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第11話 月澄・フユミ・エインズワース(後編)

「……起きた?」


 降る声で、俺の意識は浮上した。


 視界がボヤけている。

 まどろみの中で、温もりと、柔らかさだけを感じる。すう、と息を吸う。フユミの甘い香りが鼻腔をくすぐる。


 俺は、自分がフユミに抱きしめられているのだと理解するまでに、数秒を要した。

 赤子のように頭を抱え込まれ、背中を一定のリズムでトントンと叩かれている。


「ご、ごめ」


 反射的に謝罪が口をつきそうになって、


「は?」


 フユミの声が低くなる。

 俺は慌てて、さっきの教えを反芻する。


「……ありがとう」


「ん、よろしい」


 フユミは満足気に呟いてから、体を離した。


 俺たちはソファに並んで座り直した。


 窓を見る。太陽は沈みきっている。外は少し暗い。かすかな残光が何もかもを薄紫色に染め上げている。ずっと響いていたヒグラシの鳴き声は、先ほどよりも少しだけ勢いを増していて、それがかえって静寂を引き立てている。


 夢の中みたいにノスタルジックな情景だった。


 俺が眠ってる間に、一時間ほど経ってしまったようだ。


 フユミは何も言わない。


 肩と肩が触れ合う距離。俺は膝の上で拳を握りしめる。


 何か言わなきゃいけない。

 フユミの優しさに甘えているだけじゃいられない。これは義務感や使命感なんかじゃない。


 俺がフユミを好きだからこそ、今の気持ちを言葉にして伝えておきたい。


 俺が口を開いた瞬間、


「まだ黙ってなさいよ」


 フユミが先回りして釘を刺した。


「さっきの罰ゲームは有効だからね」

 

「う……………………うん」


 俺は渋々頷くしかない。

 フユミはソファに深く体を預ける。金髪が背もたれの上に広がる。砂金を散りばめたみたいだった。


 フユミは髪を下ろしている。髪留めを外した姿を見るのは、いつぶりだろう。


 フユミはふわりと天井を仰いだ。


「私はトーマとずっといっしょだけど、トーマの隣は私だけってわけじゃないのよね。コハルとナツキと、アキハ先輩がいる」


「……うん」


「私がトーマの全部を手に入れたと思ってたのに、まさか四分の一だったなんてね。驚いたわ。しかも、あの木南(きなみ) 秋葉(あきは)から(たら)し込んだなんて……女(たら)しもここまで来ると人間離れして見えるわ」


 フユミは口の端を片側だけ吊り上げて笑った。

 冗談めかしてはいるが、その瞳の奥に見え隠れするものがあった。


 俺は拳を握りしめる。手のひらに爪が突き刺さる。


 フユミはふっと力を抜いた。


「でも、感謝してるの」


「えっ?」


 俺は驚いて横を見る。

 フユミはどこか遠くを見るような目をしていた。


「アキハ先輩がいなかったら……トーマはここにはいなくて。私と仲直りすることも無かったのかもしれない。そしたら私はきっとずっと独りぼっちで、コハルやナツキと友達になることもなかったでしょうね」


 フユミの言葉が、俺の胸に突き刺さる。

 アキハ先輩がいなければ、今の俺はない。それは本当だ。

 

 俺の脳には爆弾があった。脳動静脈奇形という血管の異常だ。


 破裂すれば命はない。いつ破裂するか分からない。手術をすれば治るが、術後に記憶を失うかもしれない。


 俺は手術を拒んだ。

 俺にとっては記憶がすべてだった。

 親が家にいないせいで寂しかった俺と一緒にいてくれたフユミ。そんなフユミと疎遠になっても、どうにか近づく理由が欲しくて、必死に勉強して七曜学園に入った。そして、七曜学園で、アキハ先輩やナツキ、コハルと出会った。


 その記憶が俺の全てだから、命よりも大事だと思っていたから、俺は手術を拒んだ。


 アキハ先輩はそんな俺を無理やり手術台に乗せ、命を救ってくれた。


 手術は成功。

 しかし後遺症として、術後一週間ほど記憶障害が現れた。


 前向性健忘。

 眠ってしまうと、直近で起きていた間の記憶がリセットされるという障害だ。

 

 それがゴールデンウィークの『空白の一週間』の正体だ。

 俺は毎日目覚めるたびに記憶を失い、本能のままに四人と触れ合い、そして眠るたびに忘れていたのだ。


 フユミは今、その全てを知っている。


 知った上で、ここにいてくれている。

 フユミは天井の模様を目で追いながら、アンニュイに呟く。


「偶然の積み重ねの上に今があるの。気持ちとか考えとか……途中途中が矛盾してても、そこまで含めて全部大切なのよ。きっとね。いい悪いの前に、まずは生きてることを喜びましょ。後のことは後で考えればいいわ」


