親友の「謎の彼女」が姿を見せない理由――その正体は、俺の彼女だった
高瀬拓海には、どうしても誰にも会わせようとしない彼女がいた。
半信半疑だった俺に、「会ったことがある」と言ったのは、恋人の水野莉奈だった。
「本当にきれいな人だよ。悠人は会わないほうがいいかも。会ったあとで、やっぱり私よりあっちがいいとか言われたら嫌だし」
冗談交じりの嫉妬だと思って、それ以上は聞かなかった。
それからしばらくして、拓海がまたその彼女と喧嘩をしたらしく、居酒屋で潰れるまで酒を飲んだ。
莉奈は相手に連絡してみると言い、俺は拓海のそばに残った。少し前まで使っていたせいか、拓海のスマートフォンはまだ画面が点いたままだった。
LINEのトーク一覧を見ると、そのいちばん上にピン留めされていた相手の名前は『彼女』。
そのままLINE通話をかけた。
応答はなかったが、すぐに「今から行く」とメッセージが返ってきた。
どうしても顔が見てみたくなった俺は、テーブルに突っ伏し、そのまま寝たふりをした。
しばらくして、個室の扉が開いた。
入ってきたのは莉奈だった。
彼女は迷うことなく拓海のところへ行くと、屈み込んで頬に手を触れた。
「何でこんなに飲んだの?」
拓海は顔を上げ、そのまま莉奈の唇にキスをした。
それから、俺のほうをちらりと見る。
「先に悠人を帰そう。起きて見られたら面倒だし」
テーブルに伏せたまま、少しも動けなかった。
指先がすっと冷たくなる。
拓海がずっと隠していた彼女は、今、目の前で彼の隣に立っていた。
1
腕の間に顔を埋め、目を閉じたまま呼吸だけを整えた。体の芯は冷えていくのに、耳だけが妙に冴えていた。莉奈の靴音も、拓海が椅子にもたれた時の吐息も、嫌になるほどはっきり聞こえた。
莉奈がこちらを確認する気配がした。
「よくこんなことできるね。普段は絶対に悠人にバレるなって言ってるくせに」
拓海は笑いながら、莉奈の腰に腕を回した。
「できないなんて言ってないだろ。面倒になるのが嫌なだけ」
莉奈はその手を軽く押したが、視線はまだ俺のほうに向いていた。
「声、少し抑えて。起きたらどうするの?」
「起きないって。あれだけ飲んでたら、家にどうやって帰ったかも覚えてないよ。さっき悠人が俺のスマホ取った時の顔、見せたかったな。前からずっと気にしてたんだよ。俺の『謎の彼女』がどれだけ美人なのかって」
拓海の腕は離れなかった。むしろ少し強く莉奈を引き寄せる。
莉奈は少し黙った。
次に口を開いた時には、入ってきたばかりの柔らかい声は消えていた。
「拓海は面白いかもしれないけど、私は全然楽じゃないよ。家に戻ったら何もなかったみたいにしなきゃいけないし、LINEする時間だって選ばなきゃいけない。会う前には悠人がどこにいるか確認して」
そこで一度、息を吐いた。
「ねえ、これ、いつまで続けるつもり?」
拓海は深刻に受け止めている様子もなく、喉の奥で笑った。
「バレたら終わりって分かってるのに、こうして会ってるんだろ? それがいいんじゃん」
テーブルの下で、爪を掌に食い込ませた。
痛みのおかげで意識だけははっきりしていた。そして、今まで気にも留めなかったいくつもの場面が、次々と頭の中に浮かんできた。
拓海は昔から、よく彼女の愚痴をこぼしていた。急に機嫌が悪くなった、また冷戦になった、女ってどうしてあんなに面倒なんだ――そんな電話が深夜にかかってきたこともある。
あまりに何度も聞かされるので、俺も一度は聞いた。
「そんなに合わないなら、別れればいいだろ」
拓海はその時、あっさり笑った。
「でも、めちゃくちゃ美人なんだよ。簡単に別れられるかって」
そこまで言われれば、どんな人なのか気になるのも当然だった。
何度目かの飲み会で、「今度連れてこいよ」と冗談半分に言ったことがある。
止めたのは拓海ではなく、莉奈だった。
「やめといたほうがいいよ。悠人は会わないほうがいい」
その時は、単にからかっているのだと思った。
「何で?」
莉奈は俺の腕に抱きつき、わざとらしく頬を膨らませた。
「だって私、会ったことあるもん。本当にきれいなの。会ってみたら私よりいいって思うかもしれないでしょ」
「そんなわけないだろ」
笑ってそう返した。
それ以降、拓海の彼女に会わせろとは言わなくなった。
あの時、俺の腕にしがみついていた莉奈の顔を思い出し、掌に食い込んだ指先へさらに力が入った。
しばらくして、莉奈が先に話を切り上げた。
「もういいでしょ。先に悠人を帰そう。このまま居酒屋で寝かせておくわけにもいかないし」
