13.決意と提案
「――と、そういうわけで、私には三千年前の記憶があるんです」
孤児院の応接室を借りて、リルカはまず自分の事情を開示した。
三千年前に『アイシア』という名前で生きていたこと、戦場でヴィシャスの〈器〉への降臨に立ち会ったこと、そうしてヴィシャスに「妻になれ」と神界へと連れて行かれたこと。それを承服できなくてヴィシャスの宮から逃げ出したこと、その先でティル=リルに出会ったこと、ユースリスティやローディスの助力を受けて転生の輪に逃げ込めたけれど、だからこそリルカには三千年前の記憶があること。
一通り話し終わったリルカの前では、エセルナートが目を白黒とさせていた。
しばらくして、なんとかリルカの話した内容を呑み込んだらしいエセルナートが、しみじみと言う。
「なんというか……大変だったんだな……」
「でも、現世では静かに、平穏に生きてこられましたし……」
「……それを俺が壊してしまった、ということか」
「そんなことは、」
「俺がヴィシャス様の神印が描けるのかと問わなかったら、こんなことにはならなかっただろう」
「それは、私の気が抜けていたからで」
「だが……。……いや、これも堂々巡りだな。やめておこう」
そう言って、エセルナートは孤児院の手作り茶を一口飲んだ。孤児院で栽培している薬草を使ったお茶である。あまりおいしいとは言えないが、頭はすっきりする代物だ。
「ともあれ、リルカ殿はヴィシャス様に認識されてしまったわけだが……」
「そう、なんですよね……」
信仰が薄れているとはいえ神は神だ。正直、逃げ切れる気はしない。――と考えたところで、ふと疑問に思う。
「あの……エセルナートさんは、ヴィシャス様がお体に降りられても、表に出てこられる……のですよね?」
「え? あ、ああ」
「どうしてなんですか? ……あの、私の知っている〈器〉になった人というのは、神々が降りられたら表に出てくるものではなかったので……」
「そうなのか?」
意外そうに言われて思い返す。
前世――三千年前は、〈器〉となったことのある人間は『アイシア』の周りにそれなりにいた。誰も彼もがどの神かに拝神していたし、神も人間界への手出しを好き勝手にやっていたので、〈器〉である――あるいは〈器〉になったことのある人と出会う確率は低くはなかった。リルカは戦場にいたのでなおさらだ。
そういう中で出会った〈器〉経験者は、己に神が降りたときのことを「ふわふわして、気持ちよかったけどなんかよくわからなかった」だとか「心地いい眠りについているような感覚だった」とか、神が降りている間のことを全く知ることができなかった者か、「すべてが膜一枚隔てた外の出来事のようだった」とか「自分の体が勝手に動いているのはわかっていたが、そのときはそれでいいのだと、それが心地よく感じていた」など、外界を知覚はしていたものの、己の体を己の意思の外に委ねていた者が多かった。エセルナートのように、降りた神と会話をする〈器〉というものは聞いたことがなかったのだ。
もちろん、『アイシア』の知らないところにはそういう〈器〉もいたのかもしれないが。
「よく、わからないが……そうだな。ヴィシャス様は最初降りて来られたとき、『久方ぶりの〈器〉だ。余地を残さねばならないのが面倒ではあるが』と言っていた。それが何か関係しているのかもしれない」
「余地……。エセルナートさんが、自分の体を動かせる余地を、ということなんでしょうか」
「リルカ殿の知る以前と違うというのなら、その可能性はあると思う」
神々が人間界にあまり手出しをしないようになった――その関係なのだろうか。
現世では、古き神も新しい神も権能を大きく振るうことがないと聞く。長く戦乱も起こっていないので人間が大きな力を求めることも減ったし、人間の力だけで起こせる奇跡――『魔術』が隆盛した。そういったことが積み重なって神々への信仰が薄れてきたのだろうとリルカは考えている。
……神々にとってそれは特に問題視することではないらしいので、やきもきしているのはリルカばかりだ。ティル=リルなんかは飄々としている。他の神については聞いたことがないのでわからないが。
「こういうのは、俺の知り合いの方が詳しいんだがな……」
「『古き神』の研究をしているというお知り合いですよね」
「ああ。『古き神』への興味が高じて、ミズハの国にまでやってきた奇特な男だ。ミズハでももはや拝神は主流ではないが、それなりに残ってはいるからな。無論、ミズハ以外の国も巡っていたようだが」
「今は、魔術学院に落ち着かれているんですか?」
「そうだな。俺の研究のためにしばらくはシャーディーン……というか魔術学院からは離れないと言っていた。〈器〉は現代では希少だから、俺が〈器〉となったのを知ったときには狂喜乱舞していたし」
エセルナートの言いぶりから、その『知り合い』とは〈器〉となる前から知り合いだったのだと知れる。度々話題に出てきた内容を考えれば、親しくしているのだろう。
