5.前世――『アイシア』
リルカの前世――『アイシア』の祖国は、隣国と戦争をしていた。
当時、戦争をしていない国の方が少ないくらいだった。そもそもの発端は何だったか――それすらもみな忘れるほどに、長く戦争をしていた。
そんな中、アイシアは【癒しの神ユースリスティ】を主神とし、癒しの神術を得、前線の兵士を癒す役に従事していた。
【癒しの神ユースリスティ】を主神と崇めている場合は、強力な癒しの力を使えるため、戦争への召集命令があった。アイシアはそれを承知で【癒しの神ユースリスティ】を主神に――それも唯一として――選んだのだ。
本当は、【死と輪廻の神ローディス】にも拝神したかった。死んでしまった人へ多くの祈りを届けるには、【死と輪廻の神ローディス】の力が必要だったから。
けれど、主神として唯一拝神している場合と、そうではない場合では、使える神術の種類や強さが大きく異なる。だから、アイシアは【癒しの神ユースリスティ】を唯一、主神として拝神することにしたのだ。
アイシアは戦災孤児だった。戦災孤児なんてありふれていたけれど、家族すべてを奪った戦争に対して思うところがあったからこそ、戦争に従事することにした。少しでも自分のような境遇に陥る人を減らしたかった。
それには癒しの力が絶対に必要だった。アイシアは人を傷つけて戦争を終わらせたいのではなく、少しでも傷つく人を減らして戦争が終わるまでをしのぎたかった。
【癒しの神ユースリスティ】を主神として唯一崇めている場合、広範囲の癒しの神術と、瀕死の状態からでも一命を取り留めるだけの強さの癒しが使えるようになる。もちろん、無尽蔵にではない。捧げる魔力に見合った回数しかそれは扱えないし、癒しを受ける本人たちの気力や体力の問題もあった。
ともあれ、アイシアは前線にいつでもいる、貴重な癒し手であったのには違いない。
ふつう、癒し手は後方で待機している。しかしアイシアは、それでは間に合わない重傷者が出た時のために、できるだけ前線にいるようにしていた。戦いには巻き込まれないように注意しながらだが。
そうしてある日――それに立ち会ってしまったのだ。
【英雄神ヴィシャス】が、〈器〉へ降臨する場に。
それはまったく、不幸な偶然というしかなかった。
いつもならそこまでは近づかない激戦区に、重傷者が出たとしてアイシアが呼ばれた。その癒し自体は問題なく済んだ。
問題は、その重傷者の親友だったという男が、親友の負傷をきっかけに鬼神のごとき働きで敵を斬り捨てており――それが英雄神の〈器〉の条件に合致したことだった。
まさに一騎当千。そう思えるほどの働きを前にした敵も味方も、その男に恐怖を覚えた。希望を抱いた。その剣技は神にさえ匹敵すると、そう感じた。
――だから、神が降りたのだ。
剣の一振りで地面を割き、その一突きは大岩をも砕くという、神が。
カッと、天から光が落ちてきたのは覚えている。
あまりの眩しさに反射的に目を瞑り、誰か雷の神術が使えるものがいたのだろうかとそう考えながら目を開いて――。
奇跡を、見た。
敵が一人残らず倒れていた。戦っていた相手が一瞬のうちに地に伏していて戸惑う自軍の者たちがいた。
その中、ただひとり剣を振りきった体勢でいた男が、姿勢を正し――そして、アイシアと目を合わせた。
ありふれた茶髪だったはずの髪は輝かしい金髪に、そして瞳の色は血のような赤に変化している。〈器〉に神が降りたとき特有の現象だ。降りた神の色彩が、〈器〉に反映される。
「……前線に、女。しかも戦う者ではないな。癒しの神の眷属か」
剣をおさめ、男は悠々とアイシアへと近づいてきた。
「なぜこんな前線にいる」
「……必要だと、言われたから」
答えが返るのが当たり前だと思っている――否、思っているという次元ではなく、それが彼の常識なのだとわかったから、リルカは震える唇で答えた。
「必要とされればおまえは死地へも赴くのか?」
「そのために、癒しの力を得たのだもの」
「――ふっ、ははっ! いい目をしている。おまえもまた、武力ではない手段で戦う者か。……気に入った」
アイシアは目を瞬いた。やっと男の発する威圧に体が慣れてきたところだったので、油断していた。
「おれはヴィシャス。おまえらが戦神と、英雄神と呼ぶモノ。――女、名前は」
「あ、……アイシア・メルヴィ。……英雄神、様?」
「そうだ。――おまえ、おれの妻になれ」
アイシアは一瞬何を言われたかわからなかった。一拍の間を置いて、内容を理解し、絶句する。
「私は、ただの人間です……!」
「愛の神もよく人間を召し上げる。おれが召し上げてはならないという道理はないだろう」
「私はこの地で人を癒して生きていきたいのです!」
「おれの目に留まったのが運の尽きだ。諦めておれのものになれ」
ぐいっと腕を引っ張られて、唇すら触れそうな距離で、男は――英雄神はにやりと笑った。
「予定外の降臨だったが、いい拾い物をした。行くぞ、『アイシア』」
途端、アイシアの体から抵抗の力がふっと消え去る。
(言霊……!)