拓海が返事をし、二人で俺を立たせた。俺は全身の力を抜き、ほとんどの体重を預ける。
二人は完全に、俺が意識を失っていると思っていた。
莉奈が店の前でタクシーを呼び、二人がかりで俺を後部座席へ乗せる。拓海は乗らず、歩道に立ったまま莉奈と短く言葉を交わした。
車が走り出してからも、目を閉じ続けた。
頭の中だけは、少しも静かにならなかった。
莉奈とは三年付き合っている。
俺の前ではいつも穏やかで、気遣いができて、時々ちょっとしたわがままを言う程度だった。一緒にいて、しんどいと思ったことはなかった。
その莉奈が、つい十数分前には俺の親友のそばに立ち、「いつまでこんな関係を続けるの」と口にしていた。
タクシーが、俺たちの暮らすマンションの前に止まった。
料金を支払った莉奈が、こちらへ体を向けて肩に触れる。拓海と話していた時の疲れた声は消え、聞き慣れた優しい声に戻っていた。
「悠人、着いたよ。起きて。家、上がろう」
ゆっくり目を開けた。
莉奈は俺を支えて車から降ろし、ドアまで閉めてくれる。腕に添えられた手も、普段と何ひとつ変わらなかった。
唇の端に残った、少し擦れた口紅さえなければ。
さっきまでの出来事は、酔った頭が見せた悪い夢だったのかもしれない。
そう思えたかもしれなかった。
2
寝たふりをしているうちに、本当に眠ってしまったらしい。
翌朝目を覚ますと、隣は空いていた。布団にはもうぬくもりもない。時刻は七時四十分で、枕元にメモはなく、LINEにも莉奈から何も届いていなかった。
まず電話をかけたが、出なかった。
二度目も同じだった。
ベッドの縁に座ったまま数秒待ち、今度は拓海に電話した。
こちらはすぐに繋がった。
「朝から何だよ。昨日、莉奈に連れて帰ってもらったんだろ?」
いかにも起こされたばかりのような、不機嫌そうな声だった。
スマートフォンを握る手に力が入った。
「莉奈、そっちにいる?」
向こうが一瞬黙った。
すぐに、拓海が笑う。
「まだ酔ってんの? 彼女探しに俺んちまで来るつもり? 知らないよ。俺に聞くなって」
その時、電話の奥で小さな咳が聞こえた。
ほんの一瞬だった。
それでも、聞き間違えるはずがない。
莉奈は喉が乾いた時や、少し風邪気味の時、いつもあんな咳をする。
「誰かいる?」
衣擦れのような音がした。
拓海は声を低くする。
「彼女に決まってるだろ。朝っぱらから何してたかくらい、察しろよ」
目を閉じた。
「今から行く」
返事も待たずに電話を切った。
十数分後には、拓海のマンションにいた。
インターホンを何度か鳴らして、ようやく扉が開く。
拓海は部屋着の短パン姿で、髪もかなり乱れていた。けれど顔には、寝起き特有のぼんやりした感じがない。
玄関に寄りかかりながら、俺を見る。
「本当に来たのかよ」
何も答えなかった。
拓海は呆れたように息を吐き、玄関を開けたまま身を引く。
「そんなに気になるなら、勝手に見れば」
リビングまで入り、スマートフォンを出した。その拍子にポケットのキーケースも一緒に取り出し、ローテーブルの端へ置いた。
拓海の部屋は1LDKで、リビングはきれいに片付いていた。莉奈のバッグも、昨夜着ていた上着もない。いつも使っている香水の匂いさえしなかった。
ただ、ソファの肘掛けに薄い色のスカーフが掛かっていた。
色も柄も、莉奈が先週買ったものによく似ていた。
しばらく見つめてから聞いた。
「彼女は?」
拓海は肩をすくめた。
「今日は朝から会社だって。八時半までには着かないといけないって言って、さっき出たよ」
平然とした顔だった。
「悠人、今日どうしたんだよ。朝から人の家まで来て」
返事はせず、もう一度莉奈へ電話をかけた。
部屋の中は静かなままだった。
着信音も、振動音もない。
数回の呼び出し音のあと、莉奈が出た。
「悠人? どうしたの、朝から何回も」
いつも通りの柔らかい声だった。
向こうでは、キーボードを叩く音や人の話し声らしきものが聞こえた。
拓海の背後にある、閉まった寝室の扉を見たまま聞く。
「今どこ?」
「会社だよ。朝いきなり打ち合わせが入って、先に出てきたの。悠人、昨日かなり飲んでたから、起こさなかった」
「ビデオ通話にして」
一瞬、沈黙が落ちた。
「今?」
「うん」
「もう会議始まるし、みんな集まってるから、ちょっと難しいかな。何か急ぎ? 本当に急ぎなら、あとで外に出てかけ直すけど」
ちょうどその時、パソコンの通知音らしきものと、椅子が動く音が聞こえた。
「ビデオにして」
