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第一章 ガラスペンの魔法使い


 たくさんの光がきらめいていた。

 きらきら、ぱらぱら、しゃらしゃら。

 幾重にも混じり合ったような、こっとんこっとんとゆっくりと機を織っているような、優しい色をした光が、音を立てて落ちてくる。

 この色を、なんと言い表せばいいのだろう。

 わからなくて、悔しくて、小さな手で、ただ空に片手を伸ばしていた。

 ぱらぱらと降り注ぐ色の雨の中で、何度だって言葉を探した。

 けれど、あるとき唐突に気がついたのだ。


 世界は、優しい色をしているのだと。


 ***


『リーズ、朝だぞう』


 そっと耳元から聞こえてきた声に、リーズはしばらくの間ぼんやりと瞬きを繰り返した。『リーズっ!』思わず部屋の中を見回してしまったが、部屋の中は薄暗く、人の気配はない。


「えっ、今、なんじ……」


 うっかり机につっぷして眠ってしまっていたらしい。

 リーズは寝ぼけ眼のまま、見えづらい周囲を片手で探った。ばた、ばた、とテーブルの上を何度か叩くうちに、丁度指先に触れたランプを見つけ、言葉に魔力を宿す。


「〈点火〉」


 リーズの指先に小さな光が集まる。が、唐突にランプは爆発した。


「ぎゃわっ!?」


 椅子からひっくり返って、「うう……」と目を覆いうめきながら窓に向かった。


「これくらいなら、大丈夫かと思ったのに……」


 寝ぼけ眼をごまかすように立ち上がり、足取りをもたつかせながら、しゃっと勢いよくカーテンを引いた。窓枠から垂れ下がる木の蔦が、朝のひんやりした冷たい風の中でかすかに揺れて影を落とす。同時に部屋は一身に白い光を帯び、リーズは目を眇めた。

 明るくなった部屋の中には、床一面に紙が散らばり、ときには壁にへばりついている。

 ひらり、と窓からの風に流された紙には様々な()が塗りたくられており、マホガニーの机の上は空っぽのインク壷でいっぱいだった。

 窓の外からは楽しげな鳥の歌声とともに、ぎい、ぎいと()()()()()が風に乗って聞こえてくる。


「……うん、いつも通りの朝だ」


 カーテンを細い指先でそっと押さえたまま、わずかに息を吸い込んで、リーズがにこりと微笑む。十五歳になったばかりのあどけなさと、少女らしさが入り混じった愛らしい笑みだった。

 ふわふわの腰まである茶色い髪すらも彼女の愛らしさに拍車をかけているが、本人としてはコンプレックスらしい。茶色い髪と柔らかい金の瞳が朝の光にさらされたとき、ふいに現れた数匹の蝶が、ぱっとリーズの周囲を舞った。

 赤、緑、青と様々な色合いの蝶はガラス細工のような薄い羽を持ち、羽ばたく度にきらきらと光の角度を変え、光の雨を部屋に降らす。


「みんな、おはよう」


 リーズは口元に笑みをのせたまま、ゆっくりと人差し指を伸ばした。指に降りた一匹の蝶が、まるで頬ずりをするようにリーズに挨拶して、はたりと飛び立つ。リーズはしばらくの間、蝶たちの姿を見上げた。そうしているうちに記憶が蘇って、わくわくする気持ちが抑えきれなくなってしまう。


「昨日はいい夢を見たな……うん、そうだ。忘れないうちに試してみよう。今ならあの色を出すことができるかも……」


 寝巻き姿のままリーズは椅子に座った。ペン立ての中にあるガラスペンを取り出し、よしよし、と腕まくりをして、「お願いしてもいいかな?」と蝶に声をかける。そうして空のインク壷に手をかけたときだ。


『リーズ、起きてるのかァッ!』


 途端に、リーズは跳ね上がり、蝶は消え去ってしまった。





 リーズが慌てて部屋から出ると、一羽の(からす)がじたばたと食卓の上で暴れていた。食卓に散った羽の掃除について顔をしかめながら考え、ふと首を傾げる。


「あなただけ? 師匠は?」

「リ~~~ズッ! ズッズッズゥ!」

「だめだ。なにを言っているかわからない」


 くえっ、くえっ、と烏はくちばしを動かしてなにやら主張している。


「〈音伝〉魔法が聞こえたから、師匠かと思った」


 そう言って、フライパンで卵焼きを作り、パン切り包丁で食パンを切り落とす。皿を準備している間にチンッと聞こえて飛び出たトーストを手に取って、たっぷりのバターを塗った。そうか、じゃあ今日は師匠の朝ご飯はいらないのか、と寝起きのふわふわ頭のまま椅子を引いて、そのままパンにかじりついていると、


「リーズ、伝言だ!」


 ぴょんっ、と烏が跳ねた。「うわびっくりした」


「『あたしは旅に出る。あとのことは任せたよ』」

「あとのこと」

「『具体的に言うとこの家の管理とか、こいつとか』」

「自分の使い魔をこいつって言っちゃう?」


 まるでリーズの言葉を予想していたかのような返答である。先程リーズを叩き起こした声も、師匠の伝言なのだろう。なにもかも、予想済みというわけだ。

 まあ別に、リーズの養い親である老婆――通称、『師匠』がいきなりいなくなるのは、よくあることだ。パンを食べているのとは反対の手で、リーズは食卓の上に散らばる烏の羽を拾った。ぱたぱた、となんとなく羽で顔を扇いだ後で、ペンになりそう、と考える。コップのふちについた水滴を羽軸で拾って、食卓をなぞった。「ふふ」顔の皺といい、仏頂面な目といい、我ながらよく描けたと笑ってしまう。

 でも次に烏が続けた言葉で、リーズは咥えていたパンが、ぐっと喉に詰まりそうになった。


「『仕事を見つけるんだよ。それが〈ウィスタリア〉に住む人間の義務だからね』」


 水滴で描いた絵は、いつの間にか潰れてしまった。こつ、こつ、と羽軸で食卓を叩く。音が出ないくらいに、かすかに。

 いつの間にか下がっていた頭を、リーズは勢いよく上げた。


「……遅刻する!」


 急いで朝ご飯を食べて、茶色のふわふわ髪をなんとかしようと洗面台に駆け込み、必死でといた。本当は髪を短くしたいけれど、そうするともっと大変なことになってしまうので長くするしかないのだ。

 リーズは洗ったばかりのワンコのような毛をなんとかまとめて、臙脂色のリボンをつけた。それから黒いローブの制服に袖を通し、牛革のスクエアバッグを背負いドアから飛び出た。


「あとのことは、よろしく!」


 奇しくも先程聞いた言葉と同じようなことを烏に向かって叫ぶと、「ンカァーッ!」と鳴いて暴れていた。伝言はもう終了したらしい。





 ひらひらと、蝶が飛んでいた。


 顔を上げると、ごうごうと風が吹き荒れている。たくさんの使い魔たちが空を飛んで、リーズの頭に影を作った。浮島を繋ぐ橋を渡っているのはリーズだけだ。多くの魔法使いの卵たちが、空を渡って島を飛び越えていく。


「リーズ、お前は飛んでいかないのか!」


 そのとき、ごう、と一際大きな風が吹いた。リーズと同じ年の頃の少年が、竜の背にまたがり逆光の中で金の髪をきらりと輝かせている。眩しくて、リーズは目を眇めた。セオ、とリーズは口の中で小さく少年の名を呼んだ。

 彼はリーズの幼馴染だが、実はセオが、自身の背が小さいことをこっそりと気にしていることを知っている。

 背の高さをごまかすためか、竜の上でぴん、と背筋を伸ばしたままセオは続けた。


「ああ、違うか! お前の使い魔じゃ、空なんて飛べないものな! 蝶が使い魔だなんて、リーズ、お前くらいしか知らねぇよ!」


 セオはそう言ってリーズをせせら笑う。毎朝の光景である。


「セオ、私なんかにかまうだなんて……毎日暇よね」


 リーズは眉を八の字にさせ肩をすくめたが、暇なわけあるか! と即座にセオは言い返した。


「お前がまぬけにも橋から落ちたら拾ってやるよ! それじゃあな!」


 それだけ言い捨て、竜の角にかけていた手綱を引き、あっという間に空と雲の隙間に消えていく。セオのからかい文句はいつものことなので、あんまり気にしていない。それに……とリーズは考えようとしたが、早く行かねば遅刻してしまう。リーズには、空を飛ばせてくれる使い魔はいないのだから。

