異変
異変の始まりは、マリナだった。
その日の朝食の席で、何だかマリナの様子がおかしいことに、隣に座っていた兄のザムが気づく。
「マリナ? 食べないの?」
見れば、マリナは何となくボゥッとしていて、彼女の前に置かれた卵焼きは一口分くらいしか減っていない。バターで炒めたそれはマリナの大好物で、毎日食べていてもお代わりを欲しがるくらいなのに。
「……もういい」
マリナは迷う素振りを見せたものの、結局そう言って匙を置いてしまう。彼女の額に、ザムの反対側の席に着いていたキムが手を当てる。
「少し熱があるのかしら」
心配そうに眉をひそめてキムが呟いた。
「お熱? カイトたちがお薬採りに行ってるやつ?」
「そうだね」
席を立ってマリナ達のところにやってきたゼノスにメリカが尋ねると、彼は頷きながらマリナの前にしゃがみこんだ。
ゼノスはマリナの顔や首を触ったり、大きく開けた口の中を覗き込んだりしてから、彼女を抱き上げた。
「狂い熱ではなさそうだが……これから上がってきそうだな。今日はゆっくり寝ておこうか、マリナ」
優しい口調でそう言われ、ゼノスの厚い胸にもたれてマリナがこくりと頷いた。
大きなゼノスの腕の中で、いつも以上にマリナが小さく見える。真っ直ぐ立っているはずの耳も今は力なく垂れていて、元気のないその様子に、メリカの胸はソワソワと落ち着かなくなる。キムとリアはいつもと変わらない様子だけれども、セインとラン、それにもちろんザムは、心配そうだ。その中で、タフトだけが、マリナに目を向けることもなく、黙々と食事を進めている。
メリカはこんな時でも関係なさそうな顔をしているタフトにカチンときたけれど、彼女が文句を言いかけたところでゼノスが口を開いた。
「取り敢えず、マリナを寝かせてくるよ。君たちは食事を続けていておくれ」
そう言い残してマリナを抱いて食堂を出て行くゼノスの後を、小走りでザムが追う。
「お熱って、病気だよね?」
三人が去ってから、メリカは隣のリアに囁いた。
カイトとシーリィンはいつも元気いっぱいで、メリカもそうだ。だから、病気になるということがどういうものなのかはわからない。
けれど、メリカが読んだ本の中には、病気というものについて、怖いことばかりが書かれていた。なっているときはつらいし、時にはずっと身体が動かなくなったり、最悪、死んでしまったりもするとか。
もしもマリナがそんなことになってしまったら、どうしよう。
あんなに小さいのに。
あまりにメリカの様子が心配そうに見えたのか、リアが宥めるようにポンポンと背中を叩いてくれる。
「そうだね。小さい子はよく熱を出すんだ。でも、大丈夫だよ。あたしとキムも、昔は順番こに寝込んだりしてたんだから」
だけど、今はこんなに元気でしょ、と笑ったリアに、メリカも笑顔になる。けれど、やっぱり心配だったし、何より、マリナが苦しい思いをするのがいやだ。メリカは病気のつらさを知らないけれど、今の気持ちはとてもしんどい。マリナは、これよりも苦しいのだろうか。
「何で病気なんかあるんだろ」
そもそも、メリカがカイトとシーリィンと離れ離れになってしまったのも、病気のせいだ。マリナ達に会えたのは病気のお陰かもしれないけれど、やっぱり、病気は諸悪の根源だと思う。
「全然何の役にも立たないし、イヤなことしかないんだし」
メリカのぼやきに、リアが首をかしげるようにして応える。
「確かに嫌なことばっかりだけど、でも、ゼノス先生は、この世界にあるものに無駄なものや要らないものなんて一つもないんだって。要らないように思えても、何か必ず理由があるから存在しているんだって、そう言ってたよ」
「そうなのかなぁ」
むぅと唇を尖らせたメリカの頭を、横から伸びてきたキムの手がくしゃくしゃと撫でる。
「マリナのことは心配だけど、取り敢えず、ご飯を食べちゃお? 食べて片付けて、マリナにリンゴのすったやつ持ってってあげようよ」
「リンゴのすったやつ?」
「そう。看病の時は絶対外せないんだよ、これは」
ピンと立てた指を振りながら、キムが言った。と、耳ざとく聞きつけて、離れたところから声が上がる。セインとランだ。
「それ、ボクも食べたい」
「わたしもぉ」
ねだる二人に、キムがかぶりを振る。
「すりリンゴは病気の時のとっておきだから、だめ。でも、ご飯を食べてお掃除頑張った子には、おやつにリンゴのパイを作ってあげるよ」
「ホント?」「ホント?」
前半の言葉でふくれっ面になったのが、みるみる輝き満面の笑みになった。
キムが作るリンゴのパイは、メリカもここに来てから一度だけ食べたことがあるけれど、とてもとても美味しいのだ。
外はサクサク香ばしく、中はトロトロ甘酸っぱい。
出来立ては口の中を火傷しそうになるけれど、それでも、熱々のパイは最高に美味しかった。これだけは、カイトの料理も負けてしまうとメリカは思う。
「メリカも食べたいな」
ツンと袖を引いてキムに訴えると、彼女はにこりと笑った。
「もちろん。でも、お手伝いができたら、だよ」
キムの笑顔はいつも通り明るくて、メリカの胸から少しばかり不安が減る。
きっと、マリナも大丈夫、すぐに元気になって一緒にリンゴのパイを食べられるようになるに違いない。
その時は、そんなふうに思えたけれど。
半日経って、真っ赤な夕日で空が焼ける頃には。
メリカの心配が消えるどころか、増すばかりの事態となるのだった。