名はそれだけで力を持つ。神に問われて名を告げた。名を与えてしまった。
もはやアイシアの体は自分の思い通りにはならなくなっていた。
「は、い……。英雄神、様……」
「ヴィシャスでいい。おまえはおれの妻になるのだから」
「はい……ヴィシャス様……」
「いい子だ」
自分の意思に反して、アイシアの体は従順にヴィシャスに身を寄せた。
それに満足げに笑ったヴィシャスは、アイシアの肩を抱き、その身から神力を立ち昇らせる。
それによって界と界が繋がれたのだと理解したのが最後。
アイシアは、神力にあてられて気を失った。
* * *
(……ここは……)
目を覚ましたアイシアは、自分が見知らぬ寝所寝かされていることに戸惑った。
(私は戦場にいて……それから……?)
ぼんやりする頭を必死に働かせ、ここに至るまでの経緯を思い出そうとする。
しかし、自力で思い出す前に、アイシアに声をかける人が――神があった。
「目が覚めたか、アイシア」
「ヴィ、シャス……様……」
「さすがに名の拘束は弱まったか。内と外から神力に触れて、おまえは気を失ったのだ。人間は脆いな」
起き上がったアイシアのすぐそばに手をつき、アイシアの顔を覗き込んだのは、〈器〉に降りたままの【英雄神ヴィシャス】だった。
「ここは……?」
「俺の宮だ。神が各々の宮を持っているのは知っているだろう。その一室だ」
「ヴィシャス様の、宮……。ということは、ここは神界なのですか?」
「ああ。おまえは神界の空気に馴染みやすいようだな。濃い神代の気にあてられて酔う者も多いらしいが、そういった素振りもない」
「確かに、気分が悪いといったことはありませんが……」
『違う』界だ、というのはひしひしと感じている。空気が重いのだ。まるで水の中にいるような心地がする。
「体が動かしづらいか。じきに慣れる。心配になったからな、愛の神に、神界へ人間を連れてきたときの経験談は一通り聞いてきた。その事象は人間であれば避けられないが、徐々に慣れて、通常通り動けるようになるということだ」
「そう……なのですか」
神がそうと言うのならそうなのだろう。アイシアはひとまず寝台から降りることを諦めた。
「それで、婚儀についてだが」
「……!」
「おまえが過不足なく動けるようになるまで待とう。連れてきたばかりの人間に無理をさせるものではないと愛の神に釘を刺されてしまったからな。それに、この『体』も返して来ねばなるまい。そのついでに一働きしてくるとしよう」
「ヴィシャス様は、本当に私を、その、伴侶に……?」
「ああ。おまえが否と言おうが、決定事項だ」
アイシアは眩暈がした。神代の気にあてられてではなく、この事態に対して。
「私は何の変哲もない、どこにでもいる人間でございます」
「だが、おれの目に留まった。おれが気に入った。諦めろと言ったろう」
「考え直してくださいませ。私に神の伴侶などというものは務まりません」
「おまえはただおれの傍に居ればいい。何かをさせるつもりはない。愛の神もそうやって人間を愛でるだろう。それはおまえたち人間の方が詳しいのではないか?」
確かに、【愛の神ラヴィエッタ】は、よく人間を神界へ召し上げる。人間を愛し、人間に恋し、その末に神界へと連れ去る――そういう逸話が山のようにある。
他の神でも人間を見初めて連れ去ったという逸話はある。神と人との婚姻も、皆無ではない。
それ自体は、神とはそういうものだとリルカは思っている。想い合っていてもいなくても、神というのは気に入った人間を神界に連れ去るものだ。神が人間に合わせて人間界で生きるという事例はとても少ない。
だがそれは、自分の身にふりかからないこと前提での受容であったのだと、この事態に直面してアイシアは思い知った。
(私は、神界で生きていきたくはない――それ以前に、神と婚姻を結びたいとも思わない)
これが、人と神という種族の差はあれど、愛を育んだ末のことだったらまた違ったのかもしれない。しかし、実際には拉致も同然に連れ去られ、婚姻を強要されている。到底承服できることではなかった。
(でも、ヴィシャス様は私の意思なんてどうでもいいと仰る……)
ただ気に入ったから愛でるために連れてきて、婚姻する。それだけのことだと思っていると、今までのやりとりが語っている。
【英雄神ヴィシャス】は『英雄色を好む』を地で行く神でもある。これまでも彼の神が人を見初め、伴侶とし、神界に連れ去ったという事例はあった。
……知っている逸話を思い返してみたけれど、当初それを拒否した者もいたことはいたが、最終的には伴侶として神界で生涯を終えている。
