先のことなど判らない
独りとなったシーリィンが再び魔導書の前に戻り、頁を二回ほど繰った時だった。
コン、と扉が叩かれる。
アレがまた戻ってきたとは思えないし、もしもそうでも、先ほどのように彼の魔術などものともせずに勝手に開けて入ってくるだろう。
となると、相手は一人しかいない。
シーリィンはため息をついて立ち上がり、扉に向かう。開くと、そこには予想通りカイトが立っていた。しかし、彼がこの部屋を訪れることなど、滅多にない。
「何の用だ」
まだ胸の内にモヤモヤと黒い雲のようなものがわだかまっていたせいで、シーリィンの口調はいつも以上の素っ気なさになっていたが、カイトは気もそぞろに問い返してくる。
「メリカがいないんだけど、お前、知らないか?」
尋ねながらも、カイトはシーリィンの部屋を覗き込もうとしたり、廊下を振り返ったり、忙しない。まるで、いなくなった仔を探す母猫だ。
「私の部屋に侵入した」
シーリィンが答えると、カイトは顔中に安堵を浮かべた。
「侵入って……まあいいや、お前のところにいるんなら良かった。じゃあ、ちょうどいいからしばらく見ててくれよ」
そう言って踵を返して立ち去ろうとしたカイトの足が、続くシーリィンの台詞でピタリと止まる。
「今はいない」
「何? じゃあ、どこにいるんだ?」
振り返り、スッと青い目を眇めたカイトに、シーリィンは肩を竦めた。
「知らん。出て行けと言ったら出て行った」
「はぁ?」
信じられないと言わんばかりに声を上げたカイトは、呻き声をあげながら両手で顔を覆った。そうして天を仰ぎながら盛大なため息を吐き出す。
「お前なぁ……それは子どもに言ったらいかん台詞だろ」
「アレは子どもではないだろう」
そっぽを向いて事実を指摘したシーリィンを、カイトはバッサリと切り捨てる。
「子どもだよ」
まったくこいつはとか何とかブツブツと呟いていたカイトだったが、再び大きくため息をつき、シーリィンの胸を指先で小突いた。
「お前からしたらあいつは化け物じみてるんだろうけどさ、まだ子どもなんだよ、あいつはさ。生まれたばっかなんだ」
シーリィンは胸元にあるカイトの指を払いのける。
「たとえ生まれたばかりでも、アレは得体のしれない魔物だ」
「確かにそうかもしれないけどな、小さくて真っ白なんだ。まだ何色にも染まってない」
「色がついてアレがヒトに牙を剥いたらどうするつもりだ。危険な芽は早く摘んでおくべきだろう」
正論を放った――少なくともシーリィンはそのつもりだったが、カイトはやれやれとばかりにかぶりを振った。
「お前がそれを言うかぁ? お前の研究なんて、どれもこれも先が見えてないもんばっかだろ。いつも、やってみなくちゃ判らない、結論は結果が出てからだ、とか抜かしてるじゃねぇか」
「それとこれとは全く話が違う」
「同じだよ。お前の研究が世紀の大発見になるか、それともここら一体焼け野原にするような大失敗になるか、判らんだろ? あいつもそうだ。あいつがホントのところどんな奴になるかなんて、判らない。まだまだこれからなんだ。はっきりしてるのは小さいってことだけで、小さい奴のことは大きい奴が守ってやらなきゃいけないんだよ」
「小さいのはナリだけで、力は――」
「その『力』を、あいつが使うところを見たことがあったか? 俺らに向けたことが、あったか?」
静かな口調でカイトに問われ、シーリィンは唇を引き結んだ。
それは、ない。
アレは、ただ、無意識に力を漲らせているだけだ。
黙り込んだシーリィンに、カイトが険しくしていた表情を緩める。
「お前はさ、お前の言葉で部屋を出て行くメリカを見て気分が良かったか?」
問われてふとシーリィンの脳裏によみがえる、小さな背中。
自分があの言葉を放った時の、幼い子どもの顔に浮かんだ表情。
シーリィンは、あの時、そう、まるで小さく無力な生き物を思い切り蹴飛ばしてしまったかのような心持ちになったのだ。
「……」
「だろ?」
「何も言っていない」
むっすりと答えたシーリィンに、カイトが笑う。
「口に出さんでもツラ見りゃ判るよ」
そうなのかもしれないが、カイトの台詞が無性に腹立たしく感じられて、シーリィンは素直に頷けない。
「……アレが笑ったり言葉を話したりするのは、当面の庇護者である我々に媚びる為だ。その為に学習したものに過ぎない。最初に目にしたものが我々だったから、我々の習性を学んで――」
「そりゃそうだろ。そういうもんなんだから」
毎朝陽が昇るのと同じくらい当たり前のこと、と言わんばかりのカイトの態度に、シーリィンは眉根を寄せる。
「?」
「人間てのは、言葉や表情を周りから吸収していくもんなんだよ。言葉を使ったら気持ちが通じる、相手が笑ったらなんか嬉しい、そういうのがあって、段々お前が言うところの『学習』をして、人間になっていくもんなんだ」
そう言って、カイトはどこか遠いところを見るような眼になった。
「孤児院ってとこにはな、親んところでそういうのもらえなかった奴がゴロゴロいるんだよ。そういう連中は、最初は、ろくに喋りも笑いもしないんだ。でもな、皆の中でワチャワチャ揉まれるうちに、そういうの、覚えていくんだよな」
俺なんか気に入らないと誰彼構わず嚙みついてたんだぜと笑い、そして、シーリィンを見た。
「あいつがどうなるか、正直俺にも判らねぇ。とんでもねぇシロモンになっちまったら、地べたに頭擦り付けて世界に謝るよ。でもな、取り敢えずはやってみなきゃ、どうにもならんだろ?」
そう問いかけてくるカイトの眼差しは穏やかで、その青い瞳は静かに凪いだ湖面のようだ。いつものように、考えるよりも動いている、という場当たり的なものは微塵も感じさせない。
謝ってすむものか。
そんな返しがシーリィンの喉元まで上がってきていたが、何故か、それを口から出すことができなかった。
アレが敵となったら彼らがどう足掻こうが敵わない。
アレを処分しなかったことで、本当に何千というヒトの命が奪われるかもしれない。
それが判っているのか。
そうまくし立てて、シーリィンは、カイトに詰め寄りたかった。
が、結局彼が行動に移したことは、カイトを押しのけ、部屋を出ることだったのだ。