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第四章 待ち人はどこに


「リーズ。あなた宛に〈手紙〉を預かってるわよ」

「……私宛に、〈手紙〉? ええっ」


 ジェシカはぴらり、と紙を持ち上げリーズに向ける。

 どういうこと? と首を傾げてしまった。

 リーズが〈魔法使いの手紙屋〉を開店してから二週間。ニナと、彼女の親戚の口コミからぽつぽつと依頼する人が増えてはいるものの、〈手紙〉を書くことはあっても、もらったのは初めてだ。


「だ、誰から? どういうこと……」

「さっき、うちの本屋に来た人が、リーズに依頼があったんですって。いないって言ったら書いて渡してきたわ」


 ねえ、とジェシカは母のクラレットに視線を向ける。「そうね」とクラレットはこっくりと頷いた。


「ええー。へえー……えええー。すっごくドキドキする……わあ、初めての〈手紙〉だあ……」

「そんなに嬉しいものじゃないかもよ?」


 そわそわと両手を開いて出したリーズに、ジェシカは苦笑して紙を渡す。


「……ん?」


 手のひらにのせられたのは、一枚の領収書である。『1200メルト』。領収書の発行先である〈ジェシカの本屋〉の下には、金額が書き込まれている。なにかお支払いすべきなのだろうか……とリーズは無言で混乱していると、「違う違う、裏よ」とジェシカが苦笑している。


「裏? あ……」

「領収書を渡したときにリーズのことを聞かれたのよ。そろそろ戻ると思いますよって言ったらペンを貸せっていわれちゃって」


 伏せて渡したら、表と裏が逆になってしまったらしい。

 紙の裏には、短い文字が書かれている。


 ――『階段にて待つ』


「はあ……」


 なんともいえない、生返事みたいな声が出てしまった。

 これでは〈手紙〉ではなく、ただの〈メモ書き〉である。


「というか、階段って……?」


〈ジェシカの本屋〉の周辺には、至る所が階段だらけだ。というのも、この島はすり鉢状になっていて、周囲を沿うようにぐるりと階段が設置されている。一体どこで待っているというのだろう。


「それなら、あそこじゃないかしら?」


 クラレットが、ふいにリーズに声をかけた。本日はカウンターにてペンを片手に写本をしているらしい。


「わかるんですか?」

「多分ね。この辺りじゃ有名だから。……リーズも、行けばすぐにわかるわよ」





 すぐにわかると言われた場所へ、『本当だろうか』と疑いながら行ってみると、本当にすぐにわかった。すり鉢の一番下に位置する箇所へ降りてみると、人工的に作られた階段ではなく、大きな銀杏(いちょう)の木の根がうねうねと飛び出て、まるで分厚い階段のように重なっている。

 銀杏の見頃はもうひと月ほど前に過ぎたというのに、見渡す限りに伸びた枝からは銀杏の葉がふわふわと落ちて、アップルパイ色の雪でも降っているかのようだ。しかしいくら葉が降っても大して足元に積もっていない理由は、木の根が葉を養分として吸い取っているからだとか。

 浮島の周囲に設置された羽は、大気中に存在する〈魔導力〉をかき混ぜ島を動かす。同時に〈魔導力〉は島に生えた植物を活性化し、不可思議な成長を遂げさせるという。

 季節外れの銀杏の落ち葉が、一年中見ることができる場所。

 近所の人は、その場所を『階段』と呼ぶらしい。

 散歩道としても街の人々に愛されているが、もう少し先に進むと広々とした街を見渡せるような場所もあり露店も出ているらしく、ご飯を楽しむこともできるそうだ。


「あ……」


 そんな温かくも幻想的な風景の中に、ぽつりと誰かが座り込んでいた。その人はこちらに背を向けて、『階段』に腰掛けている。リーズは領収書の〈手紙〉を片手にざくざくと葉っぱを踏みしめ、その人のもとに向かう。


「あの……」


 声をかけると、その人はぴくりと肩を揺らし、持っていたなにかを鞄の中にしまい、すくっと立ち上がった。リーズは一つ上の段で足を止め――おじいさんと、じっと互いに見つめ合った。


「…………」


 本屋を出る前にジェシカから、どんな人が〈手紙〉を残したのかと話を聞いていたが、間違いなくおじいさんだった。それも、眉間に刻まれた皺が、もはや地層のように深く刻まれた厳しい顔をした老人である。