 きゃー……。けれど、どこか遠くから悲鳴が聞こえる。一体どこから? と周囲を見回し、その声はリーズの背後から響いているということに感じ取り、急いで振り向く。すると鷹の足に長い紐をくくりつけぶらさがっている黒髪の少女が、一心不乱に悲鳴を上げ続けてぐんぐんリーズに近づいてくる。


「あっ、あっ、あっ、ごめんなさい、そこ、どいてぇ!」


 リーズは思わず再度周囲を見回した。そして覚悟を決め、ぐっと眉尻に力を入れる。即座に力強く、両手を広げた。

 どすりと鈍い音が響き、文字通り、リーズの天地は逆さになってしまった。



 ***



 空中都市〈ウィスタリア〉。それが、リーズが住む島の名前だ。

〈ウィスタリア〉はいくつもの浮島が集まってできた都市で、それぞれの島の周囲には船の帆よりも大きな羽が幾枚も生えている。それらが絶えずゆるりと羽ばたくことで街は空の中に形作られている。つまり、()()()()()()()()()()()


 海の上でゆっくりと筏を動かすような、ぎいぎいと羽が動く音が、島のどこからでもよく響く。どこよりも空に近い大地。それが〈ウィスタリア〉だ。

〈ウィスタリア〉にある島々はそれぞれが長い橋で繋がれ、誰でも行き来することが可能だ。けれどもこの第一学園区においては、実際に橋を歩いて移動している人間をリーズ以外は知らない。なぜなら〈ウィスタリア〉は空を飛ぶ都市という以外にも、地上の街とは大きく異なる特徴がある。

 それは、魔法を使うことができる住人も住んでいるということ。

 ――そしてここ、現在リーズがいる学園区は、魔法使いの才能を持った子どもたちが、そろいの黒いローブの制服を着て勉学に励むための、学び舎でもあるのだ。




(……師匠、旅に出るってどこに行っちゃったのかな)


 意味もなく開いたノートの端に、リーズが烏と蝶の絵を描いていると、

「皆さんも知っての通りのことですが」

 と、通りの良い声が聞こえた。


 教卓に立ち、すいっと背筋を伸ばしパンツスーツに身を包み、金の刺繍がついたケープを羽織った赤髪の美女の肩には大きなフクロウが止まっている。〈沈黙の魔法使い〉イライザ・オランジュの使い魔だ。

 真っ直ぐに教室を見渡すイライザとは異なり、フクロウはときどき首を傾げ黒い瞳をくるくると忙しなく動かしている。目が合っていないのに合っているような気分になってしまい、朝とは異なり、おでこに大きな絆創膏をつけたリーズは体を小さくさせながら、描いていた落書きをそっと片手で隠した。

 第一学園区は高度が高く、さらに外壁部に学舎が設置されているため窓の外からは他の島々を見渡せる。どこまでも青い空の中にいくつもの家の軒が積み重なり、その家々を保護するようにリーズの指の先くらいに小さく見えるきのこのような巨木が、ぽこりぽこりと島のあちこちから生えている。空を飛ぶ〈ウィスタリア〉は季節を重要視しないが、暦の上では今は秋である。緑の木々も、黄色に染まっているものも多い。

 ごう、ごう、とときおり小さく風に乗って窓から響く音は、島が羽ばたいている音だ。


「〈ウィスタリア〉は大地を捨てた魔法使いたちの末裔が住む理想郷です。今でこそ魔法を使用できる人間は少なくなりましたが、過去、私たちの祖先は魔法の力を持つがために大地の人々に迫害され、空に魔法使いのみの街を創ることにしました」


 そんな周囲の音とは関係なく、どれだけ離れていようともイライザの声はよく聞こえた。おそらく〈音伝〉魔法を使用しているのだろう。

 教室にいる二十人近い数の生徒それぞれに適切な〈魔導力〉を使用し声を届けているとは、恐るべき手腕だ。彼女は去年から続き、今年もリーズの担任となったわけだが、初めて彼女の声を聞いたときは、さすが二つ名を持つ魔法使いだな、とリーズは驚いたものだ。

 新学期、新学年おめでとうございます――。イライザはいつもと変わらぬ口調で学期の挨拶を行い、そして淡々といつも通りに授業を開始した。

 今はその締めくくりの説明である。

〈ウィスタリア〉の魔法学園は、秋から始まる。


「理想郷を理想郷たらしめるためには、確固たるルールが必要でした。迫害され、権利を奪われ続けた歴史が、そうさせたのです。だからこそ私たち〈ウィスタリア〉の住民は、自身の権利に敏感な国民性を持っています。特許魔法が現れたのはこの時期ですね。また初めからわかっていたことではありますが、魔法使いだけが住む理想郷〈ウィスタリア〉には、一つの欠点がありました」


 真面目にイライザの講義に耳を傾けるリーズとは異なり、同じ服を着た同級生たちはそれぞれ羽ペンをいじったり、教室に出せる程度の小さな使い魔を持つ者はこそこそと使い魔をかまったりしていた。ここまではお決まりの話だからだ。


「問題とは、つまりは衣食住をどうすべきか、ということ。この空中都市ではすべてが自給自足。人が生きながらえるためのすべてを島の中で完結させなければなりません。魔法使いたちはそれぞれ特技を活かし、畜産や工業、商業といった生きる上で必要不可欠な仕事を手掛け、中には特許魔法――使い魔を通じて使用できるオリジナルの魔法を生み出し、人々の助けとなる者も現れました。魔法を使える者が減った今も、その心根は変わりません。私たち島の住民は、誰もが自身の仕事に誇りを持っています」


 けれどもぴたりとイライザの言葉が止まり奇妙な緊張感が流れた途端に、生徒たちは知らぬうちに、誰もが自然と背筋を正し、イライザに視線を向けていた。イライザは眼鏡の奥にある鋭い目で、教室中を睥睨する。


「今年十五歳となるあなたたちは、今日から魔法学園の二回生となります。つまりは、基礎講習を終え、一人前として扱われることとなります。権利を得るためには、義務も果たさなければなりません。先人は、こんな言葉を我らに残しました。――働かざる者、食うべからず。死、あるのみ」


 さすがに最後の言葉はイライザのオリジナルだが、ときおり友人とささめき合っていた生徒でさえも氷づかせるほどの冷たい声であった。教室はしんと水を打ったように静まり返ってしまう。


「魔法の才を持つあなたたちは、人々の生活を支える義務があります。この一年の間に各々の特性に応じた仕事を見つけ、そして相応の結果を残した者のみ魔法学園を卒業することが許可されます。どうぞ心して新学期を迎えてください」


 卒業、という言葉が重たく響く。

 ――そのときリーズは思い出した。『仕事を見つけるんだよ。』という師匠の言葉を。





 新学期である本日は、ほとんど代わり映えのない同級生たちとの顔合わせの他、年間の行事予定の確認のみで終わってしまった。帰路に就くためにすぐさま教室から出ていく生徒も多かったが、リーズは彼らに混じって慌ててイライザを追いかけた。


「あ、あの、イライザ先生!」

「なんですか。リーズ・ブロッサム」


 彼女に双眸を向けられると、凍りついてなにも話せなくなってしまう。だから〈沈黙の魔法使い〉なのだと生徒たちから噂されるイライザだが、そのことについてリーズはあまり気にしてない。


「あ、あの、私……」


 リーズが口ごもると、イライザは教本を片手に持ちながら、長いまつ毛を揺らすように、ゆっくりと瞬いた。初めてイライザと話したときも、『リーズ……ブロッサム?』と彼女はなぜかリーズの名を不思議そうに声に出していたが、そのときと少し似ている。


「無理じゃないかと思うんです……」

「無理……とは?」

「卒業が……」


 廊下の窓の向こうの空で羽を広げた白い鳩たちが列をなして通り抜けた。廊下には暗い影が降り落ち、なぜだか自身の声でさえも遠く感じる。そのときリーズは、自分がすっかりうつむいてしまっていることに気がついた。()()()()()()()()()()()()()()()。それはこの一年で、強く認識したことだ。

 憧れていた黒のローブに袖を通したときは晴れやかな気持ちでいっぱいだったのに、魔法学園に入学できたことでさえ、なにかの間違いではないかと思ってしまう。握りしめた拳が震えて痛いくらいに感じたとき、ふ、と優しく頬をなでられた。

