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第20話 ☆パリスの審判(後編)・暗転

 緞帳(どんちょう)が降りた。


 分厚い布が、熱狂する観客席と舞台とを物理的に遮断する。


 嵐のような拍手喝采は、一枚隔てた向こう側で、遠雷のように響いていた。


 舞台袖。

 外の熱狂と対照的な、凍てつく静寂。


「……やってくれましたね、ナツキさん」


 沈黙を破ったのは、知恵の女神の衣装を纏ったアキハだった。


 その声音は氷点下の冷たさだった。しかしながら、どこか諦観と感心を含んでいる。


「シナリオにはない展開です。予想だにできなかった。私の計算をここまで狂わせたのは、貴女が初めてですよ」


「お褒めに預かり光栄です」


 ナツキは涼しい顔で、客席の方を──緞帳の隙間から見え隠れする最前列を見やった。


 そこでは、数名の《《女子生徒》》たちが、誰よりも早く立ち上がり、涙を流してスタンディングオベーションを送っている。


「……サクラですか」


 鋭いアキハの指摘に、


「ええ。編集部の担当さんたちです」


 ナツキは首肯で返す。

 ナツキは作家としてのコネクションをフル活用し、編集者たちに『女子高生に扮して、ここぞという場面で喝采を上げろ』と指示していたのだ。


「制服を着るのは無理があるかと思っていたんですが、案外サマになっていますね」

 

 この大喝采すらも、ナツキが演出した盤面だった。


「ナッちゃん!」


 コハルが詰め寄る。その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。


「抜け駆けナシって言ったのに! みんなで協力して劇を成功させようって! 裏切りだよこんなの!」


「ええ、裏切りました。紳士協定も暗黙の了解も破ります。愛はルール無用と教えてくれたのはアナタですよ、コハルさん」


 ナツキは悪びれもせず、コハルを見返す。


「貴女の素直さが、うらやましかったんです。欲しいものを欲しいと言い、なりふり構わず手を伸ばす。その欲深さと計算高さに、私は感服しました。……だから、真似させてもらいました」


 コハルは虚を突かれたように息を呑み、


「だよね! さすがナッちゃんだよ! アタシ、もー嬉しくて嬉しくて……」


 泣いた。

 大粒の涙を、細い指でぬぐっている。


「恋敵の抜け駆けに感動して泣いてるんですか……」


 コハルのあまりの変人ぶりに、さしものナツキもドン引きする。


 しかし、


「親友が自分を真似て成長して、自分より強くなったんだよ! サイコーじゃん!」


 コハルは天真爛漫に微笑み、ナツキを抱きしめた。


「脳ミソがバトル漫画すぎますよ、コハルさん……」

 

 ナツキは戸惑いながらも頬を緩め、抱擁を返す。胸に伝う温もりは、トーマとキスしたときの焦げ付くような熱と比べると、落ち着きのあるものだった。


 ナツキは視線を巡らせる。


 最後にフユミと目を合わせる。

 フユミは何も言わない。ただ、静かにナツキを見つめている。その青い瞳には、海淵よりも深い、透き通るような底なしの闇があった。


「……そして、フユミさん」


 ナツキの腕の中から、コハルが離れる。


 ナツキは一歩、フユミへ踏み込む。


 二人だけで向き合う。


「フユミさん、貴女には勝てません」


 ナツキの清々しげに言い放った。


「勉強合宿で思い知らされました。その包容力、芯の強さ、積み重ねた記憶、。……トーマ先輩が誰かを一番に選ぶなら、きっと貴女のはずです」


 ナツキは知っていた。

 アキハから聞いた『空白の一週間』の真実。


 脳の血管奇形。手術。記憶喪失。

 人はいつ死ぬかわからない。明日、世界が終わるかもしれない。


 そして、もし世界が続いたとして、トーマの隣に立つのは、おそらく自分ではない。


「だから、私は一番にはなれません。『正妻』の座なんて狙いません」


 ナツキは胸に手を当て、晴れやかに微笑む。


「ただ、この文化祭のときだけ。この劇という『物語』の中だけでもいい。せめて一瞬くらいは『一番』になりたかった。……それだけです」


 それは、潔い敗北宣言であり、同時に高らかな勝利宣言でもあった。


 そのときだ。

 ガタリ、と舞台袖のパイプ椅子が倒れる音がした。


「……あ」


 全員が振り返る。

 そこには、幽鬼のような顔色をしたトーマが立っていた。


 ふらふらと覚束ない足取り。

 焦点の合わない瞳。

 大量の脂汗。

 彼は、見ていた。

 聞いていた。

 そして何より――思い出していた。


「トーマ……?」


 フユミが駆け寄ろうとする。

 だが、トーマの脳内は、今まさにオーバーフローが起きていた。


 四月三十日。フユミとの仲直りと涙。

 五月一日。アキハとの共犯関係。

 コハルとの情熱。本能の解放。ナツキとの悪戯。過ち。一線を超えた禁断の領域。


 全ての記憶が繋がり、重なり、混ざり合い――


「俺は……俺は全員と……」


 逃れようのない罪悪感と、それらを上回る四人分の愛の重み。


 トーマの視界は、ぐにゃりと歪む。


 目の前には、ウェディングドレスのフユミ、甲冑のアキハ、踊り子のコハル、そして古代衣装のナツキ。

 

 四人の女神が、心配そうに、あるいは愛おしそうに、あるいは「逃がさない」という光と闇の籠った瞳で、こちらを覗き込んでいる。


 キャパオーバーだ。

 トーマの貧弱な脳みそと心臓は、この致死量のラブコメに耐えきれない。


「俺、は……」


 トーマの口から、間の抜けた音が漏れた。


 ガクン。

 糸が切れた操り人形のように、トーマの膝が折れる。


「「トーマ!?」」


「トーマさん!?」


「先輩、先輩!」


 四人の悲鳴が遠のいていく。

 視界がホワイトアウトする。

 薄れゆく意識の中で、トーマは思った。


 (目覚めたときには、どうするか決めないと……)


 鈍い音を立てて、トーマは床に突っ伏した。


 かくして『パリスの審判』は、舞台裏まで含めて、ひとまずの幕を下ろしたのであった。


 しかし。

 劇が終わろうと、役者たちの日々は続く。


 トーマと四天王の五角関係は、いよいよクライマックスに向かっていた。


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