神界は人間界とは時間の流れが違うという。本来の人間の寿命ならばすぐに死んでしまうらしいが、神界の食べ物を摂取することで神界に馴染み、神の伴侶となることで神ほどではないが長く生きられるようになる。そのことによる悲劇も喜劇も、逸話として人間界には広まっていた。
つまりこのままだとアイシアは死ぬか、人間としての寿命を外れて生きるかしかない。
「……疲れたか? 無理をさせてはいけないな。もう少し休んでおけ。――そこに置いている食べ物は好きに食べるといい。神界により馴染むだろう」
考え込んで無言になったアイシアを、ヴィシャスは疲れによるものだと勘違いしたようだった。
気遣う言葉を残して去っていく。
残されたアイシアは、枕元に置かれた銀盆の上、瑞々しい果実がいくつも積まれているのをじっと見つめた。
そして――意を決して、その中の葡萄の粒を一つ取って、口に含んだ。
(これでもう人間界には戻れない――だけど、そもそもヴィシャス様は私を人間界に戻す気はない。それなら……)
異界の食べ物を口にするというのは、その世界の住人となるということだ。
それを承知でアイシアがそれを口にしたのは、絶望からでも、諦観からでもなかった。
えも言われぬ芳香が鼻を抜け、これまで食べた何にも勝る極上の味が舌を悦ばせる。
それに感じ入る間も惜しんで、アイシアは自分の体の変化を注視した。
たった一粒であるのに体中を満たすような満足感が広がる。そして同時に、体を包んでいた重さ――空気の抵抗感のようなものがなくなった。
(ヴィシャス様が言っていたのは、確かかもしれない……)
アイシアは神界の空気に馴染みやすい、と言っていた。それに、アイシアの体が過不足なく動くようになるまで待つ、と言っていたからには、本来神界の食べ物を食べただけでは、このように劇的に動けるようにはならないのだろう。
――これは、逃してはならない好機だ。
アイシアはそっと寝台から下りた。素足に床の冷たさが伝わってくる。
部屋を探してみると、アイシアの履いていた靴が見つかった。ほっとしながらそれを身に着ける。
(去ったばかりだもの。ヴィシャス様はしばらくいらっしゃらない――さっき仰っていたように、〈器〉を返しに人間界に降りられたとしたら……行動を起こすなら今しかない)
――人間として、生きて死ぬためには。
不安が浮かびそうになる心をぐっと押し殺して、アイシアは部屋を抜け出した。
* * *
(逃げなくては)
ただその一念で、アイシアは走っていた。
神の宮は広大だった。走っても走っても同じような景色が続いて、本当に外に向かえているのか不安になる。
(私は、人として死にたい――神の伴侶としてではなく)
それはもはや衝動だった。神の伴侶となり、人に外れた寿命で生きる自分が、どうしても受け入れられない。
走り続け、ようやく宮から出ることができた。けれど、そこに広がった景色に、アイシアは戸惑った。
(他の宮が見えない……)
天上の楽園のような景色に見惚れることなどできるはずもなく、必死に他の宮が見えないかと目を凝らす。
しかし、いくら目を細めても、それらしきものは見当たらなかった。
(ここから見えないというなら、もっと先へ行ってみなければ――とにかく、逃げないと)
また走り出す。あてもなく。
けれどどこまで行っても他の宮は見えない――助けを求めることのできる先が見つからない。
息が切れる。苦しさで頭がぼうっとする。足も満足に動かなくなってきた。
(神の世界を人間の尺度で考えていた私が甘かった)
それでも戻るという選択肢はない。
そうして走り続けて、もはや歩いているのと大差ない速さになったころ、アイシアの前に忽然と、人影が現れた。
それは美しい少年の姿をしていた。悪戯げな笑みが唇に浮かんでいた。
美しい銀の髪を揺らして、とろりとした金の目を細めて、その神は傲慢に気まぐれに手を差し伸べた。
「――必死だね。ねえ、助けてあげようか」
そこに慈悲はなかった。同情も。ただただ、事態を面白がっていることだけがわかる笑みを浮かべたその【戯神】に、アイシアは一瞬だけ迷って、賭けたのだ。
己の、未来を。
――というのが、アイシアと【英雄神ヴィシャス】、そして【戯神ティル=リル】との出会いだった。
つくづく、ろくな思い出ではない。
救世主のように現れたティル=リルも、事態をひっかきまわすの半分、アイシアの望みをかなえてくれるの半分、といった体たらくだった。
……まあ、性質から考えれば、半分でもアイシアの望みを叶える方向で動いてくれただけマシなのだが。
