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泡の扉の向こうに  作者: 広育 春美


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1/4

出会い

人類がかつて知っていた「旅」は、もう遠い昔の概念になった。

大地を歩き、海を越え、空を飛ぶ――そんな移動の形は、25世紀の今では懐かしい記憶にすぎない。世界は氷河期を乗り越え、肉体を捨て、新たな器〈アルコル〉として再び歩き始めた。食糧も睡眠も必要としない身体。無限に近い時間。宇宙へ伸びる塔と、月面に築かれた都市。人類は、かつて夢と呼ばれた領域を、日常の延長として手に入れた。

だが、どれほど文明が進んでも、胸を高鳴らせる“冒険”だけは、昔と変わらない。


ボウ・モア――第3世代アルコルの少女。

そそっかしくて、好奇心旺盛で、そして誰よりも宇宙に憧れている。

3年待ち続けた「月の裏探検ツアー」。

その日、彼女はまだ知らなかった。

この旅が、ただの観光では終わらないことを。

月の裏側に眠る“都市”が、彼女の運命を大きく変えることを。


これは、ひとりの少女が宇宙へ踏み出す物語。

 朝から落ち着かない時間が続いていた。

 一週間前から入念に準備を重ねてきたはずなのに、肝心なものを忘れていたのだ。宇宙防護スーツ。最初にバッグへ放り込んだはずのそれが、どこにも見当たらない。

 スーツなしでは宇宙エレベータの搭乗ゲートで足止めを食らい、3年待ち続けた「月の裏探検ツアー」が水泡に帰す。待望の旅路が閉ざされる悪夢を想像するだけで、心臓が跳ねる。何としても見つけ出さなければならなかった。

 ボウ・モアは第3世代アルコル。改良された強靭な身体を授かった存在だ。しかし、いくら身体が進化しようとも、彼女の性格までは矯正できなかった。生まれついてのそそっかしさは、母親ゆずりだ。


……………………………………………………………

 人類は一度、滅びかけた。

 21世紀からおよそ170年のあいだ続いた氷河期は、9割の人間を死へと追いやった。土壌は凍りつき、畑は沈黙し、人工栽培の作物は奪い合いの末に尽き果てた。電気、水道も飾りと化し、原始時代へ逆戻りするのも時間の問題だと、誰もが諦めかけたその時、一人の科学者が未来を切り拓いた。

 彼が示した答えは、改良されたクローン技術。

 22世紀半ば、全身を人工細胞で構成された新しい「器」が完成した。必要とするのは食糧ではなく、水。ただそれだけで生命を巡らせる身体。そして空虚な人工脳に、自分自身の記憶を移すことが可能となったのだ。食糧のいらない新たな人類。それこそが〈アルコル〉である。

 最初に誕生した第1世代は、顔も声も身長も区別がなく、名札だけが人を識別する唯一の手段だった。しかし、氷河期が終焉を迎え、太陽が再び地表を照らし始めると、技術は次なる段階へと進む。働くことはすでにロボットの役割となり、人間はただ「存在するだけ」の時代を生きるようになった。

 やがて第2世代が現れる。そこには性差が与えられ、髪や声、顔立ちを自ら選択する自由があった。だが、食事も睡眠も不要な身体を得た人々は、膨大な時間を持て余し、虚無の中で生きがいを探し続けた。彼らを救ったのは通信チップだった。初めは研究所の周囲だけで交信可能だったその技術は、やがて都市を、世界を、そして宇宙へと繋ぎ、人類の文明を再び呼び覚ます。

 さらに30年後――世界は21世紀を凌駕し、宇宙エレベータと月面基地が築かれる時代となり、アルコルは第3世代へと進化を遂げた。水すら不要、完全なる循環を内に秘め、体内の発熱などの余剰なエネルギーを「結晶」として保存し利用することもできた。体内チップも進化し、21世紀のように服を着ているように色を自由に変えることもできることもできた。しかし、酸素はまだ必要なモノだった。脳細胞の代わりになる媒体が、酸素を必要とした。様々な体内チップが製造され、チップさえ体内に取り込めば、歴史、言語、科学、宇宙、全ての情報を取り込む事ができた。