シャーディーンに拠点を持つ、昔から『古き神』について研究している人物。
となると、エセルナートから話を聞く度に、もしかしたら、と考えた名前が思い浮かぶ。
「そのお知り合いの方って――もしかして『セヴェリ=トゥーロ』という方ではないですか?」
「知っているのか?」
「『古き神』を現在研究なさっている――エセルナートさんの口ぶりからすると大分前から――という方は限られますから。『セヴェリ=トゥーロ』氏の研究から、『古き神』や『神術』に着目するようになった研究者は増えましたけれど」
「そうなのか。俺は研究者界隈のことは詳しくないからな……あいつ、有名だったのか」
「そもそもが『魔術』の権威でいらっしゃったと聞いています。今『古き神』について研究しているとは知らなくても、その名前を知っている人はシャーディーンには多いでしょうね」
確か、魔術の申し子、天才として名を馳せながら、研究者としてもいくつもの著書を出していたはずだ。
『古き神』についての著書はまだ数冊だが、近年に『古き神』について書かれた本は少ないのでリルカも注目していた。残念ながら、触れる機会はなかったが。
「確か、『魔術』で『神術』を再現できないか、というのを研究主題に掲げていらっしゃるんですよね」
「そうらしいな。その一環で『拝神』や〈器〉、神そのものについて調べて回っていると言っていた」
その研究主題を初めて目にしたときには、神によって与えられ振るうことができるようになる力を人間のみで成し得ようなんて、あまりにも神を軽視しているのでは、と思ったものだった。……今はもう、そういう時代になったのだ、と理解しているけれど。
「それで、……リルカ殿はヴィシャス様から逃れたい、ということでいいのだろうか」
「……はい。神に選ばれた身を、私は喜べないので……」
だからこそ前世、リルカはヴィシャスの宮から逃げた。人間として生き、人間として死にたいと思ったからだ。
どうしてそんなに強くそう願ったのかも、転生してから気づいた。
(私には――人間以外になる、覚悟がない)
恐ろしい、と思ったのだ。神に召し上げられ、人間の生を超えて生き続けることが。
神の寵愛は得られるのかもしれない。でもそこに、『アイシア』が大切に思った人々はいない。死んでしまった者も、生きている者も。
『アイシア』は人間である自分しか思い浮かべられなかった。そこから外れた自分は自分でなくなってしまう、そう感じた衝動のままに、『アイシア』は逃げた。
ただ人間として生きて死に、その先の生でまた、大切な人たちと絆を育む。そういうふうに輪廻を巡る存在のままいたかった。ただそれだけだったのだ。
それはもしかしたら、あまり賛同を得られない感覚だったのかも知れないけれど。
(前世では、神に見初められることは、基本的に栄誉と捉えられていたから……)
「……わかった」
重々しくエセルナートが頷いたので、リルカは戸惑った。何か覚悟を決めた目を、エセルナートがしていたからだ。
そうしてエセルナートが口にした言葉に、リルカは絶句することになる。
「――ヴィシャス様への拝神を、やめようと思う」
エセルナートが発した言葉に、リルカは耳を疑った。幻聴かあるいは聞き間違いか、と思ったが、その希望はエセルナートが続けた内容で木っ端微塵に砕かれた。
「俺が拝神をやめて、英雄神の〈器〉でなくなれば、少なくとも当面のリルカ殿の危機は免れられるのではないかと思う」
「え、え……?」
「幸い、この都にもヴィシャス様の神殿はある。ミズハに帰らなくてもなんとか――」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
話を進めていこうとするエセルナートを、慌てて遮る。正直展開について行けていなかったが、ここで止めないと大変だということだけはわかっていた。
「わ、私を理由に拝神をやめるだなんて、そんなことなさらないでください! エセルナートさんにはエセルナートさんの、拝神した理由がおありでしょう⁉」
「だが、俺が原因でリルカ殿の平穏を壊してしまったのだから、これくらいは……」
「個人の信仰に関わることは『これくらい』ではないと思いますよ⁉」
焦るリルカに対して、エセルナートはまるでその選択が当たり前のように平静な様子で、リルカはますます慌てる。
そんなリルカを見ていたエセルナートが、「ああ、そうか」と何かに得心がいったように呟いた。
「リルカ殿。俺と貴方の間には、誤解……というか、価値観の相違があると思う」
「え?」
「リルカ殿は前世のことがあるから、『拝神』をやめるということを重く捉えていると思うのだが、俺にとっては『拝神』は手段だ。生きるために剣をとった。その際に剣を教わる条件として拝神を提示された。だから俺は英雄神に――戦神に拝神したが、何か信念があって拝神していたのではない」
