第7話 その瞳に映るものは
主の答えを受けて振り向いたマーシャの顔には、ほら見たことかという色がありありと浮かんでいた。だがジュリエットは諦めなかった。だめよ、なんとしても直接お会いして、お話をさせて頂かなければ。わたくしは今までとは違う人生を始めようと強く願って、ここへ来たのだから。……それにここを追い出されたら、今日泊まる宿すらないのだもの。
(もう一度)
(はぁ?)
ジュリエットが声を出さず唇の動きだけでこう頼むと、マーシャは目を剥いて冗談も大概にしろといった表情で答えた。だが彼女自身の主を気づかう気持ちが苛立ちに勝ったのだろう、呆れかえりながらももう一度ドアをノックして声をかけてくれた。ジュリエットはその日初めてマーシャに感謝した。もちろんその前にものすごい目つきでキッと睨まれたけれど、そんなこと今は気にしていられない。
「でも旦那様、そのように閉じこもってばかりおられてはお身体に障ります。今日はお天気も良いことですし、そろそろお部屋を整えさせて下さいまし。それに最近、書類も手紙もかなり溜まってきておりますのはご存じでございましょう? お気が進まないのは分かりますが、とにかくお会いになるだけ会って頂かなければ。わたくし一人ではもう手に負えません」
「……」
「開けますよ。よろしゅうございますね?」
マーシャの少し荒れてかさついた手がドアノブにかかって、ゆっくりとドアが開いた。ジュリエットは緊張で足が震えて、一歩進んだところで絨毯に躓いてよろけそうになってしまった。……しっかりしなさいジュリエット。神様、どうか力を。高ぶる心を抑えるために天井を仰いで小さく十字を切ろうとしたのだが、先に立ったマーシャに目ざとく見つかって、そんなことはいいから早く入れと手で合図された。しかたなくジュリエットは片手を胸に当てて、どうにか淑女に相応しいと評してもらえるであろうほどには静かに淑やかに、部屋の奥へと歩みを進めた。
さほど広くないその部屋の空気は重く湿気を帯びて淀んでいた。数日閉め切られていたのだろう。全ての窓の鎧戸は固く閉じられ、重いビロードのカーテンに遮られて、光は全く入ってこない。ロバート・グリーンウッド将軍はどこにおられるのかしら。療養中とはいえ、こんな気持ちの良いお天気の日に暗闇の中に閉じこもっておられたらますますご気分が塞いでしまわれると思うのだけれど。起き上がるのもままならないほどお怪我が酷いのかと、ジュリエットは心配になった。
だがとにかく部屋が暗すぎて、このままでは家具に躓いてしまいそうだ。まずは暗闇に目を慣らそうと部屋の入口を少し入ったところで立ち止まっていると、勝手知ったるマーシャがその横を通り過ぎて窓のほうへ向かった。ビロードとレースのカーテンを静かに開けて鎧戸の留め金に手をかけた時、悲鳴にも似た声が部屋の奥から聞こえた。
「やめろマーシャ、開けるんじゃない……! やめろ、開けるな、やめ……うっ!」
マーシャがその叫びを無視して鎧戸を大きく開け放つと同時に、去りゆく春の薫りの混じった心地よい風と午後の陽射しが一気に部屋に流れ込んできて、ジュリエットは眩しさに目を細めた。室内の様子が徐々に明らかになってゆく。テーブルも肘掛け椅子もキャビネットもけばけばしくなくあっさりと上品なデザインで、全体にゆったりとした調和が感じられる居心地の良さそうな空間ではあったのだが……なぜかテーブルの上のティーカップやスプーンはソーサーから外れて横向きに転がり、足元の床にはブランケットや室内履きが乱雑に散らばって落ちていた。部屋の突き当りには寝椅子が置かれている。そこに横になっていた人影がのろのろと起き上がろうとしているのが見えた。
肖像画や新聞記事の挿絵で何度も目にしたことのある、燃えるような赤毛と、がっしりした体躯……。
ロバート・グリーンウッド将軍が、そこにいた。