 銀杏の葉が、老人の禿頭にわっさわっさと積もって、すべって、地面に落ちる。


「…………」


 どこを見ていいのかわからず、リーズは顔を動かすことなく視線を左右に泳がせた。


「おい、いつまで高い位置で見下ろしている。年上を敬わんか」

「あっ、ごめんなさい!」


 一段高い『階段』から見下ろしていたリーズは、慌てて下に降りた。並ぶのもどうかと思ったので、今度はそのまま下に移動してみる。これはこれで、なんだか会話しづらいような……。


「隣だ。座らんか。気がきかんやつめ」

「は、はい!」


 そそくさとまた一段上がって、どっすりと木の根に座った老人の隣を、人ひとり分ほどの距離をあけて失礼する。互いに前を向いたまま、わさわさ、ふわふわと落ちる黄色い幕を見つめる。


(えっ……この状況、一体なに……?)


 どうしたらいいの、助けてジェシカ! もしくはクレア! と、この状況を打破してくれそうな、元気な友人たちを思い出す。

 沈黙に耐えきれず、思わずポケットの中にいれたガラスのペンを取り出しそうになるリーズだったが、その前に禿頭の老人がじろりとリーズを睨むように呟いた。


「で、わかったのか」

「はい?」

「これがわしの依頼じゃ。ほれ、わかったろう、さっさとしてくれ」

「あの、まだなにも教えていただいていないんですが……?」

「なんだ、お前は心で思うだけで伝わるんじゃないのか」


 聞いていた話と違うぞ、と老人は不満げに口元でぶつぶつと話している。


(ああ、勘違いをしていただけなのね)


 それならちゃんと互いに話し合えばいい。

 そのために言葉があるのだと、友人たちとの出会いの中で無意識にもリーズは理解していた。

 砂粒のような役に立たないなにかでも、研磨すれば美しいガラスとなる。

 リーズは、しっかりと老人に向き合って、ぺこりと頭を下げた。


「私は心の色を捉えることはできますが、その人が、今、なにを思っているのかということまで、はっきりと理解できるわけではないんです。ごめんなさい」

「ふん。想像よりも不便じゃな。俺はお前の考えはわかるがの。なんだこの鬱陶しいハゲジジイはと思っているだろう」

「思ってませんよ!?」


 自虐的すぎる発言に思わず突っ込んでしまったが、老人は「ふん」とそっぽを向く。


「わしの名前は、ナットじゃ。お前のことは孫から聞いた」

「孫……?」

「孫は、従妹のニナから聞いたと言っていたな」

「ああ! つまりニナのおじいちゃん!」

「今、孫たちは可愛いのになんだこのハゲちびジジイは、と思ったろう」

「思ってませんったら!」


 先日、同僚の結婚祝いに〈手紙〉を送りたいと言っていた黒髪の青年を思い出した。ニナの従兄さんである。


(たしか……ランディさんだったかな?)


 そしてこの老人はランディとニナの祖父、というわけだ。頼られることへの嬉しさでなんだかむずむずして、リーズはぽりぽりと頬をひっかく。


「私はリーズと言います。リーズ・ブロッサムです。お手数をおかけしますが、ご依頼をお伺いできますか?」

「……こいつじゃ」


 ナットは大事そうに抱えていた黒鞄の中に手を入れ、ぱっとリーズの前になにかを差し出す。

 それは精巧な絵だった。

 思わずリーズはぐっと顔を近づけた。絵を相手にすると、どうしても気になってしまう。


「……ただの絵ではなく、〈写実〉魔法ですね?」

「お、おう」


 唐突に雰囲気を変えて淡々と答えるリーズにナットは面食らったようだが、リーズはまったく気づかなかった。

〈写実〉魔法とは〈写し身の魔法使い〉が得意とする特許魔法である。〈写し身の魔法使い〉は高齢のためすでに引退しているが、今は彼が残した魔道具と呼ばれる機械を使い、弟子たちが〈写真館〉という店を経営している。


「うーん、これが〈写真〉……初めて見ました。ペンや筆で描く絵とは全然違う……」

「なにをいきなり言っとるんじゃ! しかも近すぎる!」

「ああっ、もう少し見せてください!」


 絵のことになるとまるで好物を前にした犬のようにはふはふと積極的になってしまうリーズだったが、今はそれどころではない。すぐに我に返って、ぴしり、と居住まいを正した。


