第二章 魔法学園の七不思議
たくさんの本がある。天井まで敷き詰められた本棚の中にはびっしりと本が入っており、なんとなく、いち、にい、さん……と数を数えてしまう。じゅう、じゅういち、じゅうに……。にじゅう、さんじゅう……。三十。ああ、どこかで聞いたことのある数字だ。それはぴったり、リーズの家から師匠がいなくなった日数と同じだった。
リーズは高台にある一軒家に住んでいる。〈ウィスタリア〉には珍しく周囲には建物がないぽつんとした一軒家だ。理由はすぐ近くに浮島を繋ぐ橋があるから。普通の人はよっぽどのことがない限り浮島を渡る際は魔法使いに頼むし、魔法使いは自身の使い魔で空を飛ぶので、橋を渡る必要がない。大抵の住人たちは自身が住みやすい場所を選ぶため、わざわざ利用価値の低い橋付近に住む必要はないというわけだ。
リーズの家のドアをあけると最初に目に入るのが真っ白な巨大な橋だ。
晴れ渡った空を真っ直ぐに伸びる橋はまるで空に昇る虹のようで、空も飛べない魔法使いだと幼馴染のセオにはさんざん馬鹿にはされてはいるものの、実はリーズは、橋を歩いて渡るのは嫌いではない。そんな変わり者の魔法使いはリーズ一人きりではなく、彼女の師匠もそうだった。師匠の場合は橋を渡ることが好きなのではなく、空を渡る橋を見ることが好きなだけかもしれないけれど。
リーズの師匠――カラン・ブロッサムはリーズの養い親でもある。詳しい年は知らないが、リーズが子どもの頃から見かけは変わらない。七十はとっくに過ぎたおばあちゃんのように見えるのに背筋はしゃんとしていて、かくしゃくとしている。元気に見えても年なんだから、と心の中で思った瞬間、いつも拳が飛んでくる。『今なにか生意気なことを考えたね』とか早口で怒ってくる。もっと年相応の落ち着きを持って欲しいとリーズはいつも願っている。
そんな風に行動力に満ち溢れすぎている師匠はときおりなにも言わずに姿を消す。使い魔の烏に伝言を頼むことはあれど、もうちょっと事前に教えてくれたっていいのになと思わなくもない。
「師匠がいなくなってから、ぴったり一ヶ月かあ……今までで一番長いなぁ」
埃たたきを片手に、本棚を見上げながらリーズはぼんやりと呟く。
烏からの伝言を聞いた後、さっさと帰ってくるだろうとたかをくくっていたがまったくそんなことはなく、毎日の食事が適当になるばかりである。烏が『ンカァーッ! ンまいもの、食ワセローッ!』と暴れていた。
もともとリーズは毎日同じものを食べても気にならない。そんなことより絵を描いていたいのだ。
「まあもうちょっとで〈星祭り〉だし、それまでには帰ってくるだろうけど……」
もしかしてどこかで倒れてないかな、と心配する気持ちもむくりと湧き上がったが、「いや、それはないか……」即座に首を横に振った。
あの師匠に限ってそれはないだろう。多分殺しても死なない。
「〈星祭り〉まであと一ヶ月とちょっとか。なんだかんだ言って〈星祭り〉はいつも師匠と一緒に行っているんだよね」
〈星祭り〉とは、リーズたちの祖先である魔法使いたちが大地から空へ飛び立った日を祝ったことが始まりとされている。〈ウィスタリア〉の始まりの日を美味しいものを食べたり、お酒を飲んだりと住民たちで祝うのだが、毎年二つ名つきの魔法使いが持ち回りで盛り上げ役を担当するため、魔法使いの出し物も住人たちの楽しみの一つになっている。今年は誰になるんだろうな、とほわほわと考えてしまう。
リーズも幼い頃は〈星祭り〉の日を心待ちにしたものだ。思い出すのは、手を後ろに回しているくせにしゃきしゃきと動く師匠の姿である。『さっさと行くよ』と夜の街に連れ出されて、人混みの中に混じる速すぎる老婆の動きについていくことができず、おおんおおんと泣きながら両手を暴れさせて必死に師匠のあとを追った。
知っている街でも日が落ちるとまるで別の顔になる。さらに押し流されるほどの大勢の人間の中だ。ここで見失えば、もう一生出会うことはないかもしれないと本気でそのときのリーズは感じていたのだ。
涙と鼻水まみれの必死の形相のまま師匠のワンピースを皺になるほどにむんずと掴んだリーズを前にして、さすがの師匠もなんの文句も言わなかった。逃がしてなるものかとまさに死に物狂いだった。
どう考えても〈星祭り〉を好きになるエピソードではない。
『……夜を知るのも、魔法使いには必要なことだよ』
リーズを叱りはしなかったけど、あのとき師匠はそんなことも言ってたっけ。
「まあ、のんびり待ったらいいかな」
最悪〈星祭り〉は一人で行ってもいいわけだし、と埃たたきを今度は両手で握ってリーズは体ごと左右に振った。
「……さっきからリーズは、なにをぶつぶつ言っているの?」
「ん?」
そして最近新しくできた幼い友人に訝しげな声を向けられた。ジェシカである。
ジェシカは本屋の娘だ。魔法学園を卒業するためにジェシカの本屋で働いていたリーズだったが、一人前の魔法使いになるべく本屋を辞した。そして自身の特許魔法――〈色彩〉魔法に適した仕事を探そうとしていたわけなのだけれど。
「もう! リーズはすぐに別のことに目が行くんだから! 今は本の埃を払う作業! 本は紙なんだから、ちゃんと手入れしておかないと虫に食べられたり、埃がくっついたりですぐに汚くなっちゃうのよ! 一冊いっさつ、棚ごとに丁寧に。わかってる? こらっ!」
……なぜかなんだかんだと、本屋に戻ってきてしまっていた。
自分よりもずっと低い背の女の子に本気で怒られるというのは、なかなか辛いものである。しかも正論で。
「ごめんなさい……真面目に、真面目にします……」
「べ、別にリーズが真面目なのは知ってるのよ。ただこう、集中力がないのよね。考えることが多いというか? ほら、真面目だから、新しく仕事を始めるまでの合間で、うちを手伝ってくれてるんでしょ?」
そう、お願いされた写本の手伝いは早々に終わってしまったのだが、ジェシカの父はまだ出稼ぎから帰ってきていない。近々帰る目星はついているらしいのだが、具体的な日にちはまだ決まっていないらしい。
というわけで、ジェシカの母のクラレットから、たまに顔を出してくれると嬉しい、と言われた言葉を真に受けてひょこひょことやってきてしまったのだ。
「うん……本当はすぐにでも新しい仕事を始めなきゃいけないんだけど……色々考えてて」
ごにょごにょと曖昧な返事をしてしまった。
「うう、はあ……」
立てた目標をクリアできない自身の情けなさに、さらにため息まで出てしまう。
〈ガラスの魔法使い〉なんて二つ名をもらったはいいものの、相変わらず砂粒のままで、ガラスのようにきらきらした輝きに変わるなんて、まだまだできそうにない。
「……別に私は、リーズがいてくれると、う、嬉しい、けど」
「え? ジェシカ。今なにか言った?」
