鎧猪
ブォォォと森の中に獣の咆哮が轟く。
「こいつぁいったいどういうことなんかな」
思わずぼやいたカイトの尻を、シーリィンの声が蹴飛ばす。
「口を動かすより手足を動かせ」
その台詞と共にカイトの全身に力がみなぎり、シーリィンにより筋力増強の魔法がかけられたことを知る。
「へぇへぇ。しっかし、ホント何なんだろうな」
呟きながら地を蹴ったカイトが狙うは鎧猪――と、思しき何か。
鎧猪だと断定できないのは、その図体のせいだ。身の丈は見慣れた鎧猪の軽く三倍、毛皮で覆われている筈の背は鈍く光る甲羅に取って代わられ、その上、角らしきものまで生やしている。
それが突進してきた方向には、太い木立ちもことごとくへし折られて先を容易に見通せるほどの道ができていた。
その鎧猪もどきは鼻息荒くカイトたちを威嚇していたが、ついに頭を低くして、前足の蹄で地を掻き始めた。それは突撃の前兆で、鎧猪の突進をまともに受ければ吹き飛ばされ全身の骨を砕かれるのが落ち。よほど腕に自信があるもの以外は、その動きを見たなら回避に徹するのが得策だ。
だが、カイトにはシーリィンがいる。
「シーリィン!」
呼ぶと同時にカイトの前に輝く盾が現れた。
カイトは光の盾と共に鎧猪に向けて駆ける。
馬鹿正直に突進してきた鎧猪は、鼻先を盾にしこたま打ち付け怒りの声を上げた。その隙を逃さず、カイトは真上に飛ぶ。スタッと下りたのは獣の背の上だ。鎧猪は狙った獲物が目の前から消えたことに気付いていない。
甲羅の上で仁王立ちになったカイトは、人の背ほどの丈がある大剣をクルリと返して逆手に持ち直す。それを振り上げ、鎧猪の太い首の後ろ――延髄に突き刺そうとした、が。
刹那、木立ちの間をギィンと甲高い音が縫っていく。
「ありゃ」
思わず一言こぼしたカイトの手に残るのは、刃の半ばから折れた剣の柄だ。カイトの力、それに鎧猪の硬さに、分厚い剣身が負けてしまったようだ。
少なくとも剣を叩きこまれた衝撃で獲物が進行方向から消えていることに気付かせることはできたようで、鎧猪は脚を止め、フゴフゴと鼻を鳴らして辺りを見渡している。
カイトは尻の方からひらりと下りて、シーリィンの元へ走った。
「これ、どうにもならんよな」
「欠けた刃があれば修復はできる」
「じゃ、頼む」
「だが、刃が通らないのは変わらないだろう?」
「上はな。下からならどうにかなるんじゃねぇの?」
この鎧猪に常識が通じるかは判らないが、取り敢えず、これまで戦ったことのある魔物たちの中で、腹まで硬いものはいなかった。
油断なく猪の動きを目で追いながら言ったカイトに、シーリィンは眉をひそめる。
「簡単に言うが、踏みつぶされたら即死だぞ。怪我なら治せても死んだらどうにもできない」
「まあ、何とかなるって。取り敢えずちょっと間だけ目くらまし頼む」
言うなりカイトは地に転がる刃の元へ駆け出した。呆れ混じりのシーリィンの溜息がそれを追いかける。
「楽観的とバカは紙一重だな」
呟き、シーリィンは二度、三度と指を鳴らす。その音が響くたび、真っ赤な光の玉が現れた。赤は血の色を思わせるのか大抵の魔物を興奮させるが、鎧猪には特に効果があるのだ。
シーリィンが指先を振ると、両手の指の数ほどのそれが鎧猪めがけて飛んでいく。
光の玉が目の前を行き交うと、鎧猪が猛り立って鼻息を吹く。赤い光が気に障るところは、普通の鎧猪と同じらしい。
鎧猪は、完全に光球に気を取られている。
「岩の槍よ敵を貫け」
シーリィンの詠唱と共に鎧猪の真下から巨大な岩の穂が突き上げたが、魔法の気配を察知されたか、紙一重で躱されてしまう。
「だめか」
やはり、足止めをする者がいないと有効な攻撃は与えられそうにない。無詠唱で作れる火球程度ならともかく、威力が大きい魔法攻撃は、どうしても発動までにわずかな間が生じてしまう。魔物討伐に魔導士だけで挑めないのは、その所為だ。シーリィンは殆どその間を作らずに発動できるが、それでも速さではカイトの直接攻撃には敵わない。強力な前衛がいてこそ、後衛は甚大な力を発揮できるのだ。
鎧猪をからかう光の玉は一つ二つと噛み潰されて消えていき、すでに半数ほどになっている。
次を投げようかとシーリィンが手を上げた、その時に。
「ほらよ」
刃を拾い戻ってきたカイトが、ポイとそれをシーリィンに投げてよこした。
「危ないだろう」
ムッと睨んだシーリィンに、カイトはヘラッと笑う。
「ワリぃな。でも時間がないだろ?」
確かにカイトの言う通りで、シーリィンは黙って折れた大剣を地面に並べた。
「しばらく時間を稼いでおけ」
そう言い置いて、剣に修復の術をかけ始める。
「丸腰の奴に簡単に言ってくれるなぁ」
ぼやきはしたが、カイトの足はもう鎧猪へ向かっている。
鎧猪は最後の光球が消えると束の間キョトンとしていたが、すぐに近づくカイトに気付いて威嚇の咆哮を放った。
大剣を修復しているシーリィンの妨げにならないように、カイトは鎧猪の動きをうかがいながら移動する。
「さて、どうしてくれようかな」
完全に次の標的にされたカイトは小さく呟いた。
シーリィンの強化魔法がかけられていても、丸腰でまともに遣り合えばさすがに無傷ではいられないだろう。取り敢えず今は、シーリィンが剣を直すことが最優先事項だ。
カイトが鎧猪の気を引いている間に、シーリィンの手の下で大剣が見る見るうちに修復されていく。無機物の構造は単純だから、怪我の治療よりはるかに簡単だ。
間もなく剣は完全に修復され、カイトはどうしているかとシーリィンは顔を上げる。
まさにその時。
鎧猪の体当たりで吹き飛ばされるカイトの姿が。いや、すぐに体勢を立て直したあたり、自ら後方に飛んで威力を相殺していたのか。
「カイト!」
呼べば反応したのは判ったが、剣を取りに来る余裕はなさそうだ。
シーリィンは風の魔法を剣に付与する。紙のように軽くなったそれを、カイトの方へと放った。そうしておいて、無詠唱の火球を続けざまに鎧猪に向けて飛ばす。
目論見通り魔物は火球に気を取られ、その隙にカイトは大剣を手にする。
「これで振出しに戻ったな」
火球になけなしの毛を焦がされ、憤怒に炯々と目を光らせる鎧猪に向けて、カイトは不敵な笑みを浮かべた。