 びっくりして顔を上げると、ほんの少しだけ柔らかく目を細めたイライザが、「あなたなら、大丈夫です」と優しげな声を出している。ぱちりとリーズが瞬いた瞬間、イライザはいつも通りに冷淡な顔つきとなっており、「インクがついていますよ」とそのまま指先でリーズの頬を拭いとった。呆然とした後に、リーズは真っ赤になって拭われた頬を両手で押さえた。朝、慌てて髪をとかしまったから、顔まで見ていなかった。

 そうこうしている間に、イライザは「それでは」と背中を向けてあっさりと消えてしまう。


「イライザ先生……!」


 呼び止めようとした声はあまりにも小さくて、イライザには届かない。リーズは伸ばした手をゆっくりと下ろし、ため息をついた。「あの、あなた! 今朝の子よね!?」が、聞こえた声に向かって振り向くと、肩に鷹を乗せた黒髪の少女が申し訳なさそうに、けれども元気よくリーズに声をかけた。


「やっぱり! ね、そうよね?」

「ああ……朝、ぶつかってきた……」

「ごめんなさい! 私、別の島から引っ越してきたの。今までは第二学園区の島にいて、道がわからなくって急いでたから、使い魔への指示もめちゃくちゃになっちゃって……。私、クレア。クレア・セントリーズ」

「私は……リーズ・ブロッサム。はじめまして」


 クレアは黒髪に黒目という、〈ウィスタリア〉では珍しい色合いだが、すぐにリーズは好きになった。優しい色合いだと思ったのだ。まずは名を名乗り、互いに握手をするのは魔法使い同士の決まりである。


「さっきのことは気にしないで。あんなところを歩いているのなんて私くらいだし」

「でも、私が落ちそうになっていたから受け止めてくれたのよね? おでこ、大丈夫? それより話しかけてもよかった? さっきイライザ先生と話してたのよね?」

「大丈夫。特許魔法のことで、相談をしようと思ってたんだけど……」


 うまく言えなくて、と困ったように笑うと、「特許魔法!?」と、クレアは大きな瞳をさらに大きくさせて素っ頓狂な声を出した。


「リーズって、もう特許魔法を持っているの!?」


 きらきらと目を輝かせるクレアを見て、リーズはしまったと後悔した。クラスの大半が持ち上がりでリーズのことを知っているから、いちいち説明する必要がなくてうっかりしていたのだ。


「十五歳で、もう特許魔法を持っているだなんて! すごい、それなら二つ名もあるってこと? ねぇ、どんな魔法か教えて! すごいすごい!」


 リーズの両手をぶんぶんと振りながら無邪気に喜ぶクレアを見ると、だんだん肩身が狭い気持ちになってしまう。「ええっと……」と視線をそらしつつ、ついでになんとか話題をそらすことができないだろうか、と考えている間にも、なんだなんだと教室から出るクラスメイトたちの視線が集まってくる。気まずい。


「リーズ、じらさないで教えてったら!」

「そういう、わけじゃないんだけど……」

「あっはっは。言えるわけないよなあ?」


 割り込んできたのは、セオだ。リーズよりも少しだけ背が高いだけの彼は、クレアと並ぶと同じくらいの身長だった。親しげに話しかけてきたセオに対して、「なによこいつ」とクレアは眉をひそめて体を引く。


「俺はセオ・グリーンフィルドだ、転校生。よろしく」

「転校生じゃないわ。クレア・セントリーズよ」


 お決まりの挨拶をしながら、クレアも嫌々といった様子で自身の名を名乗る。


「それで? 私はリーズと話をしているんだけど」

「そいつが言いづらそうだから、代わりに言ってやろうってんだよ」


 セオは緑の瞳をにまりと歪めて、リーズに目を向けた。

 リーズは一瞬きょとんとした後、すぐにため息をつき視線をそらす。


「転校生のお前以外は、みんな知っていることだけどな。リーズは基礎魔法を使用することができない」

「……えっ?」

「しかも使い魔はただの蝶だ。使い魔に乗って空も飛べない。特許魔法を持っているといっても、砂粒程度しか持ち運ぶことができないクズ魔法だ。だから二つ名もない。こいつは、魔法学園の、一番の落ちこぼれなんだよ」





 セオの言うことは、なにも間違いじゃない。魔法使いである養い親がいるというのに、リーズはまともに魔法を使うことができない。

 なんで自分は基礎魔法を使うことができないのかと養い親である師匠に泣きついたこともあるけれど、結果はなにも変わらなかった。せめてもとオリジナルの魔法を生み出してみたが、しかしそれはセオが言うように、〈砂粒程度の重さを運ぶことができる魔法〉であり、なんの意味もない魔法だった。

 家に帰ってもカァカァとジタバタしている烏が一匹いるだけで、師匠はやはり帰ってはいないらしく、烏の食事だけ支度してリーズは島をぶらついた。働き者の島民たちがいる島はどこもかしこも賑やかで、ときには使い魔を肩に乗せた魔法使いが住民たちと談笑している。


(みんな、なにかしらの仕事をしている……)


 当たり前の、けれども遠すぎる光景が、リーズの心をささくれさせた。

〈ウィスタリア〉の島々は飛来物から街を守るため外壁が高く設置されており、ろうとのように窪んだ島の形になぞらえるように、ぐるりと円を描いた階段が周囲に設置されている。大きな巻き貝の内側に階段があるイメージだ。

 いつしかリーズはその階段の上に隠れるように座り込み、鬱々と呟いていた。


「しごと、しごと、しごと……こうして何度も呼んでいたら、どこからか、飛び込んでこないかなぁ」


 まさかそんなわけがないとわかっているが、呟かずにはいられない。さわさわと葉っぱが揺れる度に、秋の日差しが見え隠れする。〈ウィスタリア〉では大地を安定させるために木々や植物が至るところから伸びているのだ。

 家の手伝いの合間に遊んでいるのか、やってきた子どもたちが蔦を引っ張り、さらに階段の手すりの上を滑り降りている。元気だ。リーズとはまるで別の場所にいるみたいに。「私……」ふと、口元が勝手に動いた後で、ぴたりと止まる。これ以上はだめだ。


「私、魔法学園を卒業できないかもしれない……」


 だめだと思ったのに、とうとう言葉が形になってしまった。ああ、と目をつむって仰け反った。そしてゆっくりと丸まるように座る。


「卒業とか、卒業しないとかいう問題じゃないよね。魔法が使えない魔法使いだなんて、聞いたことない。なんで私、こうも失敗ばかりなんだろう」


 おでこの絆創膏がじんわりと痛くなる。

 子どもたちが楽しそうに笑う声を耳にしながら、リーズはため息をついて魔法使いの学舎に通う印であるローブの裾をいじった。そしてきっと眉間に力を入れて、指を突き出す。


「……〈水玉〉」


 リーズはゆっくりと右の人差し指を回した。どこからともなく、ぱちゃぱちゃと水の音が生まれ水の雫が宙に浮かぶ。くるり、きらりと光を反射する雫を見て、リーズは少し緊張する。本来ならこの雫は出した人間の制御化にあるのだが、雫を見つめている間に、周囲の笑い声に気を取られた瞬間、水はどんどんと膨らみ、あっという間にリーズの顔ほどの大きさになってしまう。

「あっ」と声を上げたときには、ぱちんっ! と弾け飛び、リーズの顔や頭をぐしゃぐしゃに濡らしてしまった。濡れそぼった茶色い髪からぽとぽとと水がしたたり、リーズは何度目かのため息をついでローブの袖を伸ばしゆっくりと顔を拭う。

 基礎の基礎の魔法ですら、この有様である。


 ――魔法使いは、人々の生活を守らなければならない。


 これが、魔法使いたちの共通の認識だ。力があるものの義務でもある。なのにリーズは、その力さえ持たない。

 リーズが基礎魔法を使えないと知った記憶の中のクレアの姿を思い出し、落ち込んでしまった。クレアはぽかんと口をあけて、信じられないという顔をしていた……。


「違う、あなたたちのせいじゃないの。全部私のせい」


 ひらり、と自身の肩に一匹の蝶がとまったのを目の端で見やり、小さく首を横に振って否定する。使い魔が悪いわけではない。むしろ、こんな主で申し訳ない。


「今の私の気持ちって……青色、ううん、いや海の色に泥を流し込んだような、濁った色なんだろうな……」


 自嘲的な言葉を吐き出し立ち上がり、階段の手すりにぐったりもたれかかる。

 気持ちが悪くなって、ぐっしょりと濡れた髪からリボンを引き抜くと、もこもこの髪の毛が暴れまわった。なんだかさらに情けない気分になってくる。


「ねえちょっと、お姉さん」


 ぱっ、と。リーズの肩に止まっていた虹色の蝶が姿を消した。

 リーズは、しばらくの間自分が話しかけられているということに気づかなかった。「お姉さんったら」しょんぼりした犬のような顔と頭をしたまま振り向く。小さな女の子が、くりくりした瞳をこちらに向けている。

