第8話 いいだろう、見極めてやる
後になってジュリエットは、なぜあの時突然グリーンウッド将軍とマーシャの会話に自分からずかずかと割り込んでいくなどという、およそ淑女とは呼べない行動に出たのか、その理由をあれこれ考えてみたのだが、ついに納得のいく理由には辿りつけなかった。ただ彼女の中にある、理性や分別といった上品でお利口な感情とは対極にある何かが、それまで息を潜めて生まれ出づるその時を待っていた何かが、不意に言葉という形を借りて独り歩きを始めたのだとしか説明のつけようがなかった。
「え……クインズビー子爵令嬢? まさか、そこにずっといたのか?」
グリーンウッド将軍が声のする方に顔を向けて、驚きを隠せない様子で答えた。その声にジュリエットは我に返り、自分はなんと不躾で不作法なことをしてしまったのかというどうしようもない恥ずかしさがこみ上げてきて、将軍の目に自分の姿は見えていないのにも関わらず頬を赤らめて俯いた。すると将軍がマーシャに向かっていらいらした声で訊ねた。
「マーシャ、これは一体どういうことだ? 確かに先週ダリルがやって来た時に私を補佐する人間が見つかったと言っていたが、私は承諾した覚えはないぞ?」
(そうだったの? でもバイロン様は確かに……)
承諾した覚えはない、という将軍の言葉にジュリエットは首を傾げた。ロンドンを発つ前日、事務所を訪れたジュリエットに推薦状を渡しながら、バイロン弁護士はこう言ったのだが。万事問題ない、と。その言葉にすっかり安心してここまでやって来たのに。つい先ほど、門から牧草地を抜けて屋敷にたどり着くまでに感じた新しい生活への期待もときめきも、一時の仮初めのものでしかなかったというのか。ジュリエットは縋るような目でマーシャを見つめた。もちろんこの忠実なメイドにも全く歓迎されていないことはもう骨身に沁みてわかっていたが、それでも今ここで自分を助けてくれるとしたらマーシャ以外の人物は考えられなかった。
すると思ってもよらないことがおきた。これ幸いと将軍に同意して自分をここから出ていかせようとするだろうと思っていたマーシャがこう言ったのだ。
「旦那様、あの時旦那様はバイロン様に向かって『勝手にしろ』と仰いましたよ。バイロン様はそれを承諾とお取りになったのでございましょう。ですからこれは旦那様の責任でございますわね」
「……確かにそうは言ったかもしれん、だが、だからと言ってよりにもよってクインズビー子爵家の令嬢が……」
「他に手を挙げた方がおられなかったそうですから、致し方ないではございませぬか。それにいずれにせよ、手紙の朗読と代筆は誰かにやって頂かねばなりませんし……まあ、わたくしも不本意ではございますけれども」
よりにもよって。その短い一言がまたしてもジュリエットの胸を抉る。噂はどこまで伝わっているのだろう。ロンドンを離れさえすればと思っていた自分は甘かった。どこへ行っても同じだわ、結局、貴族社会にいる限り、ほとぼりが冷めるなどという都合のいいことは起きないのではないかと、ジュリエットは唇を噛んだ。
だがもう、自分には帰るところはない。わたくしは何としてもここに置いて頂かなければならないのよ。さっきマーシャさんは人手がなくて困っていると言っていたわ、であれば将軍閣下にとってもこの話は損のないことのはず。そう気持ちを奮い立たせてジュリエットが口を開きかけたのとほぼ同時に、グリーンウッド将軍が再びもの憂い投げやりな口調で、今度は明らかにジュリエットに向かって話しかけた。
「失礼、挨拶がまだだった。ロバート・グリーンウッドだ。その……色々と不手際があったようで申し訳ない。それでクインズビー子爵令嬢、」
「ジュリエット、とお呼び下さいませ、グリーンウッド将軍閣下」
「ではジュリエット殿、本題に入ろう。あなたのことは色々と聞き及んでいる。正直、私はあなたに対して良い感情を持っていないし、あなたに私のために何かしてほしいとも望んでいない」
「そうですか。それで、どうなさいますか? わたくしをここから追い返して、こちらにおられるマーシャさんとお二人で手紙の山に埋もれてお暮しになりますか?」
ぐっ、と、悔しそうに将軍が息を呑むのが伝わってきた。ロンドンにいる頃のジュリエットだったら、自分より年上の、しかも軍の要職に就いている男性に向かってこんな生意気な口をきくなど、天地がひっくり返ったとしてもとうてい考えられないことだった。だが今まで聞いた話を総合すると、将軍側にも色々と事情があるのは明らかだ。であれば交渉の余地はある。ジュリエットは必死で頭を巡らせた。
