。


 それから、もう一度こちらを見る。


「悠人、ちゃんと自分のこと大事にしてね」


 小さく頷く。


「莉奈も」


 数秒、その場に立っていた。


 やがて背を向ける。


 足音が廊下の向こうへ遠ざかっていった。


 ドアを閉めた。



10



 夜は、自分の分だけうどんを作った。


 湯が沸いたら麺を入れ、卵とねぎを加える。


 莉奈はねぎが多いのを嫌がったので、以前はいつも先に莉奈の分だけ器へ移してから、自分のうどんに追加していた。


 今日は最初から、自分の好きな量を入れた。


 丼を持ってダイニングテーブルへ座る。


 部屋は、いつもより広く感じた。


 冷蔵庫の低い運転音も、外を通る車の音も、箸が器に触れる小さな音も、いつも以上にはっきり聞こえた。


 黙って食べた。


 三年分の気持ちが、LINEをブロックして私物を箱に詰めたくらいで、一日で消えるはずはない。


 拓海との関係も同じだった。


 十年近く続いた時間まで、トーク履歴を消しただけでなかったことにはならない。


 ふとした瞬間に、二人のことはまだ浮かぶ。


 それでも、決めたことは変わらなかった。


 俺は戻らない。


 食べ終えた器を洗う。


 玄関に残っていた空の段ボールも畳み、翌日資源ごみに出せるようまとめた。


 リビングへ戻り、カーテンを開ける。


 凪浜市はもう夜だった。


 遠くのマンションやオフィスビルに、いくつもの灯りが浮かんでいる。


 スマートフォンはテーブルの上で静かなままだった。


 莉奈からも、拓海からも連絡は来ていない。


 明日は仕事がある。


 冷蔵庫の中身も買い足さないといけないし、週末に入れていた美容院の予約もそのままだ。


 莉奈と一緒に入れていた予定は、これから少しずつ減っていく。


 空いた時間には、また別の予定が入るのだろう。


 最後に一度だけ、テーブルの上のスマートフォンを見る。


 削除したトークを開こうとは思わなかった。


 目覚ましを、いつもの時間にセットする。


 それから寝室へ向かった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。