もう一度言った。
莉奈は二秒ほど黙った。
「悠人、もう始まるって。上司もいるし、あとじゃ駄目?」
「今、外に出てかけ直せるって言ったよな」
また少し間が空いた。
遠くで誰かが名前を呼んだような声がする。
莉奈の声が小さくなった。
「ごめん、始まるから切るね。あとで連絡する」
通話はそのまま切れた。
しばらくスマートフォンを見つめてから、手を下ろした。
拓海は玄関脇に寄りかかり、腕を組んでいた。
「これで気が済んだ? まだ見たいなら見れば。クローゼットでも、ベッドの下でも好きにどうぞ」
大きく伸びをする。
「悠人、最近仕事きついのか? 前のお前なら、こんな勘ぐり方しなかっただろ」
拓海の顔を見た。
しばらくして、どうにか笑う。
「まだ酒が残ってるのかも。頭が回ってない」
拓海は昔と同じように、俺の肩を軽く叩いた。
「帰って寝ろって。夜また飯でも行こうぜ。莉奈も呼んでさ」
何も返さず、部屋を出た。
ローテーブルの端にキーケースを置いたままだったことには、その時は気づかなかった。
エレベーターの扉が閉まった瞬間、無理に浮かべていた笑いも消えた。
胃の奥から吐き気がせり上がってきた。
3
家には帰らなかった。
昨夜、個室で聞いた会話。莉奈が拓海の頬に触れた手。さっき電話越しに聞こえた咳。
もう十分すぎるほど答えは出ていた。
それでも、自分の目で最後まで確かめたかった。
駅前の店で、テイクアウトのおかゆを買った。
莉奈は昔から胃が弱い。仕事が立て込むと食事を抜くことも多く、休日出勤になった時には、消化のいいものを差し入れたこともあった。
三十分ほどで、莉奈の勤めるオフィスビルに着いた。
一階の受付で用件を伝え、部署へ連絡してもらう。少しして、佐藤真由が来客スペースまで来てくれた。
以前、莉奈を迎えに来た時に何度か会っている。
俺の手にある袋を見ると、真由は少し驚いた。
「神谷さん? こんな朝早くにどうしたんですか?」
「莉奈が今朝、急に打ち合わせが入ったって言ってたので。胃も弱いですし、朝ごはんを持ってきたんです」
真由の表情が変わった。
「莉奈?」
オフィスのほうを一度振り返る。
「今日、来てないですよ」
袋を持つ手が止まった。
「来てない?」
「はい。昨日の時点で、今日は有休の予定になってました。それに、莉奈さんが出る会議も入ってないです」
何も言えなかった。
真由も何かを察したらしく、少し言いにくそうに続ける。
「少なくとも、うちの部署で緊急の打ち合わせはないですね。体調でも悪いんですか? 私から連絡しましょうか?」
首を振った。
「部署の電話、借りてもいいですか?」
真由が頷き、固定電話から莉奈の携帯へかけてくれた。
繋がると、そのまま受話器を渡される。
「今日は休みって伝えてたよね? 何かあった?」
少し不機嫌そうな莉奈の声が聞こえた。
受話器を握り直した。
「俺だよ」
向こうが黙った。
「朝飯、持ってきた」
来客スペースの向こうにあるガラス扉を見つめる。
「でも会社にいない」
電話口から、かすかな呼吸音だけが聞こえた。
やがて莉奈が言う。
「悠人、急に用事ができたの。言う暇なくて」
「何の用事?」
「友達が今日引っ越しで、急に人手が足りなくなったって言われて。ちょっと手伝いに来てる」
言葉が早かった。
「本当に急だったの。ごめんね、せっかく来てくれたのに。終わったら連絡しようと思ってた」
「誰の引っ越し?」
今度は、すぐに答えなかった。
「悠人は知らない人。前の仕事で知り合った人だよ」
間を埋めるように続ける。
「今ちょっと手が離せないから、あとで連絡してもいい?」
それ以上は聞かなかった。
「分かった」
通話を切り、まだ温かい朝食は真由に渡した。
何か聞きたそうな顔をしていたが、彼女は何も言わなかった。
オフィスビルを出た。
歩きながら、朝からの出来事を一つずつ思い返した。
拓海の部屋には莉奈の姿がなかった。電話も普通に繋がった。向こうからは、オフィスにいるような環境音まで聞こえた。
それなのに、莉奈は最初から会社へ来ていなかった。
しばらく歩き、家の鍵を出そうとポケットへ手を入れたところで足が止まった。
キーケースがない。
すぐに、拓海の部屋でスマートフォンを出した時のことを思い出した。
ローテーブルに置いた。
そのまま忘れてきたらしい。
来た道を戻り、もう一度拓海のマンションへ向かった。
玄関前まで行き、インターホンを押そうとした時だった。
内側から鍵の開く音がした。
反射的に廊下の曲がり角まで下がる。