 最大の変革は、生殖に似た営みだった。二人の第2世代が願えば、その遺伝子情報を基に子が創られる。児童アルコルは8歳ほどの姿で目覚める。親と手をつなぎ、言葉を交わし、5年間を共に過ごす。児童アルコルはチップを搭載できないため、親が言葉を教えて、生きる術を教え、育てるのだ。5年後、児童アルコルは引き取られ、新たな通常型のアルコルの身体を得て独立する事になる。児童アルコルを引き取られた、二人のアルコルは児童カウントが加算される。新たな子を迎える事ができるのは一人まで、人口を増やし過ぎるのを抑えるのが目的だ。

 西暦2442年。研究や創造はすべてコンピュータに委ねられ、もはや人間が科学を先導する時代ではなかった。メカがメカを超える存在を生み出す世界だ。

 その時代に生まれた少女。ボウ・モア。

 アードとベックの遺伝子を受け継ぎ、第3世代アルコルの中でも「ニューヒューマン」と呼ばれる、新しい可能性を担う存在だ。

……………………………………………………………


 モアは突然ひらめいた。忘れたはずの宇宙防護スーツ。それを、自分はスペースシューズの中に仕込んでいたのだ。出発前に必ず履き替えるそのシューズなら、確実に持ち運べる。

 玄関脇のシューズを覗き込むと、そこに輝くカプセルが収まっていた。

 「ひゃー、クール!これで万全。さあ、ゴーだ!」

 歓声を上げ、彼女は高層ワンルームタワーの223階の扉を開いた。

 眼前に広がるのは、空を縦横に飛び交うマットの群れ。ビルの谷間を埋め尽くす航路は、まるで巨大な星雲が都市に降り立ったかのようだった。

 モアは躊躇なく、扉の前に浮かぶ直径3メートルの円形マットに飛び乗った。次の瞬間、マットの縁から透明な膜が噴き出し、半球状のドームを形成する。目的地を告げると、マットは轟音もなく弾かれた矢のように加速した。

 500階建ての摩天楼が瞬く間に豆粒のように遠ざかっていく。マットは長距離モードへと切り替わり、速度はマッハ3へ到達。外界の凄まじい流れが嘘のように静まり返り、モアは柔らかなソファを呼び出し身を沈めた。目の前に浮かぶ映像モニタが、これから向かうツアーの全貌を映し出す。


 ――月の裏側、静寂に埋もれた都市の遺構。

 21世紀に探査の痕跡は残されていたが、長く秘匿されてきた。25世紀、再調査の結果、そこには危険はなく、ただ朽ちたピラミッドを思わす建造物のみが残されていた。地球外文明の名残と見られるそれは、いまや人類の共通財産として公開され、ツアーという形で人々に開放されたのである。


 モアの胸は高鳴った。未知の都市、その謎。誰が、いつ、なぜ月に街を築いたのか。

 2時間ほどで大西洋の中心へと到達した。そこには天を貫く巨塔、宇宙エレベータがそびえ立っていた。世界に3基のみ存在するその建造物のひとつ。モアは旧サンフランシスコからの経路で、この大西洋基部を選んでいた。

 エレベータの搭乗手続きには決まりがある。スペースシューズを履き、宇宙防護スーツを完全装備しなければならない。無重力の宇宙空間に出る必要が生じた時の緊急事態に備えるためだ。モアはカプセルのボタンを頭上で押した。瞬時に七色の泡が弾け、シャボン玉のように全身を包み込む。やがて泡は収縮し、身体に密着して透明な鎧と化した。宇宙線から肉体を守る防御膜は完全装備の証だった。

