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第9話 月澄・フユミ・エインズワース(前編)

「おいしい?」


 フユミが、テーブルの向かいから尋ねてくる。


 ちょうど食べ終わった俺は、ほう、と息を吐いた。


「ああ、おいしかった」


 本当に美味しかった。


 フユミが作ってくれたのは、クリームチキンリゾットだった。


 体が内側から温まってくるのを感じる。そう言えば、十時間ほど何も食べていなかった。気付けば胃痛もない。


「おいしかったなぁ……」


 ついつい繰り返してしまった。


「そ。よかった」


 フユミは碧眼を細めた。


 大人びて穏やかな笑顔だった。


 フユミはポットを手に取り、ティーカップにお湯を注ぐ。うつむいた表紙に、金髪のツインテールが、肩から下へさらりと流れる。


 綺麗だ。


「なによ、まじまじと見て」


「いやあ」


 とっさに目を逸らすと、窓の外は夕暮れだった。


 茜空、雲は細くたなびき、桜色と金色で彩られている。

 早咲きの向日葵が、斜向(はすむ)かいの庭に咲いている。ヒグラシの鳴き声が響いている。


 部屋には、フユミの淹れたレモンティーの匂いが広がる。


 閉じていた世界が開いたような、不思議な感覚があった。


 そんな俺の戸惑いを察したのか、フユミは「はぁ、まったく」とため息をついた。


「バカなのよ、アンタ」


 フユミは呆れたように肩をすくめ、やれやれと首を振ってみせる。


「悩み出したらいっつもそう。寝れなくなって食べれなくなって、視野狭窄でグルグル悩んで、すぐにカラダ壊しちゃう。昔から何にも変わってないんだから」


 フユミは紅茶に口をつける。白磁の喉が小さく動く。そして、また嘆息する。


「いい? 疲れてるときに悩んじゃダメ。疲れてるときは、ごはん食べて寝なさい。悩むのは健康になってからよ」


「……ごめん」


「バカ。こういうときは《《ありがとう》》よ」


「……うん。ありがとう」


 フユミは俺の感謝を、


「ん」


 当たり前のように受け取ってくれた。


 ふと、網戸越しに涼風が吹き込む。

 さあっとレースのカーテンが揺れる。


 草いきれに似た、微かな青い薫り。

 肌を撫でる風は少しだけ乾いていて、梅雨明けを物語っていた。


 そういや、もう夏至を過ぎている。


 今日は七月三日。

 夏はすぐそこまで来ている。


 フユミが俺の顔を覗き込んだ。


「冷えてきた? 窓、閉めましょうか」


 フユミが立ち上がろうとするのを、


「いや、あったかい」


 俺は手で制した。


「……あったかいよ」


「そう。よかったわ」


 フユミは淡々と応え、慈しむように微笑んだ。




 片付けを終えた俺たちは、肩を並べてスマブラをしていた。


 フユミが「しよう」と言ったのだ。


 とうぜん俺は逆らえない。


「はいカウンター」


「あ、ヤバ」


 俺のマリオがフユミのロイに吹っ飛ばされ、画面に頭をぶつける。


 K.O.(ノックアウト)の文字が、画面上にデカデカと浮かぶ。


「強いなぁ、フユミ」


「アキハ先輩には負けたけどね」


 さらりと落とされた爆弾。

 行間に含まれた重みにのしかかられ、俺は隣を見ることができない。


「まあ、今あんたに勝てたわけだし、せっかくだから罰ゲームでもさせましょうか」


「な、なんでも! なんでもやります!」


「じゃ、黙ってて。私がずっと喋るから」


「はぃ……」


 俺は口を噤み、うかつに喋るまいと誓った。


「次の試合でも、負けたら罰ゲームね。……あ、返事はしてもいいわよ。わかった?」


「うん」


「敬語」


「はい」


 俺たちはキャラクターを選び直し、試合を開始した。


 フユミはGCコントローラを軽快に操作しつつ、


「覚えてる?」


 平坦な声で切り出す。


「アンタの家で、初めてスマブラしたときのこと」


「はい」


「あたし、人に負けるの初めてで。もう、悔しくて悔しくて」


「……はい」


「やっぱ敬語やめて」


「うん」


 俺の横スマをフユミはジャストガードした。


「で、あんた気を遣って負けてくれたのよね」


「そしたらフユミ泣いちゃったんだよな」


 失言。

 しばし、沈黙。

 俺の心拍数はじわじわと上がり、呼吸もだんだん荒くなる。


 黙れと言われたのに、つい喋ってしまった。


 謝ろうかと考える前に、


「ちゃんと覚えてんじゃない」


 フユミが言った。


「あたし、気を遣われるのがイヤなの。あんたにだけは気遣われたくないの。トーマに気遣われると、悔しくて悲しくて寂しくて、頭がどうにかなるのよ」


 それと、とフユミは続ける。


「5月にカラオケ行ったときのこと、覚えてる? コハルとナツキといっしょだったの」


「うん」


 俺は頷いた。

 文化祭実行委員になった俺たちは、親睦会を兼ねてカラオケに行った。『3年目の浮気』をフユミとデュエットしたことを鮮明に思い出せる。


「帰り道に私が言ったこと、覚えてる?」


「うん」


 一字一句たがわずに思い出せる。


『私、トーマがひどいことしても、ちゃんと誠意を示してくれたら、ちゃんと受け容れてあげる。愛想尽かして出て行ったりしないわ。ずっと一緒にいてあげるから』


 街灯に照らされた金髪がきらきら輝いていたこと。フユミが天使みたいに笑っていたこと。ちゃんと思い出せる。


「じゃあ、最後に」


 フユミは続ける。


「四月三十日に、私《《に》》言ったこと、思い出せる?」


「思い出せるよ、今は」


 自分のものとは思えないほど強い声が出た。


「ずっと一緒にいたかった、って。俺はそう言った」


「ええ。ちゃんと覚えてんじゃない」


 俺は横目でフユミを見る。フユミは画面を見つめたまま言う。


「ずっと一緒よ、私たちは。もう何があってもずっと一緒。トーマが浮気しても、犯罪者になっても、私のこと嫌いになっても、どこか遠くへ行こうとしても、シワシワのおじいちゃんになっても、ずっと一緒」


 だから、とフユミは続ける。


「だから、いちいち不安がるんじゃないわよ。何があったって私がいるんだから。トーマはもう独りぼっちにはなれないの。みんなから嫌われたって、私はずっと一緒にいるから」


 俺は歯を食いしばる。

 こみあげる嗚咽を口の中で噛み殺す。吐いた息が情けなく震える。


 フユミは三度目のため息を吐いた。


「泣き虫……は、お互い様か。まあ、今はいいわ」


 試合は終了。俺は残機を全て失ったらしい。


 滲んだ視界では画面も見えない。

 目の前が真っ暗になって、温もりに包まれる。フユミが抱きしめてくれている。


「今はいいから、明日からはシャキッとしなさいよ。アンタ、変なトコで卑屈すぎんのよ。どーしてそんなに自信が無いのかしらね」


 穏やかな声が降ってくる。


「私で童貞捨てたくせに」



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