「……その写真の方に、〈手紙〉を送りたいんですか?」


〈写真〉に描かれていたのは若い女の人だった。〈写真館〉で撮ったのか、おめかしをしている。

 ナットは気味が悪そうに顔を引きつらせていたが、リーズに問われた言葉に動きを止めて、「ん……」と頷き肯定する。


「これはわしの女じゃ。こいつに、〈手紙〉を届けてもらいたい」


 眉間の皺を深めたまま、ナットはもう一度リーズに〈写真〉を突きつけたのだった。




「……女?」

「そうじゃ、女じゃ」


 リーズは聞き間違いかと瞬いて問いかけてしまった。けれどもナットは、しっかり、はっきりと頷いた。聞き間違いではなかった。


「ええっと……」


 写真の女性は、十代の後半か、二十代そこらだろう。にっこりと優しい笑みでこちらを見ている。けっして目立つような美人ではないが、優しい秋のような愛らしさがある。

 対して、写真を持っているナットは、どう見ても七十歳を越えている。リーズはわずかに仰け反り、即座に顔をそむけつつ目をつむって考えた。ニナとランディさんのお祖父さんということはお祖母さんもいらっしゃるはずで、なのにこの〈写真〉の女性を女というのは、つまり、つまり、つまり……?


「あっ、今は奥様はいらっしゃらない……?」

「いるに決まっているだろう」


 なにを言っているんだとばかりに、ナットは鼻白んで返答する。

 別にそんなにおかしなことを言ったつもりはないのだが、ナットの反応を見ると不安になってしまう。女、つまり、愛人……?


「ううーん、お断りします」

「なっ……! し、仕事じゃぞ。お前は仕事を選り好みするのか!?」

「しますします。だって私は〈ウィスタリア〉の魔法使いです。『働かざる者食うべからず。けれども自身の権利には敏感に。仕事にはプライドを持て』ですから」


 魔法使いの心得である。ただし、リーズのクラスは担任のイザベラの手により、多少のアレンジを持たせた内容になっているが。

 リーズは〈手紙屋〉だ。人様に胸を張ることのできない手紙など出すことはできない。それが彼女のプライドだ。


「なっ、なっ、なっ……! く、うう……」


 しかし、最後の手立てを失ったとばかりに愕然とくずおれるナットを見ていると、わずかながらに仏心が芽生えてきた。


「あのう。そんなに、伝えたいことがあったんですか?」

「……ふんっ。大したことじゃないわい。まったくどうでもいいことじゃわい」


 どう見てもそうは見えないけど、というツッコミはさすがに口を閉ざした。


「そもそも、〈手紙〉とはあれだ。文字なんだろう。お前に伝言するために、試しに書いてみたが、やはり性に合わんわ。文字なんぞ読んでも、ケツがむずむずするだけじゃしな!」

「はあ……」


 ナットは、ぷいっとすねたようにリーズから顔をそらしている。


「あの、じゃあ本屋では、なんの本を購入したんですか?」


 特に深い意味はなく、湧いた疑問を尋ねただけなのだが、ナットは「な、は、ナァ!?」と素っ頓狂な声を出して勢いよく立ち上がった。


「なな、なにを言っておる! わしは、ほ、本などまったくの興味も……!」

「え……だって、〈ジェシカの本屋〉で本屋を買ったんじゃないですか? ジェシカから渡されたメモの裏は領収書でしたし」


『領収書を渡したときにリーズのことを聞かれた』とジェシカも言っていた。渡したということは、カウンターで本を購入した直後という意味だ。領収書に書かれていた金額も、だいたい本一冊分程度の金額だった。


「あと、私が来る直前まで本を読んでましたよね……? 丁度、上から来たのでちらっと見えたんですが……?」


 リーズからすればただそれだけの話なのだが、「し、し、知らん! わしは、知らん!」とナットはぶんぶんと勢いよく首を横に振って否定している。そしてにわかに慌て出して写真を鞄の中にしまい、「興味が失せたわ! 帰らせてもらうぞ!」とばっと背後を振り向く。

 そのまま一歩踏み出そうとして――「ぎゃあ!」「わあ!」つるっと滑った。


(大変……! そうだ、〈泡雲〉……!)


