第9話 客室にて
その後しばらく客間で待っていたジュリエットは、迎えに来たマーシャの後について屋敷の階段を登った。
「こちらがジュリエット様が滞在されるお部屋でございます」
そう言って通されたのは、二階の階段を登ってすぐの場所にある小ぶりの客室だった。どう見ても主賓が滞在する第一客室でないのは明らかだが、そんなことはどうでも良い。むしろ、自分は雇われてここに滞在するのだから、分不相応なもてなしをされても困る、と思っていたジュリエットはこの待遇に少なからず安堵した。それに小ぶりと言ってもロンドンのクインズビー子爵家の屋敷にあったジュリエットの私室よりはずっと広く、調度品も立派だった。
「むさ苦しいところで申し訳ございませんが」
「何を仰いますの。わたくしには十分過ぎるお部屋ですわ。ありがとうございます」
仮面のように表情を崩さないマーシャに向かってジュリエットはにこやかに礼を言った。だがマーシャは眉一つ動かさず、そのままくるりと踵を返して部屋を出て行こうとした。ジュリエットはその背中にもう一度声をかけた。
「あの」
「なんでしょうか?」
まだ何かあるのかと言いたげな目つきで振り返ったマーシャに、ジュリエットは思い切って尋ねてみた。
「その……グリーンウッド将軍のお怪我はいつから……」
「あなたがお知りになる必要のないことです」
「でも」
マーシャは一切感情のこもらない声で短く答えて出て行こうとしたが、不意につと立ち止まり、しばらく考えこんでから客室のドアを閉めてジュリエットのほうに向き直った。
「そうですね……知っておいて頂くほうが良いかもしれません。けれどこのことは」
「誰にも口外いたしませんわ。お願いですからそろそろもう少しわたくしのことを信頼して頂けません?」
「無理です。先ほどあんなことを仰っておいてどの口が……まあいいでしょう、それで」
「ありがとうございます。あらごめんなさい、気が利かなくて。立ち話をさせてしまうところでしたわね。どうぞお座りになって?」
「恐れ入ります」
二人は窓際に移動し、象嵌が施された瀟洒なティーテーブルを挟んで向かい合って腰かけた。大きなフレンチ・ウインドウは少し開けられていて、小花とつる草が刺繍された柔らかいレースのカーテンが外からの風にそよいでいた。その先は大理石で造られた半円形のバルコニーで、さらに目線を彼方に馳せると、背の高い青草が風の流れに沿って揺れながら美しい波模様を描いている。地上の楽園とはまさにこの場所のことを言うのだろうと、改めてジュリエットは感慨を深くした。マーシャが口を開く気配がしたので、ジュリエットは視線を室内に戻した。
「ご存じだと思いますが、昨年十月のトラファルガー沖での海戦の際、旦那様はとある戦艦の艦長の地位に就いておられました」
「勿論存じております。ネルソン提督の右腕として、大英帝国の国民に閣下の名前を知らない者などおりませんわ。では、その時にお怪我を……?」
『ネルソン提督の右腕』という言葉にマーシャは一瞬だけ誇らしげな表情になったが、すぐまた沈んだ声で話を戻した。
「あの日、旦那様が甲板で指揮を執っておられた時に、運悪く砲弾が直撃したのです。破片で負傷なさらなかったのは不幸中の幸いだったのですが、その時に頭を強く打たれて、意識を取り戻された時にはもう……」
「そうですか……あの、こんな質問が正しいのかわかりませんが、その、また見えるようになる可能性はあるのでしょうか……?」
ジュリエットが遠慮がちに投げた質問に、マーシャは大きな溜息をついた。
「眼そのものを負傷されたわけではなく、頭を打ったことが原因なので何とも言えない、とお医者様は仰っています。ここへいらした当初は全くお見えになりませんでした。最近は光の明るさぐらいはぼんやりと感じられるようになられたようですが、この先もっと回復するのか、それともこれ以上は望めないのか、回復するとしてもそれがいつなのかは、誰にも分かりません」
「お気の毒に……それで、手紙の朗読と代筆ができる人間をお雇いになったのですね」
「ええ。旦那様は大層お怒りになられましたが、背に腹は代えられません。グリーンウッド家が所有しているこの荘園とロンドンのタウンハウスの管理を滞らせるわけには参りませんし、その他にも軍関連や社交なども含めると、日々かなりの数の書簡が届きますから」