 スペースシューズは、磁石ではないのに、艦や床にぴたりと吸い付く。その仕組みは知らないが確実に機能する不可思議な技術で作られた宇宙用の靴だ。

 搭乗手続きを終えたモアは、ついにエレベータの内部へ足を踏み入れる。10階建ての構造体は、一度に1000人を宇宙へ運ぶ巨大な方舟だ。彼女は3階の中央に腰を下ろし、出発の合図を待った。

 このツアーは現地集合が鉄則。定刻に遅れれば、誰も待ってはくれない。冷酷な規約ではあったが、最安ポイントプランを選んだ以上、モアには不満を言う権利などない。すべては自分で決めたことだ。

 発進のアナウンスが響き、巨塔は滑るように動き出した。

 圧力の変化も揺れもなく、ただ静かに上昇していく。数分後には大気圏突入のアナウンスが流れ、さらに5分後には到着のアナウンスへと変わった。

 「えっ、もう到着なの。これで800ポイント?ちょっとやり過ぎじゃないの…。」

 モアは肩をすくめ、だがすぐに笑みを浮かべた。

 これは始まりにすぎない。待ち受けるのは、月の裏側に眠る失われた都市。彼女の冒険は、まだ扉を開いたばかりだった。


 エレベータが静かに停止し、扉が開く。指定された「休憩室2」の行先掲示板の下へ向かうと、そこは拍子抜けするほど閑散としていた。

 誰もいない。

 何度も掲示板を確認したが、間違いはない。それでも不安は募り、胸の奥にざわめきが広がる。ツアー集合場所と聞いて想像していたのは、人々のざわめき、熱気、期待に満ちた群れだった。しかし現実は、静まり返った空間と、時計の針の進む音だけ。

やがて、出発時刻の5分前。ようやく一人の影が近づいてきた。

 男は無造作にモアと目を合わせ、淡々と告げた。

 「こんにちは、ムーントラベルのガイドです。じゃ、行きますか」

 「…へっ?」

 「へっ、じゃないですよ。月の裏の都市に出発です。ツアー開始です。」

 「えっ、どういうこと?ツアーって…」

 男は片眉を上げ、確認するように声を落とす。

 「あなた、ボウ・モアさんですよね。」

 モアは戸惑いながら頷いた。

 「…そうだけど。でも私だけ?」

 「はい。実のところ、月の裏の都市に興味を持つ人はほとんどいません。このツアーはいつも参加者が少ないんです。今回もあなた一人だけ。私は入口まで案内しますが、その後は全てロボットに任せる形になります。」

 「待って!この日を3年も待ったのに…たった一人?」

 思わず声が上ずった。彼女の頭の中にあったのは、定員ぎっしりのツアー客が押し寄せる賑やかな光景だったのだ。

 しかしガイドは肩をすくめるだけだった。

 「申し訳ありません。待ち期間は会社が決めた事なので、私にはどうすることもできません。」

 無機質な説明に返す言葉もなく、モアは唇を噛み締めた。やがてガイドが短く告げる。

 「次のツアーの案内があるので。急ぎましょう。さあ、こちらへ。」

 モアは無言で従った。

 ステーションの端に広がる港には、大小無数の宇宙船が並んでいる。その中で、彼女に割り当てられた船は、卵型の小型艇だった。飾り気のない外装は銀色に輝き、どこか冷ややかな印象を放っていた。彼女の想像していた「冒険の船」とは違い、胸がわずかに萎える。

 だが、船内に足を踏み入れた瞬間、その感情は一変する。

 上半分を占める客席フロアは、100席が並ぶ壮麗な展望空間だった。船内からは前方も側面も遮るものなく、透明なパネル越しに宇宙が広がっているのが見える。ステーションの巨大な構造体を眺め、漆黒の闇に瞬く星々が無数の針のように光る。その圧倒的な光景に、モアは大きく口を開け、息を呑んだ。

