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第3話 コハルの優しさ/ナツキの脚本/アキハのCM

 教室への帰り道、廊下の空気は重く、湿っていた。


 俺は自分の口元に指で触れる。

 まだ、薔薇の香りが残っている気がする。


 唇に残る柔らかな感触。あの妖艶な微笑。


『これで全員横並びですね』


『あとは、すべて、あなた次第です。あなたの望み通りになさって……』


 アキハ先輩の言葉が、熱を持って脳髄に纏わりついている。


 ガララ、と教室の引き戸を開ける。


 昼休み中の教室は、ささやかな喧騒に包まれていた。談笑する声、教科書を用意する物音、ささやかな響きが重なり合って、雑多なBGMを作り上げている。


 俺は自分の席に戻り、カバンを置いた。


「お帰り〜」


 隣の席で、コハルがスマホをいじりながら振り返った。


 いつものヘラヘラした笑顔。

 さっきまでアキハ先輩と交わした会話が、まるで異世界の出来事だったかのように錯覚してしまう。


「……ただいま」


 俺は短く返して、窓の外へ視線を逃がした。

 何を話せばいいのか、どういう顔をすればいいのか、自分でもうまく整理がつかない。


 そんな俺を、コハルは気にする様子もない。


 それがかえって決まり悪い。


「あ、ナッちゃんは文芸部室に戻ったよ」


 コハルがスマホを見たまま、補足するように言った。 


「そうか……」


 俺はとりあえず弁当を取り出し、なんとなく箸をつける。もそもそと食べる。


 湿気を含んだ風が、カーテンを気怠げに揺らしている。ワイシャツが背中に張り付くような、不快指数が高まる季節。

 世界全体が、薄い水槽の中に沈んでいるような、息苦しくも静かな、梅雨の午後だった。


 ふと、視線に気づく。コハルは頬杖をつき、じっと俺を見つめていた。


「トーマさぁ」


「ん?」


「いま、『なんかあったの』って聞かれても困るけど、聞かれなくてもそれはそれで気まずいなぁ〜、って顔してるよ」


 コハルは、いたずらっ子のようにケラケラと笑った。


「……なんだそれ。器用な顔だな、俺」


「器用だよ。わかりやすくて、めんどくさくて、ちょー人間くさい顔」


 コハルは俺の方へ身を乗り出す。


 ふわり、と甘ったるいココナッツの香りがした。アキハ先輩の薔薇とは違う、親しみやすくて、少しだけ切ない匂い。


「いーのいーの。無理に言わなくて」


 彼女は長い爪の先で、俺の手の甲をトン、と突いた。


「話したいときに話せばいいし、自分の気持ちがわからなかったら『わからないなぁ』って思ってればいいんだよ」


「……わからないままじゃ、ダメじゃないか」


「いーの。アタシたち、まだオトナじゃないし。グレーなままフワフワ漂ってるのも、子どもの特権ってことで」


 コハルはウィンクして、またスマホに視線を戻した。


 その適当な優しさが、今の俺には救いだった。

 ただそこにいて、俺の煮えきらなさを肯定してくれる。


 ポツ、と窓ガラスに雨粒が当たった。

 それを合図に、サーッという静かな雨音が校庭を包み込んでいく。


 雨の匂いが濃くなる。

 俺は息を深く吐き出し、ぼんやりと雨空を見上げた。

 口の中に残っていた薔薇の味は、いつの間にか、雨の匂いに溶けて消えていた。


 しとしとと降り続く雨が、校舎を灰色のカーテンで包み込む。

 だが、校内の熱気は湿気になど負けていなかった。7月の文化祭に向け、準備期間が正式にスタートしたからだ。




 ◆◆





 数日後、放課後の第2会議室。

 雨音だけが響く静寂の中、ナツキが冊子を3冊、テーブルに積み上げた。


「脚本、完成しました」


 それは、台本としてはかなり薄いものだった。

 表紙には明朝体で『新訳・パリスの審判』と印字されている。


「……ずいぶんとコンパクトね」


 フユミがパラパラとページをめくる。


「ええ。セリフ量は最小限にしました」


「え、どして?」


 コハルが不思議そうに小首をかしげる。するとナツキは得意げな表情になった。