「ちゃんと聞きなさいよ、バカ!」
「ひぎゃっ!」
しぴぴっ! と埃たたきで腰辺りを軽く殴打された。こうして怒りっぽく見えるジェシカだが、実際はそうではないことをリーズはちゃんとわかっている。感情の色を見ることは大得意だからだ。
リーズは、人や、景色を色で捉える。
感覚的に理解する。
けれど――自分の行く先を理解するのは難しい。
しゅん、と視線を落として無言になるリーズを眉根をひそめて見上げていたジェシカは、ふん、と一つ鼻で息をついた。埃たたきを本棚の隣に立てかけて、リーズの手を引っ張る。「え? なに? え?」ほっぺを膨らませたまま、無言でリーズを椅子の隣にまで移動させ、「んっ! んんっ!」とまるで咳払いするように喉を鳴らしてばしばしとリーズの膝辺りを叩いた。なにをされているんだろうか。
「座りなさいって言ってるでしょ!」
「はいっ!」
別に言ってはいない。けどそこで逆らうリーズではない。
店の隅に置かれていた椅子にリーズが座ることで、ぐっとジェシカとの目線の距離が近くなる。正面から睨まれるように向かい合っているうちに、だんだん体が後ずさりして、椅子の背もたれとくっついてしまうような気にさえなってきたとき、「さっさと言いなさいよ」とジェシカが低い声を放つ。
「さっきからため息ばっかり。不安なことは、ちゃんと言葉にしないと。そしたらきっとすっきりするわ」
「でも、本の掃除を……埃を落とさないと」
「今は休憩中よ! 適度な休憩を取ることで、作業効率はアップするって本に書いてたわ!」
読書家のジェシカは店の本の大半を読み終えているらしい。『知らないことを知るってとっても楽しいことなのよ』と本を片手にふふんと胸を張っていたが、リーズには真似できそうにない。「さあ、不安を吐き出しなさい」
不安。師匠が帰ってこないことはいつものことだし、そのうち帰ってくるだろうと思っている。仕事。魔法使いになりたいというのなら、早く仕事を始めないといけない。でも――。
「〈色彩〉魔法って、意味があるのかなって」
「……え?」
「だって、私が運べるのは砂粒程度の重さだけ。使い魔の蝶たちが姿を変えられるのは、自分と同じ重さのものだけだから、変化できるのは紙くらいよ。〈音伝〉魔法があればそれだけで十分なのに、わざわざ紙を使って想いを伝える必要ってあるのかな」
魔法使いなら誰もが使える便利な魔法があるのに、リーズの魔法に頼る意味が思いつかない。
仕事を始めなければいけないのに、本屋に戻ってきてしまった理由はそれだ。
仕事を始めようにも、なんの仕事を始めればいいのかわからないのだ。
「紙を使って想いを伝える……それって、一体なんなの? 本……に近い気がするけど、ちょっと違うし」
うーん、と目を瞑って考え込んでいるリーズは気づかなかった。目の前にいる少女が、ぶるぶると拳を震わせながら、ほっぺたをぱんぱんに膨らませていることに。
「……帰って」
「ん?」
「今日は閉店! 仕事は終わり! さっさと帰って! 出ていって! というか、しばらくは店に来ないで!」
「え、えええ!?」
ぴしゃん、と勢いよく閉ざされてしまった扉を前にして、リーズは呆然と立ち尽くしてしまった。
「ジェシカ、あれは思いっきり怒ってたなぁ……」
怒っていないことがわかるということは、逆に怒っているときは間違いなく怒っているとわかる、ということだ。あけぼの色の心が瞬く間に真っ赤に染まり、今にも破裂してしまいそうなほどだった。いや、ほんのちょっぴり、寂しそうな瑠璃色も混じっていたかも……。
魔法学園の授業が終わったのちも、ぼんやりと思い返して椅子に座り込んでしまう。いつもならこのまま本屋に行くのだが、ちょっと気まずい。
「よし。ほとぼりが冷めるまで、行くのは控えよう」
来るなって言われたし。
さすがのリーズだって何度も怒られたいわけではない。
「仕事のことも、考えなきゃだし……ぎゃっ!」
「やっほうリーズ! あ、ごめんなさい」
立ち上がろうとした瞬間クレアに後ろから飛びつかれたために、思いっきり机に顔を打ち付けてしまった。ひりひりする鼻を押さえて顔を上げると、驚いた顔をしたクレアが口に手を当てており、ついでにその肩に止まっている使い魔の鷹までもが同じようなポーズでリーズを見ていた。なんだか恥ずかしい。
「大丈夫だけど、次からはやめてほしいな。どうかしたの?」
「本当にごめんね。嬉しいことがあったから、ちょっとお誘いしようと思ったの……」
いつもより妙に元気な挨拶だと感じたが、クレアが言う『嬉しいこと』があったからだろうか。「なにがあったの?」と尋ねると、クレアは「んふふ」とどこか意味ありげに微笑む。
自身の口元によく手入れされた爪をとん、とのせる蠱惑的にも映るその姿を見て、リーズは目を大きくする。
「……クレアって、すごく大人っぽいよね」
「あらそう? んふふっ、ありがとう」
「でも話すと意外とそんなことないよね」
「んふふっ、そんなあ!」
褒めているわけでも貶したつもりでもなくただの感想だったのだが、クレアは頬を両手で挟んで照れたように左右に揺れている。「あっ、そうじゃなくてね、嬉しいことよね?」が、ぴたりと止まって、教室の中をこっそりと見回した。
それから、「七不思議よ」と、まるで秘密の言葉を伝えるように、リーズに耳打ちした。
「七不思議……?」と、リーズもつられて小声で話してしまう。
「ねえ、リーズ。魔法学園の七不思議って知っている?」
このとき、クレアは一体なにを伝えようとしているのか、リーズはまったくもってわからなかった。そして、思いもよらなかった。
――夜の学園に、忍び込もうと提案するだなんて。
「魔法学園の七不思議は毎年少しずつ姿も数も変わるらしいわ。七つの年もあれば、八つの年もあるし、逆に数が少ないこともある。学園に通う生徒たちの噂がそのまま七不思議になるのね。今年はちゃんと七つあるんだけど。えっとね、一つ目、見えない階段。昼間の学校にはない階段が夜になると現れる。二つ目。実験室の動く骸骨! これはそのままね。三つ目、声をかけられるトイレ。もよおしている最中に外から入ってますかって何度も声をかけられるなんて最悪よね! 四つ目、中庭の大樹!」
「クレア、とりあえず静かにしよう。ね、静かに。どんどん声が大きくなってるよ」
七つまで話し終えるときにはもっと大きくなりそうだったので、さすがに「しーっ」と自身の唇に人差し指を立ててしまった。「あらっ」とクレアは大きな目を丸くしてぱちっと両手で口元を叩き、きょろきょろと周りを確認する。長い廊下にはずらりと窓が並んでおり、そのすべてはまるで真っ黒な絵の具で塗りたくられたようになにも見えない。
もちろん、人っ子一人いない。