 「どうです?」

 ガイドが静かに言う。

 「これが最新型です。この船に乗れるだけでも価値があると、私は思っています。」

 「確かに。チップに収まっている星空の映像とはまるで違う。本物の星空って、こんなに…。」

 ガイドは船の事を話していたが、モアは船よりも星を見て声が震える。彼女の瞳には、煌めく星々がそのまま映り込んでいた。

 「あっ、今は夜側ですからね。特に美しく見えますね。」

 ガイドは簡単な説明を終えると、次の手順を促した。

 「都市に降り立つための装備の説明をしましょう。下へ。」

 船体の下層には、一人用の宇宙カートが整然と並んでいた。銀色のボードにスペースシューズを固定し、ボードから伸ばしたハンドルで操作する。声で命令すれば自動で進み、マニュアルに切り替えれば上下左右、前後の動きも自由自在。緊急時には自動で母船に帰還する安全機能付き。

 説明を受け、都市のマップや必須情報をチップに転送すると準備は整った。

 モアは100席ある展望席の最前列、中央に腰を下ろした。誰にも邪魔されないその席は、孤独でありながら、まるで特等席のように思えた。

 エンジン音も聞こえない静寂の中、船体が加速する。

 月の裏側へ、30分後には都市に行ける。冒険の旅が、ついに始まった。


 ステーションは瞬く間に視界から消え去り、地球は急速に縮小していった。蒼い球体は、やがて掌に載せられる宝玉のように小さくなり、対照的に月が視界を圧迫するほどに迫り来る。

 20分程経過すると、無数のクレーターが刻む陰影までもが肉眼で捉えられ、圧倒的な質量感をもって迫ってきた。そして船は軌道を変え、白銀の表を背に、漆黒の虚無へと滑り込んでいった。

 その瞬間、船内の照明が淡く点り、メカの声が澄んだ金属音のように響く。

 「まもなく現地に到着します。スペースドライブの用意をしてください。」

 モアは下の階層で準備した。呼吸を整え、緊張を噛みしめるように姿勢を正した。心臓の鼓動がわずかに早まる。

 続いて響く指示が、冷徹なカウントダウンのように空気を支配する。

 「全員の準備が確認されました。これより室内の空気を排出します。以後、音声会話は不可能となり、スーツを通じての通信に切り替わります。次に、重力制御を停止します。スペースカートはセンターラインに移動し、乗車を完了してください。全員の乗車が確認され次第、前方のハッチを解放。順番に船外へ放出されます。活動時間は3時間。帰還通知は2時間30分後に発信されます。それでは、宇宙の走行〈スペースドライブ〉をお楽しみください。」

 空気が抜かれていく感覚は曖昧だった。だが次の瞬間、体がふわりと浮き上がり、重力制御が解除されたことを悟る。

 センターラインへと移動し、床に吸着したブーツを慎重にカートの上へ移した。すべての準備を終え、息を呑む。

 そして――。

 前方のハッチが、静かな金属音を立てながら開いた。

 溢れ出すのは虚無ではなく、無数の光。宇宙を埋め尽くす星々が奔流となって押し寄せ、船内にまでその輝きを染み込ませてくるようだった。モアの胸は、高鳴りを抑えきれなかった。

 「ひゃー、クール!」

 思わず漏れた声は、真空の闇に吸い込まれていった。

 身体はゆるやかに前方へと押し出され、モアはついに宇宙空間へと舞い出た。

 眼前に広がる光景は、地球から見上げる星空とは次元が違っていた。星々は触れられるほど近く、刺すような輝きで存在を主張する。色彩は鋭く、蒼、紅、金と、宝石を砕いて撒き散らしたかのように虚空を埋め尽くしていた。

