第4話 不思議な求人広告
ジュリエットがロンドンを離れる二週間ほど前。
彼女はビジネス街の一角にある落ち着いた雰囲気の弁護士事務所で、初老の男性と向かい合って座っていた。
「ジュリエット・クインズビー子爵令嬢、お年は十七歳……と」
「はい」
「いくつか質問させて頂いても構いませんかな?……おっとその前に、自己紹介が遅れて申し訳ありません。私は弁護士のダリル・バイロンと申します」
質問、という言葉にジュリエットの胸には不安の影が雲のように広がった。だが上目遣いに目の前のバイロン弁護士を見上げると、その目が優しく微笑んでいることに気がついて、ほんの少しだが気分が軽くなった。少なくとも追い返されることはなさそうだ。ジュリエットは呼吸を整えると、短く答えた。
「よろしくお願いいたします、バイロン様。はい、何なりと」
ダリルは頷いて、言葉を続けた。
「新聞の求人広告をご覧になったのですね?」
「はい、こちらを」
そう答えて、ぼろぼろになりかけた新聞の切り抜きをダリルに見せる。ダリルはわかっていますよとでもいう様子で軽く片手を上げると、再びジュリエットに向き直った。
「それでは早速。失礼ですが、子爵令嬢のあなたがなぜこのような求人に応募を? 確かにあなたはこちらの条件にぴったりの方ですが……それに……」
来た、とジュリエットは身構える。だが、この話を逃すわけにはいかない。動揺を気取られないよう、明るく答える。
「色々ありまして、ロンドンを離れたいのです。できればなるべく早くに。ですからわたくしが貴族であることに関してはお気づかい無用でございますわ」
「そうですか」
ジュリエットの答えに納得したのかどうかは分からないが、ダリルはそれ以上追及しようとはしなかった。そこでジュリエットは思い切って自分から質問してみた。
「あの、もしかして他にも候補の方がいらっしゃるとか?」
実はもう他で決まりました、と言われるのをジュリエットは何よりも恐れていた。だがダリルは少し困ったような表情で首を左右に振った。
「いえ、応募して来られたのはあなたお一人です。だから我々も願ったり叶ったりではあるのですが……」
「では、採用して頂けますか?」
「こちらとしては、あなたにお願いできたらと思っております。手紙を拝見させて頂いたが、まさに私達が求めている人物に相応しいものでした」
「そうですか。良かった……」
今日は朝からずっと緊張しっぱなしで胃が痛くなりそうだったが、ようやく安堵の思いが広がる。
「ではバイロン様、わたくしからも質問させて頂いて構いませんでしょうか? あの……わたくしの雇い主はどのようなお方なのですか? お年を召したご婦人の方、とかでしょうか?」
「……」
それまでの和やかな会話から一転して、その場に固い空気が流れた。一瞬の間を置いて、ダリルが再び口を開いた。
「それは、今ここで申し上げるわけにはいかないのです」
「え、でも」
ようやくほっと一息つけたのに、と、再びジュリエットの胸に不安が広がった。雇い主の名前も教えてもらえないなんて、大丈夫かしら。もしかしたら何か危ないところに連れて行かれるのでは……どうしよう、やっぱりお断りしたほうがいいのかもしれない。でも、もうあまり時間もかけられないし、仕事もそうそう選んではいられないわ。わたくしにできる仕事といったら女家庭教師か、身寄りのない老婦人の話し相手ぐらいだけれど、それも今日びはなかなか空きがなくて……。頭の中で色々な考えがぐるぐると渦を巻く。
「ああ、ああ、大丈夫です。ご安心ください。あなたの身に何か危険が及んだり、名誉を傷つけられるようなことは絶対にありませんから。それはお約束します」
ジュリエットの不安な表情を瞬時に察したのだろう、ダリルは慌てて答えた。そして上着のポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭くと、再度ジュリエットと真っ直ぐに向かい合った。
「さて、ジュリエット・クインズビー子爵令嬢。改めて確認いたしましょう。あなたは何らかの理由でロンドンを離れ、仕事に就きたいと思っておられる。対して我々は、その求人広告の条件に相応しいお人を探しているが、あなた以外に応募者はおらず、しかも条件としても何ら問題はない。この認識は合っておりますかな?」
「はい、バイロン様」
「うむ。……確かに雇い主の素性をここで明らかにされないことに対して色々不安に思われることはあるでしょう。それに関しては私も大変心苦しいのですが、事情がありまして、どうしても今この段階で詳しくお話しすることはできないのです。その代わり……と申し上げてはあれですが、私どももあなたのご事情にはこれ以上立ち入りませんし、なるべく早くロンドンを離れたいというお気持ちも可能な限り尊重いたします。いかがですか、引き受けては頂けませんか?」
ジュリエットは膝の上で組んだ手に目線を落として考えた。だが考えたというのは形だけで、実はもう初めから気持ちは決まっていたのかもしれない。今のジュリエットには、一刻も早くロンドンを離れたいということしか考えられなかった。……ここにいる限り、社交界に出ないわけにはいかない。けれど、その度にジュリエットは深く傷つく。皆、表立って彼女を排斥したり声高に非難はしないけれど、そのぶん真綿にくるんだような悪意と好奇心をそれとなくぶつけてくるからだ。ジュリエットが一歩足を踏み出すたびに、ほんの少し手や顔を動かすたびに、どこからかヒソヒソとした囁きが聞こえてくる。それも本人に聞こえるか聞こえないか、絶妙なところを狙いすましたかのように。もう限界だった。
「お引き受けいたしますわ、バイロン様。どうぞよろしくお願いいたします」
ダリルの表情にほっと安心した色が浮かんだ。彼はそのまま立ち上がってジュリエットに握手を求め、頷きながらこう言った。
「そう言って下さると思ってました。ありがとうございます。……あなたなら大丈夫だ」
その後、勤務条件についていくつかの説明があった。
ジュリエットがこれから向かうのは、ロンドンの西にあるバーミンガムとコヴェントリーの中間に位置する、とあるカントリーハウス。館の持ち主が今回の依頼主だが、それが誰なのかは現地に到着してから知らせる。期間は双方の合意に基づいて、特に期限は設けない。契約期間中はカントリーハウスに滞在し、主と同じ館で生活する。給料は年三十ポンド。……家賃と食費がかからないことを鑑みれば悪くない。
ジュリエットは契約書にサインをすませ、晴れ晴れとした表情でダリルの事務所を出た。ロンドンの往来はいつも大騒ぎだ。歩道の端に立って、ジュリエットはもう何度穴があくほど眺めたかわからない新聞の切り抜きをもう一度見つめた。そこにはこう書かれてあった。
「手紙・書類の朗読及び代筆係求む。貴族の女性らしい美しい文章を書ける方。容姿・年齢不問」
それは確かに一風変わった内容ではあったが、なぜかその短い求人広告は一目見た時からジュリエットの心を捉えて離さなかった。雇い主が誰かもわからぬまま、見知らぬ土地へ旅立つことへの恐れも不安も、今のジュリエットを引き留めることはできなかった。不意に突きあげてきた強い気持ちに背中を押されて、彼女はぐっと顔を上げた。
行こう、ここではないどこかへ。この風変わりな求人広告に賭けてみよう。わたくしはもう失うものなどないのだから。