第三章 魔法使いたちの日常
〈ジェシカの本屋〉と書かれた隣には、真新しい看板が並んでいる。
木々の枝の隙間から差し込む光の中で、穏やかな風が吹く度に看板の文字が影と光の間で見え隠れする。
「…………」
その様を、口元をもぞもぞとさせて、合わせた両手をもじもじさせている少女がいた。
茶色いふわふわの髪の毛は臙脂色のリボンでしっかりと結んでいる。毎朝きちんと櫛でといてしっかり髪の毛を結ばないと、大変なことになってしまうからだ。
「…………!」
「リーズ、入口でなにをしているのよ」
「んひえっ!」
看板を見て、両手を合わせてぎゅっぎゅっと力を入れて下を向いて、それからまた看板を見て……という行動を延々と続けていたリーズを、じっとりとした目でジェシカは見上げている。
「んひえっ、じゃないわよ。自分で描いた看板をいつまで眺めてるのよ……」
「だって……だってさぁ。……ねえジェシカ。あの蝶のイラスト、どう思う?」
真新しい看板には、〈魔法使いの手紙屋〉と書かれており、その端にはデフォルメされた蝶が舞っていた。
「ちょっと、簡単に描きすぎたかな? もっとしっかり描き込んだ方がよかったんじゃないかな……?」
「そんなことないわ。素敵よ。とっても上手」
「本当に?」
「本当の本当」
「へへへぇ」
リーズは両手を合わせて、こってりと首を横に傾げて緩んだ顔をする。すでにこれは何度目かの会話だが、ジェシカは呆れたようにため息をつくくらいで、根気よく付き合っていた。やれやれ、といった様子で腕を組んで苦笑している。
なんせ、仕事が決まったのだから。
仕事が決まって、一人前として扱われなければ魔法学園は卒業できない。
自分なんてと落ち込むことが多かったリーズだが、やっと一歩踏み出すことができたような気がした。両手を組み合わせるようにして目の前に掲げて、きらきらと目を輝かせる。
「へへ、えへへ、へへ、へへへぇ……」
しかしその感動も長くは続かなかった。最初は喜んでいたはずの笑みも、段々と力ないものに変わっていく。最後はいつの間にか地面に座り込んでいた。そんなリーズを、ジェシカは見下ろした。
「客は来ないけどね」
「う、うう……っ! 頭が痛い……!」
「依頼があれば、リーズがいればリーズに、いなければ私かお母さんが受け付けてリーズに伝えるって仕組みにはなったけど……。お客が来ないのよね。うちの本屋も繁盛してるとは言い難いし」
「う、うう……」
「っていうかそもそも〈手紙屋〉って、なに? って感じだしね。この看板を見ても手の紙ってなによって絶対思う。だからほら、パンチ力がある看板の方が……」
「天才魔法使いは絶対に嫌ァ!!」
全力で拒否した。「って言うわよね~。もう、仕方ないんだから」と、ジェシカは両手を開いてふるふると首を横に振っている。なぜ自分がわがままを言っているような雰囲気になっているのか……? と若干の不本意を感じたが、リーズは黙っておくことにした。沈黙は金なり。
リーズは口をチャックしてじいっとジェシカの後頭部を見下ろした。ジェシカの可愛らしい髪が、ゆらゆらと肩口で動いている。うーん、と唸るように考え込んで、その小さな頭を揺らしているのだ。
「宣伝が……必要かもね」
魔法学園の授業を終えた後も、リーズは椅子に座り込んで、ううんと首と眉をひねって考えた。
「宣伝、宣伝かぁ……」
その言葉はリーズと対極の位置にあるように思えた。
なんせ、一人で黙々と色を作って、絵を描き続けていたリーズである。
しかしなるほど。仕事をするには自分から仕事を勝ち取る必要があるのだ。そうでない人もいるだろうが、大半は違う。口をあけて大人しく餌を待っていても誰も運んではくれまい。
「〈手紙〉、書きます! ん? 書かせていただきます、いや書く、ではなく、描く……?」
こうしてぼそぼそ、ぶつぶつと話して人差し指で眉間をとんとんと叩いて思案していると、大抵途中でストップする。が、今日に限ってはそんなこともなく、リーズの顔がどんどん机に当たるほど近くなっていく。
「ん?」
変だな? と顔を上げた。
「あれ、クレアは? いつもならこの辺りでクレアに話しかけられるはずなのに?」
思考が途中でストップする理由の一つでもあるし、そもそもリーズの気がそぞろですぐに別のことに意識がそれてしまうからなのだが、それは棚に上げて周囲を見回す。
そこには授業が終了したにもかかわらず、机に肘をのせてぼんやりと外を見ているクレアの姿があった。そういえば、今日は一度もクレアと話をしていない。
そうっと近づいてみたが、それでも反応はない。しばらくの間、リーズはクレアの前に立って彼女を見下ろす。
こうしてじっくりとクレアを見てみると、艶やかな黒髪はリーズとは違って癖っ毛一つなくて、すとんと腰まで真っ直ぐに落ちている。鼻筋はすっと通っていて背が高く、指の先まで綺麗に手入れしていて大人っぽい。
クレアが転入して来てからというものあっという間に友達となったリーズだが、自分なんかが友達でいいのかな……? と唐突に不安になってしまう。
けれどいつまでもこうしてぼんやりしている訳にはいかない。
「クレア……? 授業は終わったわよ……?」
「……? ええっ、ほんと!? やだやだ、もしかして時間が飛んじゃった!?」
「よかったいつものクレアだ」
「えっ、なんのこと?」
ほっと胸をさすった。
話しかけると案外お茶目なクレアなのだが、なぜだかクラスメイトからはリーズと同じく遠巻きにされている。リーズは基礎魔法が使えないという負い目もあって自分から周りを避けてしまったのだが、クレアはクレアで事情があるのかもしれない。
どちらにしても少しはみ出したもの同士、どうやら相性がいいらしい。
「考え事でもしてたの? そういえば授業でも何度もイライザ先生に当てられてたね……」
「先生って後ろにも目がついてるのかなって思うよ。そうなの、ちょっとその、前の学校のことで……」
「前の学校?」
「〈音伝〉魔法がね、繋がらないの。転入してくる前の友達とね、ときどき〈音伝〉魔法で近況を報告し合ってるんだけど、繋がらないというか、届いてない感じがするというか……」
「あらまあ……」
リーズは〈音伝〉魔法を使うことができないので、実際の感覚としてはわからないが、たまにそんなことがあるらしい。目的の人物に向けて魔法を飛ばしても、すり抜けるような感覚になってしまうとか。
魔法の不調なのが大半らしいが、どうやらそういうわけではないらしい。
「昨日から何度も使ってるんだけど駄目なんだよねぇ……。うーん、なんでだろ……」
「うーん……」
机に両手をついて一緒に唸ってみたが、残念ながらリーズは力になれそうはない。
形ばかりで悩んでいるのも心苦しく、きょろきょろと視線だけを動かしていると、緑の瞳とばちっと目が合ってしまった。
「……なんだよ、落ちこぼれ」