 ふわふわの雲のような泡を生み出す基礎魔法が瞬時に思い浮かんだが、すぐに否定した。

 リーズは勢いよくナットの下に滑り込んで、自分自身がクッションとなる役割を果たした。


「ふわあ!」

「うぐう!」


 お互い痛みと驚きで妙な声が出てしまったが、なんとか無事なようだ。「は~……よかったー……」とナットに踏み潰されつつ安堵の息をつくと、「いやなんじゃこれ!? お前、魔法使いじゃろ!?」と背中の上で驚きの声が聞こえる。


「すみません、私、基礎魔法が使えないんです……」


 へへ、と笑いながら自分でもびっくりするくらいにするりと言葉が飛び出た。

「そ、それは……」ナットは、そろり、そろりとリーズの上から移動する。「すまん、かったな……」

 逆にナットの方が気まずそうに顔をそらしている。

 リーズは小柄だが、ナットも小柄なことは幸いだった。自由になった体で起き上がり、「いえいえ」と首を横に振って、小さく口元を緩ませる。ふわふわの髪の毛が、ぽふぽふ、と揺れていた。


「お互いに怪我がないならよかったです」

「ん……。そうか……」


 どうやら〈色〉を見るところによると、素直な人ではないようだが、それは人それぞれの個性だ。リーズが口出しすべきことではない。


「あの、えっと……それじゃあ失礼しますね」

「ん。わしもさっさと帰るとするか」


 なんともいえない空気だが、〈手紙〉を断った以上リーズにできることはない。

「お先に失礼します……」と、立ち上がったそのときだった。先程ナットがすべった際に、彼の荷物が散らばったのだろう。ああ、鞄が落ちているな……と、つい、と視線を移動させて、同じくナットもリーズの視線の先を追う。ぽつり、と道端に落ちていた本の題名が、はっきりと見える。


『素直に感謝を伝える方法~これであなたもお礼上手~』


 リーズにはあまり馴染みのない本のため、本の表紙を見てもあまり理解できなかったが、ジェシカならこう言うだろう。『まあ、いわゆるハウツー本よ』と。


「お、お前……」

「えっ、なにも見てないです。もちろん見てないです、でもあの、感謝を伝えるというのはとてもいいことだと……?」

「見とるじゃろおおお! 貴様よくもおおお……!」

「うわああん! なにもしていないのに! 本当になにもしていないのにぃ!」


 リーズの記憶を消してやろうとばかりにナットに顔面を掴まれじたばたする。なんだかもうわけがわからなくなってきた。


「あれ、ナットじいちゃん?」

「あなた?」


 そのときである。

 かけられた声の主のもとを、リーズとナットは同時に振り向いた。一人は黒髪の青年。もう一人は品の良い老婦人だ。


「……ランディさん?」

「あれ、リーズさん? なんでじいちゃんと?」


 声をかけてきた主は、つい最近〈魔法使いの手紙屋〉を訪れた青年、ニナの従兄だった。

 なんで、と問いかけられて、「その、なんというか……」と、ごにょごにょと口ごもってしまう。


「……ん?『あなた』って?」


 リーズは瞬いて、ランディの隣に立つ老婦人に目を向けた。それから、ナットを振り返る。

 ナットは、かちんかちんに固まっている。


「……カシュナ」


 ぽつりと呟いたのは、老婦人の名前だろうか。

 名前を呼ばれた彼女は、ぷんっと可愛らしく頬を膨らませた。


「もう。せっかく孫が訪ねてくれたというのにあなたときたら……。いつの間にかいなくなっているんですもの。ランディがお昼を誘ってくれたのよ。ねぇ、あなたも一緒に食べましょうよ。銀杏がとっても素敵よ。デザートに美味しいアップルパイも買おうと思うの。あなた、好きでしょう?」

「……!」

「あなた!?」


 ナットは妻の言葉に返事をすることなく走り去ってしまう。

 リーズは呆然として見送ったが、カシュナにとっては違ったのだろう。「もう、相変わらずなんだから」と肩をすくめるだけだ。


「……あら? これはなにかしら」

「あっ、それは……!」


 鞄の中身と一緒に飛び出したのだろう。先程リーズが見た〈写真〉である。

 カシュナは足元にあったそれをひょい、と拾い上げてまじまじと見つめた。ああ……と、リーズは眼前を覆った。

 別にリーズのせいというわけではないが、一つの家庭に不協和をもたらす可能性を考えると、ぎりぎりと胃の腑が締め上げられるように痛い。と、いっても若い女性の〈写真〉一つで、そこまで察しよく考えはしないだろう。多分。大丈夫、大丈夫……と、ちらりと手の隙間から様子を窺うと、カシュナは目を大きく見開いて〈写真〉を凝視していた。ひえっ。


