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(やってしまった……)

 その翌週、勤務中だったわたしは、刺しこむような胃の痛みに襲われた。市販の胃薬を飲んで仕事にあたっていたけれど、思いがけず強い痛みに、席に座っていることもできなくなった。急に椅子からおりて床の上に蹲ったわたしは、驚いた同僚たちに囲まれて、室内を騒がせてしまった。

 しばらく休んでいるうちにもとのシクシクした痛みにまで治まったものの、先輩たちの動きが早く、すでにわたしの早退準備は整えられていた。

 こういうときに、素直に心配してもらったと思えないのは、わたしの悪癖だ。面倒をかけた迷惑をかけたという気持ちが勝ってしまって、感謝の気持ちが前面に出てこない。

 いまだって、体調不良よりもなによりも、休み明けの出社に対して気が重い。この体調不良だって、知恵熱みたいなものだと自覚があった。

(いい歳して、恋煩いで人に迷惑をかけるとか……。最悪だわ。もう会社、行きたくない)

 もうずっと白花のことばかりを考えている。必要以上に考えてしまう理由も心当たりがある。

 気にしていないつもりでも、四十歳の壁は、わたしにとって大きかったらしい。とくに立て続けに家電製品を買い替えてから、わたしの心には抜けないとげが刺さっている。

(このまま白花を好きでいるか。そんなに触れられる誰かにいてほしいのなら腹を括って婚活をするか。婚活して結婚相手が見つかったとして、わたしはその人を好きになれるのだろうか。結婚しても白花はわたしのそばにいるのだろうか。そもそも、白花はいつまで一緒にいてくれるのだろう……)

 ――旦那さんに迎えに来てもらえば?

 ――小暮さん、結婚してないから。

 ――あっ……。

 早退前、耳に入った会話がグルグル回る。

 悪意なんてない。わかってる。ただの事実だ。

(結婚してないけど、家には白花がいるの……)

 早退させていただきありがとうございました。ご迷惑をおかけし、申し訳ございませんでした。

 悩もうがどうしようが、職場で伝えるべきことは決まっている。同僚と支店長に頭を下げ、共有事項を伝えてもらい、通常業務に戻る。わずか数分の話だ。

 気持ちが落ち込んでいるときこそ、自分の駄目な部分が露になる。考えても仕方のないことを延々考え続けてしまう。そうやって自分を苛めて、参ってしまう。

 身長が高く、少しきつめの顔をしているから、わたしはさばさばしているように見られがちだ。だけど実際のわたしは、頭の中でごちゃごちゃいろいろ考えてしまうし、一度悩みだすと止まらない。目立つことは大の苦手で、人に注目されるなんて考えただけで具合が悪くなる。

(絶対なにかいわれるよね。化粧室とか給湯室とか、明日行きたくない……)

 苦手な先輩からは健康管理についての蘊蓄か、ありがたくない食事管理アドバイスか、わたしも体が弱かったのよというお話か、いずれかがくるだろう。

(ここしばらくうまく関わらないように立ち回れていたのに、失敗したなあ……)

 そんなこと、いまから悩んでも仕方がない。これも同じだ。頭ではわかっているのに、止まらない。

(なんで心配してくれてありがとうって思えないんだろう……。なんでわたしは一人なんだろう……)

 上昇したエレベーターが開くと同時に、一目散に家に駆け込んだ。

(締め日じゃなくてよかったじゃない。トラブルも抱えてなかったし、提出関係もないし、見積もりもすべて回答済みだったし、そんな迷惑かけてないって。いまなにを悩もうとも、明日の九時までは会社の人たちに会うこともないんだってば。無駄だってば)

 なんどもなんども同じことを自分にいい聞かせて、直後にまた、体調不良を隠し通せなかった自分を責めて、グルグル同じことを繰り返す。

 こんな自分は嫌いなのに、いつだって穏やかに過ごしていたいのに。余裕を持って笑っていたいのに。一つ失敗するだけで、次から次へとネガティブな自分が無秩序に現れて、こんなに胃がキリキリする。

 誰にだって体調が悪い日はある。早退なんて大したことない。他の人なら家族が迎えに来るのに。わたしは連絡する相手もいない。そんなことよりも、人としてありがとうが先じゃないの? だから結婚できないんじゃないの? 結婚できないってなに? できないなんて、希望者が使うべき言葉でしょう。他人が偉そうにいわないで。 わたしには白花がいますけど? わあ怖い。白花はそんなつもりないのに。ああ明日どうしよう。仕事行きたくないな。病院行った? って絶対聞かれるし、行くべき? でももう落ち着いてるし。どんな顔して出社したらいい? あんまり元気そうにしてても仮病ってなる?

(不毛だ。ほんと、自分が嫌になる)

 逃げるように鍵をかけ、わたしはドアノブに額を押しつけていた。

 もうなにも考えたくなかった。

 しばらくそうして、じっとしていた。首から上だけが熱を持って、カッカしていた。ドアノブの冷たさを感じなくなり、額が頭の重さに耐えきれなくなって、わたしはようやく顔を上げた。これ以上金属の角がめり込むと痛い。指先で額に触れると、窪んだ跡だってはっきり付いている。

 靴を脱いで振り返ると、白花が亡霊のように廊下に立っていた。

「……」

(いたのなら……)

 いたのならなんだというのだ。声をかけて欲しかったって? 背中を擦って欲しかったって?