しばらく幼馴染のセオと見つめ合う形になってしまったのだが、なんと反応すればいいかと考えていると、「ハッ」と鼻で笑われた。セオの短い前髪が、動いた拍子にぱさりと持ち上がりおでこがぴかっと光る。
「…………」
まあ別に、セオのこういった反応はいつものことでまったく気にならないので、無視してクレアとの会話を再開させようとしたが、クレアは苦虫を噛み潰したような顔をして止める暇なくセオに食いかかっていた。
「あんたそういうのやめなさいよ。気持ち悪いわよ」
「は、ア……? き、気持ち悪い……!?」
「だって、リーズは落ちこぼれじゃないでしょ。二つ名まで持っているのよ。いつもいつも絡んできて気持ち悪いのよ。このドチビ」
「ド、どど、ドチビ……!? お前が無駄にでかいだけだろうがのっぽ女!」
「ナイスバディと言ってくれる? アハハンッ!」
悲しいことに背が高いクレアと、平均よりも少し低い背をしているセオは二人並ぶと姉弟のようである。「この、見た目年増が!」と、声が震えているのでやめてあげてほしい。
「こんなチビのことはどうでもいいんだけど」
「よくねぇ! 訂正しろ!」
友人たちと帰宅しようとしていたはずのセオだが、ずんずんとこちらに向かってきてクレアを睨めつけている。が、クレアとしてみればセオとの会話は終了済みらしく、「んー……」と目をつむって口元に細い指をのせている。
なんだかその仕草だけでも絵になる友人なので、ここにキャンバスがあればリーズは筆を持ち上げていたかもしれない。
「あっ、そうだ」
「ん、お!?」
ぱちっと唐突にクレアが目をあけたので、勢いがそがれたセオはから足を踏む。
「直接行って確認してみたらいいのよ! もしかしたら〈音伝〉魔法はちゃんとできているのに向こうの声が聞こえないだけかもしれないし」
「今から別の浮島に行くの? 第二学園区がある島でしょ……?」
「そっか、やっぱりちょっと遠いか……」
複数の浮島が連なり存在する〈ウィスタリア〉だが、隣通しならばともかく二つ、三つと島を挟んで移動するとなるとさすがに距離がありすぎる。いくら魔法使いが使い魔に乗って空を飛ぶことができるといっても限界があるのだ。
「次の休みの日……といっても、五日後かあ……仕事もあるし……」
ううん、と唸っていたクレアだったが、ふと隣にいるセオを凝視した。
「なんだよ……」
セオは生意気な顔のままで眉をひそめる。
クレアの口元は、だんだんにんまりと笑みの形に変わっていく。
「ほんとに、なんなんだよ……?」
「なんで、俺の使い魔を! お前たちのために、出してやらなきゃいけないんだ!」
ごうごうと風が叩きつけるように勢いよくリーズたちにぶつかってくる。前髪がばたばたとひるがえって、頬や鼻の頭がひんやりする。リーズはクレアの腹部分を掴むことに必死だというのに、クレアはきゃあきゃあと両手を上げて竜の背を堪能している。
「うっわー! すっごーーーーい! 高い! うっわー!」
「落ちても知らねぇからな! あと人の耳元で騒ぐな! うるせえ!」
「きゃーーーーー! 楽しーーーー! うっひょーーーーーい!」
「お前は本当に人の話を聞く気があるのか……!?」
第二学園区がある島にたどり着いたとき、セオはがっくりとげっそりを両方合わせたような顔をしていた。いつもはぴんと生えた緑の葉っぱのような色をしているのに、今はどちらかというと土気色の雰囲気である。瓶の蓋にしたコルクのように、肌までかさかさしている感じがする。
セオの竜は地面に降り立ったまま、可愛らしく首を傾げていた。
可愛らしく、とはいったものの三人を軽々と持ち上げた姿は頼りがいに溢れており、ミント色の鱗はつやつやとしていていい色だな、と思う。
かさかさしていたセオは相棒の竜の小さな鳴き声を聞いてすぐに顔を上げ、わずかに笑った。「悪いな」と、竜の首を幾度か軽く叩く。それだけで竜は満足そうにオリーブ色の瞳を細めて甘えるようにセオに首を絡めた。
竜が光の粒子となって消えてしまった後、リーズたちを振り返ったセオはいつもどおりの仏頂面をしていた。
「うるせえから連れてきてやったけど、これでいいだろ。帰りは自分たちで帰れよ。行きの時間を短縮した分、急げば帰れるだろ」
「うん、ありがとう。めちゃくちゃ恩に着る!」
「っていうか、用事があるとか言ってたクレア、お前ならまだしも、なんでリーズまで連れて来なきゃならなかったんだよ」
ため息をついて話すセオの言葉はもっともである。
軽快に話すクレアとセオの二人のテンポについていくのは難しい。
彼らを相手にするとリーズはワンテンポどころかツーテンポは遅くなるので、とりあえず口を閉ざして見守ることにした。
「ええ? セオがいるのに私がいてリーズがいないのは変でしょ?」
「いやどんな理屈だよ」
当たり前だと言わんばかりのクレアに、再度セオはため息をついた。多分セオはクレアに一生勝てないのだろう。
「……まあいいや。それじゃあな」
「えっ。どこに行くの?」
やっと声を出して問いかけたリーズにセオは少しだけ目を見開いたが、すぐに眉間の皺を深めてふふん、と生意気そうに口の端を上げる。
「あのなあ、俺はお前らと違って忙しいんだよ。知ってるか? 俺は運び屋の仕事をしてるんだぜ?〈ウィスタリア〉の荷物を浮島すべて回って届けてるんだ。暇な時間なんてあるわけないだろ?」
「暇でしょ? 今日は仕事はないはずだし。急ぎの仕事がある日はリーズに目もくれずに真っ直ぐ帰るじゃない」
「は、ハア!? クレア、お前なんなんだよ!」
「なんなんだよって、それはこっちの台詞よ。それくらい見てりゃわかるでしょ。毎回毎回こっちが呆れそうなぐらい絡んでくるもの。リーズに絡んでくるってことは、ある程度時間があるんだろうし、今も付き合ってくれてるってことは、非番の日なんじゃないの?」
そうだったのか……とリーズはなんともいえない気持ちになってしまったが、図星だったらしい。セオは腕を組んでぷいっとそっぽを向く。
「うるせえ! 非番ならなんだってんだ! 島を見て回るんだよ! 観光だ観光! 文句あっか!」
「別に文句はないわよ。連れてきたのはこっちだし。好きにしたらいいじゃないの」
「ふんっ、そうさせてもらうぜ」
「でもこの島のことは私の方がわかってるから、ついでに案内してあげるわ」
「もうほんとにお前はなんなんだよ!」
クレアに襟首を掴まれて腕を組んだままずるずると引きずられる姿はさすがに気の毒だった。
そうこう言い争っているうちに、セオも抵抗するのも止めたらしくぶつぶつと文句を口の中で言いながらクレアとリーズの後ろを歩いた。ちらり、と時々振り返って確認すると、じろりと睨まれるので、これ以上は気にしないことにした。