リーズとクレア、そしてクレアの使い魔の鷹は、なんとなく互いに目を見合わせた後にゆっくりと視線を移動させ正面を見つめ、ごくっと唾を呑み込んだ。
夜の魔法学園。その言葉だけで、どきどきしすぎた心臓が口から飛び出してしまいそうだ。
わずかに見えていた月が雲に隠れ、自分自身の影すら闇と一体となってしまったような、そんな気にさえなってくる。空気がずっしりと重たい。
『私、怖い話が好きなの』
昼間の教室で元気にクレアが話していたことだ。
『この学園にも七不思議があるって聞いて、もういてもたってもいられなくなって! わくわくするわ、たまらないわ! ね、リーズ。一緒に夜の学校に忍び込みましょうよ!』
夜空のような黒い瞳をきらきら輝かせるクレアの勢いに押されるように頷いてしまったが、実はちょっと後悔し始めていた。
学園に忍び込むことは決して褒められた行為ではないし、リーズ自身、さして怖い話が好きなわけではない。興味がないかといえば嘘になるが、その程度だ。
ちょっとため息をついて、「ねえクレア……」と、話しかけようとしたのだが。
「あわわわわ、なにも見えないなにも見えない」
クレアはリーズの隣でばたばたと両手を動かして目を回していた。クレアの肩に乗っている使い魔の鷹も、はわわわわと一緒に暴れている。
「こ、怖い怖い怖い! 夜怖い!」
「え、えええ……」
「夜は駄目なの、鷹は目がいいけど昼間だけで、夜は普通の人間と一緒なんだから! いつもは見えてる分、無理なの駄目なの!」
「お、落ち着いてクレア。わかったから。ばたばたしないで!」
ぱちっとリーズが指を鳴らした途端、リーズの周囲にはガラスの羽を持つ蝶が生み出された。
ぱきん、ぱきん、ぱきん……。壊れそうなほどに薄く、繊細なガラスの蝶が羽ばたく度にきらきらと鱗粉が輝き、まるで星屑の海のように学園の廊下が紺色の夜のヴェールをまとって輝く。そうして一瞬にして変わってしまった景色を、クレアはリーズの服の襟ぐりを引っ張ったまま、ぽかんと見上げた。
「すごく、綺麗……」
「よかった。落ち着いた?」
「うん……ごめんね、私、怖い話は好きなんだけど多分人一倍怖がりで……前の学園でも友達と夜に忍び込んだことがあるんだけど、そのときもすごく迷惑をかけちゃって……」
「好きでも苦手なことはあってもおかしくないからね。でも本当に好きなんだね……。というか前の学園でも七不思議の確認をしちゃったんだ……」
苦笑しながらクレアの手を優しく叩くと、クレアはわずかに頬を染めて、ぱっとリーズのローブから手を離した。そんな彼女を見て、リーズはちょん、と口元に人差し指をのせる。
「じゃあ、こっそり、ゆっくり探検しよう。もし不思議なことがあっても、決して見逃さないようにね」
「……うん!」
ガラスの蝶に案内してもらうように、リーズたちは学園内を探検した。
ぐるぐると、どこまでも続くような、見上げんばかりに高い階段。一面が葉っぱだらけの教室の真ん中にぽつんと湧き出ている不思議な泉。月は雲に隠れているはずなのに、なぜか正面から見ると月が映るという奇妙な丸窓。
いつの間にかリーズはクレアと手を繋いで校舎の中を歩いていた。リーズには年が近い友達はいない。昔は友達もいたけれど、学園に入ってからは基礎魔法も使えない落ちこぼれとしてなんとなくクラスメイトたちとは距離ができてしまっていた。
だから手をクレアと手を繋いでいることに気付いたとき、少しだけ照れてしまった。
でも気づかないふりをしてぎゅっと手を握った。
「実験室の骸骨が動いたのにはびっくりしたわ! ああ、噂通りね、すごいわ……! でも次も同じことがあったら多分私逃げちゃうかも」
「クレア、すごくびっくりしてたものね。でも骸骨が動いたというより、部屋の重力がふわふわしていたみたいだったけど」
昼間に利用した時はなんてことない部屋だったのに、月が出る時間はおかしくなってしまうのだろうか。昼と夜で、まったく別の場所に来ているみたいで不思議だ。
最初はあれほど怯えていたはずなのに、今は学園の廊下を探検気分で歩いている。
クレアの使い魔の鷹も楽しそうにぱさり、ぱさりと羽を動かして「クックック、ケッケッケッケ」と鳴いていた。意外な鳴き声である。もちろんクレアも一緒に笑っていた。
「骸骨がちゃんと動いたってことは、他の七不思議もあるってことよね。そうだ、七不思議は全部話せてなかったよね。最近新しく噂されている七不思議はね、なんと謎階段! 元学園長室の近くの階段を上ると見知らぬ部屋に繋がっていて、その部屋に入った人はこの世から消えてしまうのよ……」
リーズの手を離して一歩進んだクレアは、くるんっとその場で回転して鷹と一緒に振り向いた。「怖いでしょ、怖いわよねぇ~……」とおどろおどろしい声を出して両手をたれ下げ、ゆらゆらと左右に動かしている。使い魔の鷹も、心持ちふひひ、とくちばしを歪めていた。
そのときだ。クレアの背後にぼうっと赤いなにかが浮かび上がった。リーズがぱちぱちと瞬きをしてそれを見つめていると、クレアもリーズの表情に気づいたのだろう。両手をたれ下げたまま、ゆっくりと振り向く。
そこには一人の女がぬうっと立っていた。
リーズの蝶の明かりでかすかに照らされた赤髪の女が、暗闇の中でぬるりと白い手をリーズたちに差し出す。「ひ」あっ、と声を出して、リーズは口元に当てる。イライザ先生、と驚きの声を上げようとしたときだ。
「ひ、ひ、ひ、ひあああああああ~~~~~~!!!! おばけええええええ!!!!」
自身の担任であるとは気づかず、クレアは逃亡した。
肩に乗っていた鷹も「ピィーーーーーーー!!!!!」とクレアに負けずと悲鳴を上げて暗闇の中に消えていく。似たもの同士である。
『次も同じことがあったら多分私逃げちゃうかも』と冗談めかして言っていたクレアだが、怖いもの好きであることと怖がりということは同時に成り立つことらしい。
「え、あの、イライザ……先生……」
「リーズ・ブロッサムと、先程悲鳴を上げて消え去ったのはクレア・セントリーズですね。一体どうしてこんな時間に学園の校舎に?」
「ええっと……」
クレアの逃走劇を目にしたとは思えぬほど、イライザは冷静に問いかけた。
「七不思議が本当にあるかどうか、調べるために……入り込みました。すみません」
ごまかすべきかと考えたが、リーズは本当のことを伝えることにした。怒られるのなら初めから正直になっていた方がいい。きっと大目玉を食らうだろうと思っていたのに、意外なことにイライザは「そうですか」とだけ答えた。
リーズたちを怒るつもりではなく、本当にただの疑問として問いかけたのだろう。
知らぬ間にリーズの使い魔も、消えてしまっていた。暗い廊下の中で、イライザは〈点火〉の魔法を使った。イライザの手のひらに赤い炎が灯る。
