どうして、こんな気分に
(まったく、あいつは)
はぁ、と自分がため息を漏らしたことに気付き、シーリィンは渋面になる。
朝食を終えて自室に引きこり、読みかけの魔導書を開いたものの、彼の眼は文字の上を滑るばかり。
ため息は、もちろん、アレと能天気な相棒のせいだった。
カイトはアレの力を感じることができないのだから仕方がないと言えば仕方がないのかもしれないが、それにしても、楽観的過ぎる。楽観的というよりも、何も考えていないに違いない。
場合によっては利点になるカイトの頭の軽さが、今回ばかりは腹立たしいばかりだ。
シーリィンは魔導書を読むのを諦めて、銀色の髪をクシャリと握り締めた。
脳裏に浮かぶのは、幼気な子どもの姿をした、化け物。
あの魔物の住処で拾ったアレは、けっして見た目通りのモノと思ってはいけないのだ。
どれだけ愛らしい子どもの振りをしていても、小さな身体から溢れる力は化け物以外の何ものでもない。
傍にいなくても、家中に充満した濃厚な魔力にシーリィンはめまいを覚えそうだ。あまりの濃さに、アレが今自分からどれほど離れた場所にいるのかを察知することも叶わない。ただの魔物であれば、少し気配を探るだけで一歩分の距離も違えず位置を同定することができるというのに。
(アレがその気になれば、ここいら一帯、瞬き一つの間に焦土と化すぞ)
シーリィンは、想像もしたくないその事態に、呻き声を漏らす。
アレのちょっとした癇癪一つで、この小さな家どころか、ギルエルの町が消し飛ぶだろう。
その恐ろしさも知らず――いや、それが解からないから、あの男はヘラヘラ笑っていられるのだ。
ヒトの子にするように服を買い与え、前は時々であった甘いものが毎日食卓に並ぶようになった。
本気で、カイトはアレを養うつもりなのか。
シーリィンには、理解できない。
カイトにしてみれば、親を倒せたのだから子もどうにかなると思っているのだろうが、そんな簡単な話ではない。何せ、アレは、親よりも遥かに強大な力を持っているのだから。
「簡単なことでは、ないんだぞ……」
両手で顔を覆い、ここ数日で百回は超えているだろうため息を繰り返した、その時。
ツン、と、袖が何かに引っかかった。
いや、違う。
何かに引っ張られた。
いったい、何が、とそちらに眼を向けたシーリィンは、次の瞬間、ガタリと椅子を鳴らして飛び退る。
「お前、どうしてここに――ッ!」
澄ました顔でそこに立つのは、あの子ども。いや、あの化け物。
ソレは、濃厚な魔力を満たした深い菫色の瞳で無邪気に――無邪気なふりで、シーリィンを見上げていた。
部屋に入られたばかりか、これほど間近に寄られても全く気付かなかったとは。
これでは、毎朝寝台に潜り込まれるカイトのことを嗤えない。
シーリィンはチラリと扉に眼を走らせた。そこには魔術で鍵をかけているが、この子どもは、力を行使することもなくそれを解いてしまったのだろう。
その圧倒的な力の差に、解ってはいても、シーリィンは慄然とする。
ジリ、と後ずさったシーリィンに、ソレは瞬きを一つして、笑った。
無邪気そのもののその笑顔に、シーリィンはグッと息を呑む。
「お前は、どうして笑うんだ」
見下ろしながら思わずそう問いかけたシーリィンに、ソレはキョトンと目を丸くする。
本当に、何を言われているのか解らないと言わんばかりの、無垢な子どもそのもののような反応に、シーリィンは奇妙な疼きのようなものが混じった苛立ちを覚える。
「お前は感情なんて持っていないはずだ。その笑いは、私たちに悪感情を持たせないようにと学習したものだろう?」
意味がないことが解りきっていてもジリジリと距離を取りながら続けたシーリィンに、ソレの小さな眉が寄る。
「かん、じょう?」
舌足らずに彼の言葉を繰り返し、ソレはコトリと首を傾げた。あざとくヒトに似せたその仕草に、シーリィンは奥歯を食いしばる。
「魔物は、感情を持たない。お前が感情を持っている筈がない」
その台詞を理解できなかったのか、ソレはおずおずとまた笑みを浮かべた。シーリィンの反応をうかがうように。
シーリィンは、ろくに子どもと接したことがない。
だが、そんな彼でも、とても『子どもらしい』素振りだと思った。
無性に、胸がモヤモヤする。
何故、こんなに落ち着かない気分にさせられるのか。
身体を強張らせたシーリィンに、ソレがためらいがちに手を伸ばしてくる。服の裾に届きそうになった小さな手を、彼はとっさに払いのけていた。
強い力ではなかった。
けれど、拒絶の意思だけははっきりと伝わったのだろう。
ソレが、ハッと息を呑む。
大きく見開かれた菫色の瞳に、シーリィンのみぞおちがガツンと殴られたような衝撃を覚えた。肉体的な損傷はないが、きっと、ソレが何かしたに違いない。
「私に、近寄るな」
低い声で告げられた台詞に、ソレはひっこめた手を胸の前で握り合わせた。
小さなその身体が一層小さくなったような気がして、シーリィンの胸がチクチクと痛む。
(本当に、何をされているんだ、私は?)
得体の知れない不可視の攻撃に、シーリィンはもう一度繰り返す。
「ここから出ていけ」
とにかく視界から消えて欲しくて放った言葉に、ソレは叩かれたかのように身体をはねさせて、クルリと身を翻した。パタパタと軽い足音を立てて、駆け去っていく。
小さな背中が見えなくなったことにホッとしながらも、何故か、それを上回る苦い思いがシーリィンの腹の底に居座っている。
(何なんだ、これは)
シーリィンはクシャリと髪を掴む。
まるで、貴重な魔導書を破いてしまった時のような、胸のざわつきだった。そんな気持ちになる理由など、ない筈だというのに。
倒れていた椅子を引き起こし、シーリィンはどさりと腰を落とす。
「クソ」
汚い罵りの言葉が、生まれて初めてコロリと口から転げ出た。