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三本目

三本目


目覚めてすぐ、タバコに手を伸ばす。薄く毛羽立った布団にあぐらをかいて、大きく息を吸う。

都心のオフィス街の半地下にある喫茶店。そのさらに奥にある倉庫兼自室。そこには朝の雑踏の音も朝日も届かない。

壁掛け時計を見る。8時を少し過ぎていた。

寝坊の心配はない。開店が何時になろうと、ランチタイムさえ間に合えば誰も文句を言わない。いや、もしかすると店が閉まっていても、何も言われないのかもしれない。

ここでなくてもいい、それは客も私も同じなのだ。


当たり前になった腰の痛みを受け入れながら、ゆっくり立ち上がった。咥えたタバコから灰が布団に落ちる。それを裸足で踏みつけて、拭った。

あの日のパーカーと違う、みすぼらしい筋が走っていた。


スラックスを履き、シャツのビニールを破る。

「シャツだけはクリーニングに出せ。お前の見た目でも多少はまともにみえる」そう言ったのは誰だっただろうか。

自室を出る。明かりが落ちた店内は暗い。光が入るのはドアの横の窓だけだ。

ブレーカーを入れると、天井のファンがゆっくりと回り始める。掃除とランチの仕込み。やることは多くないが、やる気が余っている訳でもない。

バケツに水を貼り、雑巾を絞る。スツールをカウンターに上げる。窓から差し込む光で、今日も外の気温が高いことがわかった。


ランチのメニュー決めは私の中での重労働に近い。日替わりで月曜から金曜まで、和風と洋風を一つずつ。続けて来る客も多い。スケジュールを組んで月ごとに組み替えれば楽なものだが、そう思っているうちに次の日はやってくる。