 前髪を三つ編みに編み込んでつやつやのおでこを見せた、可愛らしい女の子だった。


「なあに? どうかしたの……?」

「どうかしたの、じゃないわよ。お姉さんったらびしょ濡れじゃない」


 私、濡れている人ってどうしても気になるのよね、と少女は胸をむん、と張っておでこをきらりと光らせる。怒っているのか、心配しているのかよくわからない様子で彼女は肩口まで綺麗にカットした髪を揺らしている。


「ああ……さっき〈水玉〉で失敗しちゃったから」

「〈水玉〉で失敗ってどういうこと!?」


 語気は強いが、やっぱり特に深い意味はないらしい。黄と赤が混じった、明け方の空みたいな素直で元気な声色。そんな子だった。十歳くらいかな、とリーズがぼんやり考えている間に、「まあいいから、こっちにいらっしゃい! ちゃんと乾かしてあげるから!」と少女はリーズの腕をぐいと引っ張った。





 連れてこられた店の中で、リーズは不思議な気持ちできょろりと周囲を見回した。


「ごめんなさいね、うちの子が」と優しい声色をしたその人は、少女の母らしい。

「いえ、そんな……。わぷっ」

「ちゃんと下を向いといて」


 リーズを引っ張ってきた女の子は、ジェシカと名乗った。

 椅子に座ったリーズの頭をジェシカは台に乗って背伸びをして、がしがし、ごしごしとタオルで拭いてくれている。リーズはしばらくの間されるがままとなり、茶色い髪の隙間からそっとその場を観察した。

 連れてこられた場所は本屋だった。どうやらジェシカと彼女の母の二人で営んでいるらしく、店にはぎっしりと本棚が敷き詰められており、それぞれいっぱいに本が入っている。ゆさゆさ、と頭を揺らされながら意外にも丁寧な手を感じつつ「本が濡れちゃだめだからね。動いちゃだめ」と真剣に話すジェシカの声を聞いた。そして濡れている人を見ると気になる、と言っていた理由をなんとなく理解した。

 ジェシカの母はクラレットと名乗り、彼女はカウンターに座って分厚い本を開き、ときおりちょんちょん、とペンにインクをつけて忙しそうに手を動かしている。


「よし、もう乾いたわね!」


 なにを書いているのかな、とさらに視線を移動させようとしたとき、ジェシカの満足げな声が聞こえた。ジェシカが頭を押さえていたタオルを取り上げた瞬間、リーズのふわふわの髪の毛がぼいん、ぶわりと膨らんだ。


「……わんちゃんみたい」

「わ、わんちゃん?」


 ぽつりと呟いたジェシカの声に反応してリーズは首を傾げてしまうと、ジェシカはさっと本を取り出し、「ほら、これ。ここにのっている子にそっくり!」と弾んだような声を出した。絵本の挿絵らしいそれを見て、さすがにちょっと恥ずかしくなり、リーズは慌てて自身の髪の束を両手で掴んで隠した。そんなリーズの姿を見て、ジェシカとその母は目を合わせ、ぱちりと瞬いたかと思うと口に手を当てこらえきれなかった笑いを吹き出す。

 それは優しい笑い声だった。洗いたてのもこもこになったような髪をそのままにして、リーズもつられたようにちょっとだけ笑った。そんな自分にびっくりした。


「で、なんでそんなことになってたのよ? 〈水玉〉って魔法使い様たちがよく使っている、水を出す魔法でしょ?」

「……それは」


 おしゃまで、おせっかいで、でも可愛らしいその声に、気づけばリーズは彼女たちに自身の状況を語っていた。




 すべてを聞き終えたジェシカたちは、深い息をつくとともに「なるほどね、だから〈水玉〉で失敗しちゃったってことね」と感想を落とした。

 本屋の中は穏やかな空気が流れており、古い紙の匂いがする。それが、とても落ち着いた。

 ジェシカどころか、彼女の母のクラレットまでも神妙な顔つきでリーズの話を聞いてくれたので、店番をしなくて大丈夫なのだろうか? と不安に感じたが、もともとあまり客が訪れてはいないようだ。


「ふーん。でも魔法使い様の魔法はすごいと思うしありがたいけれど、魔法を使えなくたって仕事はできるでしょ? 魔法を使わなくていい仕事に就くというのはだめなの?」

「だめ……というわけじゃないと思うけど、雇ってくれる人からすると、魔法使いならって期待させてしまうし、それに、他になにか特技があるわけでもなくて……」


 そうこうもごついている間に、いつしかリーズの肩のあたりにふわりと蝶が現れた。「わあ」とジェシカが両手を合わせる。窓の数が少ないため暗い本屋の中に、ガラスの羽がわずかな光を反射させ、小さなランプのような明かりがぽとりと灯った。


「あ、ごめんなさい無意識に」


 けれども蝶が消えると同時に、本が敷き詰められた暗い店の中に戻ってしまう。


「ううん。とっても綺麗だった。でも使い魔って、普通もっと羽が大きいわよね? そうじゃないと空を飛べないじゃない」

「こらジェシカ!」


 母にたしなめられたジェシカは不満そうに頬を膨らませているが、彼女が言っていることはなんの間違いもない。

 魔法使いたちは空を飛ぶために使い魔を喚び出す。ならば飛べない使い魔など、意味がないと、そう思われても仕方がない。

 妙な暗い雰囲気になってしまったとき、「ああだめ!」というクラレットの声が聞こえた。書いていた書類がうまく書けなかったのだろうか。うめきながら大仰に首を横に振っているから、どうしても気になって、彼女の手元へと視線が移動してしまった。

 どうやらクラレットは、手元にある本とまったく同じ内容を隣の本に書き写しているらしい。が、本の挿絵のページで、手が止まってしまっている。


「絵はだめなのよ、絵は。文字なら自信があるんだけど!」

「お母さんはお父さんと比べて、ちょっと手先が不器用なのよね」

「……よかったら、描きましょうか?」


 自分のグチグチした話を聞いてくれたせめてものお礼に……と思っての提案だったのだが、「え」とクラレットは素っ頓狂な声を出して、ジェシカもクラレットと似たような顔をして口元をすぼめている。おかしなことを言ってしまっただろうか、と不安になっていると、「ど、どうぞ?」ペンを渡されたので、おずおずと受け取った。そのままクラレットに場所を譲ってもらい、いつも通りにペンを動かす。


「おおお」

「おおおお」


 なぜだか感動の声が聞こえたが、気にせず描き終える。「できました……ひいっ!」顔を上げると、二人の距離が近くてびっくりした。もふもふの頭を揺らして、思わず後ずさってしまう。


「リーズさんは、まだどこの仕事も決まってないのよね」

「は、はい」

「確認だけど、魔法は関係ないけど、働くことができるなら、どこだっていいのよね?」

「う、うん」


 最初はクラレットから。次はジェシカからの疑問だ。問われるままに頷いていると、母子は互いに視線を見合わせいて、にんまり笑った。その後、どっちが言うかと目で合図をしているのか、どうぞどうぞと譲り合っている。勝ちを取ったのは、ジェシカだったらしい。ジェシカはきらきらとした瞳を向けて、リーズに提案した。


「そしたら、うちの本屋で働くってのはどう?」

「……え?」




「それで、その本屋で働くことにしたの?」


 今日もクレアの肩には立派な鷹が乗っている。リーズは「そう」とゆっくりと頷いた。仕事を探すという卒業の目標はあるが、もちろん魔法学園に通う必要もある。午前中は雑学を、そして午後はみんなそれぞれの仕事場へと向かい、修業に明け暮れている。卒業の条件は入学したときからわかっていたことであるため、すでに大半の生徒は仕事を見つけている。

 学園ではお昼ご飯を食べた後に自身の職場へと向かう生徒が多く、リーズは手作りのおにぎりを、クレアはおしゃれなバケットに入ったサンドイッチを机の上にのせている。


「リーズのご飯、美味しそう」

「烏のご飯の残りをまとめただけだよ」

「烏……?」


 まだ師匠は帰ってきていないので、烏の使い魔はリーズと同じ食事をしている。今回の師匠の旅は長そうだ。「……烏ってどういうこと?」「えっとね」質問に答えようとなんとなく教室を見回すと、セオとぱちりと目が合った。リーズが瞬くと、セオは一瞬で眉を寄せて、あっかんべぇ、と舌を出す。びっくりした。