第二学園区がある島――通称第二島の壁付近に降りたリーズたちだが、島の周囲には〈港〉と呼ばれる魔法使いたちが専用に利用する、離陸や着陸を行うための場所がある。万一、使い魔がぶつからないように壁の一部分だけ凹んでおり、さらに島を浮かせている羽もその部分だけは存在しない。使い魔が羽の動きに巻き込まれてしまっては大変だからだ。
足元に煉瓦色の硬い砂が敷き詰められている程度で、あとは飛行の邪魔にならないように近くに大きな建物も存在しない。どの島の〈港〉もだいたい同じような形になっている。リーズは魔法学園に行く以外他の島に渡ることはあまりないので、あまり詳しくないのだが。
そんなシンプルな道を通り抜けている最中に感じたのは、他の島と比べると、どこか薄暗い、ということ。高度が低いために、隣の島の影になってしまっているのだ。
日当たりが悪く植物がほとんど育っておらず、どこか人工的すぎるように思えた。
こんな島もあるんだ、とリーズは驚いてしまったが、クレアとセオは平然と進んでいるので、口を閉ざした。
しばらくそのまま歩いていると、大きな建物――いや、門が見えた。灰色にわずかに赤色が混じったような、ローズグレイ色の石が積み上げられた無骨な門をくぐり抜けたとき。リーズは「あっ!」と声を上げてしまった。
空を塞ぐくらいにたくさんの建築物が、リーズたちを見下ろしている。マッチ棒のように長く細い建物が、縦に、斜めにとそこら中に建っていて、一体どうやって作られたのだろうと考えてもまったくわからない。
「ふふふ。驚いたでしょ。第二学園の初代の魔法学長は〈建築の魔法使い〉の二つ名を持っていたらしいわ。彼が作った建築物は、絶対に崩れない。そんな特許魔法を使用していたんですって!」
「そっか、魔法……! 高い建物が、すごく多いね……!」
「第二島は、他の浮島よりも高度が低いのよね。だから光が遮られて薄暗いんだけど、それならもっと高い場所に建物を建てちゃえばいいんじゃない? と考えたみたい。隣の島の迷惑になるべくならないように建物を細くしたり、斜めにしたり……すごいんだけど、すごすぎてよくわからないわよねぇ」
「……浮島によって特色があるんだから、こんなもんで驚いてんじゃねぇよ」
へへん、と鼻で笑うセオを振り返り、「あんたはいちいち可愛くないわねぇ」とクレアは顔をしかめている。
街を歩いていても、外と日当たりは変わらないどころか、密集する建物のせいで、さらに薄暗い。けれど建物につたう蔦や、道端の煉瓦の割れ目からわずかに顔を覗かせ、こっそり咲いたたんぽぽの花の色は、リーズと知っているものと同じで、明るく、可愛らしい。
街の人々の生活も、住んでいる建物が違うというだけでそう大きくは変わらないらしい。
忙しそうに荷物を持って運ぶ若者。母親と楽しそうに手を繋いでどこかに向かう女の子。難しそうな顔をしてタバコを咥えた老人など、人々はひっきりなしに大通りを行き交っている。
もちろん、魔法使いの姿もある。一緒にいる使い魔はすごく大きな白い鳥だから、セオと同じように運び屋なのかもしれない。
魔法学園に通っているような年頃の子どもたちもいた。リーズの魔法学園のローブは黒に金の刺繍が入っているデザインだが、第二魔法学園ではアイボリー色のローブらしい。あちらもあちらで素敵だな、と少しときめいてしまう。
「うーん、今は丁度、あっちの魔法学園も授業が終わった頃合いよね……。それならこのまま魔法学園に向かった方がいいかしら。セオの観光もついでにするなら、えっと、光の丘に向かった方がいいかな?」
学生たちを横目にクレアは唇に指を添えて考えている。
「もうなんでもいい」
と、セオは諦め気味だが、「〈音伝〉魔法を使ってみたら? 距離が違えば、結果も違うかもしれないし」とリーズは提案した。
「たしかにそうね」
クレアは人差し指と中指の二本を口元近くに立てて、ひゅっと短く息を吹き付ける。
その瞬間、クレアの息に、文字通り色がつく。あけぼの色の薄く長いリボンがくるりと宙に生み出され、リボンは空気に滲んだように消えていく。
通常なら不可視のリボンが互いを送り手と受け手を繋ぎ、音を伝えてくれるのだが、クレアの〈音伝〉魔法は不調だそうなので、結果はあまり期待できない。「んー……」クレアも期待はしていないのだろう。顎を手にのせ、目をつむったまま考え込んでいる様子だ。
「……やっぱり俺、帰ってもいいよな?」
「気持ちはわかるけど、とりあえずクレアの〈音伝〉魔法が終わるまで待っていようよ」
「めんどくせぇなあ……」
「あっ! 繋がった!」
「えっ」
クレアがパッと喜色満面となった瞬間、「あれ……?」と眉をひそめる。「切れちゃった……? そんなことあるの……?」自身の指をじっと見つめて、呆然としている。
「繋がったけど、切れた? おい、それってつまり……」
「でも、すっごく近い! あっち!」
クレアは黒のローブをひるがえした。セオがなにか言いかけたが、無視して走り抜ける。つい先程リーズたちの横を通っていった魔法学園の生徒たちのもとへ体当たりしそうなほどの猛スピードで駆けた。アイボリー色のローブを着た生徒たちがクレアに気づき、互いに視線を合わせてざわめく。
「ニナ!」
その中の一人に向かって、クレアは叫んだ。
アイボリー色の魔法使いたちは一斉に、一人の少女へ視線を向けた。魔法使いたちがクレアを避けるようにぱっと左右に分かれたから、リーズにも少女の姿がよく見える。
肩口よりも少し長い髪の毛の先が跳ねている女の子。同じく癖っ毛のリーズは仲間意識を持ってしまったが、リーズの髪がもふもふなら、ニナと呼ばれた彼女はくりんくりんで、もしこの場にジェシカがいたのなら、『絵本の挿絵で見た猫みたい雰囲気の人』と形容しただろう。
ニナはツリ目がちの瞳をクレアに向け、眉をひそめた。眉を、ひそめた? いや、少し違う気がする。けれど彼女の表情を深く観察する前にニナは勢いよく背中を向けて、クレアよりも素早く、猫のように駆け去っていく。
「ええっ!?」
クレアは驚き声を上げて、その場で二の足を踏んだ。やっとクレアが立ち止まったため、あとから追いかけたリーズとセオもなんとか追いついた。
「え、ええ!? 今の、絶対にニナだったよね? なんで? どうして? なんで今走って逃げちゃったの? っていうか逃げた?」
「さっきのやつがニナかどうかってことは知らねぇけどよ……。お前、〈音伝〉魔法を拒否されていたんだよ」
「〈音伝〉魔法を拒否されてた?」
それってどういうこと? とクレアが瞬く。
何事かと遠巻きにこちらを窺う魔法学園の生徒たちの視線に居心地の悪さを感じているのか、セオは生徒たちを一瞥して、それから早口で説明する。
「魔法使い同士でしかならないし、するやつもあんまりいないから知られてないけど、〈音伝〉魔法は拒否できるんだ。送り手と受け手に距離があれば拒否されたことがわからないくらいにすぐ切れちまうんだが、近くにいたらさっきみたいに最初だけ繋がる。拒否するためには一度繋げなきゃいけないからな」