ようやくジュリエットにもあの風変わりな求人広告の意味が理解できた。だが依然として分からないことがある。『貴族の女性らしい美しい文章を書ける方』……これは何を意味するのだろう。荘園の管理や軍関連の手紙の返事ならば、むしろ男性的な硬い文章を書く能力のほうが求められるのではないかしら。ジュリエットはそのことを質問しようと口を開きかけたのだが、その言葉はマーシャの冷たい声で遮られた。
「それにしても上手くおやりになられましたね。流石でございますよ」
「あら、何のことでしょうか?」
「わたくしはここで見聞きしたことは何があっても口外なさいませんようお願いしたはずですが。まさかそれをネタに旦那様を脅して滞在の許しを得られるとは」
「脅してなどおりません。それに一週間後、ロンドンに戻ることになってもこのことは決して誰にも申しませんわ。でもお話の流れでそうなってしまったとは言え、少なからずあなたの気を揉ませるようなことを申しましたのは事実ですわね。それについては謝罪いたします。それから……口添えして下さってありがとうございました」
口に出しかけた疑問を飲み込んで、にこやかに謝罪とお礼を述べるジュリエットに、マーシャは今日何度目かのはぁ? という顔になった。
「口添え? 何のことでしょうか?」
「閣下がわたくしのことを承諾した覚えはないと仰った時に、『旦那様は勝手にしろと仰った』と言って下さったではありませんか。心強うございましたわ。あのままでしたらわたくし今頃、この暑い中を街に向かって歩いていかねばならないところでしたから」
マーシャに対して色々思うことはあれど、この言葉は本心だった。図らずもこのいけ好かない小娘に援護射撃を送ってしまったことに今さら気づいたマーシャは、ふん! と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。そしてそのまま、誰に聞かせるでもなく独り言のように静かに呟いた。
「……お目を悪くされて以来、旦那様は抜け殻のようになってしまわれました。この屋敷に閉じこもり、誰にもお会いにならず、使用人すらわたくしと庭師とコック以外はロンドンへ戻しておしまいになって……このままでは旦那様は、お目だけでなくお心までも完全に光を失ってしまわれます。ですからわたくしはバイロン様のご提案に賛成したのです。たとえおいでになるのがあなたのような方だったとしてもね」
「正しいお考えだと思いますわ。マーシャさんは心から閣下のことを敬愛なさっておられるのですね」
マーシャはその言葉を聞くと、目の前に座るジュリエットをまるで今初めて会った人間であるかのような顔で見た。だがすぐにまた先ほどまでと同じ敵意が剥き出しになった声でジュリエットにぴしゃりと言い渡した。
「とにかく旦那様のご命令ですから、この先の一週間はあなた様に契約通りお仕事をして頂きます。けれど、ご自分がただの雇われ朗読係であることは、ゆめゆめお忘れになりませんように。余計なことは一切なさらないで下さいまし。それから……」
「それから?」
「その喪服は脱いで頂きます」
「え?」
思いもよらなかったことを言われて、ジュリエットの鳶色の瞳が大きく見開かれた。だがマーシャは口の端に意地の悪そうな微笑を浮かべて続けた。
「死者を悼むお気持ちのない方の喪服ほど白々しいものはございませんわ。それに旦那様のお目にもよろしくありませんし、屋敷の雰囲気が暗くなります。もちろん必要以上に着飾って頂く必要はございませんが、お立場に相応しい装いをなさって下さいませ。よろしいですね?」
ここまで来てもまだ自分は試されているのだということを察して、ジュリエットは膝の上で両手をきつく握りしめた。マーシャがほら、どうするの? とでもいった表情でこちらを見つめてくる。ジュリエットは覚悟を決めた。
「承知しました。明日からそういたしますわ」
「お願いいたします。ではわたくしはこれで。今日はお疲れでしょうからこのままお休み下さい。夕食はこちらにお持ちいたします」
マーシャは勝ち誇った顔で立ち上がると、申し訳程度に膝を曲げてお辞儀をしてから足早に部屋を出て行った。ジュリエットはそのまましばらく椅子に座ったまま身じろぎ一つしなかったが、やがてゆっくりと手袋を外し、それから顎の下できっちりと結んだリボンをほどいてボンネットを脱ぐと、テーブルに置いてじっと見つめた。
手袋もボンネットも一切飾りはなく、艶のない絹地はどこまでも黒い。あれ以来、一日も欠かさず身に着けてきた喪服を脱ぐという日が思いがけなく早く訪れたことに、ジュリエットの心は揺れた。