「あ、あの、カシュナさん、それは本当にただ落ちていただけで、ナットさんとはなんの関係もなく」

「まあ、恥ずかしい。私の若い頃の〈写真〉だわ」

「そう、カシュナさんの若い頃の……え?」

「どうかなさったの?」


 いつの間にか伸ばしてしまった手が空振りのようになってしまって、リーズとカシュナは見つめ合った。


「え? ナットさんの女さんの〈写真〉ではなく、奥さんの〈写真〉……?」

「ナットさんの女さん? というかどちら様なのかしら? ランディのお知り合いなの?」

「いやいやいやいや」


 力いっぱい首を横に振ってごまかすように否定してしまったのは、前半の内容についてである。『わしの女じゃ』とナットが奇妙な言い方をしていたから、思わずうつってしまっていた。


「ばあちゃん。こちら、リーズ・ブロッサムさん。〈魔法使いの手紙屋〉の店主だよ」

「あら、魔法使い様でしたの。ランディがお世話になっております」

「え、あ、はは……。店主というか、一人きりでしているだけですが……」


 頬に手を当てて、可愛らしく微笑むカシュナに曖昧な笑みを向けてしまった。

 それにしても……と、考えた。リーズが勝手に勘違いしてしまっていただけで、ナットが言う『わしの女』とは、自分の妻のことだった。つまり、ナットが〈手紙〉を送りたいと思っているのは……。


「それにしても、あの人ったら。こんな古いものを持ち出して……。撮ったこともすっかり忘れてたわ。今とはもう、ずいぶん違うわねぇ……」


〈写真〉に映っている可愛らしく笑うカシュナは少なく見積もっても五十歳は若いだろう。

 カシューナッツ色の瞳を、わずかに寂しそうに細めた。


「もうしわくちゃのおばあちゃんだもの。誰でもこっちの方がいいに決まっているわよね」

「ばあちゃん……」

「やだやだ、こんなこと言う気はなかったのに。昔のことなんて思い出すもんじゃないわ。リーズさん、うちの人がご迷惑をおかけしたんじゃないかしら? 本当にごめんなさいね、あとで謝りに行かせますから」

「いえ、そんなことは……」


 たしかにいきなりの呼び出しにびっくりはしたが、その程度だ。

 それよりむしろ……と、リーズは口元を押さえるようにして、視線を下にしたままぴたりと動きを止める。


「リーズさん?」

「あっ、す、すみません。ちょっと考え事を」


 訝しげな目をこちらに向けていたランディとカシュナに、慌てて手を振った。「なんでも……」ありません、と言いかけた後で、じっと彼女らを見上げる。

 振っていた手を、ぎゅっと握って覚悟を決めた。体に力を入れたからか、もふりとリーズの髪まで揺れる。


「あのう。カシュナさん、ランディさん、お伺いしたいことがあるんですが……」





「なんじゃお前は。どうしてこんなとこにおる」

「カシュナさんたちに聞きました。ナットさんが、今どこにいるのかって。さすがご家族ですね、ドンピシャです」


 周囲にはナット以外にも、若い男女や小さな子ども連れなどがちらほらといた。

『階段』の散歩道を通り抜けると、広々とした場所に出て、街を見下ろすことができた。甘い匂いがふわりと漂ってくるのは、道の端に出ている露店からだろう。『デザートに美味しいアップルパイを買おうと思うの』とカシュナが言っていたのは、この店のことだろう。

 ふいに、きゅうっとお腹が鳴ってしまったのだが、お昼はまだ食べていないから仕方ない。

 リーズはちょっとだけ顔を赤くさせたが、ナットは聞こえていないのか気にしていない様子だ。


「ほ、本当に美味しそうですね……」

「ふん。食えればなんでもええわい」


 と、言いながらも、ナットもアップルパイを購入しようとしていたらしい。自分の鞄を開いて財布を取り出したようだが、ついでとばかりに鞄の中を確認して眉をひそめて、がさごそと本格的に探し始めている。


「カシュナさんの〈写真〉でしたら、さっき落としてたみたいですよ。カシュナさんが拾っていました」

「なっ……!」


 ナットはぎょっと目を見開く。

 いくら〈色〉がわかっても、ナットのことはよくわからなかった。出会ったばかりの人の心を把握することは難しい。

 なぜなら人は、言葉と心を別々に話すものだから。


「ナットさんは、カシュナさんに感謝の気持ちを伝えたかったんですね」

「……ふんっ。そんなもんじゃないわい。長年一緒におるからの。たまにはと思ったが、やっぱり性に合わんわ。わざわざ言葉に……文字にしてってのは、男がすたるわい。さっきもそう言っただろうが。なんでまた……ああ、呼び出して来てもらたってのにあんたに金を払うのを忘れていたな……」