先程のクレアは混乱するあまりに使用を忘れてしまっていた魔法だが、イライザほどの魔法使いになれば揺らめき一つも起こることのない、宝石のような炎を生み出すことができる。
「――夜を知ることも、魔法使いにとっては重要です」
そしてその宝石を手のひらに置いたまま、イライザは赤い瞳を細めた。
それは、どこかで聞いたことがある言葉だ。
「夜は、島の周囲にある羽の動きが緩やかになる時間です。羽の動きが緩やかになることで昼間にかき混ぜられた〈魔導力〉が空気の中に淀み、魔法と現し世の境界が曖昧になるといわれています。そして、この魔法学園では外よりも〈魔導力〉が歪みやすい」
学園の中で奇妙な現象を目にしたでしょう? と問われると、こくこくと何度も頷いてしまう。
「夜の学園に長居することはおすすめしません。どうやらクレア・セントリーズも先程学園の門を通り抜けた様子。リーズ・ブロッサム、あなたも速やかに帰宅なさい」
「あ、は、はいっ!」
「出口まで送りましょう」
おそらくクレアのことは自身の使い魔に確認させたのだろう。
すたすたと迷いなく廊下を進むイライザの背中を、リーズは慌てて追いかける。
「あの、先生はどうしてここに? 見回りですか?」
「はい。働かざる者、食うべからずですから」
なんて、会話をぽつりぽつりと行いつつ、リーズは夜の廊下を小走りに歩く。
そうこうしているうちに外からは月の光が差し込み始めた。ふと、廊下の窓へと目を向けると、中庭の大樹が目に入った。――白い。
いや、そんなはずはない。大樹は月明かりの下でもわかるように花一つなく、緑の葉に覆われている。リーズは首を傾げた、そのときである。
大樹の下に、一人の老婆がいることに気がついた。
窓越しに、ぱちりとその老婆と目が合ったので、リーズは慌てて顔をそらした。
驚いたとはいえ失礼な態度を取ってしまったともう一度顔を向けたときには、老婆の姿は霞のように消えさってしまっていた。
「ほんっとーに、ごめんなさい!」
翌日、高い背を折りたたむようにしてクレアは深々とおじぎをした。「昨日勝手に帰っちゃって! ううん、逃げちゃって!」あまりにも深刻なその様子を見て、「全然気にしてないよ」と苦笑するしかない。帰ったその日のうちにクレアの〈音伝〉魔法で謝罪の言葉は受けている。
「でもイライザ先生に入口まで送ってもらっちゃったし、お仕事中なのに悪いことをしちゃった」
「先生にもあとで謝りに行くわ……。それで、〈音伝〉魔法で伝えておいたことだけど! 昨日のお詫びの品として……!」
「わあー」
クレアが荷物から取り出したのは籐で編まれたバスケットだ。かぶせていた可愛らしい刺繍入りの大きなハンカチをひらりと引き抜くと、色とりどりの具材が挟まれたサンドイッチが敷き詰められている。「すごい、美味しそう」リーズは顔をほころばせてぱちぱち、と小さな手で称賛の拍手をする。
「お昼は! ぜひ一緒に食べましょう! たくさん作ってきたからーッ!」
「わあい」と、リーズはもう一度大きく拍手した。リーズの食事のラインナップは少ない。家では師匠の使い魔の烏が『ンッカーッ! またッ! 握り飯! 逃亡してやるゥーッ!』と、暴れ回っていた。握り飯以外にもトーストとベーコンも、たまにはあげているのだが。
せっかくの素敵なランチなんだから素敵な場所で食べましょうということで、リーズたちは学園の中庭にやってきた。明るい日差しが降り注ぎ、リーズたちが近づくとチチッと鳴き声を残して小鳥が木々の枝から飛び去っていく。丁度、昨夜リーズが老婆を見た場所だ。
〈ウィスタリア〉では浮島を安定させるため大地の至る所に草木が根を張り巡っているが、この木は魔法学園でも一番の大樹だ。クレアとリーズの二人が両腕を伸ばしても足りないくらいのしっかりとした太い幹からは立派な枝が伸びており、新緑の葉を茂らせている。
「ちょっとしたピクニックよね」と、二人は含み笑いをしてハンカチの上にお尻を乗せてサンドイッチに舌鼓を打った。
たまごサンドはゆで卵を細かく刻み、たっぷりのマヨネーズと混ぜ合わせ、ぴりりとした辛子がいいアクセントになっている。白いパンには丁寧にバターを塗っているから、しゃっきりとしたレタスやトマトを挟んでも美味しい。カリカリのベーコンがジューシーでいくらでも食べていたい。
「すごい。美味しい。こんなの絶対作れない」
「簡単よ。今度教えてあげる」
「どうかなあ……私、基礎魔法も覚えられないし……」
「…………」
美味しいサンドイッチを食べていたはずが、ふとしたときに自嘲的になってしまう。
こんなのよくない。パンとレタスを呑み込むついでに、リーズはぱくんと言葉も呑み込んだ。ぱくぱく、ごくん。なんだか互いに少し無言になってしまった。リーズのせいだけど、それ以上話すことができなくなってしまって、ただサンドイッチを食べ続けた。
クレアの使い魔が、中庭の中をちょこちょこと歩いて散歩している姿が見える。
「……仕事探しは、順調なの?」
まるでなんてことのないような、そんな声色で尋ねられたことに感謝した。クレアの思いやりであることもわかった。
「まったく! 〈色彩〉魔法なんて、なにに使ったらいいかわからないし。〈音伝〉魔法があるのに、わざわざ紙に書いて想いを伝えるなんて、不便なだけだもの。……そう言ったら、ジェシカを怒らせちゃったんだけど……」
「ジェシカって本屋さんの子よね? でも私たちの年で特許魔法を使える子の方が少ないから、私はすごいことだって思うけどな」
「そんなことないよ。使い道がない魔法なんて、意味がないよ」
努めて明るい声色で話したら、なんてこともないような気がしてきた。
でも気がするだけで、小指の先くらいの不安はいつも消えない。不安は小さくなっても消えてなくなることはないのだ。
そうかなあ、と首を傾げていたクレアだったが、はたと瞬き、「デザートを忘れちゃった!」と勢いよく立ち上がった。
「大変、机の上に置いたままかも!」
「え?」
「デザートのない人生なんてありえない! ちょっと待ってて、すぐに取りに行くから!」
おいでっ! と腕を伸ばすと同時に鷹がクレアの肩に飛び乗る。
軽くジャンプしたクレアにタイミングを合わせて、鷹は羽ばたいた。その足を掴み、あっという間に校舎の窓の一つまで上昇し、クレアは姿を消してしまった。
「…………」
そのあまりの素早さに呆気にとられて見送ってしまったが、魔法使いとは得てして行動力があることが多い。行動と魔法が直結しているからだ。
「……すぐに戻ってくるかな」
さすがに一人でサンドイッチを食べるのは憚られたので、大樹の下に座り込んだまま、さわさわと葉っぱが揺れる音を聞いた。気持ちのいい風が頬をなでる。リーズのふわふわの髪が風の中で揺れる。
(赤くなる前の、りんごの色……。柔らかい、黄色がかった緑色みたいな風……)