そう一気に告げられて、クレアは目を白黒させていた。どう返答すればいいのかわからない、という反応のように見える。セオはそんなクレアをしばらく見つめた後で、すうっと息を吸った。それから、止めて。
「つまりニナってやつはお前と話したくないんだ。もう帰ろうぜ」
勢いよく、吐き出した。
セオと向かい合ったまま、大きな目を見開いた。信じられない、という表情のように思えた。
けれどすぐに眉をきっと逆立てて、「嫌よ!」と叫ぶ。
「理由はニナに直接聞くから!」
クレアは使い魔の鷹を即座に呼び出し、助走する。
「おい、あいつはイノシシかなにかか!?」
「こっちに聞かないで! クレアを追いかけなきゃ!」
リーズに向かってセオが叫んだときには、クレアは鷹とともに飛び立っていた。ちなみにセオもリーズも、イノシシを実際に見たことはない。が、急いで追いかけようとしたために、しっかりと前を向いていなかった。リーズは正面を歩いていた青年と強かに体をぶつけ、「ひゃあ!」と悲鳴を上げて尻もちをついてしまう。
「ご、ごめんなさい……」
うろたえつつ顔を上げてぶつかった相手を見ると、ついさっき街で見かけた白く大きな鳥の使い魔を連れた魔法使いだった。やはりセオと同じ運び屋だったらしく、大きな横掛けカバンを肩にかけている。
白い鳥の正体は、近くで見るとペリカンだった。黄色いくちばしの下は特徴的なたるみがあり、リーズと同じくらいの大きさである。ペリカンはぬうっと顔を近づけた。なんだろうと瞬いていると、ぐわあっ、とげっぷのような鳴き声をリーズの眼前で上げる。「ひゃ……」びっくりして、体が勝手に縮こまってしまった。
「おい……」
運び屋の魔法使いはハンチング帽のツバを持ち上げ、そばかずが目立つ顔を歪めてリーズを見下ろし叫ぶ。
「こっちは運び屋だぞ! 大事な荷物を持ってんだ! なに考えてんだよ!」
その勢いに押されたわけではないが、リーズは立ち上がり、一歩後ずさった。この人の近くにいたくない……。そう、自分の意思とは反対に動く体にびっくりした。悪いのはこちらの方なのに。「本当に、すみません。ごめんなさい」と急いで頭を下げる。
「ごめんなさいじゃねぇよ。荷物になにかあったらどうしてくれんだよ、ア? っていうかお前、そのローブ。魔法学園の生徒か?」
男はリーズに近づき睨みつけた。リーズは自身の黒いローブの襟元を無意識に引っ張る。
「リーズ!」
セオが足早にリーズのもとにたどり着き、たたらを踏んだ。
「ハア? セオじゃねぇかよ」
どうしてこの人がセオのことを知っているんだろう、と疑問が湧き上がったのは一瞬だ。セオも運び屋なのだから、知り合いでもおかしくはない。リーズがセオを振り返ると、彼は片眉をひそめたままなにも言わない。
男はそんなセオを見て、ふん、と不満げに鼻を鳴らす。そしてリーズに目線を移動させ、「おいお前」と、指をさした。
「魔法学園の生徒だってんなら、ぶつかる前に〈泡雲〉でも〈風呼〉でも使ってこっちに衝撃がないようにできただろ。もしかして嫌がらせか?」
「あの、私、基礎魔法が使えなくて……」
「は、ハアアア?」
リーズが基礎魔法を使えないことは、クラスメイトたちも教師もみんな知っていることだから、久しぶりの反応だった。けれどクレアやジェシカたちとのときとは違って、なんだか胸の中がもやもやする。
「役立たずじゃねぇか! おいセオ、お前こんな落ちこぼれと一緒にいるのか? いくら最年少で運び屋になったとはいえ、調子に乗ってんじゃねぇだろうな? こんなやつと一緒にいて――」
「リーズ、行くぞ」
「えっ、でも、私がぶつかって荷物が」
「運び屋のカバンは丈夫にできてるんだ。ちょっとやそっとのことで中身が壊れるもんか。あいつもそれくらいわかってるはずだ」
セオはぐい、とリーズの手を掴んだ。
引っ張られ、引きずられるままに進んだが、男はまだリーズたちに向かって飽きずになにかを叫んでいる。振り向いて確認しようとした。「見るな。前を向け」セオが低い声で小さく話したので、慌てて前を向く。それから首を固定するくらいに真っ直ぐ前を見据えて、無意味なほどに背筋をぴんと伸ばし、しゃきしゃきと足を動かす。
ちらり、とリーズを目の端にとどめた後、セオはちょっとだけ笑った。
ちょっとだけすぎて、気のせいかもと思うくらいだった。
セオはすぐにいつも通りの仏頂面に戻った。
「気にするな」
けれど、声は柔らかいままだった。
「ああいう奴だ」
「……うん」
頷いて、返事をした。
しばらく二人はそのまま無言だった。
「まあお前が落ちこぼれってことは事実だけどな」
「……うーん。この小生意気さがセオって感じ」
「うるせえな。それよかクレアだろ」
「クレア、もう姿も見えないよ。どこに行ったかもわからないし……」
どうしよう、とリーズが呟いたとき、セオは立ち止まった。後ろを向いて互いに手を繋ぎ続けていることに気づいたのか、ぱっと手を開いて、無意味なほどに高く掲げる。
なにもそんな嫌そうな仕草をしなくても、と思ったが、口には出さない。リーズもあまり気にしていない。
「行った方向なら、わかる」
手のことは無視して、セオはマッチ棒のような建物が並ぶ隙間を見ていた。
「第二島は建物が隙間なく建ってるからな。トンネルみたいなもんだ。真っ直ぐにその間を飛んでいけばたどり着く」
「飛んでいけばって……私は、蝶だし……」
「俺の竜は逆にでかすぎる。細い隙間もあるだろうから、通り抜けるのは難しい」
それなら無理なんじゃ? というリーズの考えが伝わったのだろう。
セオはにやり、と笑った。いや、どっちかというとにまり、としていたかもしれない。
「いっやあああああああ!」
「叫ぶな、舌を噛むぞ!」
そんなことを言われたってぇ! というリーズの悲鳴は声にもならない。「ぎゃああっ!」ぐるぐると螺旋状に、リーズの体が回った。そのすぐ目の前を建物が通過する。いや、リーズが高速で建物の間を通り抜けているのだ。首根っこをセオに掴まれ、右に、左にとぎりぎりで飛び抜ける。
マッチ棒のようないくつもの細い建物がぐねぐねと曲がったり、真っ直ぐだったりと組み合わさることでトンネルのように繋がり合っているのだ。
「こ、こんなの基礎魔法じゃない! 絶対に違う!」
「基礎魔法だ! 運び屋はどこにでも行くからな! 使い魔じゃ入ることができない狭い場所も、〈風呼〉で風を操って移動する!」
狭い場所じゃなきゃ使えないけどな! とセオは器用に風を操り続ける。猛スピードで駆け抜けていく光景を見送り、絶対に違う! と心の中で再度叫んだ。基礎魔法は個人の練度によって力を変化させる。リーズがまったく使えないこととは逆に、セオの技術は恐ろしいほどに高い。
(こ、ここまですごいだなんて……!)