伝えられた内容に、目を開かされる思いだった。今世では『古き神』への信仰が薄いことも、三千年前のように『神術』や『加護』に重きが置かれていないこともわかっていたのに、わかっていなかった。
「確かにヴィシャス様の加護は剣を扱う者としては助かったし、俺は対外的に見たら未だ『古き神』を奉じる、敬虔な信者だったかもしれないが、実態はこんなものだ。神術や加護を戦いに組み込んではいたから、多少変化はあるが――拝神をやめることへの心理的抵抗はない」
「そう……なんですね……」
神々は気ままで、時に気難しい。一度主神とした神への拝神をやめるとなると、場合によっては二度と拝神できないこともあったし、客神としても力を借りれなくなることもあった。
そういうことを考えて焦ってしまったが、今は魔術の時代なのだ。リルカが感じるほど重い選択ではないのかもしれない――そう考えかけて、先ほどのエセルナートの言葉にひっかかった。
(それでも、戦う人間にとって、ヴィシャス様の加護と神術は使い勝手がよかったはず……)
エセルナート自身も『多少変化はある』と言っていた。エセルナートは剣士だ。今の世で、戦うことを選んだ人間だ。影響がないはずがない。
そしてリルカの側としても、自分が原因で拝神をやめるまではしてほしくない。
考えた末に、リルカは一つ提案してみることにした。
「……つまり、エセルナートさんは、懸念しているんですよね? またヴィシャス様が降りて来られて、エセルナートさんの体で好き勝手しないかどうか」
「……まあ、そういうことだな」
「それでしたら、『拝神をやめる』なんて極端に走らなくても、解消方法はあります。――どなたか、別の神を副神として拝神するんです」
「別の神を?」
「……これは伝わっていないのでしょうか? 【英雄神ヴィシャス】様の〈器〉の条件の一つは、ヴィシャス様を主神として唯一崇めていることです。だから、副神を奉じれば、条件に合致しなくなる――〈器〉ではなくなるはずです」
リルカの告げた言葉に、エセルナートはわずかに目を見開いた。
「それは……知らなかった。剣の師も、『剣技を高めていけば、いつか英雄神様に認められることもある』というふうにしか言っていなくて……それが〈器〉になることだとは、実際にヴィシャス様が降りてくるまではわかっていなかったくらいだったんだ」
「神が〈器〉に降りられること自体が減っているから、条件の伝承もあやふやになっていたのかもしれませんね」
『古き神』の中ではわりあい近年まで〈器〉が確認されていたヴィシャスでこれだ。他の神については条件すら伝わっていない可能性がある。
「しかし、他の神か……」
「気が進みませんか?」
「いや、考えたこともなかったから、どの神がいいのかと思ってな。神同士の相性などもあるんだろう?」
「そうですね、絶対に同時に拝神できない神々もいれば、同時に拝神すると神術や加護が半減する神々も、倍増する神々もいますし……」
「リルカ殿はそのあたり詳しそうだな」
「まあ、前世では当然の知識だったので……」
「あいつ……セヴェリがものすごく欲しがりそうな知識だ」
笑って言うエセルナートに、ハッと気づく。
「セヴェリ=トゥーロ氏は、〈器〉であるエセルナートさんを研究しているんですよね」
「そうだな。……さすがに突然『拝神をやめる』と言ったらうるさかっただろうから、リルカ殿の提案はよかったと思う」
「ですが、なんの説明もしないわけにはいかないのでは……?」
「そこはどうにでもごまかすさ。多分セヴェリは二神に拝神したら、ヴィシャス様の〈器〉でなくなること自体知らないと思うし」
だが、今までその気配がなかっただろうエセルナートが突然二神に拝神し、以降ヴィシャスが降りて来ないとなれば因果関係には気づくだろう。その時期に接触のあったリルカの存在にたどり着かないという保証はない。
(彼を巻き込んだ方が、今後のためにはいいのかもしれない……)
平穏に、ローディスとユースリスティを拝神するだけの日々を送りたい。その気持ちは変わらない。
だけれど、ヴィシャスに見つかった今、それを一部諦める時が来たのだろうと、リルカは感じていた。
確かに、エセルナートがヴイシャスの〈器〉でなくなることで、当面の危機は去るかもしれない。
しかし、〈器〉の条件を満たした他の人間が見つかる可能性だってあるし、今の世では考えにくいが、ヴィシャスが神の姿のまま降臨しないとも限らない。
存在を知られ、魂ごと認識されてしまった以上、完全に逃げ切る道などないように思える。……だからといって、ヴィシャスの伴侶になるつもりはないが。
リルカは現世の拝神事情に疎い。
個人で調べるには限界があったし、密やかにローディスとユースリスティを拝神するだけの日々にそれは必要なかったからだが、ことここに至ってはその知識が必要になるのではないかという気がした。
「あの、エセルナートさん、考えたんですけど――」
そうして、リルカはセヴェリ=トゥーロにある程度の事情をつまびらかにすることを提案したのだった。