ジュリエットの胸がどきんと早鐘のように波を打つ。
ようやくお会いできた、わたくしの雇い主になってくださる(かもしれない)お方。
だがその時、ジュリエットは何とも言えない奇妙な感覚に捉われた。
待って、何かがおかしいわ。この部屋の違和感はいったい何……。
将軍は上半身を起こすと、差し込む光から逃げるように顔を背け、左手で目のあたりを覆った。そして右手を前に伸ばして何かを掴もうとした。だが、その手は糸の切れた凧のようにゆらゆらと虚しく宙を掻くだけだった。先ほどからジュリエットが感じていた違和感が、むくむくと一つの大きな疑惑に形を変えてゆき、彼女の意識は目の前でもがく男の姿に釘付けになった。
「マーシャ、どこにいる……くそ……なぜだ、なぜ私がこんな……」
「!!」
(まさか……いいえそんな、そんな馬鹿な……)
ジュリエットは首を左右に振って、疑惑を打ち消そうとした。ちょうどその時、グリーンウッド将軍が顔を上げて、彼女のいるほうに視線を向けた。視線を向けた……いや、そうではなかった。
将軍の黒い瞳は虚ろで焦点が合っておらず、すぐ目の前にいるジュリエットの姿も、窓の外に広がる緑の平原も、何一つ映していなかった。
(やっぱり……。なんということ、グリーンウッド将軍は、目が見えておられないのだわ……!)
ジュリエットの全身からさあっと血の気が引いていった。ゆっくりと顔を窓のほうに向けると、マーシャと目が合った。マーシャは小さく首を横に振ってからそっと唇に人差し指をあてて、何も言うなとジュリエットを牽制した。
ようやくジュリエットは全てを理解した。何があっても決して驚くなというマーシャの言葉の意味を。そして朗読と代筆のできる人間を探していた理由を。
「どこだ、マーシャ、そこにいるんだろう? 返事は?」
苛立ちを隠せないグリーンウッド将軍の声が胸に刺さる。ジュリエットは少しだけ冷静さを取り戻すと目線を上げ、マーシャに向かって小さく頷いた。するとマーシャは窓のところからこちらに向かって歩いてきて寝椅子の前で立ち止まり、ゆらゆらと揺れる将軍の右手に軽く触れて、落ち着いた声で言った。
「ここにおります、旦那様」
「窓を閉めてくれ、マーシャ。早く」
「いいえ旦那様、お医者様もあまり長時間暗闇の中にいてはいけないと仰っていたではありませんか。光に慣れることが必要だと。……それと旦那様、ジュリエット・クインズビー子爵令嬢がお見えになっています。バイロン様からお話がありましたでしょう? 手紙の朗読と代筆の件で……」
「代筆係などいらんと何度言わせる! お前まで、お前までそうやって私を厄介者扱いするのか……」
「何度も同じことを言わせないで下さいませ。そんなふうには思っておりません。お腹立ちはごもっともですが、ではこの荘園の管理はどうなさるおつもりなんですか? 税吏は待ってはくれないのですよ?」
「そんなもの、ダリルに任せておけば良い! それより早く窓を閉めろ! 私の命令が聞けないのかマーシャ!」
将軍の言葉はほとんど悲鳴のようだった。明るい光にかたくなに背を向け、片手を額にあてて顔を覆う姿には救国の英雄の面影はどこにもなく、その声はいつ慟哭に変わってもおかしくないほどの悲痛さと憤怒に満ちていた。マーシャは諦めたように立ち上がって鎧戸を閉めようとした。
その時突然、思わず口を開いたジュリエットの声が部屋に響いた。その声は穏やかで淑やかでありながら、凛とした強さに満ちていた。
「ロバート・グリーンウッド将軍閣下、お初にお目にかかります。ジュリエット・クインズビーでございます。どうか少しだけ、ほんの一瞬で構いません、わたくしの声に耳を傾けて下さいませんか。お願いでございます」
「!」
マーシャとグリーンウッド将軍が、ぎょっとした顔でジュリエットのほうを向いた。