「セオってほんと子どもっぽい。信じらんない」

「ふふ」


 クレアは苦虫を噛み潰したような顔をしている。

 彼女が転校してきた日から、リーズとクレアはあっという間に仲良くなった。綺麗で、どこか大人っぽい雰囲気の彼女を他のクラスメイトたちはいつもどこか遠巻きに見つめているが、リーズはクレアとジェシカって、ちょっと似ているな、と思ってしまう。


「クレアはどこに決まったんだっけ?」

「観測所! 鷹は目がいいもの。浮島は風で移動する場所も変わるから、周囲の地理を把握することも重要なの」


 こんなふうに、表情がころころ変わるところとか。


「そっか……」


 リーズはぱくり、とおにぎりを口に入れる。セオが運び屋に決まったということはなんとなくクラスの噂で耳にしていた。浮島での物資の移動は、特に重要な仕事といえる。島と島は橋で繋がれているが、それを歩いて行こうとすると大変な時間がかかってしまう。素早く、そして大量の荷物を運ぶことができるのは大型の使い魔を喚び出せる魔法使いのみで、いわば魔法使いの花形のような職種だ。砂粒しか運ぶ魔法を持っていないリーズとは、大違い。

 竜の背にまたがったセオは、きっとすでに立派に運び屋の仕事を成し遂げているんだろう……。


「別に、いいわよね。魔法使いだからって魔法を使って仕事をしなきゃいけないってわけじゃないもの」


 ぼんやりとしていたからか、クレアの言葉にずいぶん遅れて返事をしてしまった。

 そうね、と頷いた後で、自分は今、なにを考えていたんだろう、と首を傾げてしまった。今日も窓の外から、ぎいぎいと羽の音が聞こえている。





 午後になって、「こんにちは」とリーズが本屋の扉を叩くと、「いらっしゃい」と可愛らしい声がした。


「もう開店してるわよ。勝手に入ってちょうだい」


 立派な店員の声はジェシカである。彼女はまだ十歳だが、ときおり一人で店番をしているらしい。魔法使い以外の子どもたちも、十五歳になると仕事を見つける。ジェシカは家の仕事を継ぐために少し早めの修業をしているらしい。

 とはいえ、まだまだ見習いの店員さんだ。この店で働かないかとリーズを誘った際に、『ちょうど、ジェシカ一人で店番をするのは不安に思っていたの。父親が出稼ぎに行ったばかりで』と彼女の母は笑い皺をくしゃっとさせて話してくれた。

『なに言ってるのよ、お父さんなんていなくっても平気よ』と、ジェシカはほっぺたをぱんぱんにさせて怒っていたけれど。

 クラレットは近所に住む自身の両親をときおり訪ねているらしく、そのときにジェシカが一人きりになることを心配しているのだ。


「わあ、ジェシカ、危ない!」

「危なくなんてないわよ」


 リーズが店の扉をあけると、ジェシカは高いはしごを登って本棚の上段へと手をかけていた。慣れた様子で本の並びを整えて、はたきを使い埃を落とす。その間リーズははらはらと彼女を見守ったが、ジェシカは危うげなく仕事を終え、ひらりと地面に降り立った。ジェシカが下りてくる際に、なにがあってもいいようにと開いていた両手の形をそのままにして、リーズはなんとなくジェシカの動きを目で追った。

 写本の仕事をするために雇われたリーズだったが、挿絵が必要な本はそれほど多くはない。だから普段は店の仕事を手伝うことになったのだが、一人で立派に店をきりもりするジェシカの姿を見て、やっぱり自分なんて必要なかったかも、と考え込んでしまった。そんなふうにううん、とリーズが唸っていると、ジェシカは店の窓をがたがたとあけ、空気を入れ替える。ぎい、ぎいと羽が揺れる音が遠くから響き、外の黄色い葉っぱがよく見えた。


「お父さんがいなくなったばっかりだったから、話し相手がいてくれたらいいなって思ってたの」


 ぽそり、とまるで独り言のように呟かれたその言葉の意味が、一瞬わからなかった。

 けれど、はたと理解したとき、リーズは知らぬうちに口元に笑みをのせていた。ジェシカの耳は、落ち葉みたいに真っ赤に染まっていた。





「うちの本屋は、本を売るためというよりも、本を保管する役割の方が強いの。あとは他の人に正しい知識を伝えたりとか」

「そうなんだ」


 へえ、と相槌を打ちながら、リーズはジェシカとともに本の整理をした。


「とっても重要な仕事なのよ。客がいないからって暇だろう、とか。こんな本屋なんてなくてもいいんじゃないか、とか考えないでよね」

「そんなこと考えてないよ」

「まあ、暇なことは事実なんだけど。でもこの本はお母さんの、そのまたさらにお母さんの、最初に魔法使い様たちがこの島に来たときからある大事な本ばかりなのよ。〈ウィスタリア〉はときどき高度が低くなることがあるし、潮風や光が入ってこないように、お店の中は暗くしているの」


 なるほど、とリーズは薄暗い店を見回す。

 古い紙の匂いがそこいらに溢れて、静かな店は一見陰気に見えるが、なぜか明るく感じるのは、決してリーズの使い魔たちの羽がわずかな光を反射させているからという理由だけではない。きらきらとした元気いっぱいの笑みがそこにあるからだろう。


「このお店を継ぐことが、ジェシカの夢なんだね」

「そう! 新しい本もときおり入ってくるけど、私たちがこの本たちをなおざりにしてしまったら、消えてしまう知識も、記憶もあるの。それってとっても大変なこと。大事に、大事にしなきゃ」


 知識を、記憶を伝える。妙にぼうっとした気分になった。

 ――こんなに小さなジェシカでも、目標があるのに。私がしたいことってなんだろう。

 本の背表紙に静かに指をはわせながら考えた。だというのに、次第に指先の本が気になり、この本の色は、どんなふうに混ぜたんだろうと思考がそれていく。ぴたり、とリーズは動きを止めた。それからぶるぶると勢いよく首を振った。こんなふうに一つのことに集中できないのがリーズの欠点だと自覚している。


「ねえ、あそこの本は、写本をしなくてもいいの?」


 写本を終えた本は、棚の中に。写本が必要な本は、カウンターの横に積まれている。けれども、リーズが指さした本は店の隅にある椅子の上にぽつんとのっていた。最初にリーズが座って髪を乾かしてもらった椅子だ。


「リーズって意外とめざといわよね」


 ジェシカが眉をひそめたところで、しまったと思った。ジェシカの声色の中に、滲むような別の色が見えたからだ。


「……これは、私の本だからいいの」


 ジェシカは、ゆっくりと本に近づき、表紙にそっと指をのせた。可愛らしいイラストが表紙に書かれているその本は、『わんちゃんみたい』とジェシカがリーズに話したときに見せてくれた絵本だと、そのときやっと気がついた。





 さあ、本の整理の続きをしましょう、とジェシカが声を出すと同時に、ただいまあ、とクラレットが明るい声で帰ってきた。


「ジェシカ、今お父さんから〈音伝〉魔法が届いてるの! ほらほら早く! あら、リーズもいてくれたのね!」

「えっ、パパから?」

「そうよ、魔法使い様にお願いしてくれたの!」


 お父さん、じゃなくてパパなんだ。となんとなく微笑ましくなってしまったとき、ジェシカはリーズがいることを思い出したらしく、ぴたりと喜びの表情を止めた。そしてはっとリーズを振り返ったジェシカに、思いっきり首を横に振った。こっちのことは気にしないで、という意味である。


『ジェシカ?』


 すると、どこかから男の人の穏やかな声が聞こえた。魔法使いに頼んで声だけ飛ばしてもらっているのだから姿なんて見えるわけがないけれど、優しいクラレットの夫でありジェシカのお父さんなのだから、こんな姿なんだろうな、という想像通りの声だった。


『お母さんの言うことを、ちゃんと聞いているかい? 次の休みには、そっちに行くから』

「おと……パパ」


 でもなぜだろうか? ジェシカにいつもの元気がなかった。明るい色が、一瞬にしてくすんでしまったような、そんな雰囲気だ。ジェシカは、ぎゅっと拳を握った。


「パパなんて、もうずっと帰ってこないで!」


 それだけ叫んで、ジェシカは走って消えてしまった。





 びっくりして目を丸くするクラレットに、「お店をよろしくお願いします!」と伝えてリーズはジェシカを追いかけた。急ぎすぎたからか、ジェシカが走り去った瞬間、椅子にぶつかって落ちてしまった絵本を拾ったまま持ってきてしまった。


