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第2話 翼をもがれた鳥

 ロンドンを出発して丸一日半、バーミンガムとコヴェントリーの間に位置する場所にあるカントリーハウスの門の前に馬車が停まった。ドアを開けて久しぶりの地面に足を下ろしたジュリエットは、眩しさに思わず目を細めた。


「ありがとう、バート。気をつけて戻ってね。お父様によろしく伝えてちょうだい」

「お嬢様、本当にお一人で大丈夫ですか? やはり心配です。私はここでしばらくお待ちしておりますから、何かあったら無理をせず……」


 子爵家の数少ない使用人で御者兼馬番のバートが心配そうにかけた声を、ジュリエットは途中で遮った。


「いいえ、ダメよバート。あなたの心遣いは嬉しいけれど、わたくしにはもう帰る場所はないわ。どうにかしてここで生きていくしかないのよ。……大丈夫、心配しないで。あなたがここで待っていてくれると思うと決心が鈍っちゃうでしょ?。御者のあなたがあまり長時間家を空けてしまうとお父様がお困りになるもの、早く戻って差し上げて」

「お嬢様……」

「それにほら、今日はお屋敷まで歩くには絶好のお天気よ。せっかくの素敵な景色を楽しませて頂くわ。だからバート……ね?」


 子供の頃からジュリエットのそばでその成長を見届けてきたバートには、その声が震えていることなど当然見抜かれていた。だが、使用人の彼にはどうすることもできなかった。仕方なくバートは帽子の下で一瞬だけ口元を歪ませると、笑顔を作って答えた。


「もう、お嬢様にはかないませんな。でも確かに今日は庭園を散歩するには最高の午後だ。ではお嬢様、私はこのままロンドンに戻ります。どうか、お身体にはお気をつけて」

「ええ。……ありがとう、バート。大好きよ」


 御者台に座ったまま身を乗り出したバートの首に背伸びをして抱きつくと、バートはジュリエットの肩を優しく数回叩き、その後身を離して鞭を振り上げた。馬車がゆっくりと向きを変えて去っていくのを見届けると、ジュリエットは足元に置いてあったトランクを持ち上げて歩き始めた。


 そのカントリーハウスは見たところ敷地はあまり大きくないようだった。石造りの門柱と、細いアイアンで作られた門扉はどちらも苔むしている。門の両側にはしばらく低いフェンスが続き、その先はさりげなく雑木林に繋げてあった。

 ジュリエットは門に近づき、植物模様で飾られた門扉の隙間から敷地の中を覗きこんでみた。なだらかな丘陵地の先に向かって石畳の小道が続いている。その先に噴水と、館の一部が見えた。普通のゲストならここは馬車や馬を使って屋敷まで行くのだろうが、どうやら徒歩でも歩けないほどの距離ではなさそうだ。ジュリエットは少し開いている門扉から敷地の中へそっと身体を滑り込ませた。


 ゆっくりと歩き始める。それほど広くないように見えた敷地は思ったよりも左右に広がっていて、少し離れたところでは数頭の羊が午後の陽射しを浴びながら草を()んでいた。空は高く、ヒバリのさえずりが遠くから聞こえてくる。

 人混みと雑踏とせわしなく行き交う馬車ばかりのロンドン生まれ、ロンドン育ちのジュリエットには全てが目新しく美しく思えて、彼女は時々歩みを止めて足元のキンポウゲの花をしげしげと見つめたり、風に乗って漂ってくる下草の香りを吸い込んでみたりした。


(美しい場所ね、ここは)


 ロンドンを出てからずっと胸を塞いでいた鉛のように重苦しい気持ちが、歩みを進めるに従って風に乗って少しづつその重みを軽くしていくような気がする。黒いボンネットに遮られて目に入る景色は限られてはいたが、ジュリエットは既に心のどこかでここにいたいと願うようになっていた。


 だが瀟洒な噴水の横を通り、屋敷の玄関ポーチに立った時、ジュリエットの心は再び不安で押しつぶされそうになった。


(受け入れて頂けるかしら、わたくしを……《《あの噂》》をご存じでなければ良いのだけれど……)


 しばらく歩いたせいで乱れた呼吸を落ち着けて、ノッカーに手を伸ばそうとしてみるのだが、どうしても踏み出せない。だがいつまでもそうしている訳にもいかなくて、何度がためらった後でジュリエットは思い切って遠慮がちにドアをノッカーで叩いた。


 永遠にも思われる時が過ぎ、屋敷の奥から玄関に向かって歩いてくる重々しい足音が聞こえて、やがてドアが細く開いた。


 そこに立っていたのは一人の女性だった。歳の頃はジュリエットの母と同じかもう少し年上、四十半ばぐらいに思われる。少し白髪が目立ち始めた黒髪をひっつめにして、表情はどこまでも固い。この人が女主人だろうか。初めメイドがしらかとジュリエットは思ったのだが、その女性の服装はメイドのお仕着せでもなく、白いリネンのエプロンも身に着けてはいなかった。薄いグレーのレースの襟のついた紺色の飾りのないワンピースを着て、葡萄酒色のショールを肩にかけている。我に返ったジュリエットは慌てて膝を屈めてお辞儀をすると、ハンドバッグから一通の封筒と、ぼろぼろになりかけた新聞記事の切り抜きをその女性に手渡した。


「ジュリエット・クインズビーと申します。こちらの求人広告の件で……あ、あのっ、これ、紹介状です、弁護士のバイロン様からの。こちらのご当主様にお取次ぎを……」


 女主人(と思しき女性)はじろりとジュリエットを一瞥すると、迷惑そうな様子で封筒を受け取り、一言だけ言葉を発した。


「ああ、《《あの》》……」


 その一言で、ジュリエットは全てを悟ったのだった。

 自分が招かれざる客であることを。


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