扉が開き、拓海と莉奈が出てきた。
拓海は外出着に着替え、帽子を被り、車のキーを指先で回している。莉奈も昨夜とは違う服に着替えていた。
二人はまだこちらに気づいていなかった。
扉を閉めながら、莉奈が声を潜める。
「悠人、会社まで来たんだよ。このままだと絶対疑われる」
拓海は気にした様子もなく、エレベーターのボタンを押した。
「疑われたっていいだろ。昨日あれだけ飲んでたんだぞ。今日は頭も回ってない。実際に何か見たわけでもないし」
「私、さっきもう言い訳ぎりぎりだった。会社にも行ってないってバレたし。もしまた戻ってきたらどうするの?」
「部屋には入れないだろ」
拓海が笑った。
「そんなに怖いなら、このまま外で会えばいい」
「どこ行くの?」
「車」
莉奈はすぐに返した。
「この前、駐車場で人に見られそうになったじゃん」
「だからいいんだろ。そういうの」
拓海の笑い声が聞こえた。
莉奈は返事をしなかった。
エレベーターが到着し、二人が乗り込む。
扉が閉じてから、廊下へ出た。
階数表示が地下へ下がっていく。
数秒待ってから、俺もボタンを押した。
4
昼間の地下駐車場は静かだった。
拓海の車は奥まった場所に停まっていた。
近づきすぎず、数台分離れた柱の陰に立った。
窓が少しだけ開いていた。
中から、抑えた笑い声と衣擦れの音が時々聞こえた。
何をしているのか、もう考える必要もなかった。
しばらくして、拓海の声が聞こえる。
「なあ、正直に言って。俺と悠人、どっちがいい?」
莉奈はすぐには答えなかった。
「何で今そんなこと聞くの?」
「聞きたいだけ」
数秒の沈黙。
莉奈が小さく答えた。
「少なくとも、拓海といる時のほうが……楽」
拓海は納得していないらしい。
「楽なだけ?」
莉奈が笑ったような気配がした。
「そこまで言わせたいの?」
拓海も笑う。
「じゃ、俺のほうがいいってことじゃん」
柱の陰に立ったまま、動けなかった。
胸の奥に、重たいものが沈んでいく。
長い時間が過ぎて、ようやく車内が静かになった。
先に助手席のドアが開く。
莉奈が降りて、服を整え、窓を鏡代わりにして髪を直した。スカートにはまだ、完全には伸びきっていない皺が残っていた。
反対側から拓海も降りた。
莉奈は周囲を確認すると、腕を伸ばして拓海の首に回した。
自分から唇を重ねる。
俺はただ、二人を見ていた。
最後まで残っていた僅かな期待も、そこで消えた。
キスを終えた莉奈が、駐車場の出口へ向かおうとする。
顔を上げた瞬間、俺を見た。
笑顔が止まった。
体も、その場で固まったように動かなかった。
拓海はまだ気づいていない。
車のドアを閉め、服を軽く整えながら言う。
「何びびってんだよ。昼間は元々そんなに人――」
途中で声が切れた。
莉奈の視線を辿って、こちらを見る。
拓海の顔からも笑みが消えた。
地下駐車場には、換気設備の低い音だけが残った。
三人とも数メートルの距離を挟んで立ったまま、誰も動かなかった。
5
莉奈の顔から、見る間に血の気が引いていった。
まさか俺がここにいるとは思っていなかったのだろう。
髪はまだ少し乱れ、スカートには車の中でついた皺が残っていた。
俺は近づかなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ二人を見ていた。
先に耐えられなくなったのは莉奈だった。
「悠人……何でここにいるの?」
声が震えていた。
「鍵を取りに戻った」
口から出た声は、自分でも驚くほど静かだった。
莉奈は何度か口を開きかけた。
「話、聞いて。今のは悠人が思ってるようなことじゃなくて、私たち……」
自分でも続けられなかったらしい。
拓海へ一度視線を向け、また莉奈を見た。
「話してただけ?」
返事はない。
「車の中で話して、そのあと外でキスしただけ?」
莉奈は俯いた。
拓海が一歩出て、莉奈の少し前へ立った。
「ここまで見られたなら、もう隠すつもりはない」
真っ直ぐ俺を見る。
「そうだよ。俺と莉奈は、前からこういう関係だった」
「前から?」
「ああ」
拓海は普通に頷いた。
「前に俺が彼女の愚痴言ってただろ。機嫌悪いとか、冷戦したとか。あれ、全部本当」
一度、莉奈を見る。
「相手がずっと莉奈だったってだけ」
胸の中に何かが詰まった。
「じゃあ、お前が言ってた『彼女』って……」
「莉奈だよ。最初からずっと」
しばらく拓海の顔を見た。
「何で?」
拓海が笑った。
そこに浮かんでいたのは、今まで何度も見てきた笑い方とは違った。