「……なんでそんな本持ってるの」


 リーズがたどり着いたのは、最初にジェシカと出会った場所だ。ジェシカは蔦が巻いた階段に座り込み、ぐずりと鼻をすすっている。どうしようか、どうしようかとリーズは本を抱えてうろちょろしていると、「あっちに行ってよ」と言われてしまった。

 しょうがないのでそのまま帰ろうとすると、「そこは、無理にでも残るでしょ普通!?」と理不尽に怒られたので、しょうがなくジェシカの隣に座った。


「……私って、いつもこうなの」


 ぐず、とジェシカはもう一度鼻をならした。


「いつもって?」

「怒ってるみたい、というか。そんなつもりじゃないのに、びっくりしたら変なことを言っちゃう。お父さんは、いっつも私とお母さんのことを心配してわざわざ魔法使い様にお願いして〈音伝〉魔法を使って声を届けてくれるのに、〈音伝〉魔法っていつも急だから、心の準備ができてなくて」

「うんうんそうだよね」

「嘘でしょわかってない、適当に頷いてる!」


 とりあえず肯定してジェシカの気持ちを慰めようとしたのに、あっさりとバレてしまった。なので、今度はしっかりと考えて、自分の言葉を伝えてみることにした。


「……ジェシカが、怒ってるように見えても怒ってないってことは、私でもわかるよ。だから、クラレットさんだって、お父さんだって知ってるに決まってるよ」

「……嘘よ。だって、私、こんなだから同い年の友達もいないんだもの」


 たしかに、濡れているリーズを無理やり店に連れていく手腕はなかなかのものだった。「大丈夫」リーズはうつむいているジェシカに、しっかりと目を合わせるように、覗き込む。「私は、ジェシカの友達だから」

 同い年ではないけどね、と話すと、ジェシカはちょっとだけ笑った。目の端には、涙が溜まっている。それから、リーズとジェシカは色んな話をした。ジェシカが落とした本は、昔ジェシカの父が何度も読んでくれた本だということ。友達がいない女の子が、色んな場所を冒険して、素敵な動物たちと出会い、友達になる物語なのだということ。


「可愛くて、すっごく大好きな話なんだけど、挿絵がちょっと少ないの。だから、小さい頃は読むのが大変で、パパにたくさん読んでもらった。この女の子は、この動物は、どんな姿なんだろうってたくさん想像して……」


 ジェシカは本の表紙を、ゆっくりとなでる。大切な思い出を慈しむように。


「私のパパはすごいのよ。羽の整備士をしているの! とっても腕がいいから、隣の浮島の整備をお願いされたの。……〈ウィスタリア〉は、昔は大地の一部だったけれど、今はもう飛ぶことしかできないでしょう? 大地に降り立つことを羽が忘れてしまったから、この本にのっていても、島には住んでいない、見たことがない動物たちがたくさんいる。昔は使い魔って、猫だったのよね。猫って、絵でしか見たことがないけれど、すごく可愛くて好き。見てみたいな」


 いつしか、空がゆっくりと夕焼けに変わっていく。リーズの蝶たちが、ひらひら、きらきらとガラスの羽に色を吸い込み羽ばたく。


「パパは、隣の浮島に行く日に言ってたわ。『ジェシカが猫と出会えるように、いつか浮島の羽のすべてを直してみせる。パパはとってもすごいんだぞ』って。でもそれって、どれくらい先なのかな?」

 空に旅立った魔法使いたちの末裔は、いつしか大地を忘れてしまった。自由に飛び回れるはずの羽を持っていたはずなのに。

 そうして、使い魔たちの羽に、願いを託すのだ。


「もちろん今回はただの整備だから、きっとすぐに戻ってくるわ。わかってるの」


 おしゃまな顔つきで肩をすくめるジェシカを、リーズはいつしか真剣な目で見つめていた。「伝えよう」はっきりと突き出た声に、「なんのこと?」とジェシカが首を傾げる。


「ジェシカの想いを、お父さんに。伝えよう」

「いきなり、どうして?」

「お父さんは、きっとジェシカの気持ちをわかってる。でも、『帰ってこないで』って言ったこと、ジェシカは後悔してるんだよね。それなら、ちゃんと伝え直そう」

「……どうやって? リーズは、その、使えないじゃない。それに、こんなふうにじっくり話すなら大丈夫だけど、いきなりパパの声を聞いたら、私、また変なふうにとちっちゃう」


 使えない、というのは〈音伝〉魔法のことだ。口ごもるジェシカを見て、彼女の優しさを感じた。「大丈夫、ゆっくり伝える方法があるから」わずかに、リーズは口元に笑みをのせた。


「書いて伝えたらいいんだよ」



 ***



〈ウィスタリア〉の色は、どこか寂しい。リーズはときおり、そんなふうに感じる。浮島の橋を渡るとき。朝一番に窓をあけて、外の光を感じたとき。青よりも、ほんの紫。藤の花のような、でも、誰かの寂しさに寄り添ってくれるような、そんな温かさがある。

 紙に書いてどうやってパパに届けるの? というジェシカの疑問にリーズはそれも大丈夫、と笑って伝えた。

 黄昏色の空の下で、静かな呪文が響き渡る。それは魔法使いだけの秘密の呪文だ。ポケットの中に入れっぱなしになっていたガラスのペンに様々な音を重ね合わせ、歌をうたうようにくるりと回す。その度に、軽やかに蝶が舞い踊る。リーズのペンの軌跡を、蝶がたどる。

 階段に座ったままのジェシカは、ぽかんとその光景を見上げていた。沈む夕日を背中に添えて、ガラスのペンがきらりと輝く。


 ――本当はね、紙には書かないの。


 ジェシカの疑問に、リーズはそう答えた。リーズがゆっくりと手のひらを差し出す。途端にぶわりと蝶が溢れ出し、色とりどりの蝶は、まるで花畑の中にいるようだ。「わあ……」とジェシカは感嘆の息を落としていた。あまりにも、綺麗で。


「ジェシカ、こっちを見て」


 いつしかリーズの指には、一匹の蝶が留まっていた。ゆっくり、ゆっくりと息をするように蝶は羽を動かす。


「私は砂粒程度の重さなら、持ち運べる魔法を持っているの。それはね、蝶一匹分の重さと同じ。だから使い道なんてほとんどない、役立たずの魔法なんだけど」


 それは二つ名さえも与えられないような、クズ魔法だとバカにされた魔法だ。


「でもね」


 リーズの唇が、柔らかくほころぶ。ゆっくりと指先を曲げ、淡い燐光を放つ蝶が、リーズの手のひらの中に沈んでいく。


「――想いくらいなら、運ぶことができる」


 するりと蝶はほどけるように、リーズの手の中で一枚の紙に変わった。それはジェシカの手のひらよりも少しだけ大きな、長方形の紙だ。リーズはその紙をつまみながら掲げて、淡く髪をなびかせる。


「ジェシカ。あなたの気持ちを教えて」


 リーズのガラスのペンが、幾重にも輝き、黄昏の時間を忘れさせた。


「私が、あなたの気持ちを描くから」



 ***




 その紙は、リーズにしか描くことができない。きらきらとした温かな想いをのせて、どこまでも高くゆっくりと羽ばたき、また蝶へと姿を変える。空が夜に変化するほんの少しの隙間を、きらめく星のように軌跡を残してその人のもとへと届ける。


 はあ、と一人の男がため息をついた。四角張った輪郭にほんの少しの笑い皺。ほんのりたれた眉毛の、見るからに人の良さを感じさせる顔つきをした男の、太い指の爪の先は、油が染み込み黒くなっている。働き者の手をしていた。


「班長、どうしたんですか。ため息なんてついて。もしかして、また娘さんに振られたんですか?」

「ええ? どうしてわかったんだい」

「だって、班長、わかりやすいもの」


 こうなったらさっさと羽を直して、家に帰らなくちゃね、なんて笑う若者を相手にして、男は苦笑しながら肩をすくめた。夜の闇の中でぎいぎいと音を鳴らす羽の音をぼんやりと聞いた後で、さて仕事の続きだと背中を向けたそのときだ。


 ――パパ。


 娘の、声が聞こえたような気がした。慌てて振り返ったが、もちろん誰がいるわけでもない。

 けれども不思議なことに、一匹の蝶がいた。紺色の空に染まることなく、ひらひら、ゆらゆらと。一見すると頼りなく、けれどもたしかに存在する姿を見て、こんなところに、蝶が? とびっくりして男は蝶に向かって手を伸ばした。