 取り出した財布からコインを出そうとしたナットに、「いえ、まだ依頼していただいたわけではないので、お金についてはいいんですけど」とリーズは首を横に振る。


「いえ、よくはないんですけど。考えてみると、ナットさんは勘違いをしているのではないかな……と、思いまして」

「……わしが、勘違い?」


 なにをだ、と訝しそうな顔をしているナットを相手に、リーズは力強く頷く。


「そうです。〈手紙〉は文字で伝えるもの……。なるほどたしかにおっしゃる通りです。でも、勘違いをしてもらっては困ります。〈魔法使いの手紙屋〉は、ただの〈手紙〉ではありません。なんせ……」


 ふふ、とリーズは口元に笑みをのせた。勝ち誇ったような顔つきは、普段しない表情なのであまり様にはなっていなかったが。


「私は〈絵手紙屋〉、でもありますからね」


 ぴしり、と宙に指を差した。




 ***




 アップルパイが入った箱をそっと持ち上げ、カシュナは家の中から窓を見つめた。


「まったく、あの人ったらどこをほっつき歩いているのかしら……」


 せっかく買ったほかほかだったはずのアップルパイも、今は冷たくなってしまっている。温め直すことは簡単だが、できたてを食べたかったのだ。孫のランディはカシュナを心配していたが、家に帰るように自分が勧めた。あちらにはあちらの生活があるのだから、いつまでも甘えるわけにはいかない。

 けれど、日が落ちて寒さも深まってくるとどうしても寂しく感じてしまう。

 ……今までたくさんのことがあった。

 カシュナはテーブルにアップルパイの箱をそっと置いて、同時に隣に置かれた〈写真〉に視線を落とす。なにも知らなかった頃の、若かりし自分。先の未来なんてなにもわかっておらず、ただ明るいものだと思っていた。けれど、だからこその、輝かしい笑顔なのだろう。