 モアは両腕を大きく広げ、スーツ越しに深呼吸をした。両脚はなおカートに繋がれているが、解き放たれた心は、いまや無重力に溶けてゆく。

 ふと視線を移すと、漆黒の月の表面に赤い点灯がまたたいていた。都市の位置を印す灯だ。

 「よし、カート。あの光の方角へいってちょうだい。」

 《ラジャー!》

 軽快な返事と共に、カートは滑るように進み出す。だが虚空では速度も距離も掴めず、前進しているのかさえ曖昧だった。やがて2分が過ぎた頃に到着した。

 「結構時間かかったね。帰りのことも考えなきゃね、カートちゃん。」

 《イエス!“ちゃん”付けで呼ばれたのは初めてで光栄です!》

 近づくにつれ、都市は予想に反して、摩天楼は影も形もなく、四角推の小さな家々が整然と並ぶ光景だった。

 「まるで、エジプトのピラミッドを縮小したみたい。もっと地表ギリギリまで近づいてくれる。」

 《すいません。それは禁止されています。地表や物体から30メートル以内には入れない規則です。》

 「うん。知っているよ。ガイドから聞いたから。けど、あえて言ってみた。どう行けるの、行けないの?」

 《すいません。行けるけど行けないんです。規則ですから。》

 「規則を破ったらどうなるの?今は私一人だけだから誰も見てないわよ。常に位置を監視されているの?」

 《いや、そういう訳ではないんですが、規則ですから。》

 「マニュアルモードにしたら、行けるの?」

 《それは100%無理です。その時はブレーキが自動で稼働するので、近寄る事は無理です。》

 「じゃー。近づいてよ。お願いだからさー。カートちゃん。」

 モアの粘り強い説得と悪戯心まじりの懇願に、ついにカートちゃんは折れた。しゃがんで手を伸ばせば地表に触れられるほどまで降下し、そのまま、四角推の建物を縫って進んで行くと、視界に不意に現れたのは、朽ちかけた二人乗りの調査艇。21世紀の遺物だ。

 「ひゃー、クール!本当にあるんだ……宣伝のやつ!」

 《はい。あれです。かつて月面調査に使われた艇。あえて放置されているのです。》

 「あの船って乗れるの?」

 《無茶です。それは流石に無理です。もう十分に違反しています。》

 「誰にも言わないからさ。カートちゃ~ん。」

 《甘い声で頼んでも、お客さんの安全が最優先なので、これだけは…》

 喋りを遮ってモアは懇願し続ける。

 「お願い。これが最後のお願い。後はルールに従って観てまわるだけだから。お・ね・が・い。か・あ・と・ちゃ・ん。」

 《…これが最後です。戻ったら必ず規定高度に上がっていただきます。それ以上は譲れません。》

 「ラジャー!」

 興奮に駆られたモアは、艇のハッチへと足を踏み出した。月の重力に引かれ、二歩、三歩。

 自動でハッチが開いた。モアはまだ動く事に驚きつつも、ライトボールを投げ込み、内部を照らした。

 そこにあったのは、機材も装置も失われた空虚な船内。まるで何者かが跡形もなく持ち去ったかのようだった。肩透かしに小さく舌を打ち、振り返ったその時。一軒だけ異質な家が目に留まった。ほかのものと違い、上空からは見えない扉を備えた四角推の建物。