押し隠す気もない、不満と妬みが混ざっていた。
「昔から、お前のこと嫌いだったんだよ」
意味が分からず、眉を寄せた。
「何?」
「大学の時から。成績はお前のほうが上、ゼミの先生にも気に入られて、誰とでも上手くやってた」
拓海は少し言葉を切った。
「卒業してからも仕事は順調。家だって安定してる」
視線が莉奈へ向く。
「莉奈みたいな彼女までできた」
「それだけ?」
拓海は口元を歪めた。
「お前はそう思うよな。最初から持ってるから」
低い声だった。
「何もしなくても、欲しいものはいつもお前のところに転がり込んでくる」
そのまま莉奈を見る。
「それに、莉奈だってお前といて、ずっと幸せだったわけじゃない」
莉奈が顔を上げる。
「拓海、もうやめて」
けれど拓海は続けた。
「お前、何でも予定どおりじゃん。仕事行って、帰って、休みの日は飯行ってさ」
俺を見る。
「デートだって先に予定決めて、その通りに動く。莉奈が俺といる時は、そうじゃなかった」
「もうやめて」
莉奈は泣いていた。
それから、俺へ向き直る。
「悠人、ごめん。最初は、本当に一度だけのつもりだった」
一度息を吸った。
「途中でやめようとも思った。何回も、もう会っちゃ駄目だって思った」
唇を噛む。
「でも……やめられなかった」
「何を?」
莉奈が黙った。
「拓海と別れられなかったのか、俺と別れられなかったのか。どっち?」
答えは返ってこなかった。
「だから俺に会わせなかったんだろ。拓海の『彼女』に一度でも会えば、その場で全部バレるから」
莉奈の目から涙が落ち続ける。
近づいてきて、手首に触れようとした。
「悠人のこと、ちゃんと好きだった。今だって気持ちは残ってる」
必死に言葉を続ける。
「すぐ許してなんて言える立場じゃないのも分かってる。でも、そんな目で見ないで」
一歩下がった。
「触らないで」
莉奈の手が止まる。
「今は、触られたくない」
拓海が眉を寄せた。
「悠人、莉奈は謝ってるだろ。悪いのは俺たち二人なんだから、そこまで言わなくてもいいだろ」
拓海を見る。
「お前が今、それを言うのか?」
顔つきが険しくなった。
もう十年近く付き合ってきた男の顔を見る。
「俺はずっと、お前を一番近い友達だと思ってた」
拓海は黙っている。
「莉奈と一緒に住んでるのも知ってた。三年付き合ってることも、俺がこの先のことまで考えてたのも知ってたよな」
一度言葉を切る。
「その上で莉奈と会いながら、俺には存在しない『彼女』の愚痴を言ってた」
拓海の視線が少しずれた。
「俺、そのたびに真面目に相談乗ってたよな。喧嘩したなら話し合えって」
拓海は何も言わず、目を逸らした。
6
駐車場の空気が重かった。
莉奈はまだ泣いている。
拓海はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「でも、悠人が優しくしてれば、莉奈がずっとお前を好きでいなきゃいけないわけじゃないだろ」
「そんなこと言ってない」
拓海を見る。
「気持ちがなくなったなら、別れればいい」
莉奈へ視線を戻す。
「でも、莉奈はそうしなかった」
「悠人……」
「俺と暮らし続けたよな。俺が買ったものを使って、俺が作った飯を食べて」
莉奈の涙が増えた。
「胃が痛いって言えば病院も一緒に行った。残業だって言われれば迎えに行った」
一度、息を吐いた。
「帰りが遅いから聞けば、忙しいだけだから心配しないでって言ってたよな」
莉奈は何も言えなかった。
「もう俺と一緒にいたくなかったなら、何で別れなかった?」
俯いたまま、しばらく黙り込んだ。
やがて小さな声で答える。
「……手放したくなかったから」
「何を?」
唇が震えた。
「悠人との生活を。ずっと優しくしてくれてたから」
その顔を見たまま、何も返せなかった。
莉奈は泣きながら顔を上げる。
「自分でも欲張りだったって分かってる。でも、私たち三年だよ」
声が少し掠れた。
「三年一緒にいたのに、本当にこれで終わりにできるの?」
すぐには答えなかった。
三年が嘘だったわけじゃない。
莉奈が好きなものも、嫌いなものも知っている。胃を壊しやすい時期も、冬になると手足が冷えることも知っている。
一緒に部屋を見に行ったこともあった。
莉奈の会社にもう少し近い場所へ引っ越すか、話し合ったこともある。
結婚するなら、このまま凪浜市に残るか、俺の実家に少し近い街へ移るか。そこまで具体的に話したこともあった。
簡単なはずがない。
痛くないはずもなかった。
