第5話 分かたれる道
6月。
梅雨の季節。
連日の大雨で大規模な土砂災害が発生し、サード隊員と一部の技術部員・医療部員が被災地で救助活動にあたっていた。
消防や救急の人手が足りない時に、行政から救助要請が入るのだ。
訓練生寮から近隣の小中学校へ向かう出発待ちのバスの中から外を眺めていると、サード隊員寮から出てくる隊員の愚痴が聞こえてきた。
彼らの目元にはクマができている。
「なんで俺らがレスキューなんか...。消防にやらせとけよ」
『戦闘員なのにな』
「あー!早くファーストに上がって、敵をバンバンやっつけてぇ」
『その前にセカンドだろ』
「るせぇ」
『いや、それより中間テストがヤバいな』
「うわ!完全に忘れてた!俺、英語終わってる...。しかもレスキュー行ってるから、授業も最近受けられてねぇし」
『基本は学業優先だけど、レスキューは例外だからなー』
「......」
『どうした?』
「いや、なんでもない」
聞こえてくる中身のない会話に、何の感情も抱かないヒカル。
どこか湿り気を帯びた空気は、本格的な夏の訪れが近いことを告げていた。
予科生たちの訓練は、新たな段階へと移行していた。
「戦闘」「技術」「医療」。
将来、彼らが所属することになるであろう三つの主要部門。その基礎の基礎を、1週間ごとのローテーションで体験していく「専門基礎講座」が始まったのだ。
「いいですか、皆さん。この講座は、皆さんに自分の『適性』を見つけてもらうためのものです。得意なこと、苦手なこと、面白いと感じること、退屈だと感じること。その一つ一つの感情が、皆さんの魂の形、つまりフォンテの性質と深く関わっています。自分の心と向き合いながら、取り組んでくださいね」
最初の週、ヒカルたち1組が臨むのは「戦闘基礎」だった。
担当教官は、舞姫コトとは対照的な、歴戦の猛者といった雰囲気の壮年の男性だった。元ファースト部隊所属で、その顔には生々しい傷跡が何本も走っている。
「俺の授業では、感傷は不要だ! 戦場で最後に自分を助けるのは、己が身体に染みつかせた技術のみ! まずは、基本の構えからだ! 一千回繰り返せ!」
教官の怒声が響く中、生徒たちは訓練用の模擬剣を手に、ぎこちない動きを繰り返す。
体力テストで上位だった生徒たちは、すぐにコツを掴み、鋭い剣閃を宙に描いた。
ヒカルはここでも目立たなかった。彼の振るう剣は、速くもなければ重くもない。ただ、教官が示した見本を、ミリ単位の誤差もなく、完璧に再現しているだけ。
模擬試合の時間になっても、その評価は変わらなかった。
対戦相手が、体格差に任せて力任せに打ち込んでくる。ヒカルはそれを受け流しきれず、じりじりと後退させられた。だが、決して決定打は許さない。相手の筋肉の動き、重心の移動、呼吸のリズム――その全てを瞬時に計算し、最小限の動きで攻撃の軌道を逸らし続ける。
相手からすれば、まるで掴みどころのない幻と戦っているかのようだった。ヒカルは一度も勝たなかったが、最後まで一度も有効打を食らうことはなかった。
「……チッ。気味の悪いやつだ」
対戦相手は、体力を消耗しきった様子でそう悪態をついた。
ヒカルは何も答えなかった。
彼にとって、これは戦闘ではなく純粋なデータ収集と理論の実証に過ぎなかったからだ。
◆
次の週は、「技術基礎」。
担当したのは、技術部のロゴが入ったネイビーのツナギを着た若い男性だった。
「はーい、みんな注目! 今日は君たちの商売道具、リングギアの分解と再組立に挑戦してもらうよー! ここで構造を理解しておけば、いざって時に役立つからね!」
机に配られたのは、訓練用のリングギアと精密機器用の工具セット。
生徒たちが、米粒よりも小さなネジやパーツに悲鳴を上げる中、ヒカルは黙々と作業を進めていた。
彼の指は、まるで長年連れ添った楽器を奏でる音楽家のように、滑らかに、そして正確に動く。他の生徒が一つ目のパーツを外すのに苦労している間に、彼は全ての部品を分解し、完璧な順番でトレイに並べ終えていた。
(……この共振スタビライザーは、第二世代型か。フォンテの波長を安定させるためのものだが、構造が冗長だ。エネルギー伝達経路に、0.3%のロスが生じている)
口には出さない。誰に言うまでもない、彼にとっては自明の理。
ヒカルは誰よりも早く再組立を終えると、残りの時間を脳内での「リングギア改良シミュレーション」に費した。
◆
そして、3週目。「医療基礎」。
ボルドーのスクラブに白のパンツを着た医療部のスタッフが、穏やかな口調で授業を進める。
「医療部におけるフォンテの使い方は、戦闘部門とは全く異なります。求められるのは、破壊ではなく、再生。力ではなく、調和です。今日は、この訓練用のダミーを使って、フォンテによる治癒の初歩を体験してもらいます」
生徒たちの前には、一部が赤く変色し「損傷」状態を擬似的に再現した人型のダミーが置かれている。この変色部分に、制御したフォンテを優しく流し込み、元の色に戻すのが今日の課題だ。
「力を入れすぎると、ダミーは拒絶反応を起こしてさらに損傷が広がります。そっと、語りかけるように……」
しかし、この訓練はこれまでのどの訓練よりも難易度が高かった。
ほとんどの生徒は、フォンテを流し込むことすらできず、できても力が強すぎてダミーをさらに赤黒く変色させてしまう。
ヒカルも、この分野は不得手だとすぐに理解した。彼のフォンテは、あまりに「静」で制御には長けていても、「再生」や「調和」といった性質は持ち合わせていないようだった。
そんな中、教室の隅で奇跡は起きた。
詩カグヤ。
彼女が、その華奢な指先で、そっとダミーの損傷部分に触れた瞬間。
ふわり、と。
彼女の指輪から、神々しいホワイトベージュの光が溢れ出した。
その光に照らされたダミーの変色部分は、まるで雪が解けるように、瞬く間に元の美しい白色へと戻っていったのだ。傷跡一つ残さずに。
「な……!?」
「うそ……一瞬で……」
教室が、今日一番の衝撃とどよめきに包まれる。医療部の教官ですら、目を丸くして信じられないものを見るようにカグヤの手元を見つめていた。
ヒカルもまた、その光景から目を離せずにいた。
(……物理法則の書き換え? いや、違う。損傷という事象そのものを、“なかったこと”にしているのか……?)
彼の解析能力をもってしても、今、目の前で起きた現象は理解の範疇を超えていた。
1日の基礎講座が終わり、生徒たちが寮へと帰路につく。
ヒカルは1人、少し離れた場所を歩いていた。
その前方を、詩カグヤが歩いている。
やはり、言葉は交わさない。
戦闘、技術、そして医療。
それぞれの道。それぞれの適性。
ヒカルは、カグヤの後ろ姿を見つめながら、自分以外の「天才」の存在を明確に意識していた。
自分とは全く違う論理で世界に干渉する、もう1人の特異点。
2人が進むべき「道」は、この時、確かに分かたれ始めた。
そして、その道がいつか再び交差することを、まだ2人は知らなかった。