クラスで一番の優等生。竜を召喚し、最年少で運び屋となった少年。知ってはいたが、まさかこれほどとは――。
「んぎゃっ!」
「よし、見つけたぞっ!」
「もう少し……もう少し丁寧に……」
一瞬意識が飛ぶかと思った。
一応〈泡雲〉でリーズの周囲に雲のクッションを作ってくれているようだが、仰向けの体勢で襟首を引っ張られ、ばさばさとローブが風の中で煽られていた。襟ぐりを必死に持って、不安定な体をなんとか耐えてぎりぎりと首を動かし振り向き、セオが追う先を確認する。
一人はクレア。鷹に吊り下がる形で建物のトンネルを通っている。そして、その先には。
「……ペンギン!?」
白黒の可愛らしい体をぴんと伸ばし、くちばしを前にして疾風のごとく飛び抜ける体の上には、ニナと呼ばれた少女がちょこんと乗っている。今更だけど、魔法使いとはもはやなんでも有りである。
「ニナァ! 待ちなさーい!」
クレアが彼女の名を呼ぶと、ニナはちらりと振り返り、くうっと口元を尖らせた、ように見えた。
「ううう、えいやーあ!」
ニナは振り返って、もふあ……としたなにかをこちらに投げつける。白黒のもふわあ……はみるみるうちに膨らみ、その中から幾本もの針がクレアたちに降り注ぐ。「ぎゃあー!」叫んでいるのはリーズだけである。多分ペンギンの羽毛であるそれは、別にあんまり痛くはない。
ペンギンの羽毛は普段はぺったりとくっついているが、水に濡れると形を変える。〈水玉〉の応用である。
「ああもう、邪魔!」
しかし痛くないにしても猛スピードで進んでいる最中に邪魔なことに変わりない。クレアはくるくると旋回してペンギンの羽毛を避けた。セオも同じく周囲の風を操り避ける。
「べふっ」
建物と建物の間にロープで干された洗濯物が、リーズの体にひっかかり、ばさばさと音を鳴らす。「ああっ、ごめんなさーい!」洗濯物をなんとか剥ぎ取り、視界が明るくなったそのときだ。
(壁に、ぶつかる――!)
眼前に迫りくる建物の壁にはっと目をあけ、リーズは衝撃に備えた。
そうしてリーズが体を固くした瞬間、セオは素早く視線を移動させ、状況を確認する。リーズをぶんっと放り投げ、リーズと壁の隙間に自身の体を滑り込ませる。片足を、壁に着地させた。
「……絶対に、崩れない建物なんだろ?」
力の限り、壁を蹴って跳ね上がる。
リーズを片手で回収し、ついでにクレアを追い越しニナの首根っこも捕まえる。
「逃さねえぞ!」
「い、いやあああーーー!」
ニナは暴れ、ペンギンが宙を飛ぶ。一緒に追いついたクレアが、全員を抱きしめ、鷹が羽ばたく。リーズはこの間ずっと悲鳴を上げていた。
しっちゃかめっちゃかになってしまった彼らが、マッチ棒のトンネルを抜け出したのは同時だった。
唐突にむせ返るような緑の匂いと、目が焼かれそうなほどの真っ白な光が差し込む。
「うわあああ、ぎゃああああ!」
もう誰がなにを言っているかもわからない。ぼんっ、とトンネルから飛び出て、四人と二匹がぐちゃぐちゃになって草原の中を転がった。やっと転がり終わったと思ったときには、みんなへとへとになって息も絶え絶えになっていた。
はあ、はあと肩で息を繰り返し、リーズはふと空を仰ぐ。
「うう……」
あまりにも、眩しい。思わず目を眇めた。暗いところから、いきなり飛び出たからだろうか。明るい光に晒され、目が焼けてしまいそうだ。第二島に来てからというもの、ずっと陰がかかって薄暗かったというのに、そこは黄緑色の細い葉が足元に敷き詰められた、広々とした丘だった。
さわさわと足元で揺れる草が、なにかを語りかけてきているようだ。
真っ直ぐにペンで線を引いたような地平線の向こうには青い海が生き物のように動き、きらめいているのがわかる。浮島の周囲は壁に覆われているので、通常は島から海が見えることは少ない。けれど今いる丘はなだらかに盛り上がっている。浮島の壁よりも高い場所に位置しているのだろう。あまりにも先程までとは違う雰囲気に、目をしぱしぱとしてしまう。
一体ここは、どこなのだろう?
「光の丘っていうのよ。ここは第二島の中で唯一、太陽の光を遮ることなく感じることができる場所なの。〈建築の魔法使い〉が、海が見ることができるように計算して作った丘。たくさんの子どもたちが、明るい光の中で遊ぶことができるようにって……」
子ども好きな人だったみたいね、とリーズの考えを見透かしたようにクレアが小さな声で説明してくれた。
「そうなんだ……」
改めて、その緑と青のコントラストを視界に収めて、綺麗な場所だな、と考えた。
素敵な色だ。
「そんなことはどうだっていいだろ。聞きたいことがあるからここまで来たんだろうが」
リーズたちと同じく地面に尻をついていたセオが、イライラと立ち上がってローブの汚れを叩く。大人っぽい仕草を心掛けているらしいが、前髪がぺろんとめくれ、大きなおでこが見えていつもよりも子どもっぽくなってしまっていることは秘密にしておいた。
「なによ、あんたたち、誰なのよ。いきなり追いかけてきて……」
「私の友達よ」
恨みがましくじろりとこちらを見つめるニナに、クレアははっきりと伝えた。
ニナはなぜだかびくん、と肩を跳ね上がらせた。「ふ、ふうん。そうなの……」隣に転がっていた自身の使い魔であるペンギンを抱き寄せ、そっぽを向く。ぎすぎすしたような、重たい空気だ。ニナに抱きしめられて嬉しそうにしているペンギンだけが、なぜだか場にそぐわない。
ぱたぱた、とペンギンが羽を揺らしている。
「……ニナ、なんで逃げたの? ううん、なんで〈音伝〉魔法を受け取ってくれなかったの? 私のことが嫌いになったって言うんならそれでいい。でも、それならそう言ってほしかった。……でも、言いづらいって気持ちもわかるわ。思わず追いかけちゃったけど、ごめんね。もう〈音伝〉魔法は使わないし、会いにも来ないわ」
「えっ」
立ち上がりながら言葉を伝えるクレアを、ニナはぎょっとして見上げた。
「みんな、帰ろう。付き合わせてごめんね」
背中を向けてリーズとセオに声をかける。「え……」「おう……」曖昧に頷く二人だったが、「ま、待ってよ!」とペンギンを抱きかかえつつ立ち上がる。
「なんで、そんないじわるなこと言うのよ!」
「……いじわる?」
クレアが、形のいい眉を寄せて不愉快そうに振り返った。
「私のどこがいじわるなの? ねえ、ニナ。ちょっとは私の気持ちを想像してくれる? 友達に無視されて、心配して駆けつけたら逃げられて、嫌がられて。恥ずかしいし、悲しいし、腹も立ってるのよ!」
「う、」
ぶるっとニナは震えた。こうして立っている彼女を見ると、随分背が小さい。ジェシカよりも、ちょっと大きいくらいだろう。彼女はみるみるうちに目に涙を溜めた。「泣かないで」クレアが幼い子どもに言い聞かせるように話す。ぴたっとニナは止まった。
「うわあああん!」
大泣きした。「まじかよ……」とセオが呟く声が聞こえる。クレアがため息をついている。
ニナの涙が、抱きしめたペンギンの毛をぽろぽろと伝う。
「いっつもこう……」と、顔を伏せたクレアが、自身の額を押さえている。
「う、あ、う、う、う、うううう~……」
ぐずぐずに泣いたニナは、とうとう座り込んだ。ペンギンをぬいぐるみのように抱きしめたまま、ピクリとも動かない。
「帰りましょう」
「いいのかよ」
「いいの。みんなを巻き込むべきじゃなかったから。本当にごめん」
「今更すぎて、そこはもう気にしてねぇけど……」
ニナを残して、クレアとセオが歩く。「リーズ、行こう」冷たい声をしたクレアが、リーズを呼んだ。――違う。
「違うの……」
「リーズ?」
「クレアは、あけぼの色なの!」
なにを言っているのか、というように、困ったと驚きの間のような表情で、クレアは目を見開いた。リーズには、色が見える。その人の心の色が、その人がなにを考えているということはわからなくても、優しい気持ちがわかる。
世界は、優しさで溢れているのだから。美しい光が降り注ぐ、この丘のように。
「あけぼの色っていうのはね、もぎたての、ぴかぴかのオレンジみたいな元気が出る色で、でも夕焼けみたいな、一日が終わるときに見る寂しい色でもあって……それでも! 夕焼けがあるから、明日も大丈夫ってきっと思える!」
自分の両手を、重ねるように合わせた。怖くて顔を上げることができなかった。
色が見えると、クレアに話したことがある。しかしそれ以上の説明はしたことがない。
ずっと、師匠の魔法の色を知りたかった。あの綺麗な、美しい色を、自分の手で作り出してみたかった。そのことを、師匠以外に伝えたことはない。
きっとこれは、おかしなことなのだと、心の底では思っていたから。
リーズ自身が感じる色など本当はただの幻覚で、存在しないものなのではないかと。他人にそう言われることが怖かった。
『あんたは臆病者だね』
幼い頃に繋いだ魔法使いの――師匠の手は、とても大きかった。
この手があれば、きっとなにがあっても大丈夫だと、そう思えた。
けど、今は師匠はいない。
ぱきんっ……と、心の中で、音が聞こえたような気がした。
まるで、ガラスにヒビが入るような。卵の内側から、雛がくちばしをつつくような。
なにかが生まれる音。
(師匠はいない……ここにいるのは、私だけだ!)