果実が熟していくように、爽やかな甘さと優しさを感じた。
「素敵な場所」
一年以上、魔法学園の学舎に通っていたのに全然知らなかった。クレアに連れてきてもらわなければ知らなかったに違いない。
「そう? ありがとう」
誰かから返事がくるとは思わなくて、びっくりして目を見開いた。声が聞こえた場所を振り返ると、可愛らしい老婆がいた。
老婆は丸みのある杖をついていて随分背中が曲がっている。どちらかというと小柄なリーズだが、背が曲がっていることを差し引いてもさらにリーズよりも小さい。師匠よりも少し年を取っているくらいだろう。真っ白な髪はくるくるとリーズみたいな癖っ毛で、目尻に刻まれた笑い皺は、愛嬌がある。
「あ、す、すみません!」
座ったまま老婆を見下ろしていることに気がついて、リーズは慌てて立ち上がった。
「あらまあ。どうして謝るの?」
「誰かいると思わなくて、騒がしくしてしまって……それと、その、昨日、失礼な態度を取ってしまったから……」
彼女は昨夜、この大樹の下にいた老婆でもあった。しどろもどろに両手をばたつかせ説明するリーズを、老婆はほんのり微笑みながら頷いている。「ええっと……」会話が伝わっているか自信がなくなってきたところで、
「この場所は、誰か一人の場所ではないのだから、そんなこと気にしなくていいのよ」
と、老婆はころりと可愛らしい声を出した。
「…………」
同じ老婆でも、鬼のような師匠とは大違いである。師匠は彼女を見習うべきだ、とリーズはちょっとだけ考えた。でもそれを口にすると今すぐに雷が落ちてきそうだから、それ以上考えることをやめた。
「あの、学園の先生……ですか?」
クレアを待っている以上、移動するわけにはいかず沈黙を埋めるようにリーズが尋ねると、老婆は口元をにこりと持ち上げ、リーズを見上げる。にこにこ、にこにこ……。
(……なんだって言うんだろう)
変な人だな、とリーズは挙動不審な自分を棚に上げた。
「あなたは、その年で特許魔法を使うことができるのね?」
「え、あ、はい。聞いていらっしゃったんですね」
「とても素晴らしいことだわ。それってどんな魔法なの? 詳しく知りたいわ」
「詳しく……えっと、砂粒程度の重さなら、どこにでも運ぶことができる魔法です。薄い紙くらいの重さなら大丈夫なので、そこに言葉や絵を描いて、色を塗って届ける……」
なにを必死に説明しているのだろう、とわたわたと意味もなく動かしていた両手と両指をぴたりと止めた。なんだか恥ずかしくなってきた。
老婆はにこにこと笑い続けているだけだ。「とっても素敵ね」なのに、唐突にそう言われたから、びっくりしてリーズは自身の胸元のローブを掴んで跳ね上がった。
「本当に素敵。その魔法、ぜひ私にもかけてほしいわ」
「え……?」
「最初に出会ったあの時間に、よろしくね」
風のように軽やかな声が、ふっと響いた。
「おおーい! リーズー!」
頭の上から元気な声がかぶさる。クレアが風を滑るように相棒の鷹と舞い降りると、いつの間にか老婆は姿を消していた。
「りんご! 甘酸っぱくて美味しいの! ……リーズ、そんなきょろきょろしちゃってどうかしたの?」
「さっきまで、そこに……」
中庭にはリーズたち以外の人影は存在しない。
「もしかして、誰かいた? うーん。上からじゃ見えなかったけどな」
クレアから渡されたぴかぴかの赤いりんごを、リーズは無言で指の腹でなでる。
しゃりっ、と音が聞こえて、隣を見るとクレアがりんごにかぶりついていた。「甘酸っぱい! よし!」なにがよし、なのかわからないが、リーズもクレアに倣って大樹に寄りかかり、ゆっくりとりんごに歯を立てる。しゃく、しゃくしゃく。
「ね、美味しいでしょ? 元気が出るよ」
「……そうだね、ありがとう。ねえクレア。さっき、あとでイライザ先生に謝りに行くって言ってたよね?」
「え? うん。食べ終わったら行こうかなって」
「それ、私も一緒に行ってもいいかな?」
首を傾げているクレアに、リーズはりんごみたいなほっぺをやんわりと柔らかくさせて、にっこりと笑った。
『夜に学園を訪れる許可ですか?』
イライザのもとを訪れてクレアの謝罪と、改めて夜の学園を訪れる許可を求めると、『短い時間なら構いませんよ』、とあっさりとした返答だった。夜を知ることも、魔法使いにとっては大切ということだろう。
――その日の夜。リーズはまた学園を訪れた。
クレアはどうしても外せない用事があるということで、今は一人きり。昨日は薄暗い夜だったが、今夜は月がよく見える。星屑の道をたどるように、リーズは中庭に足を踏み入れた。紺色の深い夜の庭は揺れる木々でさえもまるで一つの生き物のようにざわざわと鳴き声を響かせていた。
魔法学園の大きな校舎を背景に、太い一本の木がしんとそびえている。その下には、昼間に話した老婆が杖をついて立っていた。
「わざわざこんな時間にごめんなさいね。昼間は短い時間しかお話しできないから」
「それは構わないんですが……。短い時間とは、どういう意味ですか? それに、私に魔法をかけてほしいというのは……」
リーズの問いに答えることなく、老婆はそっと木の枝を見上げる。
「夜はとっても不思議な時間。昼間の陽の光は、一体どこに行ってしまったのかしら。どうして神は星を作ったのかしら。陽の光が消えてしまうことで浮かび上がる絵を作るだなんて、神様ってきっと、とってもお茶目なのね」
どう返答していいのかわからず、リーズは困ったように老婆を窺う。
「あらごめんなさい。私ったら、自分ばっかり」老婆はすぐにぱちっと瞬いて、「あなたに魔法をかけてほしい理由はね、私が魔法使いではないからよ」と説明した。
「……私は〈音伝〉魔法を使用できません」
「いいえ。〈音伝〉魔法ではだめよ。私が言葉を届けてほしい人は、とても遠い場所にいるからね。だから、〈音伝〉魔法では届かないの。ごめんなさいね、私、あなたとお友達が話していた言葉を聞いていたのよ」
あなたの魔法でないといけないわ。と、鈴のような可愛らしい声で、けれどもはっきりとリーズを見据えて伝えた。
――そんなふうに真っ直ぐに目を見て話されて、リーズが最初に感じたことは驚きだ。
自分じゃないと駄目、だなんて言われたこともなければ、考えたこともない。次に感じたことは困惑。でも、それと同じくらいに感じたことは――喜び。
嬉しくて、胸がどきどきと高鳴った。ぎゅっと拳を握った。ただ褒めてもらうのを待った。下を向いて、目をつむって、跳ね上がる心臓を手で押さえて――。
『知らないことを知るってとっても楽しいことなのよ』
なぜか思い出したのは、ジェシカの言葉だった。小さな体で胸に本をいっぱいに抱えて、えへへと笑っている女の子の言葉。
リーズは、きっと夜を知るためにこの場所に来た。
