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第14話 名前で呼んで

 牡蠣スッポン鍋という、合法媚薬鍋のような夕食を終えた後のこと。


 俺の腹部と下腹部は今、パンッパンに膨れ上がっていた。


 それはそうだろう。

 ただでさえ美少女2人と密室に閉じ込められているというのに、ダメ押しで強精食材の波状攻撃。前かがみに座っているのがやっとだ。


「じゃ、アタシ先にお風呂借りるねー! トーマ、のぞいちゃダメだよ? フリじゃないからね!」


「俺は法律は守るっつーの!」


 記憶が確かなら、俺は法を犯したことはない。


 コハルは、だぼだぼのパーカーの裾をパタパタさせながら、鼻歌まじりに奥の浴室へと消えていった。


 ……のぞくわけがない。

 俺の息子はモラリストだ。かわいそうなのは抜けない。悪いことで立ち上がるようなヤツではないのだ。人を傷つけたくない。仲良しの女の子なら、なおさらだ。


 加えて、俺がそんな暴挙に出た瞬間、シミズに何をされるのか分かったものではない。

 

 残されたのは、俺と、ソファで難解そうな哲学書のページをめくるシミズの二人だけ。

 

 ……沈黙が、重い。

 

「……先輩」


 不意に、シミズが本を閉じた。その冷ややかな、しかしながら熱を孕んだ瞳が俺を射抜く。


「なんだ、シミズ」


「不条理です。非常に、不条理と言わざるを得ません」


「何がだよ。またニーチェか? それともサルトルか?」


「いえ、直接指示論的な問題です。……あなたは月澄さんのことを『フユミ』、コハルさんのことを『コハル』と呼称している。にもかかわらず、私に対しては依然として『シミズ』という、距離感のある呼称を使い続けている。これは、全くの不均衡であり、私のアイデンティティに対する深刻な侵害です」

 

「ああ、下の名前で呼べってことね」


「簡単にしないでください、恥ずかしいので」


 シミズ――ナツキは、無表情のまま俺の袖をぎゅっと掴んだ。


 かわいい。

 コイツは何かと衒学的で遠回しな言い方を好むが、それは照れ隠しの一種なのだ。


「ナツキ」


「……っ」


「うん、新鮮な感じがするな」


「……悪く、ありませんね。ラベルを貼り替えたところで中身に変化はないものと思っていましたが、社会構成主義的に考えれば、いかようにも変化するようです」


 シミズ……もとい、ナツキが耳まで真っ赤にしてうつむいた、そのときだった。


「ふぅー、生き返ったー! やっぱ広いお風呂はサイコーだね!」


 浴室の扉が開き、蒸気と共にコハルが戻ってきた。


 ……俺は、その場に固まった。

 いつものゆるふわセミロングは、高い位置で一つにまとめられたポニーテールに変わっている。


 風呂上がりの火照った肌。うなじに貼り付くおくれ毛。


 そして何より、普段の完璧なメイクをかなぐり捨てた、完全無欠のスッピン。


「え、なに? そんなにジロジロ見ないでよー。今のアタシ、全然盛れてないから……」


「きれいだ……」


「え?」


 気づいたときには俺の本音が漏れ出していた。

 

「はぁ? 何言ってんの??」


 コハルはパーカーの襟元をぎゅっと掴んで顔を半分隠した。


 冗談めかして笑っているが、その頬は夕焼けのように赤く染まっている。 


「……すごく、かわいいよ。コハル」


「…………、…………う。もぉ……反則。バカ」


 コハルが両手で顔を覆ってしゃがみ込む。

 

「……先輩」

 

 隣から、氷点下の囁きが聞こえた。

 見ればナツキが、この世のすべての不条理を煮詰めたような目で俺を睨みつけていた。


「まるで風に煽られる炎のようですね。刺激を受ければ容易く揺らぐ。形を保つことができない。つくづく軟弱、浮気者」


「ち、違うだろ! 今の流れは不可抗力だろ!」


「『風』が強いほど良いのなら、いっそ掻き消してしまいましょうか……」


 ボソボソと呪いのような呟きを漏らすナツキと、顔を真っ赤にしたまま立ち直れないコハル。

 

 ここは天国か、はたまた地獄か。

 

 なんとか空気を入れ替えようと、俺はコハルが置いていったリモコンを手に取った。


「よ、よし! 映画見ようぜ! せっかくの合宿なんだし、な!」


「……それなー。トーマにこれ以上変なこと言われる前に、気をまぎらわせないと、アタシの心臓もたないわ」


「……ええ。虚構の世界に逃避しましょう。……でないと、私の実存が、先輩の手に奪われてしまいます」


 こうして、俺たちは(物理的に)身を寄せ合い、ソファに並んで座ることになった。


「よし、じゃあ映画見よっか! 合宿っぽくない?」


「名案ですね。一本、最適な作品があります。しばし、お待ちを」


 倉庫に向かったシミズが自信満々に持って来たのは、1960年代の名作コメディ『ボーイング・ボーイング』だった。


「これって、確か……」


「ドタバタラブコメディの傑作です。三人の国際線のスチュワーデス……失敬、今はキャビンアテンダントと呼ぶべきですね。彼女たちと同時進行で婚約している男が、飛行機のスピードアップによってスケジュールが狂い、修羅場を迎えるという筋書きです」


 ちょ待てよ。

 作品のチョイスが悪意に満ちあふれている。


 主人公が時刻表を駆使して三人の恋人を鉢合わせさせないように綱渡りする話?

 

 今の俺じゃねーか!!

 俺の場合は3人じゃなくて4人で、時刻表じゃなくて『文化祭実行委員会のシフト』で綱渡りしてる真っ最中なんだが。


 他人事だと思って笑えるか!!


「あはは、チョーウケる! この主人公、マジで綱渡りじゃん。バレたら死ぬよね〜?」


 コハルはちらりと俺を見る。

 ギャルの視線が突き刺さる。


「喜劇と悲劇は紙一重なのです。先輩、この主人公の必死な表情をよく見ておいてください。未来の自分を鏡で見ているような感覚に陥りませんか?」


「陥るわけねーだろ」


 俺は即座にツッコミを入れたが、映画が始まると同時に、俺のメンタルはゴリゴリと削られた。


 画面の中で主人公が必死にウソを塗り固めるたびに、俺の心拍数が跳ね上がる。自分でも気づかないうちに、俺はソファのクッションをぎゅっと抱きしめていた。


 俺の人生で一番長い夜は、まだまだ終わらない。

 





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