「簡単じゃないよ」
莉奈が勢いよく顔を上げる。
一瞬だけ、その目に期待が戻った。
「でも、別れる」
その光が消えた。
「昨日、居酒屋で二人の話を聞いた時から、今日ここで莉奈が拓海の車から降りてくるのを見るまで、ずっと考えてた」
少し間を置く。
「もしこのまま一緒に戻ったら、俺は莉奈のスマホを見るようになる。どこに行った、誰に会ったって、いちいち確認する」
莉奈は黙っていた。
「十分遅れただけでも疑うと思う」
首を横に振る。
「そんな関係、続けたくない」
莉奈が口を押さえ、声を漏らして泣いた。
拓海が肩を支える。
しばらくして、俺のほうを見る。
「じゃあ、もういいだろ。全部分かったんだし」
声が少し硬くなっていた。
「これ以上、お互いしんどいだけだ。莉奈はこれから俺といる」
拓海を見る。
「本気で言ってる?」
眉を寄せる。
「何が?」
「今日まで二人で俺を騙してたんだ」
拓海の表情が止まる。
「次は、お互いを疑うことになるかもな」
一度莉奈を見る。
「まあ、俺にはもう関係ないけど」
拓海の顔がわずかに変わった。
これ以上、二人と話す気にはなれなかった。
「家の鍵、拓海の部屋に置いたままなんだ」
そう言って、エレベーターへ向かった。
一度も振り返らなかった。
後ろから莉奈の押し殺した泣き声と、拓海が何か宥めている声が聞こえた。
距離は近いはずなのに、もう耳を傾ける気にはならなかった。
7
地下駐車場からエレベーターに乗り、一階のボタンを押した。
扉が閉まる。
壁に背を預けた瞬間、手が震え始めた。最初は指先だけだったのに、すぐに掌全体まで止まらなくなった。
俯くと、勝手に涙が落ちた。
声は出なかった。
大学時代、拓海とは何度も夜中までレポートを作った。試験が終われば一緒に飲みに行ったし、就活で落ち続けた時期も、お互いに愚痴を言い合った。
拓海が失恋した時には、明け方まで付き合って飲んだ。
俺が仕事で一番きつかった頃には、何も聞かずに家まで来て、夜中まで黙って一緒に座ってくれたこともある。
そんな相手だった。
その男が俺の恋人と裏で関係を続け、俺だけが何も知らなかった。
エレベーターが一階に着いた。
手の甲で涙を拭った。
ロビーへ出たところで、ポケットに手を入れた。
やはり家の鍵はない。
スマートフォンを取り出し、拓海に電話した。
「家の鍵、お前の部屋に置いたまま。取りに戻る」
しばらく間があった。
「……分かった。今から上がる」
短く返事があり、電話は切れた。
エレベーターで拓海の部屋がある階へ戻った。
先に到着したらしく、拓海が廊下で待っていた。少し離れた場所には莉奈もいる。
拓海は何も言わず、玄関の鍵を開けた。
俺はその横を通り、部屋へ入る。
朝とほとんど変わらないリビングだった。
寝室のほうは見ず、ローテーブルへ向かう。
キーケースはそこにあった。
冷たい金属に触れたところで、小さく息が抜けた。
これで、もうここへ来る理由はなくなる。
鍵をポケットへ入れ、帰ろうとした時だった。
後ろから足音がする。
「悠人」
莉奈が部屋へ入ってきた。
目は真っ赤で、化粧も崩れていた。髪も頬に張りつき、いつもきちんとしている莉奈とは別人のようだった。
俺の手には触れず、後ろから服の裾だけを掴む。
「最後に、もう一回だけ話せない?」
振り返らなかった。
「もう話すことないよ」
それでも莉奈は裾を離さなかった。
「怒ってるのも分かってる。私が最低なことしたのも分かってる」
声がずっと震えていた。
「でも、三年間の全部まで嘘だったわけじゃないよね?」
そこで振り向いた。
莉奈がこちらを見上げる。
「拓海とのことも、悠人に嘘ついてたことも、全部私が悪い」
一度、息を整える。
「でも、一緒にいた時間まで嘘じゃない。悠人のこと、本当に好きだったし、このまま一緒にやっていこうって思ってた時期もあった」
「それで?」
莉奈が詰まった。
「そのあと、俺を失うのが嫌で嘘を続けた」
代わりに言う。
「拓海のことも切れなかった」
莉奈が俯いた。
「自分が何してるかは、ずっと分かってたよな」
服を掴んでいた手が、ゆっくり離れていく。
「俺にバレなければ、このまま両方続けられると思ってたんだろ」
そこへ拓海も入ってきた。
俺たちがリビングに立っているのを見ると、露骨に嫌そうな顔をした。
「もういいだろ」
ドアのそばに立ったまま言う。
「もう起きたことは変えられない。今さら何言ったって同じだろ」
俺を見る。
「別れるって決めたなら、もう終わりにしろよ。これ以上やっても、もっと面倒になるだけだ」