でもそれは、ただ自分にとっての喜びを得るために来たわけでは、ない。
「どうしてですか」ゆっくりと前を向く。「どうして、〈音伝〉魔法では届かないのに、私の魔法なら届くと思うんですか」
ポケットの中に入れていたガラスのペンをぎゅっと握る。ひんやりと冷たい。けれどしっかりと手に馴染む、リーズの心の欠片のような、ガラスのペン。
硬い声色となってしまったリーズと相反して、老婆はただ優しく瞳を細めた。
「あなたの魔法はね、〈手紙〉とも言うのよ」
「……てがみ?」
「いいえ、絵を描くとも言っていたわね。なら、〈絵手紙〉と言った方がいいかしら。ずうっと、ずっと昔のことよ。魔法使いたちが大地を捨て去ってしまったときに、消え去ってしまった一つの言葉。魔法使いたちは〈音伝〉魔法という声を伝える魔法を持っていたから、不要なものだと思ってしまったのね」
てがみ。
なんだか少し、不思議な響きだ。知らないのに、知っている。けれどもやっぱり知らない。
ガラスのペンが、ときん、ときん、と脈打っていた。それは、まるでときめきが指を伝うように。
「魔法を使うことができない大地の人々は、言葉を文字に換えて、想いを伝えたわ。〈手紙〉は海も、空も、いいえ時間すらも越えて、人の手に残り続けることができるの」
想像して、と老婆は静かに言葉を落とす。
いつしか老婆は女となり、白い髪は背中に流れるほどに長く変化し、折り曲がった背は真っ直ぐに伸び、リーズを見下ろしていた。
「もう、待っているのは飽きちゃったわ。どうかお願い。あなたの魔法で、道を作ってほしいの」
リーズと同じ年頃の長い髪の少女は、茶目っ気のある表情で肩をすくめる。「ねえ、想像して」少女はリーズの手をひょい、と持ち上げるように握った。
「あなたの言葉は、世界に届く。たとえ昼間は太陽の光に隠れてしまうような、かすかな光でも。寒くて寂しいような一人きりの夜でも」
例えばこんな夜ね、と少女はふと空を見上げた。
「求める人が空を見上げれば、きっと星の絵が見つかるわ」
星空が、降ってきたかと思った。
きらきらと弾けた少女の言葉が、ゆっくりとリーズの中に溶け込んでいく。昼間のような光がリーズを包み、リーズの柔らかな茶色い髪が、少女の白い髪が膨らむように風に流れる。
「――はい」
気づいたら、返事をしていた。
「〈手紙〉を書きます。いいえ、あなたのために、〈絵手紙〉を、私は描きます」
「……ここにあなたが来てくれた理由はなんとなくわかるわ。あなたは人の想いに敏感なのね。伝えたくてたまらない気持ちがわかるのかしら。ありがとう、私の想いを見てほしい」
――あの人のところに行きたい。
少女の手を握りしめると、想いが溢れる。
「あの人は、この木のことがとても好きだったの。私はもう、あの人のところに向かいたい」
記憶の中のあの人とは、少女と同じ姿をしていた。
いいや、少女は背が伸び女となり、中年となり、次第に腰が曲がり杖を使い始めた。
ゆっくりと歩くその人のことが心配で、彼女はいつも隣を並ぶように歩いた。
大丈夫? と彼女が問いかけると、大丈夫だよと答えてくれる。その度にほっとした。
――ねえ、大丈夫? 大丈夫だよ。
――本当に? ええ、本当だよ。
その言葉が、返ってこなくなったのはいつのことだろう。
いかないで、と伝えたのに、人は待ってくれないから。
声すらも、もう届かないから。
どうか私の声が、届きますように。私の声さえ届いていたら、きっと返事をしてくれる。
あの人のもとに、旅立てる。
いつしか、リーズたちは一面の花畑の中にいた。いいや違う。蝶の花畑だ。色とりどりのガラスの羽が草原の上をゆっくりと羽ばたき、星の光を反射していた。
リーズのガラスペンが、夜空をキャンバスにするようにくるりと動く。リーズのもう片方の手には、ガラスの蝶が次々に生み出され、溢れ、くるくる、するすると動き続けるガラスのペンに色を与える。
ガラスペンで線を引く度に、空には輝く光が生み出された。
まるでそれは、新たな星座のような。
きらきらと、ぱらぱらと。
空からは、静かな光が降り注いだ。
「――描けた」
リーズが空に描いたものは、一対の羽だった。
なぜだろう。少女に必要なもののような気がしたのだ。宙に描かれた輝く羽は、薄く小さな紙の羽に生まれ変わり、するりとこぼれ落ちて、少女の手の中に収まる。
「……!」
ぱっと少女は頬を赤らめた。りんごのようなほっぺを喜びの色に染めて、紙の羽をそうっと胸元に寄せた。ほのかな明かりとともに羽は少女の胸の中に吸い込まれていく。きゅっと少女が体を丸めた瞬間、少女の背中から一対の白い羽が生み出された。
「ありがとう!」
リーズに笑顔を向けた少女は、白鳥に姿を変えて、かすかな星を道筋にして夜の海を泳ぐ。
白鳥が羽ばたく度に、リーズの視界を白い羽根が埋め尽くしていく。わ、と声を出してリーズは目をつむった。そしてわずかに目をあけたそのときだ。
ざあざあと、空から羽根の雨が落ちていた。
いいや違う。
今度こそ本当に、花の雨だ。真っ白い花が見渡す限りの一面に咲き誇っている。
「…………!」
目を見開き、勢いよく振り返った。
そこにあったものは、緑の大樹が枝のすべてに蕾をつけ、花開いている姿だった。
満天の空の下で、輝くような白い花を一斉に咲かせた大樹を、リーズはただ呆然と見上げた。
少女も、白鳥の姿も、どこにもいない。一体、どういうことだったのだろう。
「学園の七不思議、咲かない木が咲きましたね」
唐突に隣から聞こえた声に、リーズは目を剥いた。あまりにもいきなり過ぎて、声を出すことすら忘れてしまった。
「夜に学園を訪れる許可をした以上、確認をしないというわけにはいきませんから」
「そ、そうでしたか……。お手数をおかけしました」
「いいえ、これも仕事ですから」
淡々と話すイライザの肩にはちょこんとフクロウがのっている。
相変わらず神出鬼没な人である。イライザは輝くような白い花を咲かせる大樹をふと見上げ、すぐにリーズに視線を向けた。
「お疲れ様です、リーズ・ブロッサム。……よければ少し、お茶でもいかがでしょう」
しゅうしゅうとサイフォンが音を立てている。ランプの炎がガラスの器を炙り、オレンジ色の光が揺らめく。深い珈琲の匂いがふわりと部屋中に漂う。借りてきた猫のように小さくなっていたリーズは、思わず顔を上げて鼻をくんくんと動かした。猫というよりも、その仕草はさながら茶色い子犬のようである。
魔法学園には足を踏み入れてはいけない部屋が多い。そういった部屋は事前に生徒には通知されており、クレアとの探検ではもちろん避けて歩いた。リーズが今いるこの部屋はそういった〈危険な部屋〉ではないが、入ったのは初めてだ。