 「…何、あれは?1つだけ、扉付きのがあるわ。」

 モアはためらわず歩み寄った。

 10メートルほどの距離。次の瞬間、視界が泡の渦に覆われる。泡風呂に沈み込むように世界が揺らぐ――そして、泡が弾けると、そこには――。


 「うわっ…!?…え、もしかして…地球人?どうやった入ってきたんだ。」

 突如、目の前に現れた何かに狼の男は驚愕した。

 「え、えぇぇぇ――っ!」

 モアの喉から悲鳴が洩れた。心臓が凍り付いたように鼓動を止めかける。慌てて踵を返したその瞬間、背後に別の存在が立ちはだかっていた。

 「あらやだ、地球人っぽいわね。まさか最後の最後に…」

 「えぇぇぇ――っ!え、えぇぇぇぇぇ――っ!」

 逃げ場を塞ぐように立っていたのは、奇怪な二人組だった。

 一人は狼の顔を持ち、もう一人は鳥の面影を持つ。その体躯は2メートル50センチほどで、見上げるだけで背筋が冷たくなる。圧倒的な威圧感にモアは本能で悟った。

 ――殺される。

 「た、助けてぇ――っ!」

 絶叫しながら走り出したが、出口はどこにもなかった。壁に閉ざされて扉もない、ただ逃げ場のない空間が広がっている。モアは力尽きてその場に座り込んだ。

 「ごめんなさい!本当に何もしないし、何も見てない!だから、だから帰して…。ごめんなさい、ごめんなさい。邪魔するつもりなんてなかったの…ここに来るつもりだって…」

 うつむいた視界の端で、巨躯の足がゆっくりと近づいてきた。月面の冷気よりも冷たい絶望が背中を這い上がる。

 「ご、ごめんなさい…ごめんなさい…どうか…許して…」

 震える声で懇願するモアに、狼の顔をした男が柔らかな声をかけた。

 「大丈夫、大丈夫。怖がらなくていいよー。俺たちは、何もしないよ。」

 その声には意外なほどの安らぎがあった。

 「ちょうど俺たちも、用が済んだから、ここを去ろうかって話をして、まさに準備が整ったところだった。」

 威圧的な巨影が、ほんの一瞬、人間らしい微笑みを宿した気がした。

 恐る恐る顔を上げたモアは、思わず目を疑った。さっきまで鳥や狼の面影を持っていた二人の顔が、人間のように変わり、白い布地のワンピース思わす姿に変わっていた。柔らかな笑みを浮かべ、静かに佇む姿は、先ほどの威圧感が嘘のようだった。


 モアはしばし見入った後、はっと思い出したように声を上げた。

 「えっ、もしかして、壁画ちゃん?」

 二人の笑顔が、ぴたりと止まった。微笑から困惑へ。

 「は?何、それ?」

 危険はないと安堵したモアは、ゆっくりと立ち上がりながら言葉を続けた。

 「二人ともエジプトの壁画に描かれてる人でしょ?」

 二人は不思議な表情を浮かべていた。

 「…その前に聞かせてくれる。君の名前は?」

 問いかけられた瞬間、モアはふと我に返った。

 「えっ…待って。なんで会話できているの?なんで私、宇宙人の言葉がわかるの?」

 その疑問に、男が首から肩にかかってる綺麗な装飾品を指さして口を開いた。

 「これを付けてるから、君が理解できる言葉に聴こえるんだよ。」

 「…?」

 今度は、長い髪を揺らし、頭に金の輪を載せた女が応えた。

 「カーラってモノだけど、これがあると、脳が発する波長が強まってお互いに伝わるの。つまり、考えていることがそのまま届くのよ。その波長がお互いの言葉を喋っているように脳で置換されるのよ。」