 ひたり、と蝶が指に触れたそのとき、『パパなんて、もうずっと帰ってこないで!』ときんっ、と耳を打つような音が聞こえる。娘の、ジェシカの声だ。


 そうよ、帰ってなんてこないで。

 だって、パパはとっても大事な仕事をしているんでしょう。

 私のことは、気にしなくてもいいから。大丈夫だから。

 寂しいよ。パパに会いたいよ。

 でも、それよりもっと、大切なパパの邪魔なんてしたくない。


 誰かが静かに涙をこぼすような、そんな音が耳に響いた。瞬くと、ぽろりと一粒、涙が落ちる。「わ」一体、これはなんだろうと目頭を拭う。ぼやけた視界で、自身の指先に視線を落とす。すると、蝶に指を伸ばしていたはずが、男は一枚の紙を握りしめていた。そこには、幾重にも色が混じったような、不思議な色合いをした絵とともに、流麗な文字が綴られている。

 肩口まで髪をそろえた女の子が、『猫』を膝の上にのせてはにかむように笑っていた。

 そして、一言だけ。


『楽しみに、待ってる』





「〈飛翔〉魔法、完了しました」


 リーズは静かに腕を落とし、夜の中でぽつりと立った。


「……本当に? 本当に、パパに私の気持ちが伝わったの?」

「うん」


 呆然としてリーズを見上げていたジェシカの瞳には、いつの間にかこぼれ落ちそうなほどの涙が溜まっていた。ぽつり、ぽつりと街にはランプの光がついてく。しんとした夜のしじまの中で、さわり、さわりと葉っぱがこすれる音ばかりが響いていた。


「……あのね、私はパパに会いたくないわけじゃないの」

「うん」

「会いたいに決まってるじゃない。でも、邪魔になりたくないから。パパの大切なものは、私にだって大切なんだから」

「うん」

「会いたいのに、会いたくない。こんな気持ち、自分だってわけがわからないよ」

「……うん」


 背中を丸め、何度も鼻をすするジェシカの背を、リーズは静かになでた。やっとジェシカが落ち着いたとき、彼女の目は暗いランプの下でもわかるくらいに真っ赤になっていたし、まぶたもぱんぱんに腫れていた。だからかジェシカはぷい、とリーズから顔をそむけ、リーズも彼女の気持ちがよくわかったのであえて見ないようにした。

 互いにそっぽを向いたまま、照れ隠しのように言葉を続ける。


「リーズって、本当に絵が上手いのね。びっくり。描いた絵が私にそっくりなんだもん。まるで絵本の主人公になった気分」

「えへへ。絵は……いつも、描いてるから。ずっと昔から、描きたいものがあるの。でも、うまくいかなくって」

「あんなに上手なのに? 不思議ね。ねえ、ペンに使っていたインクって、蝶の羽からもらってたように見えたけど、あれも魔法?」

「うん。描きたい色が普通の絵の具じゃ出せなかったから、今は使い魔たちに協力してもらってるんだ」

「へえ……。そんな魔法あるのね。それって、リーズのオリジナルの魔法でしょ? 特許魔法ってやつよね」

「え? さあ? 申請したことがないから知らない」

「え?」


 まぶたがぱんぱんに腫れていることも忘れて、ジェシカは目を見開いてリーズを見た。リーズもジェシカを見た。


「ええっと、〈飛翔〉魔法っていうのが、リーズの特許魔法よね?」

「うん、そう。砂粒程度の重さしか運べないから、意味なんてないって言われたけど」

「それと、使い魔の羽から色をもらって、絵を描くのも、そうよね?」

「さあ……? これはただの私の趣味だから」

 趣味の魔法を申請するのも変かなって思って、とたははと笑いながら頭をぽりぽりとひっかくリーズを、ジェシカは信じられないものを見るような目で口元をひきつかせた。

「ば」

「ば?」

「バカ! さっさと魔法局に行きなさい! そんで、さっさと申請して来なさい!」


 いつまでも帰ってこないジェシカたちを心配して、クラレットが迎えに来たのはそのすぐ後のことだった。『明日は店の手伝いはいらないから』とジェシカから、そして話を聞いたクラレットに後押しされて、翌日リーズはとぼとぼと魔法局へと向かった。

 そして魔法局のカウンターにて借りてきた猫のように小さくなり、犬のようにふわふわの毛をいつも以上に気にして結果を待った。まあ犬も猫も本以外で見たこともないのだが。


「許可します」

「え」

「リーズ・ブロッサム。あなたの色を作る魔法を〈色彩〉魔法と認定します」


 なにやら難しいことが書かれた書類の上に、ぽっこん、と大きな判子が押される。かろうじて読み取れたのは書類に自分の名前と、さらには使用できる特許魔法の一覧が書かれていることがわかったのだが、それよりも。


「……あの、イライザ先生、なんでこんなところに?」


 赤髪の女性の肩には見覚えがありすぎるフクロウが乗っている。ほっほう、とフクロウはリズミカルに声を出し羽を動かしたので、リーズはびくりと後ずさりしそうになる。


「働かざる者、食うべからずですから。可能な限り様々な職に就いております」


 つまり魔法学園の教師以外にも魔法局の職員も兼任している、ということらしい。忙しすぎる。


「ははあ。そういうことですか……ではなくて。あの、〈色彩〉魔法って――」

「言葉の通りの意味ですよ、リーズ・ブロッサム。魔法局はあなたの魔法を、あなただけが所有するオリジナルの魔法と認めます。さらに、〈飛翔〉魔法を保有する実績を加味し、新たに二つ名を制定しました」


 二つ名とは魔法使いたちが目指す誉れでもある。あまりにも現実味がなかった。

 リーズはなんだかくらくらしてきた。ここが本当に現実なのか、不安になってくるほどだ。リーズのふわふわの毛が、ぼふん、ぼふんと爆発しそうである。

 そんなリーズを見て、イライザはくすりと微笑んだ。が、すぐに真顔になって、すいっといつも通りに背筋を正す。


「ガラスペンを使い、人々の想いを届ける魔法使い――〈ガラスの魔法使い〉。そう、あなたの二つ名は制定されました」

「〈ガラスの魔法使い〉……」


 慣れない言葉を、ゆっくりと舌の上で転がしてみた。


「あの……私にはちょっと、大仰すぎる肩書きなのではないでしょうか」


 正直、違和感しかないと不安が膨らみ、気がついたらそう呟いていた。学園を卒業できるかどうかで悩んでいたはずなのに、と。

 小さくなりしょんぼりと肩を落とすリーズを、イライザはじっと見つめた。そしてわずかに口元を緩めた。それは魔法局の職員としての顔ではなく、一人の教師としての表情だ。


「リーズ・ブロッサム」


 呼ばれ慣れた、けれども大切に響くその名を耳にし、自然と真っ直ぐ顔を上げた。


「あなたの飛翔魔法は、砂粒程度の重さしか運ぶことができない魔法です。けれども砂粒一つでは価値がなくとも、重ね合わせればいつかは美しいガラスとなるでしょう。おめでとう。あなたは、あなただけの才能を持っているんですよ」





 こうして二つ名を得たということをジェシカに伝えると、彼女は「やっぱりね」と相変わらずのおしゃまな様子で肩をすくめた。クラレットからも祝いの言葉と一緒に、ジェシカの父が近々帰ってくるということを、こっそりと耳打ちされた。ジェシカの父も、彼女の気持ちをわかっていたからこそ、寝る間を惜しんで仕事に明け暮れていたらしい。

 ジェシカたちからはずっといてくれていいと言われたけれど、父親が帰ってくるのなら、ジェシカの話し相手として雇われた自分も別の仕事を探さなければならないだろう。挿絵が必要な写本の仕事は大半をやり遂げてしまった。


「二つ名制定、おめでとう! ほんっとーに、すごい!」


 そうして力いっぱいにリーズの隣で笑うのは、友人のクレアだ。クレアは鷹の使い魔がいるから、浮き橋を歩く必要はない。けれども今はリーズに合わせるように隣を歩いてくれている。


「すごい、というか、ありあわせの魔法を合わせただけ、なんだけどね……。私自身はなにも変わっていないから相変わらず基礎魔法も使えないままだし」

「そんなこと関係ない! 私なんて一つも特許魔法を持ってないのに! っていうか、学生のうちから持つ人の方が稀だから!」


 クレアは拳を握ってじろりと睨むように主張する。まるで怒っているような口調に聞こえるが、そうではないことはリーズにはすぐにわかる。やっぱりクレアとジェシカは似ているな、とリーズは苦笑してしまった。そんなときだ。リーズたちの頭の上に、黒い影が落ちた。


