第1話 訓練校と1人の少年
桜が舞い散る季節。
外界から完全に隔離された巨大な要塞都市――境界防衛機構本部の敷地内では、管理された天候のもと、春の象徴が完璧な姿で咲き誇っていた。
白を基調とした制服の襟元を、暁月ヒカルは無意識に引っ張りながら、訓練校へ続く道をゆっくりと歩いていた。今日から彼が所属する、未来の戦士を育成するための学び舎だ。年は10歳。この春、小学5年生になる。
予科生の制服は、黄緑のラインが入ったハイネックブルゾンに、同じくライン入りのハーフパンツ。だが、135センチの小柄な身体には一番小さなサイズですら少し大きく、着せられている感が否めない。校章が刺繍された白いハイソックスは、本人の無頓着さも相まって、少しだけズレて左右の高さが違っていた。
だが、ヒカルは気にも留めない。
制服なんて着られればいい。ソックスの左右が揃っていようがなかろうが、戦闘効率に関係するわけではない。彼の興味は、自身の内側で静かに脈動するエネルギー――「フォンテ」の構造解析と、それを最適化するための思考実験にのみ向けられている。
「……新入生?」
突然、頭上から声がかかった。
明るく飾らない響きを持った少年の声。ヒカルが顔を上げると、見上げるほど背の高い、赤みがかった癖毛の少年がこちらを見ていた。年は15歳といったところか。ヒカルと同じ予科生ではない。彼が着ているのは、より実戦的なデザインの上級隊員用の制服だ。
「おっ。やっぱそうか。ハイソックス、ちょっとクシュってなってるぞ。未来の戦士さんなら、ビシッと決めようぜ」
声の主──朝日リュウは、どこか楽しそうに笑いながら近づいてきた。すでに何度も“境界外”の戦場を経験した者だけが持つ、独特の空気を纏っている。
「え、別に……これくらい……」
ヒカルにとっては、理解不能な指摘だった。ソックスの高さが1、2センチ違うことに、一体何の意味があるのか。しかし、彼の思考を遮るように朝日はあっけらかんと言った。
「んー? よし、こうやって、ぴたって揃えると──ほら、カッコいいぞ」
ヒカルの目の前に、朝日はためらいなくしゃがみ込み、片膝をついた。その大きな手が、ヒカルのソックスのたるみを丁寧に整えてやる。そして立ち上がると、まるで幼い弟にするように、くしゃりと彼の髪を軽く撫でた。
「……ま、頑張れよ」
その笑みは軽く、それでいて不思議なあたたかさを帯びていた。
なぜだろう。ヒカルは、自分の心というシステム領域に、未知のデータがすっと流れ込んでくるような、不思議な感覚を覚えた。
そのとき──
「おーい! 朝日ー!」
遠くの方から、陽気な声が駆けてくる。
「どこ行ってんだよ。もう始まるぞ?」
黒髪短髪の少年――三崎カナメが駆け寄ってくる。左目の下に貼られた絆創膏は、泣きぼくろを隠すため。彼いわく泣きぼくろは女っぽいから嫌らしい。その後ろからは、柔らかな茶髪の少年――岩本ユウマが、のんびりとした足取りでついてきていた。
「はいはい、ごめんなさーいってな」
手をひらひらと振って立ち上がる朝日。三崎と岩本の間をすり抜け、ふと、もう一度ヒカルの方へ目をやる。
「じゃあな、ハイソックス。──ちゃんと履けよ」
そう言い残し、彼は仲間たちと共に講堂へ向かって歩いていった。
「ハイソックス」という、意味不明な文字列だけがヒカルの思考領域に残された。
◆
数十分後、入学式。
厳粛な雰囲気の中、機構の理念や訓練校の校長の挨拶が終わり、現役隊員からの激励の時間が始まった。
講堂の壇上に現れたのは、先ほどの少年だった。
《――新入生の皆さん、入学おめでとう。俺はファースト部隊・望月隊所属、朝日班の班長を務めている、朝日リュウだ!》
マイクを通した声が、講堂に響き渡る。
壇上の彼は、先ほどの砕けた雰囲気とは打って変わって、自信に満ちたファースト部隊隊員としての顔つきをしていた。
ヒカルの中で、名前と顔、所属というデータがようやく一致する。
けれど――彼の脳内データベースに「朝日リュウ」という固有名詞が記録されることはなかった。
ただ、頭をくしゃりと撫でられた時の、あの手の感触と、説明のつかない「あたたかさ」という感覚データだけが、なぜか彼の胸の中心に重要なタグ付きファイルとして保存され続けていた。
◆
壇上に立つ朝日は、さっき路傍で会った時の気のいいお兄さんという雰囲気ではなかった。
その瞳は、講堂に集まった60人の新入生一人ひとりの顔を確かめるように、鋭く、そしてどこか楽しむように見渡している。これが、人類の存亡を賭けて最前線で戦う、ファースト部隊の隊員の顔。
ヒカルは、その他大勢の予科生の一人として、パイプ椅子に座りながらぼんやりと彼を見上げていた。
《えー、改めまして、朝日リュウです。難しい話は苦手なんで、一個だけ、みんなに伝えたいことがあります!》
ざわ、と会場が少しどよめく。堅苦しい式辞が続いた後だったから、彼のあまりにフランクな語り口は、新入生たちの緊張を少しだけ解きほぐしたようだった。
《それは、「仲間を信じろ」ってこと。これ、マジで一番大事だから、絶対覚えといて》
朝日は、にっと歯を見せて笑う。
《俺たち境界防衛機構 《レヴナント・コード》の戦いは、1人じゃできない。フォンテの力がどれだけ強くても、1人でできることなんてたかが知れてる。隣のやつを、後ろのやつを信じて、自分の背中を預けて、初めてデカい敵とやり合えるんだ》
彼は、壇上の袖に目をやった。そこには、三崎カナメと岩本ユウマが、少し呆れたような、でも誇らしげな表情で立っているのが見えた。
《俺は、世界一の仲間と思ってるあいつらがいるから、どんなヤバい戦場でも突っ込んでいける。だからみんなも、これから始まる訓練校生活で、そういうダチを見つけてくれ。そいつが、お前の一生もんの財産になるから!》
最後に力強くそう締めくくると、朝日は「以上!」と一言だけ言って、嵐のように壇上から去っていった。
一部の生徒からは、そのあまりに型破りな挨拶に、困惑したような、しかし熱を帯びた拍手が送られた。
ヒカルは、拍手はしなかった。
「仲間」「信じる」「財産」。彼の脳内辞書には、まだ正確に定義されていない単語ばかりだったからだ。
ただ、朝日リュウという少年が、自分とは全く異なる論理回路と思考プロセスで動いている、非常に興味深い観測対象であることだけは理解した。