 「はぁ…よくわからないけど、とにかく話はできるからいいわ。あなたたち、凄い技術を持つ宇宙人って事はわかった。」

 女は微笑を浮かべて肩をすくめた。

 「地球人だって、外から見れば宇宙人よ。」

 モアは思わず苦笑した。

 「あ、そっか。たしかに。」

 男が優しく促す。

 「それより、名前を教えてくれないか。」

 「あっ、私の名前は、ボウ・モア。第3世代のアルコルよ。」

 男は頷き、穏やかな笑みを浮かべた。

 「アルコルが何を意味するかは知らないが…モアって呼んでいい?」

 「ええ。みんなそう呼んでる。」

 「そうか。こんにちは、モア。俺はアナン。」

 「私はヌキ。よろしくね、モア。」

 ヌキは手を軽く動かし、椅子を指し示した。促されるままモアが腰掛けると、その大きな椅子に彼女は子供のように収まった。

 「モア用の椅子も用意しないとね。」

 「そうだな。隣で作ってくるよ。」

 そう言って、アナンは部屋の壁を通り抜けて出て行った。

 二人が交わす会話に、モアは目を見開いた。まるでこれから一緒に暮らそうとしているかのような口ぶり。思わず声を荒げる。

 「ちょっと待って!私、もうすぐ帰らなきゃいけないの。ツアーは3時間って決まっているの!」

 「ツアー?」

 アナンが首を傾げる。

 「月の裏側の都市を巡る観光ツアーよ!」

 ヌキは小さく笑った。

 「ツアーの意味がわからないけど、月はもう離れたわよ。私たちの用は済んだから。」

 「え……離れたって、どういうこと?」

 「さっきアナンが言ってたでしょ。準備が完了したって。」

 ヌキが静かに答える。

 「出発の時、月の“壁”を抜ける瞬間。船のすべてが一度“プランク長”、……言わば、物凄く小さな単位まで分解されて通り抜けるのよ。モアはたまたまその壁を抜けた所に居たみたい。だから船が、君を乗組員の一人だと誤認して、一緒に取り込んでしまったんだと思うわ。」

 「……!」

 モアの思考が一瞬、凍りついた。言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くす。そして、落ち着いて確認する。

 「ここは宇宙船の中で、私は…もう、帰れない?」

 ヌキは涼しい顔で言い放った。

 「そうね。もう戻ることはないわ。次の課題に向かうわ。」

 「そんな…じゃあ、誰にも何も言えずに…お別れってこと?連絡も取れないの?」

 「そうね。地球とは連絡は取れない。」

 モアは、しばらく黙り込んだ。そして、肩を落とし、ぽつりと呟いた。

 「ま、いっか。」

 そこへ、柔らかな光を背にしてアナンが戻ってきた。

「お待たせ。出来たぞ、モア専用の椅子だ。」

 運び込まれたそれは、見たことのない質感を持つ、宙に浮かぶような不思議な椅子だった。モアは半ば呆然としながら腰を下ろす。

 「ひゃー、クール!座っているのに、まるで浮かんでるみたい。最高だわ、これ。」

 アナンが静かに問いかける。

 「よし。モア、地球のことを教えてくれ。最近の地球の事は、俺たちにはもうわからない。地球人は氷河期で滅んだと思ってたけど……どうやって生き残った?」

 モアは無言で頷くと、手首のチップをタップし、青白い光で情報を投影した。ホログラムに浮かぶ時代の断片が、まるで授業のスライドのように二人の前に映し出される。モアは、まるで教師のように淡々と人類の歴史を語り始めた。

 「…なるほど。」

 アナンが深く頷く。

 「地球では純粋な人類はもう存在しない、というわけか。モアは“作られた人間”ということだな。それで地表センサーに反応しなかったわけか。」

 モアは眉間に皺を寄せ、わずかに笑みを歪めた。

 「何かその言い方、傷つくわ。でも、事実だけどね。“作られた人間”それが私。」

 視線を二人に戻し、真剣な眼差しで言葉を続けた。

 「今度は二人の話を聞かせて。どうして“壁画の人”がここにいるの?エジプトが大好きで仮装してるんじゃないわよね。まったく意味がわからない。」

 モアの話が理解できないまま、ヌキが静かに笑う。

 「全部を話そうとすれば…少し長い話になるわよ。」

 モアは軽く首を振った。

 「構わないわ。時間なら、たっぷりあるから。」

 アナンが頷き、唇の端をわずかに吊り上げた。

 「いんじゃない。話し終えてから、タイムモードで移動しよう。」

 ヌキは静かに深呼吸をしてから、ゆっくりとモアへ向き直る。その瞳はどこか遠い昔を思い出しながら、遠くを見つめるようだった。

 「わかったわ。ゆっくり、私たちのことを話しましょう。」


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