「おい、リーズ。ちょっと二つ名をもらったくらいで調子に乗ってるんじゃねぇぞ」


 ぶふう、とセオがまたがる竜の鼻息が漏れて、生ぬるい風がおそってきた。短い金の髪を揺らしながら、ぎろりとセオがリーズを睨んでいる。


「二つ名くらい、俺だってすぐに手に入れられるんだからな!」

「負け惜しみじゃん! うっざ!」

「うるせえな転校生!」


 リーズがなにかを言う前にクレアが受けて立ってしまうので、どうしたものかと苦笑してしまったが、ふいに、強い風が吹いた。リーズの軽い体なんて簡単にすっ飛んでしまいそうな風だったが、クレアと二人で手を繋いでなんとか耐え抜いたとき、はあ、と安堵の息をついていたのは、リーズではなかった。

 リーズと目を合ったことに気づいたセオは、慌てて緑の目をそらし、さらに眉間の皺を深くする。うん、とリーズは考えた。やっぱり葉っぱの色だ。

 セオの色は、新緑の季節に枝が空に向かって伸びたような、鮮やかな緑色だ。


「大丈夫だよ。セオが毎回ここで私につっかかるのは、私が橋から落ちやしないかって心配してるからなんでしょ?」


 わかってるよ、と初めて伝えてみた。するとセオはぎょっとして、その次には顔を真っ赤にした。


「んなわけあるか、バーカ!」


それだけ叫んで、竜に乗って消えてしまう。


「……嘘でしょ、ほんとに?」


 驚いて何度も目をしばたたかせるクレアににこりと笑う。

 そんなクレアの色は、あけぼの色だ。ジェシカととってもよく似た、明け方の空のような淡い黄赤色。


「色が、見えるんだよ」


 優しい色なら、緑の色。寂しい色は、藤色をしている。

 この世界には、たくさんの色で溢れている。


「色が……見える?」


 不思議そうなクレアの声に、リーズはただ微笑んだ。


「ねえクレア。前にね、言ってたよね。魔法使いだからって魔法を使って仕事をしなきゃいけないってわけじゃないって」

「え? うん」

「本当に、その通りだと思う。でも思い出したんだ。私、魔法使いになりたいんだ」


 リーズたちは、とっくの昔に魔法使いだ。まだまだ卵のようなものだけれど、黒いローブがその証拠なのだから。わからない、とばかりにぱちぱちと瞬くクレアと、その使い魔に向かって頬を緩める。


「ずっと、ずっと。描きたい色があるから」


 ふわりと、風の中を静かに蝶が舞った。




 ***




「学園長」


 イライザはちゃきりと眼鏡を持ち上げながら一人の老婆に声をかけた。リーズの担任であり、かつ魔法局の職員であるイライザの前には、一人の老婆が学園長室のソファーにゆったりと座っている。そしてその足元では烏がばたばたと踊っている。


「ンカァーッ! 俺、リーズに伝言、ちゃんとした、褒メローッ!」

「うるさいね、あんたは。何日前のことを言ってるんだい」


 呆れ声で自身の使い魔へと話す老婆を相手に、「学園長」再度イライザは声をかけた。


「ンッカーッ! リーズの飯、マズイッ! どうにかしろォーッ!」

「普通使い魔は飯を食わんだろうよ……。どうにかしろなのはこっちの台詞さ」

「カラン・ブロッサム、学園長」


 さらに声の声色を硬く、単語を一つひとつ区切るように話すと、「なんだイライザかい」と老婆は振り返った。彼女はリーズの師匠であり、かつ養い親でもある。白い髪をひっつめ、年のわりにはしゃんとした背筋で、足首まである装飾のないシンプルなワンピースで身を包んでいる。


「……リーズ・ブロッサムの二つ名を制定した件についてですが」

「ああ、お疲れ様。まったく不肖の弟子だよ。私が近くにいれば、私のあとばかりを追いかける。親を見たばかりのひよこじゃないんだから」


 おかげで家に帰れなくなっちまった、と皮肉げな口調のわりには、口元の笑みを隠しきれていない。


「人には、それぞれの可能性があるってのにねぇ。ちっこい頃に見せてやった私の魔法ばかりに価値を置くんだから……」


 ふと、カランは瞳を伏せた。銀のまつ毛が、まるでカーテンをしめるように、ゆっくりと閉じていく。思い出すのは小さな、小さな子どもを拾ったときのこと。

 ふわふわの茶色い髪の毛は、捨て犬のようにくしゃくしゃになっていてあんまりにもしょんぼりした見てくれだったから、風呂に入れて、食事を与えると、いつの間にかカランの家にいつくことになってしまったのだ。

 それから、自身の魔法を見せてやった。

 小さな手が、カランの手を離すものかとばかりにぎゅっと強く掴んで空を見上げたそのときに、『綺麗だね』と舌っ足らずに呟いたのだ。


『あの色、どうやったら作ることができるの?』


 問われたところで、魔法で作った、としか言いようがない。

 リーズは自分にカランの魔法が使えないと知ると、それならば自分で描いて、作ってみせようと絵の具やインクで家中に色を塗りたくり始めたものだから、カランは頭を抱えた。子どもとは、こうもわけがわからないものなのかと。

 いつしかリーズは、世界を色として捉えるようになった。あれはどんな色だろう、これはどんな色だろうと考える。どれだけ笑顔に悲しみを隠していても、怒りとともに感情を伏せていても、リーズは等しく世界を見る。事実を、真実を無自覚にも見通してしまう。


「あいつは小さな頃は『魔法使いになりたい』ってのが口癖でねぇ。基礎魔法ができないと知ってからは言わなくなったけどさ。はん、あの子は気がそぞろなんだよ。集中力がなくて、制御がきちんとできていないだけさ」

「その代わりに、人よりも細かなことに気づきやすいようですけれど。まあ、新学期初日に転入生の悲鳴に気づいて彼女をかばって浮き橋に頭を打ち付け、おでこに絆創膏をつけて出てきたときは驚きましたが」

「私も医務室の教員から話を聞いて目玉が飛び出るかと思ったよ……」


 ため息をつく大人たちの間を、烏の使い魔が「ンッカーッ!」と叫びながらぐるぐると回っている。落ち着きな、とカランは腰をかがめて烏の額をつついた。それから、少しだけ考えて、呆れたように。


「……魔法なんて使えなくても名乗りゃあ誰でも魔法使いなんだよ。生真面目に悩むもんだから、バカなもんだね。人には得手不得手があって当たり前さ」

「それはさすが聞かなかったことにします。魔法学園の学園長としてはいかがな発言かと思いますので」

「んっははは」


 カランの笑い声に、イライザはため息をついて眼鏡をかけなおした。




 ***




「ねえ、リーズが魔法使いじゃないっていうのは、私はよくわからないけれど。リーズはすごいよ。私が初めてここに来たとき、この子にぶらさがって悲鳴を上げてたのに、誰も気づいてくれなかった。でも、リーズだけは違ったよ」


 クレアは、肩に乗った鷹のくちばしを、つん、と叩いた。

 そのときのことを思い出しているのだろう。ふう、と一つ息をついて、青い空を見上げる。ひゅう、ひゅうと風が頬を叩き、同時にぎい、ぎいとどこか遠くから羽の音が響いていた。まるで、海を渡る小さな船の上にいるような、少しだけ頼りない気持ちになってしまう。

 けれど、どこまでも空は広く、白い雲が伸びている。


「リーズが私に気がついて、力いっぱい両手を広げてくれたから。どいてって叫んでたくせに、私、いつの間にかリーズめがけて進んでた。それで、勢いよくつっこんじゃってた」


 そんなこともあったね、とリーズはちょっとだけ苦笑した。


「基礎魔法を使えたら、おでこに絆創膏はいらなかったのにね」

「そんなこと関係ないよ。……リーズは本当に、すごいよ。今のリーズが、魔法使いじゃないってことは正直よくわからないけど、リーズならきっとなれる」

「そうかな。そうだったらいいなあ」


 頬を緩める少女の肩に、ひらりと蝶が舞い降りた。

 ガラスの羽をきらりと輝かせ、そしてまた、蝶は空を目指す。ふわふわと綿菓子のような柔らかな軌跡を伴い、空の中へと滲むように、消えていった。

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