そもそも魔法学園には部屋の数がとても多い。中に入ると外観よりも広く感じるため、実は時空が歪んでいるのではないかと生徒たちの間ではまことしやかに囁かれている。学園の七不思議として扱われるのも無理はない。
ソファーの上で小さく座りながら、リーズは改めて天井付近に近い壁を見上げた。そこに並んでいるものを見て、きゅっと口元を閉ざし、眉間にわずかな皺を作る。
「ミルクは必要ですか?」
「え? あ、はい!」
「どうぞ」
珈琲の中に、白いミルクが注がれる。砂糖もたっぷり。カフェオレとなったマグカップをリーズは両手で受け取り、お菓子のビスケットみたいな色だな、と思う。夜にこっそりとベッドのシーツの中で隠れて、くすくすと笑いながら食べてしまうような、そんな色。
(……私ったら、なんでもかんでもどんな色か考えちゃうんだから)
ふーっ、とゆっくりとカフェオレに息を吹きかけ、ちびちび飲んだ。甘くて、美味しい。
飲んで、休憩して、またゆっくりと飲む。なんだかとっても静かな時間だ。
「……ここは学園長室として使われていたこともあるようです。この部屋の中では、島の羽の音が聞こえないでしょう」
だから静かなのか、と納得した。いつもどこからか聞こえる音が聞こえないから。
――夜は、島の周囲にある羽の動きが緩やかになる時間。昼間にかき混ぜられた〈魔導力〉が空気の中に淀み、魔法と現し世の境界が曖昧になる。
イライザが説明していたことを思い出した。つまりこの部屋は、魔法どころか、世界から隔離されているようなものだろう。温かいのに、どこか寂しい気持ちになる理由が、やっとわかった。
「気づいていらっしゃいますね?」
「……はい」
リーズがカフェオレを飲み終えたとき、イライザは問いかけた。リーズはまた天井付近の壁を見上げて頷く。
そこには数枚の肖像画が飾られていた。女もいれば男もいる。随分昔に描かれたものだろう。
肖像画の色合いはくすんではいたが、丁寧に保管されていることがわかる。
その中に描かれていた一人の女は、間違いない。大樹の木の下にいた老婆である。
「初代の学園長であると聞き及んでいます。そして大地を飛び去った最古の魔法使いの一人でもあります。〈幻術の魔法使い〉とも呼ばれていたと」
「〈幻術の魔法使い〉……あの、つまり私が見たおばあさん、いいえ、あの女の子は……」
「使い魔の白鳥が、主を模した姿を作っていたのでしょう。すでに体はなく、魂のみの存在だったのでしょうが」
「…………」
言葉を届けてほしい人は、とても遠い場所にいると話していた。
いつの間にか、リーズの周囲にはちらちらと蝶が舞っていた。まるで大丈夫? と心配しているかのようだ。
この子たちも、リーズがいなくなってしまった後に、どうなるのだろう。
「……届いたんでしょうか、私の〈手紙〉は」
「届いたのでしょう。だからこそ、道を得たのです」
間髪を容れず返ってきた返答に、リーズは目を丸くした。
イライザは自身で淹れた珈琲を飲んでいる。もちろんブラックだった。リーズには真似できそうにない。珈琲を淹れている最中はお行儀よく止まり木で待っていたイライザの使い魔が、ほっほう、と鳴き声を出して彼女の肩に移動する。
「イライザ先生は……」
なにを尋ねようとしたのだろう。自分でも形のない疑問がマグカップの中に沈んでいくようだ。リーズが顔を上げてイライザを見つめたそのときである。かたんっ、と部屋の外で音がした。
物でも落ちてしまったのだろうか?
小さな音だったが、静かな部屋には似つかわしくない音でもあった。まるで、外で息を潜めていた人が、逃げ去ろうとして慌てて残してしまった音のような。
「……もしかして、クレア?」
リーズが今夜、魔法学園を訪れることを彼女は知っている。観測の仕事のため一緒に来ることができなかったが、『夜は目が利かないから、私がいたって意味がないのに』とぷりぷりしていたので、もしかしてこっそり仕事を抜けてきたのかもしれない。
「すみません」とイライザに一声かけて、リーズは持っていたマグカップをテーブルに置きドアに向かった。
そのときイライザがわずかに目を大きくさせていたことを、リーズは気づかなかった。
「クレア? 来たの?」
部屋のドアをあけてそうっと廊下に顔を出す。真っ暗な廊下がぬうっと伸びている。部屋の中の明るさと相反しているから、余計にそう思うのだろう。
唐突に、寒気を感じた。背筋にひんやりと冷たい汗が流れる。
――最近新しく噂されている七不思議はね、元学園長室の近くのなんと謎階段! 階段を上ると見知らぬ部屋に繋がっていてその部屋に入った人はこの世から消えてしまうのよ……。
クレアが言う『元学園長室』とは、この部屋のことではないだろうか?
まさかと考えるのに、どきん、どきんと胸が嫌な音を立てる。
「――っ!」
闇の中で、金色の瞳がこちらを見つめるように覗いていた。
声にもならないような悲鳴を上げて、リーズはドアノブを握りしめたままへたり込んだ。「リーズ・ブロッサム!?」イライザが駆けつけリーズをかばうように瞳の主に立ちはばかる。イライザの使い魔が、力強く飛び立ち羽を広げ威嚇した。
「ンカッ、ンカッ、ンカッ、ンカッ、ンカ~~~~~ッ!」
「…………」
「…………」
なぜだかそこにいたのは、使い魔の烏である。ばっさばっさと夜の廊下でめちゃくちゃ踊っていた。「いやなぜっ!」「カッカッ~~~~!」ちょっとわけがわからない。
***
「ンまいもの食ワセロッ! 食ワセロォ~~~~!」
「わかった……わかったから。今度もうちょっと手の込んだものを作るから……。すみません、私のあとを追いかけてきちゃったみたいで……」
「今スグッ! 今スグッ! 直談判ッ! 直談判ッ、カア~~~~!」
静かにしてよ、なに言ってるのよ……と、リーズは小脇に抱えた烏をたしなみつつ、魔法学園をあとにした。
イライザはリーズを見送った後、ずれた眼鏡を持ち上げわずかにため息をつく。
「しまったね。もう少しでバレちまうところだった」
「……学園長」
悪びれもなく現れた老婆に向かって、イライザはさらに大きなため息をついた。もちろん見せつけるためである。烏はリーズのあとを追ってきたのではなく、カランに直談判するために来たのだ。リーズが聞いた物音も彼女が犯人である。
「カラン・ブロッサム学園長。あなたがいつまでも魔法学園の隠し部屋を使っているせいで、新たな七不思議ができてしまったようですよ。生徒たちの間で八つ目の噂が立つ前に、もう少し自重した行動をなさってください」
「んはっはっは。八つだろうと九つだろうと、バレなきゃ問題はないだろうさ」
「…………」
まったく聞く耳を持たないこの口を、どうやって閉ざしてやったらいいだろう、と〈沈黙の魔法使い〉は考えていた。
***
――ねえ。友達を怒らせてしまったら、どうしたらいいと思う?