――寂しいと、感じるのは誰の心だろう。
『えっ、クレア……引っ越し、するの?』
学校も、変わっちゃうの? と呆然としたように呟くのは、猫みたいな目をした女の子だ。
言葉が心に届かなくて、舌の上ですべってしまう。やっと喉を通って、呑み込んで、自分の話した言葉を理解したとき、大粒の涙がぽろぽろとこぼれた。嘘だよね、と呟いた。嘘だよね? と今度ははっきり確認した。そうだよ、と言ってほしかったのに、なにを言ってくれなかった。
大丈夫だよ。魔法を使うよ。たくさん声を伝えるし、休みの日には会いに行くから。だから、安心してね。
そう言ってくれた彼女を信じて、猫みたいな女の子は、うんと小さく頷いた。本当は頷きたくなかったけど、困らせたくもなかったから。
自分はいつもすぐに泣いてしまう。
泣きたくないのに、いつも勝手に涙がこぼれる。
こんな自分を相手にしてくれるのはクレアくらいだ。
寂しかったけど、大丈夫と自分に言い聞かせた。たくさん泣いてしまったけど、ちゃんと上手にクレアにお別れを言えたと思う。
夜になると、ベッドに入る前に、クレアと魔法をかけ合う。
今日はこんなことがあったよ。楽しかったよ。明日はいい天気ならいいね。
他愛もない話をして、窓の外を眺めて、お星さまの数を数えた。
綺麗だな、と思う。
でも、寂しいな、と思う。
――今日、新しい魔法学園に行ったの。
そうなんだ、と返事をした。どうだった? と聞いてみた。
つまらなかったと言ってほしかった。
――友達ができたわ!
言葉がつまった。
互いの顔が見えなくてよかった、と思った。
そうなんだ、と頑張って明るい声を作った。本当の顔なんて見せたくなかった。
魔法を繋ぐ度に、自分が知らないクレアになっていく。新しい仕事が決まったこと。友達と夜の学校に七不思議を探しに行ったこと。
そうなんだね、と話す。よかったね、と伝える。
クレアと魔法を繋ぐことは楽しい。早く夜になってほしいと思う。
けれど、魔法を終えた後にぽつんと座るベッドは寂しい。
知らないクレアが増えることが悲しい。
友達の幸せを喜べない自分が、一番悲しい。
視界を染めたガラスの蝶が、泡のように消えて、通り過ぎていく。
「……ニナ!」
ぼろぼろと涙をこぼしたクレアが、転けそうになりながら、ニナに手を伸ばす。
同じように顔をぐしゃぐしゃにしたニナが、母を求める子どものようにクレアの手を探し、ぎゅっと抱き合う。
「く、クレア……わ、私、ごめんなさい。こんな……こんな、気持ちで、クレアと話すことが、嫌で、恥ずかしくて」
「いいのよ。いいの。人にはたくさんの気持ちがあるもの。全部を認める必要なんてない。私こそごめんね。ニナには私がいちゃだめだって。ニナは本当は優しい子なのに、私がいたらきっと甘えちゃうって思ったから、わざと冷たいふりをした」
クレアの胸元に顔を埋めたまま、ぶるぶると首を横に振る。隣では使い魔のペンギンが、心配そうに見上げている。
そんなニナの頭を愛しげになでた後で、クレアはふいに顔を上げた。
「リーズ……今のは、一体なんなの? ニナの気持ちが流れ込んできたように思えた。まるで、その場にいたみたいに、想像ができた……」
「私は、クレアたちがなにを見たのかはわからないけれど、色を見せただけだよ……。ニナさんの色を、蝶からもらって、描いてみたの」
「色を、描く?」
「うん。ニナさんの、心の色を」
リーズの手には、ガラスペンが握られている。きらり、とペンの先が藍色に光るのを、クレアは目を眇めて、眩しそうに見つめた。
「これが、リーズの〈色彩〉魔法……」
聞こえないような小さな声でセオがわずかに口元を動かしたことは、誰も気づいてはいない。
クレアは、なにも言わず、ただ優しくニナの背を叩いた。とん、とん……。
「あのね、聞いてくれる?」
ぽつりと、クレアは呟くように話した。その声はニナだけではなく、リーズたちにも語っていることがわかった。ニナは顔を伏せたまま、クレアに抱きついていた腕にぎゅっと力を入れる。
「私……まあ、今もなんだけど、前の学校で、あまりクラスに馴染んでいなくて……」
それは意外なようにも思えたし、そうでないようにも思えた。明るくフレンドリーなクレアだが、リーズ以外のクラスメイトとはあまり会話はしていない。
「実はね、私、みんなよりもちょっと大人なの」
「え?」
「リーズが私のこと、大人っぽいって言ってくれたでしょ? 大人っぽいじゃないの。本当にそうなの。魔法学園はみんな十四歳で入学するでしょ? でも私は十六歳で入ったわ。あれから一年経っているから、今は十七歳」
リーズは今、十五歳だ。となると、クレアはみんなよりも二つ年上ということになる。
リーズの後ろで腕を組んだまま、口を挟むことなく立っていたセオは「は?」と小さな声を出した。クレアはセオをちらりと振り返り、今度はすぐにリーズを見上げた。
「……秘密にしててごめんね。驚いたよね?」
「え? うん。びっくりはしたけど。そうなんだなあ……って」
納得といえば納得だったので、「そうなんだねぇ」とのほほんと何度か頷くと、クレアはぴたりと動きを止めて目を見開き、ふ、と口元を緩めた。
「そうよね。それくらいの反応よね。……だから私は、リーズと友達になったんだと思う」
「う、うん。ありがとう……」
クレアがなにを言いたいのかわからないが、とりあえず褒めてくれているような気がしたのでなんとなく照れてしまう。
「普通はみんな、〈魔導力〉があるかどうか、もっと小さな頃に確認するでしょ? でも私、どうせ無理だろうなって思ってたから、使い魔を召喚するテストを受けていなくって……。でも、一応確認してみたら? ってお母さんに言われて、そういえばめんどくさがって一回も受けたことなかったなって。それで、試してみたら……」
〈魔導力〉とは、人間一人ひとりの体の中に流れている、もう一つの血液だ。〈魔導力〉がなければ特許魔法どころか、基礎魔法を使用することができないし、使い魔を召喚することもできない。
ぴたり、とそこで言葉を押し留めたクレアの肩に、ばさりと静かに鷹が飛び乗る。
クレアは使い魔である鷹を召喚した。そして魔法学園に入学する権利を得た。
魔法学園は浮島に住む子どもたちの憧れだ。学園に通って、魔法を覚える。子どもなら誰もが一度はその夢を見る。その権利を得たクレアは、迷うことなく学園に入学したのだろう。
「普通なら十四歳で入学するのに、私は十六歳。たった二歳だって思ってたけど、クラスのみんなにとってはそうじゃなかったみたい。前の学校では自分の年を隠していなかったからすごく、うん。すごく、しんどかったな……」