 愚かしくも、懐かしくも感じる。


「……もう、しわくちゃねえ」


 テーブルに置いた自分の手を見下ろして、苦笑してしまった。

 苦しいこともあったけれど、楽しいこともたくさんあった。けれど時間は残酷だ。

 しんしんと、時間が降り積もっていく。

 寂しさが、雪のように。


「……え?」


 ――果たして、降り積もったものは本当に寂しさなのだろうか。

 淡く、窓の外が光り輝いていた。

 カシュナは驚き、慌てて窓のガラスに片手をのせる。夜の闇の中に、吹雪が舞っていた。

 いいやそんなわけはない。寒くもない、冷たくもない。それはほのかに温かな光を宿して、みるみるうちに窓一面を染め上げていく。

 黄色。秋の色。いや――。


「……アップルパイ色?」





 可愛いおじいちゃんとおばあちゃんになりましょうね、と話したのは、いつのことだっただろう。


『お前はなれるかもしれんが、無茶を言うな』

『あらやだ。私が可愛いと言えばあなただって可愛いのよ』


 きゃらきゃらと大口をあけて笑っているのは、幼いとはいえないけれど、今の自分からすると、子どものような年の少女だ。


『結婚の記念よ! 一緒に〈写真〉を撮りましょう。最近の流行りなんですって』

『面倒だな』


 そう言いながらも、付き合ってくれた。

 恥ずかしがって、一緒に〈写真〉は撮ってくれなかったけれど。


『あなたはなんにもわかってないわ!』

『お前の方がわからずやなだけだ!』


 どうでもいいことや、どうでもよくないことでも、たくさん揉めて、喧嘩した。

 んぎゃー! と、子どもが泣く声が聞こえる。慌てて休戦して、抱っこしに行く。


『ああもう、ついていけないわ! 子どもって、なんでこんなに元気なのかしら!』

『まったく運動不足だな』


 あなただってそうでしょ、とお腹をつまんでやった。

 子どもたちはあっという間に大きくなって、自分よりも背が高くなる。もしかしたら、自分は少し縮んでしまったかもしれない。

 たくさんの不安が小さくなり、子どもの手が離れたと思えば孫が生まれて、喜んで、また不安になって、大きくなる姿を見守って。

 ざあざあと、落葉する銀杏の隙間から、自分たちの姿が見える。

 移りゆく季節のように、たくさんの愛しい日々が流れ、移り変わっていく。





 不思議とぽろりと涙がこぼれた。


「……なんだったのかしら、さっきのは」


 いつしか窓は、小さな星の輝きが見えるだけだ。……銀杏色の蝶が、ひらりと一匹飛び立っていったことにカシュナは気づかなかった。

 指の先で涙を拭って、赤くなってしまった鼻をそっとこする。

 そのときだ。家のドアが静かにあく音が聞こえた。

 明かりもつけていない暗闇では、姿は見えなくとも、しんと冷えた雪の中にいるように音はよく響く。


「……あなた?」

「……わっ、なんだ。こんな暗いところで」


 部屋にいるかと思った、とナットは大げさな程に驚き仰け反った。「ランディが帰った後、なんとなくぼうっとしてたのよ」とカシュナは頬を膨らませて、ぷいっとそっぽを向いた。


「そんなことより、さっきの。あなたでしょう? リーズさん……〈手紙屋〉さんにでも頼んだの?」

「ん、む……」

「もう、あなたったら」


 思わず苦笑してしまった。夫の胸を、ぱちんと小さく叩いてやる。その自分の手は、皺だらけだ。ふと自分の手を見つめた後で、もう一度笑った。


「ただ私のことを可愛いって言いたかっただけでしょう?」


 そうじゃなければ、窓はあんなに愛しい日々を映さない。

 あれは、あの光景は。夫の目を通してみた自身の日々なのだから。

 若い頃も、年をとっても、なにも変わらず、カシュナはきらめいていた。


「な、な、な……」

「……そういえば、あのアップルパイは、あなたじゃなくて私が好きだったのね」


 月明かりでもわかるほどに真っ赤な顔をしているナットの手には、見覚えのあるアップルパイの箱が。自分の夫を見上げて、ふ、と吹き出すように笑った後で力いっぱい彼の胸元に飛び込んだ。


「あなただって、私にとっては、とっても可愛い頑固ジジイよ」





「おい! 〈手紙屋〉! リーズ! 話がまったく違うじゃろうが!」

「ええ、なにがですかナットさん……。ちょっとふらふらなので、今はなるべくお静かにお願いします~……」

「若いもんが、なにを言ってるんじゃい!」


 ぷんすこするナットを尻目に、リーズは本屋のテーブルでぐったりしている。


「なにを言うって……。昨日はああでもないこうでもないってナットさんがジェシカさんに見せたい〈色〉を何度も出させるから……魔法って使いすぎると次の日はちょっとしんどいんですよ」


 具体的にいうと、エールをたらふく呑んだ後の二日酔い、くらいらしいのだが、リーズはまだ酒を呑んだことがないのでよくわからない。

 テーブルにつっぷしつつ、恨みがましげに睨むリーズに対してナットは「うぐ」と後ずさりしたが、「いやそれよりもじゃ!」と語気に力を入れる。その声でさらに顔を歪ませたリーズに、ジェシカがさっと水が入ったコップを渡した。できる少女である。

 リーズはのっそりとコップの縁に口をつけて、ナットの言葉を待った。


「思うだけでは伝わらんと言っておったろう!」

「え、あ、あー……」


 ――私は心の色を捉えることはできますが、その人が、今、なにを思っているのかということまで、はっきりと理解できるわけではないんです。

 たしかにそう言ってリーズは返答した。

 ぐび、と水を飲むと、ちょっとは頭が冴えてくる。


「勘違いですね。それは私にはわからないという意味ですよ……。私にはわからなくとも、心を込めた〈手紙〉は受け取る人には案外伝わるものです」


 ニナの心の色で、彼女のことをクレアが理解したように。

 まあ実際には勘違いしていたのはリーズで、ナットを持っていた〈写真〉を彼の愛人のものだと思い込んでしまったのだが。そこは見ないふりをする。

「ね、〈手紙〉ってすごいでしょう」とにこにこしているリーズを、ナットはしばらく無言で見下ろした。


「うがあ!」

「ひい! やだリーズ、暴れている! 憤っているわ! ジジイの反乱だわ!」

「ジェシカ、さすがにジジイ呼びはとても失礼だよ!」

「お店を破壊しないようにおじじ様が狭い店の中でくるくる踊ってるわ!」

「言い換えてそれ……? いやギリギリセーフ……?」

「っていうか、なんでこのおじじ様はこんなにゆでダコなの? 頭の先までまっかっかよ?」

「奥さんを可愛いと思っている気持ちが、まさかここまで超絶ダイレクトに伝わると思ってなかったんじゃないかな? 結婚記念日が近いし、ふわっと感謝の気持ちが伝わればいいくらいに考えてたのかも。それなら最初から自分の言葉で伝えた方がマシだったかもね」