神妙な顔つきでクレアに尋ねると、そうねぇ、とクレアは眉根を寄せた。
――一般的には、すぐに謝るべきよね。もし怒らせた理由がわからないなら、それはそれで話し合うべきだと思うし。
夜の学校で逃げ帰ってしまった後、すぐにクレアが謝ったように。
もちろん、時間を置いた方がお互いに冷静になることもあるのだろう。けれど、今回はきっと違う。
リーズはぎゅっと唇を噛みしめて何度も深呼吸を繰り返した。それでもまだ、胸がどきどきしている。胸元の服をぎゅっと掴んで、「ふう」と息を吐き出す。空はとてもいい天気だ。ざわざわと揺れる木々の音も、遠くから聞こえてくる羽の音も、いつも通り。
リーズが抱きかかえているバスケットがお守り代わりだ。
「行くぞ!」
ジェシカの本屋、と看板に娘の名前が書かれた建物の扉を勢いよく開く。
「こんにちは!」と力いっぱいにリーズが挨拶をした途端、木の枝からたくさんの小鳥たちが飛び立った。「ジェシカ、いる!?」
『〈音伝〉魔法があればそれだけで十分なのに、わざわざ紙を使って想いを伝える必要ってあるのかな』と、卑下した自分。そして『出ていって』と怒っていたジェシカ。
本当はジェシカが怒った理由はわかっていた。それなのに、気まずいからって避けてしまうだなんて駄目に決まっている。
「……ジェシカ?」
店は誰もいなかった。ジェシカも、彼女の母のクラレットも。
しん……と、音すらも聞こえない薄暗い店内を見回した後、リーズは扉を確認するために振り向く。鍵はあいていたけれど、もしかしたら閉店中だったのかもしれない。
「やっと見つけたぁ!!」
そのとき、明るい声が響いた。本の山からぼふっと飛び出した元気な女の子を驚いて見返して、ぱくぱくと口をあける。
「……あらリーズ? 来てたの?」
「来てたのって……」
「それよりもねえ、見て! ここに書いてあることを見てちょうだい! 魔法を使えない人も、同じように紙に言葉を書いていたのよ!」
埃だらけの頭のままジェシカは小さな体をぴょんぴょんと跳ねるように近づく。本を開いて中の記述を見せるように何度も指でつついているが、リーズはまだ心が追いついていないためなんとなく後ずさりしてしまう。
「どこかで読んだことがあるような気がしてたのよ! ほら間違いない! リーズ、あのね、あのね、あなたの魔法、〈手紙〉っていうらしいわ!」
「うん、知ってる……」
呆然と返事をすると、ジェシカはずべっと転けた。
「なんで知ってるのよ!」
「なんでって……」
「なんでなのよぉ!」
今度はリーズに向かってぽかぽかと拳を出して忙しい。小さな拳なんて痛くも痒くもないが、どうしたらいいものかと困った。リーズが困惑していると、「うわあん!」とジェシカはまさかの寝っ転がった。そのままじたばたと暴れた。嘘でしょ。
「…………」
「せっかく私が最初に見つけたと思ったのに! ばかばかばか!」
この場合、誰に向かって怒っているのだろう……。
混乱すると、とりあえずリーズはフリーズする。床で暴れ続ける年下の少女を立ったまま見守るという、人生において想定していない状況でただ時間が過ぎるのを待ち続けていると、ジェシカの体力も尽きてきたようだ。次第に動きを止めてぼんやり天井を見上げる。
そしてゆるゆると丸まり、床の上で小さくなった。ぐずっと鼻をすする音が聞こえたが、膝の中に隠れてしまったために、ジェシカの表情はわからない。
「私が、最初に見つけたと思ったのに……リーズの魔法は、意味がない魔法なんかじゃないもの……」
「……もしかして、ずっと調べてくれていたの?」
出ていってと、リーズに叫んだ後、ずっと。返事なんかない。でも、なくてもわかる。
小さな少女の近くに座った。そして、想像した。
どこかに意味があるはずだと寝る間も惜しんで、ページをめくる。小さな体では持てないくらいのたくさんの本を抱えて、絶対にどこかにあるはずだとランプの明かりを頼りにして探し続ける。
「…………!」
『……ここにあなたが来てくれた理由はなんとなくわかるわ。あなたは人の想いに敏感なのね。伝えたくてたまらない気持ちわかるのかしら』
嘘だ。全然わからない。
つん、と鼻の奥が熱くなった。きゅっと唇を噛みしめて、こぼれそうな涙を呑み込む。
(……私、馬鹿だったなあ……)
「ジェシカ、ありがとう」
バスケットを置いて、そうっと少女の頭に手を伸ばした。
幼く、柔らかい髪の毛をなでなで、とさする。
「すごく、嬉しい。もう、意味がない魔法だなんて、言わないよ」
なでなで。
それは、とても優しい時間のように思えた。たくさんの想いを伝えたいと願う気持ちは、自分の想いだって含まれているから。ぐずっ、ともう一度鼻をすする音が聞こえた。
「……フンッ!」
「うわっ」
真っ赤な鼻と目をしたままジェシカは顔を上げた。「わかればいいのよ、わかれば!」相変わらずの尊大な態度だが、「うん」とリーズはにっこり笑う。
「というわけで考えといたのよ。準備もしておいたの」
「……なにが?」
ジェシカの想いはわかっても、行動まではわからない。よいしょと立ち上がり、いそいそと店の奥に消えたジェシカは、なにかを引きずり持ってくる。どこか誇らしげな顔もしている。
「ペンキも持ってくるから待ってて。店の中じゃなくて、外で書くから」
「……なにを?」
「看板に決まってるでしょ? うちの本屋の看板と一緒に並べるの。お母さんにも許可は取っておいたわ」
準備万端だな、ということしかわからない。
外に持っていっといて、と押し付けられたのは木の板だった。わけもわからず指示に従って外に行くと、今度はペンキを持ったジェシカが出てくる。
「よし、地面にはいらない紙を敷いて……はい、板はそこに置く。うーん、店名はなんてしようかしら……」
「て、店名って……?」
「仕事をするんでしょう? それならお店の名前も考えなきゃ。〈手紙〉ではあるけど、リーズは絵も上手だから……〈魔法使いの絵手紙屋〉。うーん? なんだか長いわね。じゃあ、〈魔法使いの手紙屋〉。ちょっとシンプルすぎかしら?」
まさかのリーズの仕事が、今この場で決められようとしている。
「え、ちょっと待……」
「パンチ力がない感じがするわね? よしそれなら、〈ちょう天才魔法使いリーズの手紙屋さん〉。これで決まり! 蝶と超をかけてるのよ、いい感じだわ! そおれ!」
「そおれじゃない! それだけは絶対にやめてぇー!」
リーズの悲鳴が、辺り一帯に響き渡った。
「それよりジェシカ! 一緒にサンドイッチを食べましょう!」
「……サンドイッチ? どうして? リーズが作ったの?」
本屋へ手伝いに行くうちに、ジェシカはリーズの料理下手を知っている。お昼ごはんを一緒に作って食べることもあったからだ。
ペンキに刷毛をつっこんだままジェシカは不思議そうに首を傾げた。
「そうよ。友達に教わったの。きっと美味しくできてると思う」
手土産のバスケットは店の中に置いたままだ。
咲かない木に花が咲いたというニュースは魔法学園の生徒たちを震撼させた。
クレアも例に漏れずで、『私もその場にいたかった!』とサンドイッチの作り方を説明しながら悔しがっていたのを思い出す。
今は空っぽな手を持ち上げるように揺らして、リーズはわずかに苦笑した。
「できないっていうのは、もうやめたの」
それから。帰ってきたクラレットと一緒に、リーズたちは一緒にサンドイッチを食べた。
初めて作ったそれはちょっとだけ不格好だったけれど、そんなのはただの笑い話だ。
楽しい時間は柔らかく過ぎていく。それはミルクみたいな、ほんの少し黄色がかった、サンドイッチの色みたいに。
たくさん話して、たくさん笑い合った後で、〈ジェシカの本屋〉と書かれた看板の隣には、もう一枚の看板が並ぶことが決まった。
〈魔法使いの手紙屋〉と書かれた可愛らしい看板が並ぶのは、ある晴れた日の午後のことである。