「バイロン様と閣下との間で、何か行き違いがあったらしいということは理解いたしました」
「であれば話は早い。わざわざここまでお越し頂いて恐縮だが、このままロンドンに戻られよ。ダリルには私のほうから正式に断りを入れておく」
将軍のロンドンに戻れという言葉に、ジュリエットは大袈裟に驚いてみせた。あら、わたくしって、こんなに策士だったかしら。思いもよらなかった自分の一面に気づいてどこかおかしくなる。
「まあ、なんということ。でもわたくし、こちらに置いて頂けるものだとばかり思っておりましたので、今日泊まる宿も決まっておりませんの。困りましたわ、どうしましょう。今から街に戻って宿を探すことなどとうてい無理でございますし、ロンドンに戻るにしても、一度父に手紙を出して帰りの馬車を差し向けてもらわなければなりません。それには数日かかりますわ。まさか閣下、か弱い女性に右も左も分からぬ土地で迎えが来るまで一人で過ごせなどと、そんな紳士の風上にも置けぬことを仰るわけはございませんでしょうね?……それに」
ここでジュリエットは一度言葉を止めてから、ここぞとばかりに最後のカードを切った。
「もしどうしてもこのままロンドンへ帰れと仰るのであれば、致し方ありません、わたくしはここで何があったか、父に全て打ち明けなければなりませんわ」
「な……!」
「ジュリエット様!」
将軍の顔がさっと赤くなり、それまで暗く虚ろな沼の底に沈みこんでいるだけのようだった黒い瞳に怒りの炎が宿った。拳を握りしめながら自分に向けられる声が、先ほどまでとはまるで違う、怜悧で実務的な響きを帯びた軍人のものに変わっていることにジュリエットは驚いた。
「俺を脅迫するのか?」
「人聞きの悪いことを。世の中には秘密にしておかねばならぬことがございます。わたくしとて、それぐらいは弁えておりますわ。ですからわたくしは、将軍閣下にお願いしているのです。閣下、閣下が今色々と困っておられるのは動かし難い事実でございましょう? そしてわたくしは雇い主を探している。グリーンウッド将軍閣下、わたくしのどんな噂を耳にしておられようと、わたくしにどんな感情を抱いておられようと構いません。どうか、わたくしがどれだけ閣下のお役に立てるか、少しだけ試す時間を下さいませ。お願いでございます」
そう言いながらジュリエットは将軍に近づき、腰を深く曲げて頭を下げた。彼の目に自分の姿が見えていないことはわかっていたが、それまで染みついた貴族の令嬢としてのたしなみとして、礼儀を欠いた振る舞いをしたくはなかったのだ。
眉間に拳を当ててしばらく考え込んでいた将軍が顔を上げると、ジュリエットの顔をまっすぐに見てニヤリと笑った。その目は何も映していないとはとても信じられないほど、鋭く力強かった。
「いいだろう、一週間だけ時間をやる。その間にあなたという人間を見極めさせてもらおう。……人でなしのジュリエットの噂が正しいか否かを」
「もし一週間経って、やはり噂通りの人間だとご判断された時はどうなさいます?」
将軍は事もなげに答えた。
「心配しなくていい。ほどほどの人物であるという内容の推薦状と馬車ぐらいは用意してやるから、それを持ってロンドンに戻るがいい」
「あら、残念でございますこと。でも生憎ですがその推薦状もわたくしが代筆するのですから、これ以上ないほどの賛辞をこっそり書き足しておけば問題ございませんわね」
ジュリエットがふふっと小さく笑いながらロバートの毒舌に応酬すると、ロバートも投げやりに笑った。
「なかなか面白いお嬢さんだ」
「恐れ入ります」
「マーシャ、客室の用意を。マーシャ?」
「……」
「へ、ん、じ、は、マーシャ?」
この流れはマーシャにとっては全く予想もしていなかったことで、なおかつ一番面白くない結末だっただろう。だが彼女はどこまでも完璧な家事使用人だったので、血が滲むほど下唇をぎりりと噛みしめながら、それでも主に忠誠を示した。
「……かしこまりました、旦那様」
「それでいい。話は終わりだ。疲れた。一人にしてくれ」
光を失った救国の英雄は、そう言い放つと再び寝椅子に横たわって、ジュリエットとマーシャに背を向けた。
立ち上がって窓を閉め、鎧戸を下ろしたマーシャがジュリエットに部屋を出ていくよう、身振りで指示する。ジュリエットはもう一度腰を屈めて将軍にお辞儀をすると、肩をいからせて足早に部屋を出て行くマーシャの後を追いかけた。