「間や余韻で魅せたいんですよ。物語というのは言葉よりも情緒です。皆様なら……もとい、《《私たち》》なら出来ると信じています」


 いつになく真剣なナツキの声色に、フユミもコハルもアキハ先輩もうなずいた。2週間の合宿で、四人の絆は確かに結ばれたらしい。


「さて、演出プランについては後日、カメラマン兼・舞台監督である先輩を交えて会議を行います」


 俺かよ。

 部屋の隅で聞き耳を立てていた俺は、これから始まるハードでタイトな練習日程を予感して、天を仰いだ。





 そして、6月中旬。

 生徒会による「文化祭告知PV」の撮影も、俺が担当することになった。


 放課後の生徒会室。

 ほとんど来たことのない場所。モダンでシンプル、ハイセンスな内装。


 緊張する。


「カメラ、回りました」


 俺の合図と共に、デスクで書類に目を通していたアキハ先輩が顔を上げる。


 その周囲には、制服をビシッと着込んだ体格の良い女子生徒たち。全員が全員、木南家の手の者らしい。


「――全校生徒の皆さん」


 アキハ先輩が、レンズ越しに冷静かつ知的な視線を向ける。


「今年の文化祭のテーマは『革新』です。伝統を守りつつ、新たな価値を創造する。我々生徒会は、そのための環境を全力で提供します」


 彼女が短く指示を出すと、背後のスタッフたちが手際よく資料を整理し、タブレットを操作する。


 過剰な演出はない。

 ただ淡々と、プロフェッショナル集団としてのがそこにあった。


 撮影終了後、データは即座に回収された。

 木南ホールディングスが抱える映像編集チームに送り、プロの技術で仕上げるのだという。


 数日後、完成したPVがコハルのチャンネルで公開された。


 俺と四天王の5人は、その映像を第に会議室で観た。


 その映像は、高校の文化祭PVとは思えないほど洗練されていた。無駄な装飾を削ぎ落とした、スタイリッシュなカット割り。


 テロップのフォント一つとっても、一流企業のような品格がある。


『最高の瞬間を、あなたに』


 画面の中で、アキハ先輩が廊下を歩く。

 その後ろを、スーツの女性たちが整然と従う。

 まるでCMから抜け出してきたような、凛としたリーダーの姿がそこにあった。


「か、かっこい〜……」


 観終わったコハルが、感嘆の息を漏らした。


「風格があったわね」


 フユミは紅茶をすすりつつ、澄まし顔で言った。


「まるでショムニみたいですね」


 ナツキが、昔のテレビドラマにたとえる。コイツの《《たとえ》》はいつもニッチなんだよな……。




 そして、もう一本のPV。

 コハルを主役にしたダンス動画もまた、別のベクトルで学校を揺るがしていた。


「やっば! 火伏さんマジ女神じゃん!」


「この躍動感……いつもの親しみやすい雰囲気と全然違う……」


 各々のスマホ画面に映し出される、別荘のウッドデッキで踊るコハルの姿。

 陽光を浴び、キレキレの踊りを披露する彼女の美しさに、男子も女子もため息を漏らしている。


 だが、すぐに一つの議論が巻き起こった。


「ていうかさ、このカメラワークすごくない?」


「わかる。被写体への愛が溢れてるっていうか……」


「誰が撮ったんだろ」


 教室の隅で、俺はヒヤリと冷や汗を流す。

 生徒会のPVも、コハルのPVも、撮影したのは俺だ。


 もしここでバレたら、「なぜオマエごときが火伏琥春のプライベート映像を?」「なぜオマエごときが生徒会の極秘撮影を?」と尋問されてしまう。


 どう釈明しようと「情状酌量の余地なし」として極刑を下されてしまう!


「ま、こんな映像撮れるのって言ったら……」


 男子生徒の一人が、納得したように言った。


「月澄さんしかいないよな」


「あー、確かに!」


「月澄さんなら機材とか凝りそうだし」


「親友の可愛いところを一番わかってるって感じ?」


 学園内の空気が「撮影者=フユミ」で固まっていく。


 ……助かった。


 俺は胸を撫で下ろした。

 こうして、文化祭への期待は最高潮へ達しようとしていた。


 俺だけが、胃の痛くなるようなプレッシャーを抱えながら。



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