唯一の外向けに見せるメニューの代わり、カウンター横のブラックボードには、

「和 肉団子の甘酢かけ 洋 カルボナーラ」と書いてある。昨日の自分を恨むのは何回目だろうか。

ストッカーを開く。中を見て、首を振った。

窓を見る。変わらず夏の日差しが届いている。

この暑さの中、買い出しに行く自分を想像して、またため息を吐いた。



駅前にあるチェーンのディスカウントストア。とりあえずの今日と明日の分の買い物をする。

店から徒歩10分もかからないが、その時間歩いただけでも背中にはじっとりと汗をかいていた。店内の冷房が心地よかった。

鶏肉の大容量パックを見ていると、

「店長?」と声をかけられた。

振り向くと、彼女が立っていた。


「わ、すいません声かけてしまって」

落ち着きなく髪の毛を触りながら言った。


「……いえ、どうも」

なにを話せばいいのだろうか。

「お客さんも、買い物ですか」

なんの面白みもない返答しか出すことが出来なかった。


「そうです。これから……仕事なので、飲み物と、アイスを食べながら行こうかなと」

にこ、と微笑みながら言う。

「それより、すいませんでした。買い物中に話しかけてしまって」

頭を下げて、「また、吸わせてもらいにいきます」そう言って離れていく。

「……どうぞ」

私の返事は届いたかどうか分からなかった。



「ありがとうございました」

14時過ぎに最後のランチ客が帰った。時々こうして早く客が引くことがある。

ランチタイム終わりまであと10分。パスタを茹でるための火を落とした。

もうもうと上がる湯気を見ながら、タバコに手を伸ばした。

からんころん、ベルの音が届く。


「……いらっしゃいませ」

入ってきたのは、午前中に声をかけてきた彼女だった。


「おじゃましまーす」

手にはすでにタバコの箱が握られている。

カウンターに座ると、すぐに火をつけた。

「今日はすいませんでした」

彼女がぺこ、と頭を下げる。その謝罪は、話しかけたことか、中年の買い物を見てしまったことか、私には分からなかった。


「いえ、気の利いた返しもできずに、申し訳ありませんでした」

水とおしぼりを出しながら、答えた。それは本心だった。


「……店長が振り向いたとき、やばって思いましたよ。話しかけちゃあかんかったーって」

くすりと笑いながら言う。悪びれている感じはない。


「外で話しかけられることに慣れていないだけです。コーヒーで、よろしいですか」


彼女は壁の時計を見て、初めて見るであろうランチのメニュー表を見た。

「……お腹すいてるんですよね。お昼食べる暇なくて。へー、和洋あって鶏肉とナポリタンか……」


私が答えないでいると、

「……店長ぉ、スーパーもですけど、思ってる以上に顔に出てますからね」

「いまは“ランチつくるのめんどくさいな”って顔してました。ランチにするかきいてこないし」

そう言って壁の時計を指さす。

言葉に反して、楽しんでいるように見えた。


私はため息を我慢して、

「……ランチはどちらになさいますか」と言った。


「許可ありがとうございまーす。じゃあ、和風の鶏肉の香味ソースで!」


頷いて、ストッカーを覗き込んだ。我慢したはずのため息を吐いた。鶏肉は残り1枚。残れば私が食べる予定だった。寸銅の茹で鍋は火を落としている。

仕方ない。五分前だろうが、客として当然の権利だ。


「コーヒーは、食後でよろしいですか」

私の問いに、彼女は「はいっ」と答えた。


白米、味噌汁を合わせて、焼いた鶏肉を彼女の前に並べた。

「おまたせしました。ごゆっくりどうぞ」

先に店内の皿を集め始める。後ろから「いただきます」と、手を合わせる音がきこえた。



洗い物を済ませていると、「ごちそうさまでした」と聞こえた。

「店長、ちゃんと、普通に、おいしかったです」

目の前の皿や器に、ご飯粒ひとつ残っていない。

味の善し悪しなど気にしたことがない。それでもこれは一つの評価だろう。


「……ありがとうございます。今コーヒーを淹れます」

答えて、落ちきったコーヒーをカップに注ぐ。

「これ、あそこで買ったお肉ですか?」

タバコに火をつけながら彼女は言う。

「そうですね。週初めの納品で足りなければ、買いに行きます」

「へー、ちょっと意外でした。値段的に、こう、冷凍とか使ってるのかなって」

もっともな疑問だった。私でもそう思う。


「あそこが出来るまではそうでしたよ」

「ぶっ……店長はいろんな意味で、正直ですねぇ」

彼女は笑いながら、そう言った。



「今日、仕事がバタついてたのもあるんですけど」

煙を細く吹いて話し始めた。目線は昇る煙を追っている。

「今度あるイベントの準備とか練習とかでみんなピリついてて、お弁当食べる気にもならなくて……ここのランチタイム間に合うかなって、ちょっと走ってきました」

「それは……ありがとうございます」

それほど食べたい味をしているとは思えない。どう返していいか分からなかった。


「ほら、また、顔に出てますよ」

「……でも悪くなかったです、ほんとに。また食べに来ようかなってくらいには」

彼女は小さく頷いた。


「お客さんにひとつだけお願いしてもよろしいですか」

「はい、なんでしょう」

こちらを向いた。少しだけ身を乗り出す。


「……10分前なら、歩いてくださいませんか」


彼女は一瞬なにか考える顔をして、「あはははっ!」と声を出して笑った。

「ギリギリなら来るな、って言わないところがらしいですね。分かりました、歩いて来れる時間のときだけにします」




「さっきの話なんですけど」

親指をフィルターに押し当てて、くるくると回している。火種が円を描いている。


「部署の空気が悪いなってとき、タバコ吸ってきまーすって出ていくんですけど」

「他になにかいいやりかたってあるんですかね」

自分自身に問いかけるような言い方だった。


「そのイベントとやらは、うまくいかない方がいいと思ってるような方が、部署内にいらっしゃるんですか」

私の問いかけに、少し悩んだ表情をする。

「……いや、そんな人はいないと思います」


「それなら大丈夫です。成功させるために全員が悩んでいるのなら、なるようになりますよ」

「……そこに私のような、経験からの教えを偉そうに振りかざす人間がいなければ、ですが」

我ながら喋りすぎだとも思う。具体的な例をあげるほど、私は社会を経験してきてはない。


「まぁ、そうですね……みんな良くしようと思ってるからこそ、ではあると思いますし」

「……くっく、はぁ、すいません、うちの会議に参加してる店長を想像したら……すいません、笑えてきちゃいました」

小さく肩を震わせて笑っている。


「仏頂面で不機嫌そうな顔であれば、ここであればいつ来ても見れますよ」

私は自嘲気味にそう言った。紛れもない事実では、ある。


「そうかもしれないですね。会議が和気あいあいとしすぎて、笑顔以外が欲しい時は、また来るようにします」

コーヒーを飲み干して、タバコを消した。

彼女は続けて言った。

「そろそろお会計、お願いします」




支払いを終えた彼女がドアを開けた。

一度出ようとして、身体を戻した。


「店長、次から外で見ても、わたしからは声をかけないので」にこっと笑った。

「そのかわり、店長が見つけたら声をかけてくださいねー」

そう言って、手をふりながら外に出ていった。


答えられずにいた私に、からんころんとベルの音が届く。何度目かのため息を吐いて、さて今日の夕飯はどうしようか、と考えた。


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