 私たち、まだ大人じゃないんだし。


 ハッとした。

 その言葉は、いつかの俺の言葉だった。我ながら青臭い言葉選びだ。


 フユミが発したその言葉は、俺への許しのようにも、フユミ自身へ言い聞かせているようにも聞こえた。


 理屈で割り切れるほど、俺もフユミも大人じゃない。それでもフユミは、現状を受け入れようとしてくれている。


 きっと俺たちは子どもでもない。

 境界線上でふらふらする俺の隣で、フユミは一緒にいてくれている。


 フユミはこちらに振り向く。そして小首をかしげ、悪戯に微笑んだ。


「だから、あんたが私以外の誰かを選んでも、私と恋人にはなれないって言っても、それはあんたの自由なわけ。二人でしたことなんだから、あんただけの責任にしたくないし」 


「フユミ、俺は──」


 俺の唇に、人差し指が押し当てられる。


 細くて少し冷たい指。


「まだ罰ゲーム中」


 フユミの微笑が寂しげに移ろう。


 その表情があまりにも美しく、そして儚げで。

 見ているだけで崩れてしまいそうだから、俺はたまらず目を逸らしてしまった。


 フユミは静かに指を離して、小さく肩をすくめてみせる。


「ま、上出来よね。このまま一生こじらせ続けるのかと思ってたら、トーマの方からやってきて、私は最初の女になれたんだから。アンタが誰に何しても、私が最初に(つば)つけたって事実は変わんないのよ」


 フユミの声に、熱が灯る。


「《《最初》》になれたんだから、それでいいわ。私はずっと待ってるから。あんたが誰のことを好きになったって、最後は私のとこに帰ってくるんだから。私は待つだけ──」


 フユミの大きな愛に包みこまれ、胸が詰まる。

 こんなにも思われて、俺は、こんなに幸せでいいのか……


 帰る場所がある。待ってくれる人がいる。それだけで、俺は生きていける。


 うつむいた俺は、部屋の色合いが変わっていることに気づいた。


 窓へ視線を移す。


 世界が青に沈んでいた。

 日は完全に落ちている。が、闇の色は、夜と呼ぶには、青みがかって透き通っている。


 ブルーアワー。

 空も、庭の木々も、部屋の中の空気さえも、すべてが深い群青色に沈んでいる。


 昼と夜の境界線。

 現実と幻想が混ざり合う、一瞬の静寂。


 俺はその青さに吸い込まれ、我を忘れて見入っていた。


 そのときだ。

 ぐいっ、と顎をつかまれた。


「んっ!?」


 強引に振り向かせられると同時、視界が金色の髪で埋め尽くされた。


 柔らかい感触が唇を塞ぐ。

 フユミが、キスをしてきた。

 

 それだけじゃない。

 ぬるりとした熱い塊が、俺の唇をこじ開けて侵入してくる。


 舌だ。

 フユミの舌が、俺の口内を這い回る。


 俺は呆気にとられ、されるがままになった。

 ブルーアワーの静寂の中で、水音だけが生々しく響く。


 しばらくして、フユミは唇を離した。


「ふ、フユミ、いきなり、せめて先に……」


 俺が酸素を求めながら抗議すると、フユミは勝ち誇って笑う。


「今からキスしますって予告する女がどこにいんのよ」


 トン、と肩を押される。

 抵抗する間もなく、俺はソファに押し倒された。


 視界が反転する。

 俺の上にフユミがまたがっている。

 逆光で表情はよく見えない。けれど、その双眸だけが、薄闇の中で青白く光っているように見えた。


「『待ってる』とか『最後になれれば』とか、そんなの負けヒロインの考え方でしょ。そんな風に受け身のまま何年も待ちぼうけてたから、こんな面倒なことになったのよ」


 フユミの手が、俺の胸元に伸びる。


「臆病者はもうやめた。優等生も、もうおしまい」


 フユミの指が、俺のシャツのボタンにかかる。


「『してほしい』より『したい』なのよ」


 プチ、と一つ外される。


「今からあんたのこと、めちゃくちゃにするから」


 プチ、ともう一つ。プチ、プチ、と、音ならぬ音が響き続ける。


 フユミの目は据わっている。碧眼は群青色に沈んでいる。


 濃く深く、それでいて澄み渡った色。


「二番目の罰ゲーム。これも命令」

 

 逃げられない。


 逃がさない。

 そんな意志を感じて、俺は身動きが取れなくなる。目を逸らすことすらできない。


「ぜんぶ私のせいにして」


 フユミはそう囁き、最後のボタンを外した。


 



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