拓海へ視線を向けた。
「俺がどんな立場になるか、一度でも考えたことあった?」
拓海が黙る。
「『彼女がまた機嫌悪くなった』って、何度も俺に話してたよな」
言葉を続ける。
「俺、毎回ちゃんと聞いてた。喧嘩したなら話したほうがいいって」
拓海の表情が固くなった。
「あとで俺が全部知ったらどう思うか、考えたことあった?」
返事はなかった。
もう拓海を見るのをやめ、莉奈に向き直る。
「もう終わりにしよう」
莉奈が勢いよく顔を上げた。
「悠人――」
「俺たちはもう終わりだ」
ゆっくり言った。
「このあと拓海とどうするかは、二人で決めて」
莉奈は何度も首を横に振る。
「嫌。今すぐ拓海と別れる。もう会わないし、連絡もしない」
一歩、こちらへ近づく。
「悠人、もう一回だけチャンスちょうだい。絶対変わるから」
拓海の顔色が変わった。
けれど莉奈は、拓海のほうを見もしなかった。
首を横に振る。
「もういい」
涙がまた零れる。
「何で……?」
「今ここで拓海と終わっても、俺は戻らないから」
莉奈は立ったまま、何も言えなくなった。
そのまま部屋を出た。
8
マンションを出ると、外の光がやけに眩しかった。
しばらく道端に立ったあと、スマートフォンを取り出した。
最初に開いたのは莉奈とのLINEだった。
三年分のトーク履歴は、どこまで遡っても終わらない。何時に仕事が終わるとか、夕飯を何にするとか、帰り道で何を見たとか。
莉奈が体調を崩した時の甘えたメッセージも、喧嘩したあとの謝罪も、旅行の計画を立てた時に送り合ったリンクも残っていた。
もっと先のことを話したメッセージも、いくつもあった。
以前なら消せなかったと思う。
その日は、それ以上遡らなかった。
莉奈をLINEでブロックし、トーク履歴を削除した。電話番号も着信拒否にする。
次に拓海のトークを開いた。
十年近い分、莉奈よりもさらに長かった。
アイコンを数秒見つめる。
同じようにブロックし、トークを削除した。
タクシーを呼んで家へ向かった。
車は凪浜市の街中を走る。
窓の外の景色が流れていく間も、何度も昔の場面が頭に浮かんだ。
拓海が「彼女がまた怒った」と言うたび、俺は真面目に理由を考えた。もしかしたらもっと構ってほしいだけじゃないか、と助言したこともある。
俺が「一度会わせろよ」と言うたび、莉奈は笑って止めた。
あれを、俺への嫉妬だと思っていた。
帰りが遅くなった莉奈が、仕事で疲れたと言って俺に抱きついてくることもあった。
そんな時、頼ってもらえていることが嬉しかった。
記憶そのものがなくなったわけじゃない。
けれど、もう以前と同じ意味では見られなかった。
タクシーがマンションの前に止まった。
料金を払い、部屋へ戻った。
ドアを開けると、部屋中に莉奈の生活の跡が残っていた。
玄関には莉奈の靴。
ソファにはお気に入りのクッションとぬいぐるみ。
ダイニングにはいつも使っていたマグカップ。
クローゼットの半分以上は莉奈の服だった。
洗面所にはスキンケア用品や化粧品が並び、ベランダには長く育てていた鉢植えもある。
しばらくリビングに立っていた。
やがて段ボール箱を出した。
服は一枚ずつ畳み、季節ごとに分けた。化粧品、スキンケア用品、アクセサリーは別の箱へ入れる。
本やぬいぐるみ、細かな私物も分けて詰めた。
大事そうな書類には中身を確認せず、そのままファイルケースへまとめる。
三時間ほどかかった。
部屋は少しずつ空いていった。
どこにでもあった莉奈のものが、ひとつずつ段ボールの中へ消えていく。
最後に、持ち主がはっきりしない細かなものを一つの箱へまとめ、玄関脇へ置いた。
片付け終えてソファで少し休んだあと、管理会社へ連絡した。
同居人が近く退去することになったと伝え、居住者情報を変更するために必要な手続きを確認した。登録していた緊急連絡先も、あわせて変更することにした。
担当者に、俺自身も退去する予定があるか聞かれた。
空いたリビングを見回す。
「いえ。このまま住みます」
部屋が悪いわけじゃない。
莉奈がいなくなるからといって、俺まで出ていく必要はなかった。
電話を切ってしばらくすると、知らない番号からSMSが届いた。
『悠人。もう完全に失望させたのは分かってる』
すぐに二通目が来る。
『拓海とは話をした。もう続けるつもりはない』
さらにもう一通。
『今すぐ許してなんて言えない。ただ、完全に連絡を切らないでほしい。たまに悠人が元気かどうか分かるだけでもいいから』