「お、おま……お前には、わしの気持ちが思うだけでは伝わらんのだろう!?」

「シンプルな感情は伝わります……そうじゃなきゃ、蝶に色をのせて飛ばすことなんてできません。あそこまで大切に想っていたら、伝わるなという方が難しいくらいで……」


 わななくナットに対して静かに首を横に振ると、さすがの彼も諦めたのかそのままくずおれてしまった。大変申し訳ない。


「まあ……いいわい。カシュナから〈手紙屋〉さんに土産を渡せと言われとる……中がくずれてなきゃいいが」

「ああ、アップルパイ。カシュナさんが好きだったのが、いつの間にかナットさんまで好きになっていたというあれですね?」

「だから、もう黙らんかァ!」


 きいっとアップルパイの箱をリーズに押し付けた後、ナットはそのまま本屋を後にしようとした。けれども踵を返して本棚をいくつか物色したあと、仏頂面でカウンターに抜いた本を叩きつける。


「ああ、はいはい」


 さっとジェシカが駆けつけ、お会計を終える。ジェシカが領収書を記載している間、なんとなく手持ち無沙汰な気分になって、ちらちらと視線を向けてしまった。


「ふん、また来る」

「まいど~」


 ちーんっ、とレジスタをあけてジェシカは笑顔のまま見送りの手を振る。

 ナットは無言で帰っていく……と、思いきや、ちらりとリーズを振り返った。


「今度は、自分の口でも伝えるようにしてみせるわい。……あんたの魔法は、なかなかのもんだがな。魔法にばっかり負けてられんわ」

「え、あ、はい」

「まあ、こう思えるようになったのは、あんたのおかげじゃな。あんなに……ばあさんが喜ぶとは、知らんかった」


 そう言って、今度こそ帰っていった。

 ん? とリーズは首を傾げてナットの言葉の意味を考える。感情は理解できても、その人の心すべてがわかるわけではない。

 でも、ナットも、カシュナも嬉しそうだった。

 だからまあ、いいか、と。

 そう思った。全部が伝わらないことが決して間違っているわけじゃないのだから。


「アップルパイ、美味しそう。私も食べたいな……」

「それはもちろん。ジェシカがお皿とフォークを貸してくれるっていうんなら、この場で一緒に食べたいくらい」

「紅茶もつける! おやつの時間はお店も休憩タイムです! そう決めました!」


 元気な声と一緒にぴょんっと跳ねる。〈ジェシカの本屋〉に設置された〈魔法使いの手紙屋〉のスペースは、あっという間に素敵なお茶会の場に早変わりだ。

 ドライフラワーが入ったガラス花瓶を真ん中に置いて、さっぱりとした紅茶と一緒にアップルパイを並べる。サクッとフォークを沈み込ませて、口に含む。リーズとジェシカは互いに無言で下を見つめる。その後、パイを咀嚼して、バタバタとテーブルの下の足を暴れさせた。美味しい、と体全体で叫んでいる。

 煮込んだりんごをパイと焼くのではなく、パイと一緒に生のりんごを焼いているから、ジューシーな果汁が口の中いっぱいに広がる。美味しい、とどっちが最初に呟いたのかわからない。うん、美味しいね、と話しているうちにいつの間にか会話の花が咲いていく。


「ねえジェシカ、そういえばナットさん、最後になんの本を購入されたの?」

「そりゃあお客様の個人情報は秘密です。でも常連さんになってくれそうでなにより」


 にひにひ、とジェシカはフォークを持っていない方の手を掲げて、ちょきちょきと嬉しそうに動かしている。

 リーズの〈手紙〉を通して、一つ、彼の考えが変わったのだろうか。

 そんなふうに考えるのは、おこがましいことかもしれないけれど。


「ねえ、アップルパイを食べて、美味しいねって言って、相手の好きなものが、自分まで好きになってしまうって、なんだか……素敵だね」

「そう? 私はアップルパイ、もともと好きだけど。そんなことを言うんならいつでも付き合ってあげる。美味しいケーキならいつでも大歓迎」

「はは、歓迎されちゃった」


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