クレアはただそれだけしか言わないが、『あけぼの色』の彼女の心がわずかにくすんだ。きっと、たくさんの辛いことがあったのだろう。
「でも、ニナだけは違った。ニナは、リーズと同じ年齢だけど、ちっちゃくて、よくも悪くも子どもっぽくて、私とは別の意味でクラスに馴染んでなかった。私のこと、お姉さんみたいに頼ってくれたから、私も妹みたいに思ってた」
自分の名前を聞いて、ニナがこっそりとクレアを窺う。ジェシカに読ませてもらった絵本にあった、子猫がぴくぴくと耳を動かしている仕草を思い出してしまう。
「でも、ちょっと心配だった。私がずっと一緒ならいいけど、いつまでもそうじゃないし、ニナだって一人前の魔法使いにならないといけない。引っ越さなきゃいけないって知ったとき、いい機会だと思ったの。これはニナも、私も。一人前になるための、いいチャンスだって」
ニナはぴたっとクレアにくっついて動かない。まるで寝たふりでもしているみたいだ。
「だから、さっきも、わざと冷たいふりをしたの。甘えて、それを受け入れるばっかりの関係じゃだめだと思って。……でも、悲しませたいわけじゃないの。寂しがらせたいわけでも」
ニナを突き放すような態度を取っていても、クレアの心は『あけぼの』色のままだった。
だから、違う、と思ったのだ。
クレアの本当の心は違うのだ、と。
それ以上、クレアは言葉を止めた。きっと話したいことは、すべて話し終わったのだろう。
「……私、も、このままじゃ、駄目だと、思ってる」
唐突に、か細い声が聞こえた。ニナが、か細い声を途切れ途切れに出して、ゆっくりと顔を上げる。
「クレアに甘えてばっかりで、クレアが、自分にとって都合のいいことを言ってくれるのを待って、困ったら泣きじゃくって……。こんなの、駄目だと思ってる。こんな自分は嫌だし、変わりたい。でも、でも、やっぱり寂しい!〈音伝〉魔法を使ってたくさん話して、楽しい気持ちをいっぱいにしても、袋の底に穴があいてるみたいに、すぐにしぼんで消えていっちゃう!」
ニナはぐちゃぐちゃの顔のまま、また泣き出しそうな顔で叫ぶ。
……なんとなくだけど、わかるかもしれない。
リーズもそうだ。空を飛ぶことすらもできない自分は、どうせなにもできない落ちこぼれなのだと、自身を責めるのはもうやめた。けれど朝目が覚めて窓の外を見たとき、どんよりと曇り空だった日は、やっぱり駄目かも、と落ち込んでしまう。
勇気が湧き出るような日もあれば、泣き出したくなる日だってある。
誰もがいつも、自信たっぷりではいられない。
「あ、あの!」
「ひえっ、なによお!」
がばりと飛び抱えるように近づくと、ニナは怯えつつも威嚇する。隣では使い魔のペンギンが両手を上げてファイティングポーズをとっていた。ニナに抱きつかれたままであるクレアは、目をしばたたいている。「そ、その……」ぺとん、とリーズは地面に両手をついた。きゅっと唇を噛む。そろそろ、と近づく。
「私、リーズっていうの。リーズ・ブロッサム。クレアの友達。ねえ……手を、出してくれる?」
「私は……ニナ・カエナ」
恐るおそると伝えると、ニナは訝しげな表情をしていたが、少し考えた後にそろそろと片手を出す。その仕草が可愛らしくて、それから嬉しくて、リーズはわずかに口元に笑みを落とす。
魔法使いにとって名前は重要だ。ニナはきちんと自身の名を名乗った。
持っていたガラスペンはポケットの中にしまって、リーズはニナの小さな手を、きゅっと両手で握りしめた。
「ニナ・カエナ。……たくさんの色を、あなたに」
ニナの手から、リーズの指の隙間から、色とりどりの蝶が溢れる。「ひ、ひゃああ!」ぶわりと膨れ上がるように、ガラスの蝶が羽ばたき、視界を真っ白に染め上げていく。
「い、今の、なに……?」
あっという間に飛び去っていった蝶は、今はもうかすかな羽ばたきの音を耳に残すだけだ。リーズは重ねていた手を、そっと放した。
そこにあるのは、薄い一枚の紙だ。手のひらよりも小さな、長方形の白い紙。
「なにこれ……?」
今度こそ理解ができない、といったようにニナは自分の片手を見下ろしている。
「あの、えっと……私の使い魔は、高い空を飛ぶことはできないけど、自分と同じ重さのものなら姿を変えることができて……」
「え、そうだったの?」
「うん。私がきちんと形や仕組みを理解しているものしか無理だから、紙やインクの色くらいにしか変化できないんだけど」
驚いたようなクレアの声に、リーズは頷く。
そしてニナに、もう一度向き合う。
「〈手紙〉を、書いたらどうかな。自分の気持ちを、ゆっくりと。そして、書いたものをクレアに渡すの」
ペンを手に取り、〈手紙〉を書くとき。きっと人はたくさんのことを考えるだろう。どんな言葉を書けば、相手に想いが伝わるのか。失敗しないように、丁寧に。ときにはイラストを添えてもいい。
そうして書いた時間は、きっと消えてはなくならない。
時間をかけて書いた〈手紙〉は、持っているだけでわくわくして、どきどきするに違いない。
この〈手紙〉が届いたとき、どう思うだろうと想像してしまう。
「……〈手紙〉って? メモみたいに、文字を書くの? それだけ?」
「そ、それだけ……! う、うう……あの、私最近、仕事を始めて……〈魔法使いの手紙屋〉っていうんだけど、でも、この場合は書くのはニナだから、私はなんの仕事も……うう……」
頭を抱えてうめき始めたリーズを見てニナは訝しげな目をしていたが、ちらりと手に持っていた紙に視線を落とし、ちょっとだけ笑った。
「嘘よ。ちょっとだけ楽しそう。〈音伝〉魔法もいいけれど、魔法を終わったときに寂しく感じちゃうときもあるから……。でも、これなら、大丈夫かも。……え? あなたも書いてみたいの?」
ニナの使い魔が「ぺ、ぺ、ぺ」とぱしぱしとヒレのような羽を振っている。どう見ても文字は書くには難しそうな手足だが、足だか羽だかをスタンプのようにするつもりなのだろうか……。
涙で濡れたぐちゃぐちゃの顔でも、使い魔に向かって話すニナの明るい表情は可愛らしい。
明るく澄んだ春の日の空のような、水色の女の子だ。
「でも、書き終わったらどうしたらいいの? もともとは蝶だから、勝手に飛んでいく?」
「え……私が近くにいたら飛ばせるけど、もうただの紙になっちゃってるから……そうだ! セオが、送ってくれるから! あそこにいる子はね、運び屋なんだよ。お願いしたらすぐに来て手紙を届けてくれるよ!」