最後まで読んだ。
返事はしなかった。
メッセージを削除し、その番号も着信拒否にする。
画面が暗くなった。
9
夕方、外が少しずつ暗くなり始めた頃、インターホンが鳴った。
ドアを開ける。
莉奈が立っていた。
目はまだ赤く、顔色も悪かった。手には小さなバッグだけを持っている。
俺を見ると、わずかに緊張したようだった。
「悠人……」
すぐには中へ入れなかった。
「何?」
莉奈が足元を見る。
「まだ少し、ここに置いたままのものがあると思うの」
声が小さい。
「取ったらすぐ帰るから」
そこで体をずらした。
「玄関の横にある箱、全部莉奈のだよ」
莉奈が中へ入る。
リビングを見た瞬間、足が止まった。
莉奈のものはすべて片付けてあった。
壁に飾っていた写真は外した。ソファのクッションも位置を変え、キッチンには俺が普段使う食器とカップだけが残っている。
洗面所に並んでいた莉奈のボトル類もなくなっていた。
しばらく立ち尽くしていた莉奈の目から、また涙が落ちた。
「全部……片付けたの?」
「うん」
玄関脇の箱まで歩いていき、しゃがみ込む。
服は畳まれ、アクセサリーや化粧品も分けて入れてあった。
莉奈は箱の上のほうから、探していたらしい小物をいくつか取り出す。
それでも、すぐには帰らなかった。
リビングの中央まで戻ってくる。
「悠人」
「うん」
まっすぐこちらを見る。
「もう、本当に無理?」
迷わなかった。
「無理」
また目が赤くなった。
「拓海とは終わったよ」
「それは二人のことだから」
「もう同じことはしない」
一歩だけ近づいてくる。
「今度こそちゃんとする。どこに行くかも言うし、ビデオ通話だってする。スマホ見たいなら見てもいい」
首を振った。
「いらない」
莉奈が止まる。
「スマホを確認しないと続けられない関係なんて、俺はいらない」
涙が落ちる。
「でも、本当に後悔してる」
莉奈を見る。
「分かってる」
少し驚いたように目を上げた。
「後悔してることと、俺がやり直すことは別だよ」
一度言葉を切る。
「俺は、莉奈が変わるのを待ってるわけじゃない」
静かに続けた。
「埋め合わせしてもらいたいわけでもない」
莉奈は涙を拭った。
最後に、少しだけ苦く笑った。
「分かった」
バッグを持ち直す。
「私が自分でこうしたんだよね」
玄関まで行ったところで、箱を振り返った。
「残りの荷物、明日じゃなくてもいい?」
「いいよ」
「友達に車を出してもらえる日を確認する。決まったら、その時間だけ連絡してもいい?」
「荷物のことだけなら」
莉奈は小さく頷いた。
それから、もう一度こちらを見る。
「悠人、ちゃんと自分のこと大事にしてね」
小さく頷く。
「莉奈も」
数秒、その場に立っていた。
やがて背を向ける。
足音が廊下の向こうへ遠ざかっていった。
ドアを閉めた。
10
夜は、自分の分だけうどんを作った。
湯が沸いたら麺を入れ、卵とねぎを加える。
莉奈はねぎが多いのを嫌がったので、以前はいつも先に莉奈の分だけ器へ移してから、自分のうどんに追加していた。
今日は最初から、自分の好きな量を入れた。
丼を持ってダイニングテーブルへ座る。
部屋は、いつもより広く感じた。
冷蔵庫の低い運転音も、外を通る車の音も、箸が器に触れる小さな音も、いつも以上にはっきり聞こえた。
黙って食べた。
三年分の気持ちが、LINEをブロックして私物を箱に詰めたくらいで、一日で消えるはずはない。
拓海との関係も同じだった。
十年近く続いた時間まで、トーク履歴を消しただけでなかったことにはならない。
ふとした瞬間に、二人のことはまだ浮かぶ。
それでも、決めたことは変わらなかった。
俺は戻らない。
食べ終えた器を洗う。
玄関に残っていた空の段ボールも畳み、翌日資源ごみに出せるようまとめた。
リビングへ戻り、カーテンを開ける。
凪浜市はもう夜だった。
遠くのマンションやオフィスビルに、いくつもの灯りが浮かんでいる。
スマートフォンはテーブルの上で静かなままだった。
莉奈からも、拓海からも連絡は来ていない。
明日は仕事がある。
冷蔵庫の中身も買い足さないといけないし、週末に入れていた美容院の予約もそのままだ。
莉奈と一緒に入れていた予定は、これから少しずつ減っていく。
空いた時間には、また別の予定が入るのだろう。
最後に一度だけ、テーブルの上のスマートフォンを見る。
削除したトークを開こうとは思わなかった。
目覚ましを、いつもの時間にセットする。
それから寝室へ向かった。




