怒りと心配
地を掻き攻撃態勢を取る巨大な鎧猪と、大剣を構えてそれに対峙するカイト。
拮抗する両者の動きを見据え戦略を練ろうとしたシーリィンだったが、張り巡らせている警戒の網が捉えた一つの気配に愕然とする。
「まさか――」
呟く間にも見る見るそれは近づいてきて、一瞬後には目の前にいた。
ふわふわの金髪に、幼い少女の華奢な身体。
バサリと音を立てたのは、ヒトの背にはあるはずのない純白の翼。
「「メリカ!?」」
声を上げたのはシーリィンもカイトもほぼ同時のことだった。刹那、それまで鎧猪とカイトの間に張り詰めていた緊迫の糸がフツリと切れる。
カイトの気が逸れたその一瞬の隙を逃さず、鎧猪が地を蹴った。
「チッ」
舌打ち一つでカイトは地響きと共に突進してくる鎧猪に身構える。どういうことかさっぱり理解できないが、とにかく、この場にメリカがいるならば、さっさとこの魔物を仕留めなければならない。
脚をたわませ、魔物の背に跳ぶ機を計るカイトだったが。
次の瞬間起きたことに、顎がガクンと落ちた。シーリィンも我が目を疑う。
「!?」
土煙を立てる鎧猪の前に、白い翼をはためかせて止める間もなく舞い込んできたメリカ。
その小さな拳が無造作に突き出される。
そして――
なんということか。
すさまじい音を立てて立ち木をへし折りながら吹っ飛んでいく、鎧猪の巨体。
シーリィンとカイトが我に返ったときには視認が難しいほどの距離を経て、鎧猪は地に伸びていた。死んだのかと固唾を呑んだが、間もなくもそりと身じろぎがあり、頭を振りつつゆっくりと起き上がった。そうしてハタとこちらに眼を据えて、ジリジリと後ずさったかと思ったら、クルリと方向転換をして一目散に逃げていく。
明らかに、怯えきった様子だ。
メリカは、まだ鎧猪が去っていった方を見つめている。
シーリィンには、何が起きたのか解らなかった。
魔法は発動していない。少なくとも、シーリィンが知る法則に基づく魔法は。
となると、単純な物理力ということになるが、鎧猪の鼻先を打ったメリカの動きに、『力を込めた』感じは皆無だ。
たとえるならば、仔猫がじゃれる時に繰り出すアレのようだった。
にもかかわらず、あの威力。
「マジかよ……」
思わずという風情でこぼれたカイトの呟きで、シーリィンは正気に戻る。
「メリカ! お前は何をしているんだ!?」
滅多に聞かれないシーリィンの荒らげた声に、振り返ったメリカが瞬きを一つした。そして、にこりと笑う。朝の挨拶か何かをするときと同じ笑顔だ。
メリカはストンと地に足をつける。と同時に、背の翼が消え失せた。
彼女は小刻みに体を震わせているシーリィンにトコトコと駆け寄る。
そして、メリカの口から出てきたのは。
「お薬もらいに来たの」
その返事が、シーリィンには理解できなかった。
「何……?」
地を這うような声での呟きに、メリカがキョトンと小首をかしげ、また、先ほどの言葉を繰り返す。
「だからね、お薬もらいに来たの」
「そんなことは訊いていない!」
再び声を張り上げたシーリィンに、メリカの眉根が寄った。
「でも、何してるのかって訊いたから」
「私は! お前がこんなところにいる理由を知りたいわけではない!」
シーリィンにそう返されて、メリカがいっそう怪訝そうな顔になった。
「シーリィン、怒ってる……?」
「当たり前だ!」
どうして判らないのかと言わんばかりのシーリィンに、メリカの頬が膨れる。
「みんなお熱で苦しがってるのに、お薬がないって言うからもらいに来たのに。なんで怒るの?」
「ッ!――」
メリカの反論に肩をいからせたシーリィンの頭を、背後から伸びてきたカイトの手がグイと押さえる。
「待て待て。お互い話が通じてないからな。ちょっと頭冷やそうぜ?」
そう言って、カイトはメリカとシーリィンの間に割り込むと、彼女の前にしゃがみこんだ。
「熱ってのは、狂い熱か?」
カイトの問いに、メリカがかぶりを振る。
「ううん。お医者さんはちがうって言ってた。でも、みんなお熱が高くてすごく苦しそう」
「そうか。で、みんなの為に何かしてやりたいと思ったんだな」
「うん」
メリカは残してきた子らが心配なのか、難しい顔になってコクリと頷いた。カイトは彼女の頭をくしゃくしゃと撫でてから、目線の高さを合わせて覗き込んだ。
「そうか。助けてやりたいって思ったのはえらいよ。でもな、森の中は危ないんだ」
「平気だよ」
「いや、静かそうに見えても、怖い魔物がウロウロしているんだ」
と、カイトのその台詞に、メリカが首をかしげる。
「怖くないよ」
「魔物は怖いもんなんだよ」
「怖くないよ。だって、みんなメリカより弱いもの」
メリカは、あっさりとそう言った。彼女の危機感のなさにシーリィンは再び声を荒らげかけて、先ほどの鎧猪を思い出す。
確かに、メリカにとって危ないことや恐れることなど、無いのかもしれない。
だが、それでも、心配する気持ちは持たずにいられない。
「俺もシーリィンも、お前が強いってことは知ってるよ。でもな、それでも心配はしてしまうんだ。万が一にもお前が痛い思いや苦しい思いをするのは、イヤなんだよ。なあ、そうだろ、シーリィン?」
「私は――……」
同意を求められてシーリィンはブツブツと言いかけたが、結局押し黙る。
「お前は、みんなが苦しいのがイヤだったんだろう? 俺たちもお前に何かそういうことが起きてしまうんじゃないかと心配してしまう。お前が迷子になったり、怪我をしたり、あるいは、あんなふうに魔物をやっつけるのも、して欲しくない。メリカだって、本当はしたくなかっただろ?」
「……うん」
メリカは少し迷って、こくんと頷いた。
確かにメリカは何ものも敵わない桁外れの力を持っているのだろうが、他者を傷付けるためにその力を振るうというのは、できたらしたくないはずだ。
シーリィンたちが知るメリカは、そういう子だ。
「俺たちは、メリカにイヤなことが起きて欲しくない。だから、心配して、シーリィンは大きな声を上げたんだ」
「心配……じゃあ、怒ったんじゃないの?」
「怒りはしたかもしれないが、メリカの行動が悪いことだったからじゃぁないよ」
「ふぅん、そっかぁ……」
メリカは視線を落として少しばかり考えてから、クルリとシーリィンに向き直った。
「心配させてごめんね、シーリィン」
あっさりと謝られてしまっては、もうそれ以上何も言えなくなってしまう。シーリィンの眉間にはまだ皺が寄っていたが、メリカを責める言葉はもう出てきそうになかった。
カイトはもう一度金色のくせ毛をクシャリと撫でる。メリカは少しくすぐったそうに首をすくめて、カイトとシーリィンに、満面の笑みを返してきた。