「白花……」

「おかえり、わこ」

「うん、ただいま」

 白花のおかえりを聞いて、AIロボットみたいだと、そう思った。

「ごめん、白花。わたし、今日はもう寝るね」

 時刻は十四時。カーテンを引いても明るい。

 聞かれたら答えは用意してあった。胃痙攣をおこして早退したんだって、たったの一文で伝えられるようにしていた。

 もう一文も用意してあった。彼に送ってもらったのは、車通勤で会社に残っていたのは彼しかいなかったからだと。だけど布団に潜り込むわたしに、白花はなにも聞かない。心配の色もない。

(いつからそこにいたんだろう。家に入ってから? 男性に送ってもらったのは見てた?)

 いつも通り。いつも、白花は『いつも通り』。

「おやすみ、わこ」

 滲んだ涙で声が震えそうで、返事は返さなかった。

「さっきの人ね、職場の同僚なんだ……」

 口元に押しつけた布団が、呼気で温くなった。聞こえなくてもいい。いいたいだけ。

 たとえ早退している最中から白花がそばにいたとしても、あの男は誰だと気にすることはないだろう。やきもちを妬いたり、ほかの男に頼ったことを不快に感じるはずもない。

 白花はなにも悪くない。だってこれは、独りよがりな想いの押しつけだ。今回のことは、自身への戒めになるだろう。

(白花は人じゃない。ここは漫画の世界じゃない。妖怪と人間が夫婦になる世界じゃない)

 一人で生きていこうと思っていたのに、白花のせいで弱くなってしまった。パートナーが欲しいと思ってしまった。死ぬときに心残りになる相手が欲しくなってしまった。わたしが死んだあとも幸せでいてね。そう願うような心残りが死ぬときに思い浮かばないことこそ、孤独死というのではないかな、と気がついてしまった。

 白花が好きで、それは恋だとかそんな甘いものじゃなく、一足飛びに家族だとか夫婦だとか。わたしが白花に抱いている想いは、一生を約束する存在に向ける束縛だ。付き合ってもいないくせにただ相手の気まぐれで一緒にいるからといって一方的にこんなふうに勘違いしていて、もうこんなのホラーだ。

(わたしみたいな女がいるから、おばさんは重いとかイタイっていわれるんだ。わかってるよ、そんなの。わたしだって自分が怖いって思うもん)

 好きな人が一緒にいるならそれでいいじゃんといわれるかもしれない。付き合っているようなものじゃんという人がいるかもしれない。

 だけど、抱きつきたい。抱きしめられたい。手をつなぎたい。キスしたいなんていわないから、指先だけでいいから、触れたい。

 おばさんがなにいってるのかって? 年齢的にはそうだよ。成人した子どもがいてもおかしくない、中年のアラフォーだよ。だけど、一人の女なの。わたしはわたしをおばさんだなんて思っていない。わたしだって恋している。おばあちゃんになっても、手を繋いで散歩できる人がいたら素敵だなって思っているし、そんなお年寄り夫婦に憧れている。

 素敵だなあと尊敬できる人に恋して、確かにわたしは好きな人と一緒にいる。

 だけど、浮かれるよりも、不安なのだ。白花がいなくなることのほうが不安だし、耐えられない。

 だから、最終的にはここに辿り着く。

(応えてくれなくていい。触れられなくていい。一緒にいてほしい)

 白花と、穏やかに毎日を過ごせたらそれでいい。


 そんなふうにちょっと病んだ時期もあったけれど、夏が近づけば気持ちは落ち着いた。

 わたしが落ち込もうが凹もうが病もうが、白花は常に白花だった。なに一つ態度を変えない彼は、わたしを追い詰めもしたけれど、安定させもした。一定の間隔で揺れるメトロノームみたいに、彼には安定作用がある。

 ちゃんと食べて、適度に体を動かして、リフレッシュに好きな旅行を楽しんで。

(充実してるじゃない。あれもこれも欲しがったら、罰があたっちゃう)

 夕食後、手元のスマートフォンが、新着メッセージをお知らせした。タップして開いてみると、届いていたのはメッセージではなく写真だった。流れる動作で簡単な返事を返す。

「『ケーキ、超おいしそうだね』っと……」

 今日は一足先に友人が四十歳を迎えた。大学時代からの友人で、かれこれ二十年も互いの誕生日にはお祝いメッセージを送りあっている。

「わこ、いまからケーキを食べるのかい?」

 床に正座して動画を観ていた白花が、不思議そうに尋ねる。

 さっきわたしが歯磨きを済ませたのを知っているから、疑問に思ったのだろう。よく見ているなと思う。

 ノートパソコンに再生させた動画は始まったばかりだった。まだ物語の導入部分で、平和な日常風景が流れている。

「わたしじゃなくてね。ほら、おいしそうなムースケーキ。友だちが写真を送ってくれたの。朝のメッセージで、ケーキの話をしたから、それでかな」

 スマートフォンを傾けると、白花が上体を伸ばして画面を覗く。

「ああ。誕生日だと話していたお友だちかい?」

「うん、そう」

 イチゴのムースケーキなのかな。ピンクとホワイトの層がかわいい。チーズケーキが好きな彼女だから、ホワイトの部分はチーズかもしれない。

「結婚して十年以上経っても、こうしてかわいいケーキでお祝いしてくれる旦那さんって、素敵だよねえ」

 それは、ただの感想だった。本当に、そう思っただけで、同意なんて求めていなかったし、なんなら返事がなくてもよかった。その程度の、ただの感想だったのに。

「わこはいつ結婚するのだい?」

「え――」

 世界が割れた気がした。


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