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第7話 アキハ「必ず私を」(後編)

 湯気で満ちた浴室。

 お風呂に特有の清々しい匂いと、高そうなボディソープの香り。


 そしてアキハ先輩の匂い。いつもの薔薇の香りではなく、アキハ先輩本人の仄甘い匂いがする。


「何ですか、鼻を鳴らして」


 アキハ先輩は、とにかく上機嫌だった。声を少し弾ませ、後ろから俺に抱きつく。


「月澄さんの付けた歯型とキスマークは全て上書きできましたね」


「ええ、まあ、多分」


 俺は曖昧に返事をした。

 アキハ先輩は、フユミが俺の体に残した痕跡を一つ一つ数え上げ、『どのようにつけられたのか』と俺に確認し、一つ一つ上書きした。キスマークに吸いついて、歯型の上から噛みついた。


 フユミのつけたものと全く同じところに、アキハ先輩がつけたものがある。


 そのうえで、


「上書き分と新しくつけたものを合計すれば、私の方が六つ多いですよね?」


 木南(きなみ) 秋葉(あきは)は勝ち誇る。  


「ええ、まあ、自分からは見えないんでアレですが」


「ふふん。やりましたね」


 アキハ先輩は得意げに鼻を鳴らし、泡立てた体を俺の背中に押し付けて滑らせる。滑らかで柔らかい。


「もう私の印ばかりですね」


「それ言われると、かなり恥ずかしいんですが」


 自分の体が誰かの所有物であるかのように語られるのは、独特のこそばゆさがある。


「あら、この私にあんなことをさせておいてですか? もう私の体に、あなたの知らないところなんてないのに」


「……それを言われると、かなり誇らしいんですが」


「んなっ」


 背後で先輩が絶句する気配がした。

 鏡越しに見る彼女は、手の甲で口元を覆っている。恥じらい方すら上品な先輩だ。


「し、色魔(しきま)……」


「どの口で言ってんですか」


「言うのは上の口だけですよ」


「下品ですよ!」


 きゃはは、と先輩は笑った。

 無邪気な様子はとにかくあどけなく、妖艶さとのギャップに心が浮つく。


 洗い流される泡が床の上で溶け消えていくのを見つめながら、俺はふと、真顔に戻る。 


「……アキハ先輩、一つお願いが」


 俺の声色が変わったのを察したのか、先輩の手が止まる。 


 鏡の中で、彼女の漆黒の瞳が俺を捉えた。 


「俺が万が一、今日のことを忘れたら。……次に目覚めた俺が、先輩のことを何も覚えていなかったら」


 それは、確実に訪れる未来だ。

 眠れば消える。この熱も、肌の感触も、交わした言葉も。


「どうか俺を、浮気者のクズとして扱ってください。絶対に優しくしないでください。どうか甘やかさないでください」


 うつむいたアキハ先輩の顔は、濡烏色の長髪に隠れ窺えない。


「……贖罪のつもりですか?」


 声色はコールタールのようだった。


「違います。ただのエゴです」


 俺の声は酷く白々しく響いた。


「アキハ先輩には、奔放で無邪気で、冷静で計算高い女王様でいてほしいんです。ただのエゴです」


 先輩は数秒だけ逡巡を見せた。

 痛ましげに眉を寄せ、しかしすぐに、冷徹で妖艶な仮面を被り直す。


「ええ。……しかし、あなたの提案を受け容れたのは私の選択です。エゴはお互い様です。今この瞬間のことを思い出しても、絶対にご自分を責めないでください」


 俺は答えない。

 アキハ先輩も何も言わない。


 俺たちは無言のまま上がり、病室に戻った。



 バスローブを纏い、肩を並べてベッドに座る。


 そろそろ夕食にでもしようか──ぼんやりとそんなことを考えていると、アキハ先輩の視線に気づいた。


 じっとこちらを見ている。

 黒曜の瞳が、鈍い光を放っている。


 するり、小さな手が重ねられる。しっとりとした指先が絡め合わされる。


 清められたはずの身体から、湿度と熱量が滲み出ている。


 とっさに俺が口を開く。


「アキハ先輩、」


「興奮したので、もう一度お願いします」


「っ!? い、いま洗い終わったばかりなのにですか!?」


 頓狂声を上げてしまった。

 もう何度したか分からない──というか、数えるのが怖いくらいの回数なのだ。それに何より、今は清潔になった直後だ。


「……いけず。私が浅ましいみたいに」


 先輩は脱力する。ぐらりと傾いた肢体は、俺の身体に押し付けられる。生まれ持った柔らかさと、日々の努力で引き締められた弾力が伝わる。


「あなたのせいですよ、トーマさん。私、自涜(じとく)だって滅多にしないほどに、清らかだったのに。あなたのせいで、私は、こんなに……こんなに淫らな女になってしまったんです。責任、取っていただけますよね?」


 熱い吐息が首筋にかかる。

 空気を染め上げるような色香が部屋に充満する。


 逃げられない。

 俺は改めてそう思った。



 もう終わりだ。

 俺も先輩ももう動けない。


 お互いに疲れきったので、一人ずつ風呂に入り直した。


 アキハ先輩は俺の胸に頭を預け、すうすうと寝息を立てている。その様をぼんやり眺めている。俺も睡魔に襲われているが、ここで眠ったら、俺はまた忘れてしまう。


 その恐怖が、俺をずっと醒ましていた。


 魂が抜けたような虚脱感がある。自分の体が自分のもののようには感じられない。疲労を他人事のように感じる。


 どれくらいの時間が経ったか。


 アキハ先輩が目を覚ました。

 動きがあったわけでもないし、角度の問題で顔は見えない。だが、気配というか、感覚で分かった。


「プルースト効果と言いまして」


 アキハ先輩は唐突に言った。


「特定の香りを嗅いだとき、その香りにヒモづけられた記憶を、鮮やかに思い出すことがあるんです」


「……それで?」


 意図が掴めないからこそ、俺は続きを促した。


「だから今、マーキングしているんです」


 アキハ先輩は顔を上げ、濡れた瞳で上目遣いに微笑む。そして、自身の艶やかな髪を、俺の胸板にぐりぐり押し付けた。薔薇の香りが、俺の肌に染み込んでいく。


「ちょ、髪乱れちゃいますよ。せっかく風呂上がりにセットしたのに」


「いいんですよ。私、できることは全部したいので」


 アキハ先輩は笑った。悪戯(いたずら)に成功した子どものような、無邪気な笑みだった。


 そして、ふと寂しげに瞳を伏せる。


「多分、今日のことも、トーマさんは忘れてしまいますから。でも、私が覚えています。私は全部覚えています。できることも、全部します」


 そう言って、そっと微笑んだ。

 アキハ先輩は、いつも微笑んでいる。でも、表情豊かだ。いつもの完璧な微笑だけではなく、今みたいに寂しげに笑ったり、悪戯っぽくころころ笑ったり、妖艶に頬を緩めてみたり。


 でも俺は、木南秋葉が泣いているところを想像できない。


 あるいは、彼女は泣き方を知らないのかも知れなかった。

 

「……忘れませんよ」


 慰めにも気休めにもならないと知っているのに、俺は我慢できなかった

 

「忘れますよ」


 アキハ先輩は眉尻を下げて微笑む。

 聞き分けのない子どもを諭すように。


「忘れたとしても、思い出します」


「まあ、頼もしい」


 アキハ先輩は冗談めかして手を打った。


「では、もし思い出せたら……」


 しなやかな両腕が俺の首を抱え、逃げ道を奪う。


「必ず私を、迎えに来てくださいね」


 そう言って、唇を重ねた。



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