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第23話 望んではいけない

 それから一月あまりの間に、ジュリエットはセシリアになりすまして、二回、ロバートと手紙のやり取りをした。その度にロバートは熱烈な愛の言葉を並べた返事をジュリエットに代筆させ、大英帝国の郵便は届くのが遅すぎると不満を漏らした。


 不思議なことに、ロバートは手紙の出所にいささかも疑問を抱いていないようだった。だがこれは、ひとえにジュリエットの努力にも多分に寄るところがあっただろう。彼女は雇い主とのちょっとした会話の中にさりげなくセシリアの話題を持ち出し、その人となりをロバートに語らせて、巧妙に手紙に埋め込んだ。これはなかなかに骨の折れる作業ではあったし、毎回柄にもなく頬を紅潮させてセシリアを手放しで賛美するロバートを見るたびに、ジュリエットはなぜか胸が締め付けられた。その一方で、救国の英雄グリーンウッド将軍の恋に溺れる姿を知っているのは自分だけだという、不思議な優越感めいたものを感じてもいた。


 ロバートが()()()()に向けて語る言葉は、その豪胆を絵に描いたような人となりからは考えられないほど甘く熱く繊細で、恋を知っている人間ならば誰もが心揺さぶられただろう。ジュリエットはセシリアになりすまして手紙を書いている間だけは、人でなしの悪評に心折れて社交界から逃げ出した貧乏子爵令嬢ではなく、名門貴族ブラウニング侯爵家の誇り高き令嬢としてロバートの前に立つことができる。そして、大英帝国にこの人あり、と(うた)われたグリーンウッド将軍からの燃え盛るような愛を全身で受け止めるのだ。


 これはわたくしに向けられたものではない、と頭では分かっていても、手紙の返事を書くためにはどうしてもジュリエット自身がセシリアとして存在し、思考しなければならなかった。否、ジュリエット自身がそれを望んでいた。……今この瞬間、ロバート様を励まし、魅了し、翻弄し、足元に(ひざまず)かせているのは誰? このわたくしよ、セシリア様ではないわ。セシリア様ならばこう言っただろう、セシリア様ならば、と心に歯止めをかけてペンを走らせているつもりだったのに、ジュリエットはいつしかロバートの想いを、セシリアにではなく自分自身に向けられたものであるかのように思い始め、凍り付いた心がかりそめの恋によって溶かされていくのを止めることができなかった。それは痺れるほど甘美な蜜であると同時に危険な毒を孕んでいる。ジュリエットはその毒にじわじわと侵され、自分の中でのジュリエットとセシリアの自我の境界線が曖昧になっていくことを止められなくなっていた。


 もっとも、これはロバートとセシリア(になりすましたジュリエット)との恋文のやり取りだけが原因ではなかっただろう。この一風変わった関係を続けているうちに、ロバートとジュリエットの間にも奇妙な親密さが生まれていた。


 二人は毎日朝食後、雨が降っていない限りは庭に散歩に出る。ロバートの希望だ。そして夏草の香りに包まれながら他愛もないことを語り合う。一時間ほど過ごすとロバートの私室に戻り、たまった手紙をジュリエットが代読して、ロバートはその一つ一つに指示を与える。そうこうしているうちに昼食の時間だ。さすがにその時はジュリエットもロバートと一緒にテーブルにつくことはせず、厨房のテーブルで一人で食事を済ませる。そして自室に戻ったのも束の間、ロバートから本や新聞を読んで欲しいと頼まれるので、結局ほとんど毎日、図書室で一緒に過ごすことになる。二人の距離が近づくのも無理はなかった。


 ロバートとジュリエットは感性が良く似ていた。ある時、ロバートからシェイクスピアやチョーサーもいささか飽きたと言われて、ふとジュリエットはトランクの中に最近流行の恋愛小説が読みかけのまま一冊入っていることを思い出した。まさか将軍職にあるロバートがそんな俗っぽい恋愛小説などに興味を示すわけがないと思ったのだが、意外にもロバートはそれに食いつき、ぜひ読んでくれとジュリエットに頼んできたので、ジュリエットは驚きながらもその恋愛小説をロバートに読んで聞かせた。


 ところが、その小説は序章から第一章まではとても面白かったのに、結末になると急に尻すぼんで、それまでの伏線をほとんど回収しないままいきなり主人公二人が結婚してめでたしめでたし、で完結してしまった。期待を裏切られたジュリエットは落胆を隠せず、思わずロバートにこんなのとうてい納得できないと感想を伝えると、ロバートはそんな子供のようなジュリエットの反応を笑うどころか一緒になってうんうんと大きく頷き、確かにこれは酷い、自分ならこうするがどう思うかと真剣に意見を言って来た。それでついついジュリエットもわたくしはこうしたいですわなどとお互いに妄想を語り合い、その日一日、ありもしない恋愛小説を作ることに午後の時間のほとんどを費やして盛り上がった。妙齢の紳士と淑女(レディ)が一対一で面と向かって恋愛について語り合うなど、ロンドンだったら顰蹙(ひんしゅく)を買うどころでは済まないというのに。そこには初めて会った時にロバートがジュリエットに向けていた敵意や蔑みといった感情はどこにもなく、むしろセシリアへの恋文を書くという秘密を共有する同志としての、どこか共感めいた感情が生まれていて、それもまたジュリエットの心をざわつかせた。


 もちろんジュリエットは完全に冷静さを失っていたわけではない。ロバートはセシリアには見えない瞳を潤ませて『セシリア……』と想いのたけを込めたとろけるような声で語りかけるが、ジュリエットに対しては常に『ジュリエット嬢』と礼儀正しく、その表情もあくまで柔和でにこやかではあるものの、それ以上の感情がこもることは決してない。だから大丈夫、そこまで身の程知らずじゃないわと、ジュリエットは時々心の中で、いかに自分がセシリアの足元にも遠く及ばないかをあれこれ上げ連ね、あえて劣等感をチクチクと針で刺しては己を現実に引き戻した。


 だいたい、ロバートは雇い主だ。せっかく掴んだこの働き口を手放すわけにはいかない。調子に乗って高望みし過ぎて傷つくのはもう沢山だ。どこにも居場所がないのなら、せめて少しでも心安らかに過ごせる場所を守ることに心を砕かなければ。


 ジュリエットは、ここへ来られて十分に幸せだということは理解していた。ロンドンにいた頃には、自分はもう死ぬまで二度と笑うことも、ひっそりと咲くスミレの花を美しいと感じることもできないと思っていたのだから。だからこそ、これ以上、望んではいけないのだ。……そう、わたくしみたいな人間は、夢は夢のまま、心の奥底にしまっておくぐらいが丁度いいのよと、ジュリエットはロバートを前にして感じる胸の鼓動から目をそらし、恋に恋しているだけだと自分に思い込ませようとした。

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