「ハア!? 俺かよ!」
唐突に話しかけられて、セオはぎょっとしていたが、「まあ……仕事ってんなら、そりゃあするけどさ……」とぶつぶつ呟いている彼は、〈ウィスタリア〉の住人らしく働き者の男の子だ。
案外、大地に住んでいた人々は、こんなふうにして〈手紙〉を届けてしたのかな、と考えてしまう。
「……違うから」
「え」
しかし興味深げに紙を指でつまんでいたニナは、唐突に顔を上げてじろっとリーズを睨んだ。
「違うから。こんな……紙一枚で、私の不安がなくなったわけじゃないから。あなたが……リーズが、私の気持ちを、クレアに届けてくれたから。気持ちが伝わることを知ったら、すごく、安心……したから」
だから。
「ありがとう、ね」
座り込んだまま、こちらに向かって笑うニナの頬に、一粒の涙が流れた。
きらきらと差し込んだ太陽の光が、ニナの輪郭を曖昧にする。こぼれる涙を輝かせる。
どう返事をしたらいいかわからなくて、リーズが瞬いている間に、クレアはがばりともう一度ニナを抱き寄せた。
「私も! 書く! 〈手紙〉! すっごいの書く! それでリーズに届けてもらう!」
「んへ、へへ、へへへぇ……」
すっかりニナはべしょべしょの顔だが、ぐずぐずと鳴らしながら嬉しそうな顔をしている。
「宅配があるんなら、竜のセオって宅配の受付に言えば伝わるぞ。覚えたか? でかい荷物でも小さい荷物でも、懇切丁寧に運んでやる」
そしてセオは律儀にもきちんと仕事の説明をしている。
「……おい」
しかし、唐突に言葉を止めて、おそらくクレアに話しかけた。クレアもそれに気づいたらしく、「なに?」とセオに顔を向ける。
「その、年増って言って……悪かったな。今後は避ける。まあ事実ではあるけどな」
「あんたは謝りたいのか、喧嘩を売りたいのか、どっちかにしなさいよ……?」
「う、う、クレアを馬鹿にしたら、う、う、ぶっ殺すぅ……」
べしょべしょの顔でニナと使い魔はファイティングポーズを取り戦闘態勢に入っている。「やめなさい! 私はそういうとこが心配なのよ!」と即座にクレアが教育的指導を取っていた。
「うう、縊り殺してやるぅ……」
「ペペペペペペッ! カーッ……ペェッ!」
「怖いから! 本当にやめなさい! っていうかもしかして、最後唾を吐いた!?」
可愛らしい見かけには反して好戦的な魔法使いと使い魔のコンビである。
第二島で出会った魔法使いの女の子との話は、これで終わりだ。
ニナはとっても素敵な〈手紙〉を書いた、らしい。
らしい、というのはクレアがそう言っていたから。けれどどんな手紙だったかというのは、詳しくは秘密なままだ。きっと〈手紙〉って、そんなものだろう。
中身を知るのは、お互いだけでいいのだから。
『どんな返事を書こうかしら』と、リーズははしゃいだように笑っていた。完成する日が楽しみだ。
そして、リーズは。
「わ、あ、おお、うお……」
「こんにちは、あなたが〈魔法使いの手紙屋〉のリーズさん?」
「……は、はいいっ!」
自分よりも年上の男の人に『さん付け』で呼ばれる機会なんてそうそうないので、うっかり反応が遅れてしまった。
いつもの〈ジェシカの本屋〉であるはずなのに、見知らぬ人がいるというだけであっという間に、まるで別の場所にいるみたいだ。ちょっとツリ目をした背の高い黒髪の青年は、どこかで会った覚えがあるような気がする。
「黒猫みたい……」
と小さな声で呟いたのは、こっちをこっそりと覗き見しているジェシカ。
(……ん? 猫?)
「リーズさんのことは、ニナに聞いたよ。あ、ニナは僕の従妹なんだけど……」
「ニナのご親戚!?」
そうそう、と青年はにっこり笑う。
「近くに住んでいるなら、行ってみたらと言われたんだ。なんでも〈手紙〉を書くとかいう、不思議なお仕事をしているとか」
せっかくだし僕も誰かに書いてみようかな、と人懐っこい雰囲気はニナに似ているように思えたけれど、同時にクレアのことも思い出した。彼はちょうどクレアと同じ、黒い髪色をしている。
(ニナがすぐにクレアと友達になったのは、この人に似ているからってこともあるのかな……?)
そんなふうに一瞬別のことを考えてしまったのだが、「は……はい!〈手紙〉のお仕事ですね! もちろんお引き受けいたします!」
ぱぱっとポケットからガラスペンを取り出して右手を持ち上げるようにがっつりポーズをつけてしまう。やりすぎた、と思ったのだが、目の前の青年は、ははっと白い歯を見せて笑った。リーズは自分のほっぺたが赤くなっていくのを感じた。
「ええっと、せっかくなのでお話は……」
「カウンター! カウンターと、そこにある椅子を使っていいわよ……」
ジェシカが即座に助け舟を出す。
「カウンターで、伺いますね」
ちらりとジェシカを振り返り、こくこくと頷くと、本棚から顔を覗かせたジェシカが、ぐっと親指を突き出した。
「今度、机とテーブルをセットで準備しとくわ……」
頼りになりすぎる友達だった。
ニナの従兄からの依頼を受け付けるリーズを、ジェシカは不安げに見守っていたが、必死に、けれども丁寧にヒアリングするリーズの姿を見て、ほっと胸をなでおろした。
「リーズの魔法は、すごいんだから。絶対ぜったい、みんな好きになっちゃうんだから。……宣伝、重要ねっ!」
きっとこれからたくさんお客さんが来るわよ、とジェシカはくふふと口元に拳を当てる。ついでにこの本屋も寄ってくれたらいんだけど……とちょっとばかし考えてしまった。〈手紙〉と文字、文字と本は、切っても切れない関係なのだから。
〈手紙〉を好きな人は、本も好きになってくれるに違いない……。と、にやりと思案していたジェシカだが、今はそれどころじゃないわね、と一人でいそいそと倉庫に向かう。さてさて、使っていないテーブルと椅子はあったかな、と思い返して、もしあったら母に許可を取って、本屋の隅に設置しよう、と決めた。それくらいのスペースはあるし、リーズが使わないときは店にある本を読書できる場所にしたっていい。
座りやすいふわふわのクッションを作ったり、本を読みやすいように素敵なキャンドルを飾ったり。「きゃあ!」とジェシカは頬に手を当てて、押し殺した声で喜ぶ。ぴょんっと跳ねる。
そんなことは、リーズは知らない。
けれど、どこか明るい予感があった。
落ちこぼれで、砂粒しか魔法で運べないような役立たずはもういない。
明るい笑顔でペンを持つ、ガラスのようにたくさんの心を映す魔法使い。
リーズ・ブロッサムの、〈魔法使いの手紙屋〉の開店である。