ともあれ、ティル=リルの助力を受けたことで、主神と仰いでいた【癒しの神ユースリスティ】が眷属を攫われたことにお怒りだと知ることができて匿ってもらえたり、【死と輪廻の神ローディス】につなぎをとったりできたのだから、感謝せねばならないのだろう。
ユースリスティの宮に匿われていることをヴィシャスに漏らしたり、後のローディスとヴィシャスの争い――ティル=リルは『喧嘩』と称していた――を煽ったりした神ではあるが、それはそれとする。
ローディスの協力を得られたことはとても有難かった。アイシアが神界で人として死ぬためには、もはや彼の神に縋るしかなかったので。
ローディスはローディスで、頻繁に客神として力を借りていたアイシアのことを目に留めていたらしい。……当時からそれだけ【死と輪廻の神ローディス】を信仰する人間が少なかったという証左でもあるのがかなしいところだ。
アイシアは、戦争で自分にできるだけのことをするという目標と癒しの術の件さえなければ拝神したかったくらいには、元々好きな神だったのだが。
そして彼の神の協力もあり、アイシアは人間のまま、人間としての輪廻に戻った。――【英雄神ヴィシャス】が落ち着くまで転生の輪で待つように、と言われてはいたものの、まさか三千年後に転生することになるとは思ってもみなかったが。
本来なら転生前の記憶というのは、転生の輪の中で魂から剥がれ落ち無くなるものだという。しかしアイシアは体ごと転生の輪の中に入ったので、その作用がうまく働かなかったのだとローディスは言っていた。
アイシアは――リルカはそれでよかったと思っている。これで記憶が無かったらお世話になった神々に感謝を伝えることもできなかったのだし。
そう、リルカはローディスと、転生後に話したことがある。いわゆる神子への『神託』と同じ仕組みを使って、ローディスが先述の謝罪を伝えてきたのだ。まだ体も満足に動かせない赤子の頃のことだった。
とても驚いたが、神界で転生の輪に入る前に触れた彼の神の性格ならば不思議ではない、と納得もできた。
そうしてますますローディスへの感謝の念が育ち、転生の輪にいるときにユースリスティから助言があったのもあって、リルカはローディスを主神として拝神することに決めたのだった。
ヴィシャスとの出会いから始まる一連の出来事はできればなかったことにしたい過去だが、ローディスとユースリスティに実際に会うことができたのは大切な思い出である。
アイシアがリルカとして転生するのに一番世話になったローディスを主神とし、アイシアの頃に癒し手としてお世話になったユースリスティを副神として拝神すると決めて、リルカは物心ついたころから動き始めた。少しでも多く、感謝の証として魔力を捧げたかったからだ。
人は体に魔力の器を持っている。その大きさは生まれた時に決まっていて、あとはそれに応じた成長を遂げるだけのものである。
リルカはその器がこの時代の平均よりも大きい――らしい。孤児院で行われた簡易測定の結果なので、らしい、としか言えない。
前世に比べたらむしろかなり少なくなった方だと思うのだが、時代の違いというものだろう。
器は努力によって劇的に大きくなるものではないので、つまりそれは才能だ。
リルカはその才能を――器に準じて蓄えられる魔力を、活動に支障がないギリギリまでローディスとユースリスティに捧げることに決めたのだった。
そうして、その才能を無下にしていると感じてちょっとばかり口うるさく苦言を呈してくるのが幼馴染のユハだ。
(でも、それもちょっと懐かしい)
この世界では、転生の輪を経ても似通った関係性を築く魂がある。ユハは、リルカにとってのそれだった。
前世のときアイシアの傍に居た魂が、廻りを経て、またリルカとつながりを持ったのである。
ユハの前世の前世の……いくつ前世を重ねればいいか見当もつかないが――何せ三千年も経ってしまったので――遠い前世のその人は、アイシアの幼馴染、というより兄貴分だった。
そして、アイシアが自分と同じ、神術を使って戦う戦士の道を選ばなかったことをもったいないとよく言っていた。アイシアの魔力は潤沢で、どの神に拝神しても大きな神術が使えることは確定だったからだ。
ユハがリルカの魔力を魔術に使うようにと誘ってくるのは、そのときのやりとりを思い出す、どこか懐かしいものだった。
――だからといってローディスとユースリスティに魔力を捧げるのをやめる気はさらさらないのだが。
昔も今も、親身になって助言をしてくれているのはわかるが、アイシアにはアイシアの、リルカにはリルカの事情があるのである。




